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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

聖書的霊性

2019-11-11 12:10:17 | 日記・エッセイ・コラム
言うまでもないが、
聖書は世界最古の書物であり、世界最大のベストセラーである。
その組み立ては、どこか古事記に似ている。
最初に神話がある。
世界の成り立ちの話である。
その後、人が登場する。
そこでは預言者(神の言葉を預かる者)の話が主である。
つまり神と人との関わりである。
そしてそれはユダヤの歴史でもある。
神を賛美する詩編と謂うのもあるが、
まあ大体そんなとこです。
・・・・・
最初に神話があるのは、
結局そこから始めるよりないからである。
人間の根である。
この世界に対する根底の思いであり、
すべてはそこから発しているのです。
それを私は霊性と言う。
聖書は謂う。
神は初めに天と地を創った。
天と地とはつまりこの世のすべてです。
すべての「もの」です。
次に光あれと言ったら、そこに光があった。
それが第一日目です。
その後第六日目まで順次創られる。
それらはすべて神の口から出る言葉によって創られた。
そして第七日目に休まれた。
ところで、
私は言葉によって創られたと謂うことに、
俄然興味がわいてくる。
言葉によって創られたのは、
それは「こと」です。
「もの」ではないのです。
「こと」とはものの変化です。
最初に「もの」を創り、次に「こと」を創られた、
とは実に意味深で興味深い。
・・・・・
「こと」とは漢字で書けば、
「言」や「事」であるが、
日本語(音)だけで考えるなら、そこに区別はない。
「言葉」とはつまり「ことのは」であり、
それは神の口から出る声のことだ。
また別の字を当てることもできる。
「ことのは」とは「事の端」とも書ける。
全体を一つと見れば変化は一つだ。
全体を無数の集まりと見れば変化は無数である。
それら一つひとつが事の端である。
「神は細部に宿る」とは言い得て妙である。
事の端とはまさに神の言葉なのだ。
そしてそれらは森羅万象とも謂うのだが、
そこには有難いものも厄介なものもある。
どちらも祈りの対象となる。
一方は感謝への、一方は忌避への。
その祈りを通して、
思いの成就を願うのです。
柿本人麻呂は詠う、
大和の国は言霊のさきはふ国ぞ…、
北畠親房は記す、
大日本(おおやまと)は神の国なり、
と。
・・・・・
聖書はヘブライ語で記されている。
新約聖書はギリシャ語ではあるが。
それらの原語はもとより知らない。
なのに日本語で考えれば、妙に合点がいくのです。
聖書を知らない筈の日本人だが、
なぜか聖書的霊性を生きている。
そう思うのです。
不可思議ですが。
まことに、
まことに、

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