豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
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リマ, 黄金の都はどうなった?

2011-10-10 09:52:50 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

黄金の都リマ

ペルーは,紀元前から古代文明が栄え,16世紀スペインに征服される前はインカ帝国の中心地であった。スペイン植民地時代に,首都がアンデス山中のクスコから沿岸のリマに移され,ペルー副王領として栄えた。植民地時代のリマはポトシ銀山から産出される銀の輸出港であり,南米植民地支配の中心地であった。19世紀の独立後もリマはペルー共和国の首都であり,都市圏人口は現在890万人といわれている。

因みに,ペルーの地形は大きく三つに分かれる。太平洋沿岸地帯のコスタ(標高500mまで),アンデス山脈が連なるシェラ(アンデス山脈西斜面の500m以上から東斜面の標高1,500mまで),アマゾン流域のセルバ(アンデス東斜面2,000m以下)である。それぞれ気候が異なり,植生も大きな違いがある。太平洋沿岸コスタ地帯は砂漠が広がり,アンデスの雪解け水が流れる川の流域や地下水が湧出する場所に都市が形成され,現在ペルー国民の半数以上が太平洋沿岸地帯に住んでいる。リマはこのコスタに位置する。

私達は,成田からロスアンゼルス経由でリマのホルヘ・チャベス空港に入った。拙著「豆の育種のマメな話」は,次のような言葉で始まっている。

ランチリ航空601便は,リマのホルヘ・チャベス空港に着陸しようと機首を下げていた。眼下には,太平洋の波が打ち寄せる海岸線が南北に延び,その海岸線からはアンデス山脈の北の峰に続く荒野が眺められる。その海岸に近いところに,レンガ造りの家並みとわずかな緑が町を形成している。・・・20年前にこの空港へ立ち寄ったのは,アルゼンチン出張の途中で一人旅。その時はわずか一夜のリマであったが,今回は一週間,マチュ・ピチュを訪れ,ナスカの地上絵を眺めることが出来るだろう」

さてここでは,リマ市内で訪れた旅の印象を記そう。旧市街セントロ地区の中心はマジョール広場,大統領府,カテドラル,市庁舎が広場に面して建っている。スペイン風の広場は多くの人で賑わっている。

黄金博物館

リマの実業家だったミゲル・ムヒカ・ガーリョ(Miguel Mujica Gallo)が,収集したものを展示公開している黄金博物館(Museo Oro del Perú)。ユーカリの木立に囲まれた住宅地の一角にある。1階は武器博物館,日本の鎧兜や刀剣もある。地下にモチェ文化,シカン文化,チムー文化,インカ文化等ペルーを代表する文明の金銀,銅,宝石入りの装飾品,食器などが数多く陳列され,見応えがある。2階は織物展示室。なお,世界に黄金博物館と名のつくものはいくつかあるが,中南米ではコスタリカのサンホセ,コロンビアのボゴダにあるものが知られている。

天野博物館

マで活躍した実業家,故天野芳太郎(秋田県生まれ,リマ名誉市民18981982)が収集した,プレインカ・インカ時代の織物や土器が数万点展示・収蔵されている(博物館は私財を投じて1964年に設立)。彼は,仕事の傍ら,リマの北およそ60kmにあるチャンカイ河谷を訪れて発掘・採集を続けた。そこで発見された織物や土器類,化石化した栽培植物,生活用具から,チャンカイ渓谷に極めて優れた文化が存在していたことが明らかになった。アンデスの古代文化を愛し,アンデス人の心を理解し,その完成に尽力した氏の思いが伝わってくる。中でも,華麗にして繊細な織物の収集品が素晴らしい。海外にあって,日本人が応援したくなる博物館である。

パチャカマ神殿

リマから南へ30kmの海岸近くにある日干し煉瓦で作られた広大な遺跡。「パチャカマ」とは天地の創造者という意味で,パチャカマ神を信仰する民族の祭祀行事に使われた神殿であったとされる。太陽の神殿,月の神殿,太陽の処女の館からなる。

「遺跡は,新時代の征服者によって壊され,財宝を狙う盗掘者に荒らされ,崩壊への道を辿る」

「文化財の保護は難しいね」

「近頃ではスラム街が拡大し,遺跡が侵食される事例が結構多いそうだ」

「心ない観光客による崩壊も問題だね」

「ガードマンが必要な訳だ。ここでも,自動小銃を抱えたガードマンが目を光らしている」

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コメント
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