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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

神はひかり

2023-03-27 09:20:52 | 日記・エッセイ・コラム
そこで想うのです、
イエスとヨハネのこと。
イエスは荒野での悪魔の試みに答えて言った。
ときのやり取りで最初に放った言葉が印象的、
「人はパンだけで生きるのではなく、
 神の口から出る一つ一つの言葉による」
 と。
ヨハネの言葉も印象的、
それは福音書の冒頭の部分、
「初めに言葉があった、
 言葉は神とともにあった、
 言葉は神であった」
 と。
これらは新約聖書に記されている。
しかして旧約聖書に立脚している。
そしてそれは神の力を示している。
それを「まこと」という。
・・・・・
日本には天照大神がおられる。
ときに天下るニニギノミコトにカガミを与えて言った。
「我を拝むようにカガミを拝め」
 と。
それは鏡をではなく又私をでもないと、
それを私だと思って拝めということで、
そこは意味深である。
カガミ(鏡・鑑)とは自分を写すもの、
それはつまり己を見よということです。
そこには偽りのない己が写し出される。
それを見よということか。
現われたまんまの心魂は、
それは神との接点であり、
そこにはまことがうつる、
それを見よと。
つまりそういうことかと。
ちなみにその所作を祈りという。
ちなみにその行事を祭りという。
そう言うことだが、
大事なのは、
「まこと」を見ることで、
そこに尽きるかと。
それを想う。

カガミを見るとは、
文字通りカガミを見るのだが、
でも物としてのカガミを見るのではない、
カガミに写った自分(己のまこと)を見るのである。
それを捉えるのは耳ではない。
それを捉えるのは目である。
それが捉えるのは光である。
その中にまことを見る。
ここにも妙と彩がある。
言葉を捉える耳は無意識四六時中全面開放、
カガミを見る目は意識的選択的かつ一時的。
面白い、
つまり神はいつでもどこにでも在るのだが、
それを見るか見ないかは人の意思によると。
また一寸それたが、
元に戻る。
仏教では今生の際には仏様が迎えに来ると、
光の雲に乗って。
キリスト教では終末にイエスが再臨すると、
光の雲に乗って。
天照大神はそも光です。
あまてらす光の神です。
地球にとってはそれは太陽である、
だから太陽神なのです。
けれど宇宙で光るは太陽だけではない。
光り輝く星は限りなし。
それらは皆太陽なのだ。
まことに世界(宇宙)はあまねく光で満ちている。
すべてはそこから来て、そこに在り、そこに帰る。
昔の人は、
死ねばどこへ行くのかと問われて、
ときに星になると答えていた。
大きな声では言えないが、
これはまさにしかり。
星は光の発信元。
そこから来て、そこに居て、そこに帰る。
話の筋は通っている。
なにもブレていない。
にしても、
天照大神はなぜか女神である。
だが元は男神だったとも言う。
ちょっと分からない。
とは言え、神に男女の区別はなかろう。
それを分けるはヒトの言葉のなせる技。
でもである、
女こそ命の大本を司るもの、
男は必要ではあるが補完的。
そも命の初めには男女なし、
細胞が分裂して増えるもの。
その体を思えば女こそ命か。
と言うことで女神で良しと。
よしよし、
・・・・・
ちなみに、
ところで、
それが元からか途中からか知らないが、
今はともかく女神である。
そんな女神を最高神として頂いている。
かかる日本にジェンダー問題などない。
もとより男女の違いはあきらか。
肉体的にはそれは歴然であろう。
だから社会的にも文化的にも又。
そこに男らしさ女らしさがある。
そのらしさは固定ではない。
時代とともに変化する。
そんなこと当然である。
しかるに何たることか。
何もかも一緒にしなければとは、
歴史的文化的社会的変遷をすべて否定して。
見苦しいにも程がある。
例えば彼の仏の国では、
結婚という制度そのものに懐疑的で、
事実婚とかが持て囃されていたのに、
その口がLGBTにも結婚を認めろとか。
制度が持つ本来の意義は塵箱に捨て、
もはや狂る狂る八のクルッパ状態か。
それが日本にも伝染して、
何なんだこれは、
う~ん!

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