豆の育種のマメな話

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終戦記念日

2022-08-16 11:22:11 | さすらい考

2022年(令和4年)8月15日(月)

恵庭市恵み野在住。終戦記念日、今年も全国戦没者追悼式に合わせ戦没者を追悼し平和を祈念して黙祷を捧げた。新型コロナウイルスの感染は第七波、ロシアのウクライナ侵攻による戦争も終息の見込みが立たず、暗澹たる気持ちの終戦記念日である。加えて、台風や線状降水帯による洪水被害が各地で発生し、旧統一教会問題に対しても手を打たない政治の無策さがやるせなさを増幅する。防衛費をGDPの2%へ一気に倍増すると言われても表立って反対できないような変な風潮が気になる。

77年前の1945年(昭和20年)8月15日に昭和天皇は玉音放送で「ポツダム宣言受諾」を発し、日本は無条件降伏した。第二次世界大戦、太平洋戦争(大東亜戦争)は日本軍の敗戦で終わったのである(降伏文書調印は9月2日アメリカ戦艦ミズリー上で行われた)。太平洋戦争での日本軍戦死者230万人、国内の戦災死者80万人、アジア太平洋各国の民間人死者数まで合わせると太平洋戦争での犠牲者は約2,000万人以上と言われる。時の流れは戦争の悲惨な記憶を喪失させるのだろうか。あってはならない。

10年前、20年前の終戦記念日・・・、どこで何をしていたのか、ある男の履歴を紡いでみよう。                    

◆10年前、2012年(平成24年)8月15日(水)

恵庭市恵み野在住。拙宅でテレビから流れる全国戦没者追悼式に合わせ黙祷を捧げた。農業試験場勤務を終え、国際協力事業団の嘱託などを経て公益財団法人北農会に勤めていたが退職した年。仕事を終え「さて、どう生きようか」と考えていた頃。日記帳には、天候晴、「ミツバチの分蜂が我が家の花梨にやってきた」とある。東京スカイツリー建設年。

◆20年前、2002年(平成14年)8月15日(木)

パラグアイ国エンカルナシオン在住。海外技術協力の仕事で地球の裏側南米パラグアイ国で暮らしていた。同国のエンカルナシオン市で終戦記念日を迎え、NHKの海外放送が伝える全国戦没者追悼式の様子に合わせ黙祷を捧げた。当日の天候は曇り時々雨、寒い日だった(南半球は冬)。この日は、パラグアイの祝日(アスンシオン独立記念日)で休日。そして、3日後の 8月18日には父逝去の知らせを受け、一時帰国。

◆30年前、1992年(平成4年)8月15日(土)

長沼町在住。中央農業試験場畑作部長として赴任。備忘録には、週休二日制スタート、栗山角田の広済寺へ墓参とある。前年1月には多国籍軍によるイラク空爆開始で湾岸戦争が始まり、日本はこの年国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させている。

◆40年前、1982年(昭和57年)8月15日(日)

芽室町在住。十勝農業試験場で大豆育種事業に従事。同農試では1977年からアルゼンチンに対する技術協力を実施しており、この年も4月~5月にアルゼンチンへ出張。アルゼンチンと英国が戦ったフォークランド戦争(マルビナス戦争)の最中だった。500円硬貨発行の年だった。

◆50年前、1972年(昭和47年)8月15日(火)

芽室町在住。十勝農業試験場で大豆品種改良に携わるようになって7年目。耐冷性を主テーマに「ヒメユタカ」「キタコマチ」「キタホマレ」「トヨムスメ」「トヨコマチ」などの育成を進めていた。田中角栄が総理になり、「よっしゃ、よっしゃ」と日本が動いた年。沖縄復帰、冬季オリンピック札幌大会、日中国交正常化、あさま山荘事件と気忙しい一年だった。

◆60年前、1962年(昭和37年)8月15日(水)

札幌市在住(帰省で下田町須原)。この春、大学入学で北海道に来た。札幌では恵迪寮生活だったが夏休みで帰省し、終戦記念日は下田町須原坂戸集落の実家(集落入口近く、1955年落成)にいた。天候は晴、サイロづくり手伝う。お盆で叔父たちが我が家へ集まった。下田夏祭り(太鼓祭り)。ロシアがキューバに核弾道ミサイル基地を建設したのを受け米国ケネデイ大統領が阻止、米ソ核戦争の危機(キューバ危機)と呼ばれる事件があった。

◆70年前、1952年(昭和27年)8月15日(金)

稲梓村須原在住。旧住居は須原坂戸集落の山奥にあり、片道1時間余かけて通学していた。

小学6年生。講和条約・日米安全保障条約発効、血のメーデー事件があった。白井義男世界チャンピオン。ラジオ放送「君の名は」、「鉄腕アトム」連載始まる。

◆77年前、1945年(昭和20年)8月15日(水)

稲梓村須原在住。4歳半。終戦を祖父と母と山奥の家で迎えた(父が復員していたのか覚えていない)。記憶は確かでないが、全てが変わったのだと心配と希望が交差するのを子供心に感じていた。伊豆大島や下田市街地からの疎開者たちもそわそわしていた。妹が7月31日に誕生、父は何を願ったのか「みくに」と名付けた(祖父が名付けたか?)。

◆80年前、1942年(昭和17年)8月15日(土)

稲梓村須原在在住。山奥の家に住んでいた。前年の12月8日真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争(大東亜戦争)は、当初日本軍が勝利を重ね戦線拡大を続けたが、此の年6月のミッドウエイ海戦で空母4隻、航空機200余を失う甚大な被害を受け、戦争の主導権は米軍に移りつつあった。国内では物資不足から衣料点数切符制、味噌醤油切符制が実施され、戦争昂揚が叫ばれていたが、山奥の百姓は自給自足の暮らしに慣れていた。

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