伊豆の松崎町に「伊豆の長八美術館」がある。漆喰芸術,鏝絵(こて絵)の名工と謳われた入江長八の記念館である(昭和59年開設)。平成22年10月この地を訪れ,初めてその芸術性に触れた。
従前から,伊豆の町には「なまこ壁」と呼ばれる外壁の民家や土蔵が多く,その白色に盛り上がった部分が漆喰であることを知ってはいたが,漆喰の鏝絵を芸術まで高めた伊豆出身の男がいたことを知らなかった。
なまこ壁とは,壁面に平板の四角い瓦を並べ,その継ぎ目を漆喰でかまぼこ型に盛り上げて塗ってあるもので,装飾的な目的だけでなく,防火や雨水を防ぐ役割があった。この地方は海からの風が強く,火災が起きると大火事になり易く,防火に優れるこの建材が普及していた(江戸幕府も防火のために漆喰壁を奨励していた)。現在でも,下田や松崎など伊豆の周辺にはなまこ壁の建物が残っているので,ご覧になった方々もいらっしゃるだろう。また,古くは城郭や寺社,商家,民家,土蔵などの室内壁にも板壁や土壁(竹格子に土と切断した藁を混ぜて塗り込む)の表面に漆喰を塗ったものがあった。漆喰壁は,保温,防湿にも優れる。
村山道宣編「土の絵師伊豆長八の世界」,松崎町HPなどによれば,長八は,文化12年(1815)伊豆国松崎村明地(現,松崎町)に,父兵助,母てごの長男として生まれた。家は貧しい農家であったが,菩提寺である浄感寺の住職夫妻に可愛がられ,浄感寺塾で学ぶ。12才の時村の左官棟梁・関仁助に弟子入りして左官の技術を磨く。当時から手先の器用さは知られていたようである。19才の時江戸に出て,著名な狩野派の絵師・喜多武清の弟子となり3年間修業した。
そして,漆喰に漆を混ぜて鮮やかな色を出す,長八独自の技法を生み出し,鏝絵の新境地を開いた。26才で江戸茅場町薬師堂の御拝柱の左右に「昇り竜」「下り竜」を描き,評価を得て,一躍名工と謳われるようになった。その後,浅草観音堂,目黒祐天寺,成田不動尊などに名作を残したが,多くは関東大震災で消失したという。長八の技術は多くの弟子によって九州まで広まった。
長八が郷里松崎に戻り制作した作品も残っている。現在,松崎には伊豆の長八美術館に約50点,浄感寺の長八記念館に約20点が公開されている。東京に残っているのは,橋戸稲荷,泉岳寺,寄木神社,成田山新勝寺など約45点といわれる。
鏝絵であるにもかかわらず繊細。伊豆の長八美術館に入ると鑑賞のため虫眼鏡を渡されたが,確かに彼の技術は虫眼鏡を必要とするほど細かい。この記念館を建設する際には,全国左官業組合の協力の下,全国から多くの名工達が集まり腕をふるったと,伝えられている。最近の住宅建築では,新資材が出回り,左官業が腕を振るう場面が減っている。ましてや鏝絵を飾るような建物も,名工と呼ばれるような職人が活躍できる機会も少ないのではあるまいか。
漆喰芸術としては,ヨーロッパのフレスコ画が知られている。フレスコ画は,壁に漆喰を塗り,その漆喰がまだ生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く手法である。やり直しが効かないため,高度な計画と技術力を必要とした。ルネサンス期にも盛んに描かれ教会に多く残っている。ミケランジェロの「最後の審判」などがよく知られている。一方,鏝絵は文字通り鏝を使って,色づけした漆喰を塗っていくが,漆喰の乾燥によってもたらされる色合い,保存性など共通項も多い。
参照 1) 村山道宣編「土の絵師伊豆長八の世界」 2) 松崎町HP