存在するものには起源がある。
その起源は皆同じである。
この宇宙(の存在)に起源があるとすれば、
そこに存在するものの起源は皆同じである。
今この宇宙は確かに在る。
ただ在る続けるものとして在る。
絶えざる変化とともに。
これが現実である。
・・・・・
起源は本当にあるのか。
それすら分からない。
初めがあるなら終りがある。
でも終りの後には何があるのか。
また始まりがあるのか。
なら振り出しに戻る。
世界と融合していればそれを想わずに済む。
だが離れてしまった。
我を持ってしまった。
だから人間はそれを想わずにはいられない。
霊性の出現である。
霊性はその不可解な間合いを埋めようとする。
そこに現れるのが神話である。
神話は適当な与太話ではなく、
人間にとっては無くてはならないものです。
神話には根拠がないとも云われるが、
この圧倒的な世界を前にして、
人間が最初にとれる方途は、
その初々しい霊性(たましい)に現実を映すことです。
それを見ることです。
そこに出発点がある。
そこから始めている。
・・・・・
有史以前から哲学はあったろう。
特にギリシャ哲学は有名である。
アリストテレスやソクラテスなど今に聞こえる人が数多いる。
彼ら以外にも、そして彼ら以前にも彼ら以降にも。
それは数えきれないほどに。
また近代になっては科学が起こってくる。
ものの動きや変化を観察し、その仕組みを知ろうとする。
大きくは天体観察を通じて宇宙を解明しようする。
小さくは電子や素粒子などを通じて物質を識ろうとする。
現代はまさに科学の時代である。
でもである。
哲学も科学も、そも神話の分派ではないのか。
神話から派生したものではないのか。
とくに自然科学は現実による証が必要だと謂われる。
説(霊性が映したもの)が如何に現実に即しているかの証明だ。
それがあって初めて認められる。
それが証である。
その説も次々に現れる新しい知見によって外される。
それが科学の進歩である。
にしても神ならぬ身です。
五感(すべての感覚)を越えての観察は無理である。
最後は霊性に戻る他ない。
哲学は科学とは真逆で、目の前の現実は扱わない。
内なる現実を扱うのだ。
目の前の現実に感応する内なる現実を。
脳内の現実である。
それは内なる我(の目)を問うということだ。
そしてそれを知ろうとする。
ここに矛盾がある。
では我(の目)を問うところの我(の目)はどこにあるのか。
それは結局同じものだろう。
これではどうにもならない。
さすればである。
最後は神話に帰る。
・・・・・
科学が神話を否定してはならない。
横に置くのはいいとして。
哲学が神話を愚弄してはならない。
基は大切にしましょう。
何はともあれ、
神話は神話として大いに語ろう、
語り伝えられてきた、
その重みのまにまに。
その起源は皆同じである。
この宇宙(の存在)に起源があるとすれば、
そこに存在するものの起源は皆同じである。
今この宇宙は確かに在る。
ただ在る続けるものとして在る。
絶えざる変化とともに。
これが現実である。
・・・・・
起源は本当にあるのか。
それすら分からない。
初めがあるなら終りがある。
でも終りの後には何があるのか。
また始まりがあるのか。
なら振り出しに戻る。
世界と融合していればそれを想わずに済む。
だが離れてしまった。
我を持ってしまった。
だから人間はそれを想わずにはいられない。
霊性の出現である。
霊性はその不可解な間合いを埋めようとする。
そこに現れるのが神話である。
神話は適当な与太話ではなく、
人間にとっては無くてはならないものです。
神話には根拠がないとも云われるが、
この圧倒的な世界を前にして、
人間が最初にとれる方途は、
その初々しい霊性(たましい)に現実を映すことです。
それを見ることです。
そこに出発点がある。
そこから始めている。
・・・・・
有史以前から哲学はあったろう。
特にギリシャ哲学は有名である。
アリストテレスやソクラテスなど今に聞こえる人が数多いる。
彼ら以外にも、そして彼ら以前にも彼ら以降にも。
それは数えきれないほどに。
また近代になっては科学が起こってくる。
ものの動きや変化を観察し、その仕組みを知ろうとする。
大きくは天体観察を通じて宇宙を解明しようする。
小さくは電子や素粒子などを通じて物質を識ろうとする。
現代はまさに科学の時代である。
でもである。
哲学も科学も、そも神話の分派ではないのか。
神話から派生したものではないのか。
とくに自然科学は現実による証が必要だと謂われる。
説(霊性が映したもの)が如何に現実に即しているかの証明だ。
それがあって初めて認められる。
それが証である。
その説も次々に現れる新しい知見によって外される。
それが科学の進歩である。
にしても神ならぬ身です。
五感(すべての感覚)を越えての観察は無理である。
最後は霊性に戻る他ない。
哲学は科学とは真逆で、目の前の現実は扱わない。
内なる現実を扱うのだ。
目の前の現実に感応する内なる現実を。
脳内の現実である。
それは内なる我(の目)を問うということだ。
そしてそれを知ろうとする。
ここに矛盾がある。
では我(の目)を問うところの我(の目)はどこにあるのか。
それは結局同じものだろう。
これではどうにもならない。
さすればである。
最後は神話に帰る。
・・・・・
科学が神話を否定してはならない。
横に置くのはいいとして。
哲学が神話を愚弄してはならない。
基は大切にしましょう。
何はともあれ、
神話は神話として大いに語ろう、
語り伝えられてきた、
その重みのまにまに。