恵庭散歩-古地図の章
古地図から歴史が映像となって蘇る。
手元にある恵庭の古地図「漁」は,大日本帝国測量部が大正5年に測図した旧版図(二万五千分の一,大正7年6月25日印刷)謄本で,定価7銭5厘の価格がついている。国土地理院が保管する同縮尺地図としては,最も古いものであろう(因みに,五万分の一の旧版図としては明治29年製版「長都」が存在する)。
最初に目につくのが,地図の左上(北西)から右下(南東)に延びる直線道路「室蘭街道」で,上端は至札幌・経輪厚,下端が至美々・経千歳とある。この道路は,後の「国道36号」になるが,当時から恵庭を通る基幹道路であったことが伺える(道路区分は県道)。この道路にクロスして蛇行するのが「漁川」「茂漁川」,恵庭の市街地はまだ形成されておらず,家々は道路の両側に並んでいる。基線や東三線,南二十号や南二十四号等の「里道」は図面上に定規で引いた直線のままに書き込まれている。
この「室蘭街道」にも多くの変遷があった。各種資料から,その歴史を整理しておこう。
◆「室蘭街道」の歴史
北海道開拓時代初期:鹿道と呼ばれる狩猟の道が,月寒から福住を経て千歳に至っていた。
1873(明治6)年:札幌~函館間に新道が完成。同年11月5日太政官布告第364号で「札幌本道」と定められた。「札幌本道」は函館から札幌まで(ただし,森~室蘭間は航路)繋がっていた。1877(明治10)年札幌農学校のクラーク博士が任期を終え,札幌から帰国の途につき島松沢で,見送りに来た学生たちに「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と離別の言葉を残したのは,この街道でした。
1885(明治18)年:「国道42号,東京より札幌県に達する路線」に指定された(内務省告示第6号「国道表」)。
1907(明治40)年5月13日:国道42号は倶知安・小樽経由にルートが変更され,国道43号が青森~室蘭~岩見沢~旭川(旭川の第七師団に達する路線)に変更された。その結果,苫小牧~札幌間は国道から外れ県道となった。
1920(大正9)年:旧道路法が制定され,旧43号は国道28号に認定されたが,苫小牧~札幌間は県道のままであった。
1952(昭和27)年12月4日:新道路法が制定され,札幌~室蘭間が「一級国道36号」に指定された。同年10月から札幌・千歳間の舗装工事が始まり,翌年の11月2日に34.5kmの工事が完了。道幅7.5m,最高設計速度を時速75kmに設定した高規格道路基準で建設され,「弾丸道路」と呼ばれたと言う。国土地理院の昭和30年測量地図に重ねると,恵庭市内で旧室蘭街道から恵庭バイパスが出来る前の国道36号にルート変更され,ルルマップ川や長都川の辺りは直線化されたことが分かる。また,アスファルト舗装の採用は当時としては珍しく,日本の舗装歴史上特筆すべき事項だったと言われている。
1965(昭和40)年4月1日:道路法改正により一級・二級の区別が廃止され,「国道36号」となった。
1996(平成8)年10月:恵庭市街地の交通量増加に対処するため,恵庭バイパスとして南二十四号に沿って市街を迂回する路線変更が行われた。
道路の整備や変更によって人の流れが変わり,交通事故の発生頻度や商業地の盛衰にも少なからず影響があった。しかし,そこに住む人々は歴史を保存しながら暮らし,頑張っている。旅人には,古地図を片手に古道を歩めば,新たな喜びが発見できるだろう
再び,古地図に話を戻そう。
室蘭街道を辿っていると,「七里標」「八里標」の記載があるのに気づく。「七里標」は室蘭街道に里道(至江別・経中之澤)が交差する点,現在の地図に重ねると「道道46号江別恵庭線」と「旧国道36号」の交点(北東角,柏陽町3丁目信号の場所)にあたる。現在,その痕跡は見だせない。
また,「八里標」は室蘭街道がユカンボシ川と交差する点から350mほど南の地点にある。現在の地図では恵南10丁目,山崎製パン(株)札幌工場の敷地内になるだろうか。
明治政府は1873(明治6)年「札幌本道」の新設に合わせ,札幌の創成橋の東側(南1条と創成川の交差点)に「北海道里程元標」を建て,道路調査を行うとともに「里程標」を置き,旅人の便宜を図ることにした。即ち,札幌街道で恵庭は七里(約27.5km)及び八里(約31.4km)の距離で二つの里程標が置かれている(因みに島松沢に「六里標」があった)。「北海道里程元標」は木製であったとされるので,それぞれの里標も木製だったに違いない。今や朽ちて,その姿を残していないのも当然である。
札幌市の「北海道里程元標」は2011(平成23)年に再建され,モニュメントが建っている。恵庭市でも歴史遺産として残す(記憶に留める)運動が起こらないものかと期待している。
さて,「道路元標」の歴史は古く,海外でも「マイルストーン」が設置されている例がある。以下に道路元標の歴史を整理しておこう。
◆「道路元標」の歴史
平安時代末期:奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を建てた。「一里塚」である。
江戸時代:1604年3月4日(慶長9年2月4日)江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道(東海道,中山道,甲州街道,日光街道,奥州街道)に「一里塚」設置の令を出した。大久保長安の指揮のもと,10年ほどで完了したとされる。東海道は124か所,甲州街道53か所等々で,いくつかはその姿を現在に留めている。道路の側に土盛りし(塚を造り),榎を植え標識を建て,旅行者の目印としたものである。本来は街道の両側にあったと言う。
1873(明治6)年12月20日:明治政府は太政官日誌で,各府県「里程元標」を設け,陸地の道程調査を命じた。「北海道里程元標」は,創成橋の東側(南1条と創成川の交差点)に建てられた。標柱は1尺(約30cm)角,高さ1丈2尺(363cm)の檜または椴松製だった(平成23年3月再建されている)。元標の東面には「・・・島松駅五里弐拾七丁三十間」と書かれ,西面には「篠路駅三里拾丁弐拾間,銭函駅五里拾丁三拾間」とあった。同時に各街道には,「北海道里程元標」からの距離が「里標」として置かれた。古地図「漁」に残る,「七里標」「八里標」等はこの名残である。
1919(大正8)年:旧道路法が制定され(法律第58号),各市町村に「道路元標」を設置することになった。これにより,北海道の道路起点は北海道庁前(来た3条西6丁目)に移され,現在もこの地に「札幌市道路元標」(昭和3年設置,昭和57年再建)がある。なお,「恵庭村道路元標」は昭和7年に設置され,恵庭市中恵庭出張所敷地内の道路に面した櫟の陰にある(大正9年3月の北海道庁告示220号によれば元標位置は漁村551番地先とある)。
その存在を知る恵庭市民は極めて少ないのではあるまいか。除雪の重機でいつ壊されても不思議でない状況に置かれている。損壊してはもったいない。恵庭散歩の途中に,是非探し訪ねて欲しい。そして,保全の声を上げて欲しい。
1952(昭和27)年6月10日:現行の「道路法」(法律第180号)が制定され,道路の起終点は道路元表とは無関係に定められることになった。そのため,歴史遺産とも言うべき道路元標が取り壊された事例は少なくない。そのような中,「歴史遺産」として保全を進める動きが各地で起きている。恵庭においても,朽ち果てる前の保全,消えた歴史の復権(再建)を願うものである。
◆その他の「距離標」
「道路元標」と言う概念は,世界中に存在する。日本橋中央には「日本国道路元標」,合衆国ホワイトハウス近くの「Zero Milestone」,モスクワ赤の広場(マネージュ広場)の「ゼロ・キロメートル標識」,北京天安門広場の「中国公路零公里」,マドリッドのプエルタ・デル・ソル広場(熊と山桃の像が知られる)の「ゼロ・キロメートル標識」などである。
かつて,南米の田舎を車で旅しているとき,「国道○号の○○km地点から左に入って・・・」と言うような表現をよく聞いた。国道には進行方向に沿った道路脇に「Milestone」があり,非常に参考になったことを思い出す。
その後,我が国の主要道路では,距離標識(キロポスト)で表示されるようになった。高速道路で「○○まで○km」の標識を見掛ける「案内標識」の形態だ。
さらに,鉄道にも起点を示す「ゼロ・キロポスト」が置かれている。また,河川では河口または合流点を起点にして,距離を表示する標識が堤防法肩に設置されているという。これは,あまり気づいたことが無い。