言うまでもないが、
聖書は世界最古の書物であり、世界最大のベストセラーである。
その組み立ては、どこか古事記に似ている。
最初に神話がある。
世界の成り立ちの話である。
その後、人が登場する。
そこでは預言者(神の言葉を預かる者)の話が主である。
つまり神と人との関わりである。
そしてそれはユダヤの歴史でもある。
神を賛美する詩編と謂うのもあるが、
まあ大体そんなとこです。
・・・・・
最初に神話があるのは、
結局そこから始めるよりないからである。
人間の根である。
この世界に対する根底の思いであり、
すべてはそこから発しているのです。
それを私は霊性と言う。
聖書は謂う。
神は初めに天と地を創った。
天と地とはつまりこの世のすべてです。
すべての「もの」です。
次に光あれと言ったら、そこに光があった。
それが第一日目です。
その後第六日目まで順次創られる。
それらはすべて神の口から出る言葉によって創られた。
そして第七日目に休まれた。
ところで、
私は言葉によって創られたと謂うことに、
俄然興味がわいてくる。
言葉によって創られたのは、
それは「こと」です。
「もの」ではないのです。
「こと」とはものの変化です。
最初に「もの」を創り、次に「こと」を創られた、
とは実に意味深で興味深い。
・・・・・
「こと」とは漢字で書けば、
「言」や「事」であるが、
日本語(音)だけで考えるなら、そこに区別はない。
「言葉」とはつまり「ことのは」であり、
それは神の口から出る声のことだ。
また別の字を当てることもできる。
「ことのは」とは「事の端」とも書ける。
全体を一つと見れば変化は一つだ。
全体を無数の集まりと見れば変化は無数である。
それら一つひとつが事の端である。
「神は細部に宿る」とは言い得て妙である。
事の端とはまさに神の言葉なのだ。
そしてそれらは森羅万象とも謂うのだが、
そこには有難いものも厄介なものもある。
どちらも祈りの対象となる。
一方は感謝への、一方は忌避への。
その祈りを通して、
思いの成就を願うのです。
柿本人麻呂は詠う、
大和の国は言霊のさきはふ国ぞ…、
北畠親房は記す、
大日本(おおやまと)は神の国なり、
と。
・・・・・
聖書はヘブライ語で記されている。
新約聖書はギリシャ語ではあるが。
それらの原語はもとより知らない。
なのに日本語で考えれば、妙に合点がいくのです。
聖書を知らない筈の日本人だが、
なぜか聖書的霊性を生きている。
そう思うのです。
不可思議ですが。
まことに、
まことに、
聖書は世界最古の書物であり、世界最大のベストセラーである。
その組み立ては、どこか古事記に似ている。
最初に神話がある。
世界の成り立ちの話である。
その後、人が登場する。
そこでは預言者(神の言葉を預かる者)の話が主である。
つまり神と人との関わりである。
そしてそれはユダヤの歴史でもある。
神を賛美する詩編と謂うのもあるが、
まあ大体そんなとこです。
・・・・・
最初に神話があるのは、
結局そこから始めるよりないからである。
人間の根である。
この世界に対する根底の思いであり、
すべてはそこから発しているのです。
それを私は霊性と言う。
聖書は謂う。
神は初めに天と地を創った。
天と地とはつまりこの世のすべてです。
すべての「もの」です。
次に光あれと言ったら、そこに光があった。
それが第一日目です。
その後第六日目まで順次創られる。
それらはすべて神の口から出る言葉によって創られた。
そして第七日目に休まれた。
ところで、
私は言葉によって創られたと謂うことに、
俄然興味がわいてくる。
言葉によって創られたのは、
それは「こと」です。
「もの」ではないのです。
「こと」とはものの変化です。
最初に「もの」を創り、次に「こと」を創られた、
とは実に意味深で興味深い。
・・・・・
「こと」とは漢字で書けば、
「言」や「事」であるが、
日本語(音)だけで考えるなら、そこに区別はない。
「言葉」とはつまり「ことのは」であり、
それは神の口から出る声のことだ。
また別の字を当てることもできる。
「ことのは」とは「事の端」とも書ける。
全体を一つと見れば変化は一つだ。
全体を無数の集まりと見れば変化は無数である。
それら一つひとつが事の端である。
「神は細部に宿る」とは言い得て妙である。
事の端とはまさに神の言葉なのだ。
そしてそれらは森羅万象とも謂うのだが、
そこには有難いものも厄介なものもある。
どちらも祈りの対象となる。
一方は感謝への、一方は忌避への。
その祈りを通して、
思いの成就を願うのです。
柿本人麻呂は詠う、
大和の国は言霊のさきはふ国ぞ…、
北畠親房は記す、
大日本(おおやまと)は神の国なり、
と。
・・・・・
聖書はヘブライ語で記されている。
新約聖書はギリシャ語ではあるが。
それらの原語はもとより知らない。
なのに日本語で考えれば、妙に合点がいくのです。
聖書を知らない筈の日本人だが、
なぜか聖書的霊性を生きている。
そう思うのです。
不可思議ですが。
まことに、
まことに、
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