読書日記

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戦火のサラエボ100年史 梅原季哉 朝日新聞出版

2015-10-12 14:14:25 | Weblog
 サラエボはボスニア・ヘルツエゴビナの首都で100年前にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フエルディナンド大公がセルビア人青年に暗殺された場所で、これをきっかけに第一次世界大戦が勃発した。サラエボは元々、ボシュニャク(モスレム)人、セルビア人、クロアチア人の主要3民族が共存する多様性に富む土地だったが、チトー大統領のユーゴスラビアが1980年代後半に経済危機に見舞われたことで、共産主義の強固な縛りが解けて、民族対立を煽り利用する政治家たちによって、1992~1995年、「ボスニア内戦」を余儀なくされた。当時、欧米メディアは盛んに「民族浄化」という言葉を使い、紛争の悲惨さをドラスティックに報道したが、「民族浄化」と現実の間にはかなりの落差があるのではないかという問題提起を試みている。
 ユーゴスラビアの崩壊によって、セルビア、クロアチア、モンテネグロ、スロベニアの各国が独立したが、ボスニア・ヘルツェゴビナは上記の3民族が混在していたために、そのイニシアチブを巡って血で血を洗う戦闘が行なわれジェノサイド(大量虐殺)が頻発した。これについてはかつてここで取り上げた『ボスニア内戦』(佐原徹哉 有志社 2008)に詳しく述べられている。
本書の特徴はこの100年間サラエボに住む3民族の家族にインタビューして、その家族史の中で民族の共存と反目の実相を浮き彫りにしたことにある。説明は簡潔で、大変わかりやすい。著者によれば、ボスニアの歴史、特にサラエボの人々が積み重ねてきた系譜の中では、民族の違いよりも、人間性という普遍に目を向け、文化や宗教が異なる人々との共存をはかってきた寛容の伝統も受け継がれてきた。この寛容の伝統から逸脱し、顔のない無名の集団として「他者」を追いやる不寛容と憎悪がはびこった時こそ、戦争が起きたのだという。そして戦火の広がる困難ななかでも、寛容の精神を忘れず、他の民族を敵視する風潮に与しなかった勇気ある人々も確実に存在した。その例として包囲されたセルビアに敢えて残り続けボシュニャク人やクロアチア人と共存して伝統を守ろうとしたセルビア人(欧米の報道では虐殺を主導したとして悪の代名詞にされた)も少数ながら存在した。それを単に「民族浄化」という言葉で総括してしまうのはデリカシーに欠けるというのが著者の見解である。聞き取りの成果がここにある。そしてインタビューに応じた人々からは「民族の違いよりも、お互いの多様性をまず尊重した上でなお、そうした違いを乗り越えて人々が共通して持っているもの、つまり普遍的な人間性をこそ重んじたい」という趣旨の言葉を何度も聞いたという。
 「普遍的な人間性」こそは民族主義をコントロールする有力な概念である。これを持続して維持し、感情的アジテーションに抗して発揮することは困難を伴うが、絶対に忘れてはならないものである。シリア難民問題で揺れるEU各国の中で、これを実践できる国はどれくらいあるのか。日本も知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる場合ではない。

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