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廃刊になった機関誌「十勝野」から、アルゼンチン追憶(その1)

2018-08-24 10:55:44 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

十勝農業試験場の職員親睦会(緑親会)が発刊していた「十勝野」という冊子がある。既に廃刊となっているが、昭和47年(1972)創刊で三十数年発行された(手元に創刊号から、平成9年発行の31号まで揃っている)。農業試験場の公的なことは「年報」や「事業成績書」等資料に残されるが、そこで活動した職員の日常や生き様については読み取ることが出来ない。反面、この親睦団体の機関誌「十勝野」は当時の職員の生活が生き生きと描かれ、今ともなれば極めて貴重な資料と言えよう。

本稿では、「十勝野」に掲載されたアルゼンチン関連記事の中から一部を引用する。四十数年前の状況を垣間見ることが出来る。

当時十勝農業試験場は、アルゼンチン共和国への専門家派遣、研修生受け入れを行っていた。この事業は、日本政府がアルゼンチン共和国からの要請を受け、昭和53年(1978)から昭和59年(1984)までの7年間「アルゼンチン国の大豆育種に対する研究協力」プロジェクト(国際協力事業団)として実施され、JICAの技術協力の中では成功例と称えられたプロジェクトである。開始当時の場長は中山利彦氏、大豆育種科長は砂田喜與志氏、派遣専門家は酒井眞次と土屋武彦研究職員。後半は中西 浩が加わった。プロジェクト推進にあたり多大な苦労と尽力された中山利彦、砂田喜與志の両氏は今や鬼籍に入る。

 

1.アルゼンチン雑感

ビデラ・アルゼンチン大統領が訪日した時、大平首相が大統領に「貴国はガウチョの国と言われますが、ガウチョの義理・人情は、我が国のサムライの精神と通じるものがありますな、アーウー」と言ったかどうか定かでないけれども、アルゼンチンの人々の心の中に日本人の心を見る機会が非常に多い。アルゼンチンに来て1年余りが過ぎ去ったが、その間、当地の人々から多くの親切・多くの交友を賜った。それら交友の根底にあるものは、日本人と共通する義理・人情の世界であった。私は、この世界を大切にしたいと考えている。

緑親会の諸姉・諸兄には、すっかりご無沙汰の極みであったので、その失礼を深謝し、地球の反対側から愛をこめてご挨拶申し上げる次第である。

◆アサードとビノのこと

アルゼンチンのビールは泥臭くて、全く美味しくない。ウイスキーも安っぽい単純な味でしかない。それに引き換え、ワインは種類も豊富であり、美味しいものが多い。従って、専らワインを愛飲することになる。

牛の焼き肉が主食のようなお国柄でもあるので、ワインはこの食生活に極めてマッチする。夕食は勿論のこと昼食から、食堂に行けば「飲み物は何にするか?」と来るワインとソーダを注文しておいて、おもむろに、スープは、前菜は、肉は、デザートはと考える。昼食なら少し軽く、臓物を焼いたものか鶏肉にして、夕食なら厚いステーキを取るのも良い。

この国の人々にとって、食事は重要な日課のひとつのように思われる。十分時間をかけて、歓談をたのしむ。昼食の時間も正午から2時間余り。仕出し弁当やかけそば一杯の日本とはあまりにも対照的である。夕食は9時・10時から夜半に及ぶ。パーテイーでは、ギターに合わせて歌って、踊って騒ぐ。しかし、酔っ払いや陰険に絡んでいる人の姿を見たことはない。

豚肉や鶏肉に比較して牛肉は豊富であり、確かに安いが、残念ながら日本には持ち込めない。アルゼンチンからの輸入は禁止されている。

◆セニョリータたち

アルゼンチンの開拓の歴史は非常に血生臭い。ヨーロッパから渡ってきた白人たちは、原住民のインデイオを徹底的に追い払い、抵抗する原住民を殺戮しながら白人国家を創り上げた。蒙古斑を有し、東洋人と似た骨格のインデイオたちは、現在北部の辺境にわずか残るに過ぎない。

アルゼンチンは、スペイン、イタリア、ドイツ系の移民が多い。それら混血の結果、神はこの国に美しきセニョリータたちを創り賜った。顔立ちは7歳から10歳くらいまでの少女が美しい。カフェテリアに座って、そぞろ歩くセニョリータたちの後姿を眺めるなら、十代後半から二十代前半ということになるだろう。特に、腰から脚の線がいい。

アルゼンチンの旅から帰った友の便りによれば、自宅の玄関を開けた時、日本女性の骨格を改めて見直さざるを得なかったという。彼の美しき奥さんにして然りである。

しかし、アルゼンチンの女性の多くは、年齢とともに巨大化する。花の命はアルゼンチンの方が短そうである。また、肌の美しさは日本女性にかなわない。これは統計的な見解である。

◆サッカーのこと

テニス、バスケットボール、バレーボール、水泳、ゴルフなど多くのスポーツが行われているが、その人気・盛大さにおいてサッカーに勝るものはない。サッカーはアルゼンチンの国技である。

昨年度は世界選手権で優勝し、本年度は東京でのユースのチャンピオンになった。ソビエトとの優勝決定戦が行われた日、三千万の国民が7時からのテレビ・ラジオの中継にくぎ付けになった。逆転の勝利となった瞬間、路上のタクシーも自家用車も警笛を連打し、高層ビルの窓から紙吹雪が舞い、人々は路上に出て国旗を振って喜びに呼応した。ブエノス・アイレスでは、フロリダ街は言うに及ばず、コリエンテス通りも人の波に埋もれ、市内の車は至る所で立ち往生。その車の間を縫って国旗を売り歩く人、スクラムを組んで喜びを表す少年たち、バルコニーから群衆に挨拶する大統領。市役所も会社も半日は全く仕事にならない状態であった。

マルコス・フアレスのような小さな町でも同様で、わが家でも国旗を出して祝すれば、家の前に車は列をなし、ギターを抱えた人々を中心に人が群れての大合唱。学校では、アルゼンチンの国旗と日の丸を先頭に、学校の周囲を何回も群れを成して走り、歌い、喜びを表したと言う。

このような力がどこに潜んでいるのか、のんびりとした仕事ぶりからは想像もつかない。しかし、情熱的にしかもしらけずに喜びを表現する方法を、日本人は忘れてしまったのではないだろうか。

◆生活リズム

24時間の空の旅を終えてブエノス・アイレスに到着すると、日本との時差が12時間、季節が全く逆と言う世界に入る。数日は、昼食をとる頃から極めて眠くなり、夜中に目が覚める。人間の体内時計は、そう簡単に調整が出来るものではない。また、夏が過ぎて、これから冬に入ると言う体調が、再び夏を迎えるわけである。

さらに、一日の生活リズムが日本と異なる。例を試験場の勤務時間にとってみると、午前7時~12時、午後3時~午後7時が勤務時間である。朝が早く、夜が遅い。夏の暑い日中は、家に帰り昼寝する慣習である。

日本のように娯楽が豊富なわけではない。勿論、パチンコや麻雀があるわけでない。夜は家族単位、恋人同士の行動が主体である。日本のようなバーやキャバレーの存在は皆無に近い。

したがって、アルゼンチンではまだ映画が全盛である。土曜日の夜など、映画の終了する零時半ごろから再びカフェテリアが満席になり、若いカップルは一杯のコーヒーに顔を寄せ合い、話が尽きない。週末の真夜中のこの賑わいは、一瞬時間の感覚を失うものである。

彼らは、子供のころからこの生活リズムに対応しているためだろうか。それとも食生活の故なのか。体力のあるのに驚く。

◆貧富の差

貧富の差が大きい。富める人々は市の中心街に豪華な住宅を有し、避暑地に華麗な別荘を持つのに対し、貧しき人々は駅裏の市街にバラック住まいをする。前者が夏の休暇は地中海かマイアミかと語るとき、後者は1時間の労働で1キロのパンを稼ぐ。

インフレが極めて激しいので、農場主、工場主、商店主らは一般に裕福であり、労働者とくに未組織の労働者は惨めである。公務員の給与が3か月ごとに40%ベースアップするほどのインフレーションである。

履きさらしの穴の開いた子供靴を捨てたところが、すぐに拾われ、翌日には別の誰かが「お前は誰それに子供の靴をやったそうだが俺にもくれないか」と訪ねてくるほどの貧しさである。しかし、貧しさゆえの暗さはない。八百屋にトマト1個、人参1本と買いに来る人々も陽気である。貧しい身なりで、宝くじや菓子を売り歩く子供たちも屈託がない。

資源豊富なこの国の人々にしてみれば、何をあくせく働くのか、何をそんなに急ぐ必要があるのかということなのだろう。貧富の差こそあれ、社会保障制度は日本より進んでいると言われる。

ブエノス・アイレスから所在地のマルコス・フアレスまで450キロ、山の影すら見えない。この地帯はアルゼンチンの主要な穀倉地帯で、小麦、とうもろこし、大豆、ソルガムなどの畑が延々と広がる。草を食む牛の群れ、ひまわりの黄金の畑、水をくみ上げる水車、砂埃を上げて走り回る大型トラクタ、農薬散布中の軽飛行機、強烈な太陽、アルゼンチンパンパの景観である。

元来、樹木のなかったパンパに植林されたのはユウカリ。そして今、大農場の周囲に、国道の脇にこの常緑の並木は大きな陰を落としている。以下にもヨーロッパ的に、しかも単調に。

引用:土屋武彦1979、十勝農業試験場緑親会発行「十勝野」第13号p66-69

 

◆研修修了時のことば(Jorje E. Nissi、Juan C. Suares

 

 

「十勝野」掲載のアルゼンチン関連記事

(1)中山利彦1977:アルゼンチン雑感、「十勝野」第11号p25-28

(2)砂田喜与志1977、地球の裏側の農業国アルゼンチン共和国への旅、「十勝野」第11号p28-31

(3)Nestor L. Padulles 1978、別れに際して、「十勝野」第12号p56

(4)土屋武彦1979、アルゼンチン雑感、「十勝野」第13号p66-69

(5)Jorje E. Nissi 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p72-73

(6)Juan C. Suares 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p74-75

(7)土屋武彦1980、アルゼンチンの人々、「十勝野」第14号p73-77

(8)Nora Mancuso 1980、研修を終えて、「十勝野」第14号p86-87

(9)砂田喜与志1981、真夜中(真昼)の国際電話、「十勝野」第15号p29-32

(10)中西浩1981、十勝農試の思い出、「十勝野」第15号p76

(11)酒井眞次1983、アルゼンチンにて、パラナ川氾濫、「十勝野」第17号p36-37

(12)Nestol J. Oliveri 1983、日本の印象、「十勝野」第17号p57-58

(13)Juan C. Tomaso 1983、親愛なる友人の皆様へ、「十勝野」第17号p57-58

(14)土屋武彦1984、アルゼンチン研修員のことなど、「十勝野」第18号p43-44

(15)Luis A. Salines 1984、日本の印象、「十勝野」第18号p43-44

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