命は「いき」である。
まさに生きると言うがごとく。
言葉の初めは音(声)である。
「いき」の漢字は「息」であり、これは自らの心と記す。
それは「意」の「気」でもあり、これは音と心と気とで成る。
ここに示される。
息とは空気を振動させ、そこに音(声)を乗せる。
そこに更に心を載せて、ここに言葉が発現する。
まさにまさにである。
それを動詞化すれば「生きる」となる。
だから命はいきである。
これを成すのは肺という臓器。
この臓器は市である。
物(空気=酸素)を集めてそれを捌く。
その集積地の役目をになう。
だからそれを市と謂う。
なるほどなるほど、
ざワールド?
・・・・・
太古の人らはかく想っていた。
息が吹き込まれて命が始まり、
息が引き取られて命が終わる。
そしてその始まりと終わりは、
神様との直接のやり取りだと。
気(心魂)の受け渡しである。
命の定義は知らないし、
何が命かは一概に言えないが、
肺を横に置けば、
もう一つの核心は心臓にあるかと、
だからか心の蔵と記している。
これは物流の大元締めである。
空気=酸素などを運ぶための。
血管という道を通じて血という乗物を動かし。
そも命とは細胞のすべてが動いてるものだが、
心臓と肺臓が最も顕著に動く。
だから心肺停止が取り敢えずその終わりだと。
ほかに脳死というのもあるが、
これはまだ本当の死ではない。
脳死の場合身体の細胞はまだ動いているのだ、
脳の細胞もである。
脳がその機能の一部を失ってるが。
ここで誤解が起こる。
一部の科学者は言う。
先の話とは逆張りで、
脳さえ動いていればそれでいいと、
他の細胞がすべて止まっていても。
それが命の大元であると。
だから脳だけを取り出し、
栄養に満ちた溶液に浸し、
そこに心肺機能を付ける。
さすれば永遠の命ができると。
錯覚も甚だしい。
脳は身体の一部でしかない。
それ自体が生きていても、
それは私の脳であったものであり、
それは私ではないのです。
一部を切り取り、
以って全体だとは言えない。
確かに生きてる間は、
それが最も顕著に私を示す。
想いは脳が発するように見えるから。
それはそうだが、
それは結果としてなのです。
そも全細胞の発意があってこそです。
そういうことだが、
彼らの考えならば、
足を切り取りそれを私だと言っても同じこと。
それとどこが違うのか。
ピント外れも甚だしい。
上記で一部の科学者と言ったが、
現下は彼らが科学界を席巻している、
嘘に嘘を重ねて。
その結果、
コロコロワクワク地球温暖化脱炭素、
コロワクポリコレスッテンコロリン、
という念仏まがいが横行。
ついつられて私も唱える、
コロコロワクワク地球温暖化脱炭素、
コロワクポリコレスッテンコロリン。
いかんいかん、
チン!
・・・・・
ここに言葉がある。
聖書に記されているもの、
旧約聖書エゼキエル書三十七章。
(抜粋)
そこには骨が満ちていた。
はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
彼(主)は私(エゼキエル)に言われた、
「人の子よこれらの骨は生き返ることができるのか」
私は答えた、
「主なる神よあなたはご存知です」
彼はまた私に言われた、
「これらの骨に預言して言え、
枯れた骨よ主の言葉を聞け、
主なる神はこれらの骨にこう言われる、
見よわたしはあなたがたのうちに息を入れて、
あなたがたを生かす、
わたしはあなたがたの上に筋を与え、
肉を生じさせ皮でおおい、
あなたがたのうちに息を与えて生かす」
私は命じられたように預言したが、
私が預言したとき声があった、
見よ動く音があり骨と骨が集まって相つらなった、
私が見ていると、
その上に筋ができ肉が生じ皮がこれをおおったが、
息はその中になかった、
時に彼は私に言われた、
「人の子よ息に預言せよ、息に預言して言え、
主なる神はこう言われる、
息よ四方から吹いて来て、
この殺された者たちの上に吹き、
彼らを生かせ」
そこで私が命じられたように預言すると、
息はこれに入った、
すると彼らは生き、その足で立ち、
はなはだ大いなる群衆となった。
(以上)
想うにこの話は、
息こそが命の始まりだと。
見事な勝手解釈。
よし!
まさに生きると言うがごとく。
言葉の初めは音(声)である。
「いき」の漢字は「息」であり、これは自らの心と記す。
それは「意」の「気」でもあり、これは音と心と気とで成る。
ここに示される。
息とは空気を振動させ、そこに音(声)を乗せる。
そこに更に心を載せて、ここに言葉が発現する。
まさにまさにである。
それを動詞化すれば「生きる」となる。
だから命はいきである。
これを成すのは肺という臓器。
この臓器は市である。
物(空気=酸素)を集めてそれを捌く。
その集積地の役目をになう。
だからそれを市と謂う。
なるほどなるほど、
ざワールド?
・・・・・
太古の人らはかく想っていた。
息が吹き込まれて命が始まり、
息が引き取られて命が終わる。
そしてその始まりと終わりは、
神様との直接のやり取りだと。
気(心魂)の受け渡しである。
命の定義は知らないし、
何が命かは一概に言えないが、
肺を横に置けば、
もう一つの核心は心臓にあるかと、
だからか心の蔵と記している。
これは物流の大元締めである。
空気=酸素などを運ぶための。
血管という道を通じて血という乗物を動かし。
そも命とは細胞のすべてが動いてるものだが、
心臓と肺臓が最も顕著に動く。
だから心肺停止が取り敢えずその終わりだと。
ほかに脳死というのもあるが、
これはまだ本当の死ではない。
脳死の場合身体の細胞はまだ動いているのだ、
脳の細胞もである。
脳がその機能の一部を失ってるが。
ここで誤解が起こる。
一部の科学者は言う。
先の話とは逆張りで、
脳さえ動いていればそれでいいと、
他の細胞がすべて止まっていても。
それが命の大元であると。
だから脳だけを取り出し、
栄養に満ちた溶液に浸し、
そこに心肺機能を付ける。
さすれば永遠の命ができると。
錯覚も甚だしい。
脳は身体の一部でしかない。
それ自体が生きていても、
それは私の脳であったものであり、
それは私ではないのです。
一部を切り取り、
以って全体だとは言えない。
確かに生きてる間は、
それが最も顕著に私を示す。
想いは脳が発するように見えるから。
それはそうだが、
それは結果としてなのです。
そも全細胞の発意があってこそです。
そういうことだが、
彼らの考えならば、
足を切り取りそれを私だと言っても同じこと。
それとどこが違うのか。
ピント外れも甚だしい。
上記で一部の科学者と言ったが、
現下は彼らが科学界を席巻している、
嘘に嘘を重ねて。
その結果、
コロコロワクワク地球温暖化脱炭素、
コロワクポリコレスッテンコロリン、
という念仏まがいが横行。
ついつられて私も唱える、
コロコロワクワク地球温暖化脱炭素、
コロワクポリコレスッテンコロリン。
いかんいかん、
チン!
・・・・・
ここに言葉がある。
聖書に記されているもの、
旧約聖書エゼキエル書三十七章。
(抜粋)
そこには骨が満ちていた。
はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
彼(主)は私(エゼキエル)に言われた、
「人の子よこれらの骨は生き返ることができるのか」
私は答えた、
「主なる神よあなたはご存知です」
彼はまた私に言われた、
「これらの骨に預言して言え、
枯れた骨よ主の言葉を聞け、
主なる神はこれらの骨にこう言われる、
見よわたしはあなたがたのうちに息を入れて、
あなたがたを生かす、
わたしはあなたがたの上に筋を与え、
肉を生じさせ皮でおおい、
あなたがたのうちに息を与えて生かす」
私は命じられたように預言したが、
私が預言したとき声があった、
見よ動く音があり骨と骨が集まって相つらなった、
私が見ていると、
その上に筋ができ肉が生じ皮がこれをおおったが、
息はその中になかった、
時に彼は私に言われた、
「人の子よ息に預言せよ、息に預言して言え、
主なる神はこう言われる、
息よ四方から吹いて来て、
この殺された者たちの上に吹き、
彼らを生かせ」
そこで私が命じられたように預言すると、
息はこれに入った、
すると彼らは生き、その足で立ち、
はなはだ大いなる群衆となった。
(以上)
想うにこの話は、
息こそが命の始まりだと。
見事な勝手解釈。
よし!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます