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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

問う

2025-07-14 09:07:43 | 日記・エッセイ・コラム
生物は現実から生まれ現実に生きる。
現実とは現に在る実(ものごと)のこと。
時と所の現に在る実(ものごと)のこと。
初めに現実があり、そこに命が現れる。
この順序は鶏か卵かではない。
言わずもがな、てか念のため。
そしてその體が持つ全身(もの)全霊(こと)を駆使して生きる。
そしてその命はその種を生きその個を生きる。
その命にとって主体(私)はあっても、
私が在って世界があるのではない。
世界が在って私が在るのです。
私もその一部ではあるが。
それを想うのです。
当然てかそう思う。
・・・・・
生物は全身全霊で現実に向き合う。
そこで生きるからには現実をシキしている。
それは当然のこと。
でもイをシキしている訳ではない。
それを無意識というが、
これは無の意識でなく、これは無意の識である。
つまり意識が無いのではなく、
つまり意のない識なのである。
てかいつもの言葉遊び。
ヒトが言葉を持つ経緯はまったく分からないが、
言葉がどういうものかはある程度。
ヒトは言葉を持って人間になった。
それは現実をイをもってシキして生きるがゆえ。
これはこの地では人間だけである。
他の地にはいても不思議はないが。
てか言葉の初めはただの印である。
このことだけなら大したことではない。
でもこれはこれだけでは留まらないのです。
印がどんどん増えていくのである。
これには勿論限界がある。
しても入替は自由である。
それにこれが凄いことなのだが、
それら印は自ずと繋がることで、
その組み合わせがもう変幻自在、
それが際限なきアヤを生み出す。
これが文化文明を育てる。
してもこれは言葉が持つその質による。
言葉はその印を以って意思疎通を諮るもの、
為に言葉は先ずは問いそしてそれに答える。
これは言葉の基本的作法である。
ここに大きな力が生れる。
だからの表題の問うです。
てか意思疎通を諮るとはいえ、
これは一般的には他者との間のことである。
でも思えば分かるだろう、
その前には必ず自分に問うている、
それが無意識であっても。
一般的にはこれを自問自答という。
てかこれが「考える」ということ。
人間は考える葦である、とは何処かの誰かが言った。
考える猿と言ったほうが実相だが、
これでは興趣に欠けるか。
にしても思うのです、
人間は自分に問う生き物であると。
そしてこれが人間たるの決定的な力となる。
でもこれこそが私を突出させるのです。
他者との意思疎通の場合は概ねその場限り。
それがオトとしての言葉の真骨頂。
でも自問自答の場合は際限なく続けられる。
私と私のキャッチボールはね。
そこでまた浮かぶのです。
何処かで誰かが言った言、我思う故に我あり、です。
この言はズバリこのことを指しているのか。
私と私の問答の中で私が私を見てのつぶやきか。
そう言うことだと思うが、
その内どこかで会ったら聞いてみよう、
あのデカルトさんに。
てかもうちょっと先になるが。
・・・・・
ちなみにここで又想うのです、
標題の問うとは少し離れるが、
言葉にあるもうひとつの特徴、
それは現実の後追いであるということ。
音である言葉は波動でありその場限り。
その波動が脳に刻まれて初めて言葉になる、
その場限りのものが脳に留まるのです。
ときの今の心として、それが念である。
人は尚それを盤石にするため、
書き言葉(文字)をつくった。
そんなこんなで言葉は大きな力を持つ。
してもそれは使い方を違えれば災いをもたらす。
ゆえ言葉には陥穽があると言うのです。
だからである、
言葉のその質を知ろうと、
それを知らねばと。
言葉を以ってなお言葉に捉われず、
まことたる現実を捉える人の言葉、
虚構たる言葉のその構えを糺せば、
ときに言葉は「まこと」ととなる。
これが神の言葉ならば、それは無から有を創る。
人の言葉はそこまでは無理だろう。
ちなみに量子論はその辺りのことを言っているのか。
科学的には無作法で、
よく分かりませんが、
私はそう思うのです。

以下は蛇足。
物と事の究極の境いに至れば、
そこでは事は自由になるのか。
てか物は事の側面に縛られず、
てか事は物の側面に縛られず、
てか物事は完全に一体化して、
ときにまったきフリーになる。
多分その向こうに神様がいる。
てか私の體がそう言っている。
うん!

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