日本の霊性はなぜか聖書的である。
聖書を知らない筈なのに。
歴史上日本に宣教師が来たのは、
大きくは二回ある。
一つは戦国時代である。
一つは明治時代以降である。
付け加えれば、敗戦以降がある。
戦勝国がどさくさに紛れて日本をキリスト教化しようとしたのだ。
(これは私の体験上の意見ですが)
どの時代にも信者はできたが、
特段に増加したようではない。
世界的には珍しいことだろう。
・・・・・
戦国時代に実際宣教師がやってきた。
純粋に布教が目的かは分からないが。
そして日本語を学び布教をしていた。
だから中には帰依する者もいたろう。
だが聞くところによれば、結構論破されていたらしい。
それはつまり、皆それなりの霊性を持っていたからだ。
当時の欧米人キリスト者にも引けを取らない、
ということだろう。
信者には大名が多くいたようだ。
それは信仰もあったのだろうが、
実利を求めていたとも謂われる。
また純粋に布教していた宣教師がいたにしても、
結局欧米諸国の野望が露見してしまい、
知っての通りの仕儀となってしまった。
挙句の果ての島原の乱である。
欧米リベラルはそれを弾圧だと言ってるようだが。
彼らは似非信仰者なのに。
否、似非信仰者だからだ。
・・・・・
ところで彼ら宣教師は聖書を残していない。
日本語で伝えていただろうに。
私が知らないだけなのか。
私が知っている聖書は明治以降に翻訳されたものです。
戦前は文語訳だが、今は口語訳もある。
これは聞いた話だが、
それらとは別に漢字で書かれた聖書があると、
それは西本願寺にあるらしい。
寺宝としているとも。
信憑性はどうも…。
ただ漢字で書かれた聖書があるのは事実だ。
その証は八上城跡の石碑である。
明治維新後のいつ頃かは知らないが、
時の毛利侯が八上城陥落時の城主・波多野秀治顕彰のため、
揮毫し彫られたものである。
それは旧約聖書エゼキエル書の一節である。
枯れた骨の復活を記したものです。
実にふさわしい内容である。
その聖書の一節は明治以降のものとは思われない。
すべて漢字(漢文)なのである。
もっと前からあったと思われる。
・・・・・
にしても、その件は特別だろう。
大方の日本人は聖書を知らない。
日本の古い文学にはまったく形跡がない。
でも霊性は聖書的である。
その理由が私には分かる。
明治時代以降は大いに布教されてきた。
それでも信者がちっとも増えないのだ。
敬虔な信者がいるのに、増えないのだ。
それが印(証)である。
青の世界にいる者に青い染料を掛けても色は変わらない。
そういうことだ。
だから事情は今後も変わらないだろう。
つまり、そも聖書的なのだ。
それが根本にある。
聖書を知らない筈なのに。
歴史上日本に宣教師が来たのは、
大きくは二回ある。
一つは戦国時代である。
一つは明治時代以降である。
付け加えれば、敗戦以降がある。
戦勝国がどさくさに紛れて日本をキリスト教化しようとしたのだ。
(これは私の体験上の意見ですが)
どの時代にも信者はできたが、
特段に増加したようではない。
世界的には珍しいことだろう。
・・・・・
戦国時代に実際宣教師がやってきた。
純粋に布教が目的かは分からないが。
そして日本語を学び布教をしていた。
だから中には帰依する者もいたろう。
だが聞くところによれば、結構論破されていたらしい。
それはつまり、皆それなりの霊性を持っていたからだ。
当時の欧米人キリスト者にも引けを取らない、
ということだろう。
信者には大名が多くいたようだ。
それは信仰もあったのだろうが、
実利を求めていたとも謂われる。
また純粋に布教していた宣教師がいたにしても、
結局欧米諸国の野望が露見してしまい、
知っての通りの仕儀となってしまった。
挙句の果ての島原の乱である。
欧米リベラルはそれを弾圧だと言ってるようだが。
彼らは似非信仰者なのに。
否、似非信仰者だからだ。
・・・・・
ところで彼ら宣教師は聖書を残していない。
日本語で伝えていただろうに。
私が知らないだけなのか。
私が知っている聖書は明治以降に翻訳されたものです。
戦前は文語訳だが、今は口語訳もある。
これは聞いた話だが、
それらとは別に漢字で書かれた聖書があると、
それは西本願寺にあるらしい。
寺宝としているとも。
信憑性はどうも…。
ただ漢字で書かれた聖書があるのは事実だ。
その証は八上城跡の石碑である。
明治維新後のいつ頃かは知らないが、
時の毛利侯が八上城陥落時の城主・波多野秀治顕彰のため、
揮毫し彫られたものである。
それは旧約聖書エゼキエル書の一節である。
枯れた骨の復活を記したものです。
実にふさわしい内容である。
その聖書の一節は明治以降のものとは思われない。
すべて漢字(漢文)なのである。
もっと前からあったと思われる。
・・・・・
にしても、その件は特別だろう。
大方の日本人は聖書を知らない。
日本の古い文学にはまったく形跡がない。
でも霊性は聖書的である。
その理由が私には分かる。
明治時代以降は大いに布教されてきた。
それでも信者がちっとも増えないのだ。
敬虔な信者がいるのに、増えないのだ。
それが印(証)である。
青の世界にいる者に青い染料を掛けても色は変わらない。
そういうことだ。
だから事情は今後も変わらないだろう。
つまり、そも聖書的なのだ。
それが根本にある。