ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

霊性の起源

2019-11-04 10:59:45 | 日記・エッセイ・コラム
存在するものには起源がある。
その起源は皆同じである。
この宇宙(の存在)に起源があるとすれば、
そこに存在するものの起源は皆同じである。
今この宇宙は確かに在る。
ただ在る続けるものとして在る。
絶えざる変化とともに。
これが現実である。
・・・・・
起源は本当にあるのか。
それすら分からない。
初めがあるなら終りがある。
でも終りの後には何があるのか。
また始まりがあるのか。
なら振り出しに戻る。
世界と融合していればそれを想わずに済む。
だが離れてしまった。
我を持ってしまった。
だから人間はそれを想わずにはいられない。
霊性の出現である。
霊性はその不可解な間合いを埋めようとする。
そこに現れるのが神話である。
神話は適当な与太話ではなく、
人間にとっては無くてはならないものです。
神話には根拠がないとも云われるが、
この圧倒的な世界を前にして、
人間が最初にとれる方途は、
その初々しい霊性(たましい)に現実を映すことです。
それを見ることです。
そこに出発点がある。
そこから始めている。
・・・・・
有史以前から哲学はあったろう。
特にギリシャ哲学は有名である。
アリストテレスやソクラテスなど今に聞こえる人が数多いる。
彼ら以外にも、そして彼ら以前にも彼ら以降にも。
それは数えきれないほどに。
また近代になっては科学が起こってくる。
ものの動きや変化を観察し、その仕組みを知ろうとする。
大きくは天体観察を通じて宇宙を解明しようする。
小さくは電子や素粒子などを通じて物質を識ろうとする。
現代はまさに科学の時代である。
でもである。
哲学も科学も、そも神話の分派ではないのか。
神話から派生したものではないのか。
とくに自然科学は現実による証が必要だと謂われる。
説(霊性が映したもの)が如何に現実に即しているかの証明だ。
それがあって初めて認められる。
それが証である。
その説も次々に現れる新しい知見によって外される。
それが科学の進歩である。
にしても神ならぬ身です。
五感(すべての感覚)を越えての観察は無理である。
最後は霊性に戻る他ない。
哲学は科学とは真逆で、目の前の現実は扱わない。
内なる現実を扱うのだ。
目の前の現実に感応する内なる現実を。
脳内の現実である。
それは内なる我(の目)を問うということだ。
そしてそれを知ろうとする。
ここに矛盾がある。
では我(の目)を問うところの我(の目)はどこにあるのか。
それは結局同じものだろう。
これではどうにもならない。
さすればである。
最後は神話に帰る。
・・・・・
科学が神話を否定してはならない。
横に置くのはいいとして。
哲学が神話を愚弄してはならない。
基は大切にしましょう。
何はともあれ、
神話は神話として大いに語ろう、
語り伝えられてきた、
その重みのまにまに。