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恵庭の碑-19 恵庭に建立された「松浦武四郎歌碑」

2018-11-04 17:05:28 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」前庭(恵庭市大町1-5)に、「松浦武四郎の歌碑」が建立された(建立2018年)。大きさは高さ128cm、幅72cm、厚さ24cmの石碑である。碑面には「蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや」の句と「安政5年(1858年)に伊勢国(現三重県)出身の松浦武四郎が蝦夷地調査途中恵庭を経過する際に詠んだ歌が西蝦夷日誌に残されております」と説明文が刻まれている。また、裏面には「北海道命名150年記念 平成30年(2018年)11月 21世紀恵庭新ふるさと創りの会 発起人代表永山伸治 田中和紀 施工(有)鈴木石材工業」とある。

恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」は恵庭市大町1-5-7、旧国道36号(札幌新道、室蘭街道)沿いにあり、石碑は施設の前庭に道路に面している。茂漁川の近く、新茂漁橋の手前(南)と言った方が分かり易いかも知れない。

 

碑の建立は、武四郎が最後に蝦夷地を訪れた際(6回目)、開削されたばかりの札幌越え新道を陸路で銭函から発寒、札幌を経て千歳、勇払に至る踏査を行い、「茂漁」でこの歌を詠んだことに由来する。

「・・・是より千歳領なり。九折鼻をもつくばかりの峻を上がり、上に平地あり。茅野過ぎてロロマップ(小川)、名義、第一上の枝川と云儀。過てヘケレベ(橋有)、名義、明き川なり、水底燒砂にて濁らざるなり。是迄の川皆シュママップ(島松)に落。併てルウサン(小川)、アツシヤウシ(小川)モイザリ(茂漁、川幅三間、はし有)、是イザリの枝なり。小さきイザリとの儀。傍に石狩土人の家あり(シリカンチウ、サンケハロ)。是は去年夕張に連行し者故、立ちよりしに妻計居て、余が名を聞大に悦び、粟を二合計と焼鱒を三匹ほど呉ぬ。余も是に却禮して出立。此邊畑多し。元は石狩領なり。

蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや ・・・(西蝦夷日誌)」

武四郎がこの地を訪れ、アワやヒエが豊かに実っている様子に驚き感銘を受けた様子が詠まれている。アイヌは狩猟民族と言われているが、「皆畑作をなす。惣じてよく出来たり・・・」と西蝦夷日誌に記載されていることからみても、この時代のアイヌの人々は狩猟・漁に加え既に農耕を営んでいた。

数多くある武四郎碑の中で最も新しい建立(2018年現在)。碑前に立って思いを馳せるもよし。近くの茂漁川河川緑地を散策すれば、カワセミの舞う姿やバイカモの川面に揺れる白い花を見ることが出来るだろう。心が癒されること間違いない。

なお、平成30年(2018112日に記念碑の除幕式、恵庭市への贈呈式が挙行された。

松浦武四郎1818-1888

江戸末期の探検家。伊勢の人。17歳のころから諸国を巡歴し、弘化2年(1845)、28歳の時はじめて蝦夷地を踏査。以来、6回の蝦夷、樺太、千島を探検し、貴重な記録や地図を残している。明治政府から開拓判官に任じられ、蝦夷地を「北海道」と命名したことでも知られる。蝦夷地の発展とアイヌの生活改善を願って就いた判官の職であったが、思うようにならず途中で職を辞している。

松浦武四郎の足跡を記念して建てられた記念碑や説明板の数は多い。松浦武四郎研究会や専門家の資料によると、武四郎本人が主役の記念碑と説明板は全道で77点(宗谷4、留萌6、上川20、空知11、石狩1、オホーツク8、根室1、釧路9、十勝4、日高7、胆振6)、武四郎の文献などを引用した記念碑や説明板を加えると北海道におよそ120点存在すると言う。足跡を訪ねてみるのも楽しみである。

◆イザリブト番屋の図

恵庭市内にはこの他に武四郎ゆかりの地「イザリブト番屋と船着き場、史跡表示板」がある。場所は恵庭市林田の恵庭神社遥拝所跡。松浦武四郎著「再航蝦夷日誌」から引用した「イサリブト番屋の図」説明板が建てられている。

この説明板は、武四郎2回目の蝦夷地踏査の際、千歳川を遡り漁太の様子を記録に残しているが、その場所を特定した記念板である。当時、この付近で千歳川と漁川が合流し、傍らに番屋があり、アイヌの人々の家が立ち並んでいた。

「・・・イサリブト ツイシカリより十一里。此処漠漠たる広野にして処々此の辺沼あり。又支川も網を曳けり。沼は左右にあって至って湿深きところなり。此処に至り四面とも山と云は少しも見えることなし。蔵の屋根え上がらばシコツ山見ゆるなり。番屋大きく建てたり。弁天社、蔵々あり。千歳支配所なり。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、黍、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土地肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人ども熊、鷲を多く飼えり。又鶴多きよし。夷人毎日臼にて沼菱を搗て是を平日の食糧とす。又鹿皮を多く着科にせり。もっとも肉を干して是も平日の食に当てるよし。・・・此処にて川二つに分る。一つは右の方本川にしてシコツ沼に及ぶよし。番屋前十間ばかりして枝川に上る。此巾十二三間。もっとも深き壱尋半より二尋。急流にして水至って清冷なり。本川はシコツ嶽、サッポロ嶽の間より落ち来る。本川幅十五六間。深凡そ二尋もあるよし聞けり・・・(松浦武四郎「再航蝦夷日誌」1846)」とある。 

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