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廃刊になった機関誌「十勝野」から、アルゼンチン追憶(その2)

2018-08-25 13:14:40 | 海外技術協力<アルゼンチン・パラグアイ大豆育種>

十勝農業試験場の職員親睦会(緑親会)が発刊していた「十勝野」という冊子がある。既に廃刊となっているが、昭和47年(1972)創刊で三十数年発行された(手元に創刊号から、平成9年発行の31号まで揃っている)。農業試験場の公的なことは「年報」や「事業成績書」等資料に残されるが、そこで活動した職員の日常や生き様については読み取ることが出来ない。反面、この親睦団体の機関誌「十勝野」は当時の職員の生活が生き生きと描かれ、今ともなれば極めて貴重な資料と言えよう。

本稿では、「十勝野」に掲載されたアルゼンチン関連記事を引用する。

当時十勝農業試験場は、アルゼンチン共和国への専門家派遣、研修生受け入れを行っていた。この事業は、日本政府がアルゼンチン共和国からの要請を受け、昭和53年(1978)から昭和59年(1984)までの7年間「アルゼンチン国の大豆育種に対する研究協力」プロジェクト(国際協力事業団)として実施され、JICAの技術協力の中では成功例と称えられるプロジェクトであった。開始当時の場長は中山利彦氏、大豆育種科長は砂田喜與志氏、派遣専門家は酒井眞次と土屋武彦研究職員。後に、中西浩氏が加わった。プロジェクト推進に多大な苦労と尽力された中山利彦、砂田喜與志の両氏は今や鬼籍に入る。

 

2.アルゼンチンの人々

 アルゼンチンと言えば、一般的にはタンゴの国として、或いはまた限りなく広がるパンパ平原の国として思い出されるようである。事実、3年前の小生の認識もその域を出ていなかった。

 日本にとってアルゼンチンは何よりも遠く、彼の国で何が起ころうと地球の反対側に位置する我々には痛くもかゆくもないし、騒音に悩まされることもなかった。政府だって、頭を寄せ合って石油の輸入や自動車の輸出について論議するようなこともなかったし、ただお互いに挨拶を交わし、お天気の話でもすればよい間柄であった。

だから、アルゼンチンの姿が余り多く知られていなかったのも無理からぬことであるが、アルゼンチンはタンゴとパンパだけの国ではなかった。

 住んでいる人々は、南アメリカ特有の陽気さと暢気さを持つが、同時にヨーロッパ的な優雅さと高い知性を有していたし、人間の尊厳や精神の自由の尊さをよく認識した国民性を有するように思われた。

 アルゼンチンの2年間の生活で、多くの友人を得たことは何にもまして喜びである。

◆セニョリータ・モッシのこと

 彼女は大柄なイタリー系美人教師である。髪の毛は黒く、鼻が高く、肌はあくまで白かった。赤いコートの裾をひるがえして、車の運転席から降り立っては、わが家のブザーを押した。

「お元気?」

日本酒も緑茶も好きになって、わが家の息子たちのことを

「ヒデ!カツ!」「チャオ!インデイオ」「チャオ!ネグロ」と呼んだ。日焼けして真っ黒になった姿に愛情をこめて呼びかける。

マルコス・フアレスを離れるとき、彼女は試験場牧草地の滑走路まで見送りに来て、泣き腫れた瞳から大粒の涙を落した。包み込むような長い抱擁のあとつぶやいた。

「是非一度日本へ行ってみたい。またいつかきっと会えるわね。子供たちだけでも、もう一度アルゼンチンへ寄こしてね」

セスナ機の窓から、滑走路の脇にたつ彼女の赤いコートが、大勢の子供たちに囲まれていつまでも動かない姿が眺められた。旋回するセスナ機の窓を通して、白いハンカチが目に残った。

息子たちは2年間毎日、午前10時から12時まで彼女の家に通った。アルファベットの読み方も書き方も全く知らなかった子供たちが、スペイン語を書き、話、現地校の事業を受け、アルゼンチンの子供たちと同じように試験を受けたり、通知箋をもらったりするまでになったのも、全て彼女の力によるところが大きい。彼女との邂逅は、私たち家族にとって最大の宝である。

因みに、彼女は国立小学校の教師。ミセスであるが、教師に対しては全てセニョリータと呼ぶ。彼女の本名はマリア・イネス・モッシ。

◆レアーレ家の人々

隣町にレオネスという小さな落ち着いた町がある。私たちが住んでいたマルコス・フアレスから約17キロしか離れていない。レオネスは「小麦のまち」と呼ばれ、毎年全国小麦祭りが開催される。この小麦祭りでは、小麦の新品種や栽培法を紹介する研究発表会、農機具展示会、ミス小麦の選出、音楽祭など種々の催しが行われ、大統領の出席も見られる。街の入り口には小麦をかたどったアーチが建っていて、「ようこそ、レオネスへ」と書かれている。

このアーチより1区画ほど入ったところにレアーレ家がある。美しい長女のリリイさんは、ロサリオ大学で哲学を専攻しており、日本語がとても達者である。

「日本のお茶わんに塗るために、牛の骨粉を日本へ輸出しているのよ。あれ、知らなかった?」なんて、甘い声で話す。

アルゼンチンの若者たちの基準ではどうか分からないが、日本人の感覚では非常にきれいな可愛いお嬢さんである。彼女は1年間浜松の女子高校に留学した経験がある。

「1年間で、どうしてそんなに日本語が上手になったの?」

「うん、まだ上手でない。だけど、浜松では学校から帰ると毎日テレビを見ていたの。それで、これ何?これ何?と、テレビで覚える」

レオネス市と浜松市は交換留学生の制度があり、今年も日本の高校生がレアーレ家に寄寓している。

ご家族はご夫妻とお嬢さん2人、ご子息1人。大の日本贔屓である。子息のマルコ君は子供たちのサッカー仲間であったし、妻は奥様からエンパナーダの料理法を教授されていた。妹さんは来年度、マルコ君は四年後に留学の予定という。日本での再会を喜びたい人々である。

◆ナッチョ、ホセ、ギジェとパチャ

アルゼンチンの人々は、親しくなれば通常苗字や敬称を使わず、名前の呼び捨てか愛称で呼び合う。だから至る所で、「デブ」「ヤセッポ」「ハゲ」「ハナペチャ」などの言葉が氾濫する。前述のモッシ家でも、奥さんが旦那を

「フラッコー(ヤセッポさん)」と呼ぶ。

しかし、ご主人は頭髪が薄くなった恰幅の良い紳士だから

「どうして、ヤセッポさんなのですか?」と聞けば

「昔はもっとスマートだったのよ」ということになる。

昨年十勝農試へ研修に来ていたニシ室長の場合、ニシという姓でなくホルヘという名前で呼ぶ。秘書のマリア・マルタが

「ホルヘ!テレフォノ(電話ですよ)」

と呼ぶ。これを日本でやったらどうなるか。勇気ある緑親会の諸姉、上司に試みられたい。

また、話は少し違うが、挨拶の時お互いに相手の名前を呼ぶのは良いことだと思う。

「おはよう、ルイス!」

「元気かい、ジュデイ!」

なんとなく親しみを感じるではありませんか。

冒頭のナッチョ、ホセ、ギジェとパチャはわが家に頻繁に出入りしていた息子の友達である。ナッチョは息子たちより頭一つ大きく、大人の風格をしていた。教室では隣どうしで、宿題の面倒まで見てもらっていたらしい。

「ナッチョの答えを写しているのだろう?」と息子に言えば

「数学ではナッチョが俺の答えを写しているよ」

と澄ましたもの。彼は農業高校へ進学し、農業試験場へ勤務するのだと言う。彼の祖父はペルガミノ農試で小麦研究のコーデイネーターをしている。

ホセは顔立ちの整った子供だった。学校の近くに家があり、子供たちの集合場所のようになっていた。落ち着いていて大人の会話が出来る、面倒見の良いボスであった。魚釣りやサッカー、凧作りの先生である。

パチャは音楽教師の息子さんで、冬でも半ズボンを穿いていた。友達の少ない子供のようだったが、良く遊びに来ていた。郵便切手を集めているのを知って、今でも送ってくる。別れるとき、大きな声で泣いていた。

ギジエは眼をくりくりさせて、いつもおどけていた。下の息子が一番気を許していた友達の一人である。「教師の日」の先生への贈り物をする幹事役を一緒にやっていたのを思い出す。

その他にも多くの子供たちとの出会いがあった。サッカーの友達、プールでの友達、喧嘩した友達、このような多くの人との出会いが、子供たちの心の糧になったことだろうと信じたい。

◆スーテル神父

マルコス・フアレス市で日本語を話せる唯一のアルゼンチン人であった。大阪で13年間暮らしたそうだが、丁寧で静かな日本語を話す。

ワインの銘柄に「スーテル」という1級品があって、

「ワインはスーテルを飲みなさい」と言って、笑わしている。来年度の休暇には訪日の予定とのこと、十勝ワインを飲む機会がきっとあるだろう。

◆隣の人々のこと

右隣はスーパーマーケットのご主人。頭が禿げ上がった老紳士。毎日セーターを取り換えておしゃれを楽しんでいる。家の前に立って、道行く人々を眺めていた。弟が近くで電気器具と家具類を販売しており、こちらも頭が輝いていた。子供たちは彼らの事を「朝日」「夕日」と呼んでいた。

左隣には芸術学校と称する古い建物があり、管理人の老夫婦が住んでいる。老婦人は腰の曲がった小柄な感じで、ひっそりと暮らしていた。食事時にはトントンと肉をたたく音が聞こえてきた。その音は、「ああ今日もミラネッサ」と料理のメニューをうかがわせた。そして、土曜日と日曜日は劇団の仲間が集まって賑わいを見せていた。

道路を隔てた向かい側には、農場主のご家族が住んでいた。主人や奥さんは頻繁に農場へ出向いていたが、年寄夫婦は優雅な生活をしていた。老婦人は白髪で上品な顔立ち、清楚な婦人であった。

「日本はとても美しい国ですね。日本に関する本を読んでいるんですよ」

と話しかけてくる。日本旅行をしている友達から届いた絵葉書を私たちに見せながら、

「なんて素晴らしいんだろう。大変美しい」

と、金閣寺の写真を示す。

この町の人口は18,000人、芽室町と同じくらいの町だが、休暇に日本旅行を楽しんできたと言う人々に度々話しかけられた。経済大国と呼ばれる日本だが、長期休暇を取って南米まで旅行する人が何人いるだろう。生活に対する心のゆとりと経済のゆとりはまだ我々にない。

日本人がアルゼンチンを知る以上に、この国の人々は日本の事を知っている。それは、店頭に氾濫するカメラや電気製品、時計、オートバイや自動車の力が大きいのは確かだが、原爆記念日にはその映像をテレビに流し戦争の悲惨さを伝えるようなマスコミの力もある。そしてまた、異文化を抵抗なく取り入れようとする度量もある。さらに付け加えれば、数こそ少ないものの、日本人への信用を築き上げてきた移住者の方々の努力を忘れることは出来ない。

日本の38倍もの農用地を有するアルゼンチンは、世界の食糧基地としての地位を今後ますます高めることだろう。今後も日本とアルゼンチンの友好関係が続くことを期待したい。いつの日か、多くのアミーゴたちとの再会を願いつつ。

引用:土屋武彦1980、十勝農業試験場緑親会発行「十勝野」第14号p73-77)

 

 

「十勝野」掲載のアルゼンチン関連記事

(1)中山利彦1977:アルゼンチン雑感、「十勝野」第11号p25-28

(2)砂田喜与志1977、地球の裏側の農業国アルゼンチン共和国への旅、「十勝野」第11号p28-31

(3)Nestor L. Padulles 1978、別れに際して、「十勝野」第12号p56

(4)土屋武彦1979、アルゼンチン雑感、「十勝野」第13号p66-69

(5)Jorje E. Nissi 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p72-73

(6)Juan C. Suares 1979、私の日本雑感、大豆研究室へ寄せて、「十勝野」第13号p74-75

(7)土屋武彦1980、アルゼンチンの人々、「十勝野」第14号p73-77

(8)Nora Mancuso 1980、研修を終えて、「十勝野」第14号p86-87

(9)砂田喜与志1981、真夜中(真昼)の国際電話、「十勝野」第15号p29-32

(10)中西浩1981、十勝農試の思い出、「十勝野」第15号p76

(11)酒井眞次1983、アルゼンチンにて、パラナ川氾濫、「十勝野」第17号p36-37

(12)Nestol J. Oliveri 1983、日本の印象、「十勝野」第17号p57-58

(13)Juan C. Tomaso 1983、親愛なる友人の皆様へ、「十勝野」第17号p57-58

(14)土屋武彦1984、アルゼンチン研修員のことなど、「十勝野」第18号p43-44

(15)Luis A. Salines 1984、日本の印象、「十勝野」第18号p43-44

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