甲骨文字に歴史を読む 落合淳思 ちくま新書
本書は「甲骨文字の読み方」(講談社現代新書)の続編で、殷王朝の歴史に言及したのが甲骨文字に歴史を読む 落合淳思 ちくま新書。殷代に関するまとまった文献資料は、司馬遷の「史記」の「殷本紀」編だが、これが甲骨文字が発見されるまでは信頼の置ける資料と考えられてきた。甲骨文字発見以降は殷本紀との対照が行われ、仔細に検討すると甲骨文字と食い違う部分も存在することがわかってきた。まず殷の系譜が違う。次に殷の最後の王の帝辛(ちゅう王)は史記によれば暴君で「酒池肉林」で有名だが、甲骨文字の記録によれば、政治を放棄して長夜の酒宴をするどころか、敬虔に祖先祭祀を行い、祭祀権を通した支配が機能していたことを示している。酒が原因で殷が滅びたというのは周王朝のプロパガンダであり、それに何百年もかかって尾ひれがついて、「酒池肉林」の伝説が形成されたと著者は言う。
殷の滅亡の原因は王の権力が強くなるに連れて、家臣との上下関係がはっきり規定され、上の者が下の者に奉仕を強制するようになり、それが支配下の勢力の反乱の原因になったらしい。政治技術が未熟な段階では、「適度に弱い統治」こそが「安定した王朝」になりえたという興味深い指摘がある。すなわち未熟な政治技術に見合わない強い支配を志向することは、むしろ政権を不安定にするものであろうという指摘である。どこかの知事に聞かせたい言葉だ。
甲骨文字は亀の甲羅や牛の肩甲骨の表面に刻まれるが、著者は実際牛の肩甲骨を入手して、加工して加熱してひび割れを作る事まで実践している。本来はひび割れの様子で吉凶を占うのだが、実際は占卜の操作や改竄により王の都合のよい結果を作り出していた。これは、当時の王には、行政や戦争だけでなく、超自然的な能力も求められていたためであり、操作や改竄によって、王の呪術的な能力を誇示したものと考えられるという指摘も非常に興味深い。為政者はカリスマ的存在であることが、権力を保持する大事な要件なのだ。