生物は現実から生まれ現実に生きる。
現実とは現に在る実(ものごと)のこと。
時と所の現に在る実(ものごと)のこと。
初めに現実があり、そこに命が現れる。
この順序は鶏か卵かではない。
言わずもがな、てか念のため。
そしてその體が持つ全身(もの)全霊(こと)を駆使して生きる。
そしてその命はその種を生きその個を生きる。
その命にとって主体(私)はあっても、
私が在って世界があるのではない。
世界が在って私が在るのです。
私もその一部ではあるが。
それを想うのです。
当然てかそう思う。
・・・・・
生物は全身全霊で現実に向き合う。
そこで生きるからには現実をシキしている。
それは当然のこと。
でもイをシキしている訳ではない。
それを無意識というが、
これは無の意識でなく、これは無意の識である。
つまり意識が無いのではなく、
つまり意のない識なのである。
てかいつもの言葉遊び。
ヒトが言葉を持つ経緯はまったく分からないが、
言葉がどういうものかはある程度。
ヒトは言葉を持って人間になった。
それは現実をイをもってシキして生きるがゆえ。
これはこの地では人間だけである。
他の地にはいても不思議はないが。
てか言葉の初めはただの印である。
このことだけなら大したことではない。
でもこれはこれだけでは留まらないのです。
印がどんどん増えていくのである。
これには勿論限界がある。
しても入替は自由である。
それにこれが凄いことなのだが、
それら印は自ずと繋がることで、
その組み合わせがもう変幻自在、
それが際限なきアヤを生み出す。
これが文化文明を育てる。
してもこれは言葉が持つその質による。
言葉はその印を以って意思疎通を諮るもの、
為に言葉は先ずは問いそしてそれに答える。
これは言葉の基本的作法である。
ここに大きな力が生れる。
だからの表題の問うです。
てか意思疎通を諮るとはいえ、
これは一般的には他者との間のことである。
でも思えば分かるだろう、
その前には必ず自分に問うている、
それが無意識であっても。
一般的にはこれを自問自答という。
てかこれが「考える」ということ。
人間は考える葦である、とは何処かの誰かが言った。
考える猿と言ったほうが実相だが、
これでは興趣に欠けるか。
にしても思うのです、
人間は自分に問う生き物であると。
そしてこれが人間たるの決定的な力となる。
でもこれこそが私を突出させるのです。
他者との意思疎通の場合は概ねその場限り。
それがオトとしての言葉の真骨頂。
でも自問自答の場合は際限なく続けられる。
私と私のキャッチボールはね。
そこでまた浮かぶのです。
何処かで誰かが言った言、我思う故に我あり、です。
この言はズバリこのことを指しているのか。
私と私の問答の中で私が私を見てのつぶやきか。
そう言うことだと思うが、
その内どこかで会ったら聞いてみよう、
あのデカルトさんに。
てかもうちょっと先になるが。
・・・・・
ちなみにここで又想うのです、
標題の問うとは少し離れるが、
言葉にあるもうひとつの特徴、
それは現実の後追いであるということ。
音である言葉は波動でありその場限り。
その波動が脳に刻まれて初めて言葉になる、
その場限りのものが脳に留まるのです。
ときの今の心として、それが念である。
人は尚それを盤石にするため、
書き言葉(文字)をつくった。
そんなこんなで言葉は大きな力を持つ。
してもそれは使い方を違えれば災いをもたらす。
ゆえ言葉には陥穽があると言うのです。
だからである、
言葉のその質を知ろうと、
それを知らねばと。
言葉を以ってなお言葉に捉われず、
まことたる現実を捉える人の言葉、
虚構たる言葉のその構えを糺せば、
ときに言葉は「まこと」ととなる。
これが神の言葉ならば、それは無から有を創る。
人の言葉はそこまでは無理だろう。
ちなみに量子論はその辺りのことを言っているのか。
科学的には無作法で、
よく分かりませんが、
私はそう思うのです。
・
以下は蛇足。
物と事の究極の境いに至れば、
そこでは事は自由になるのか。
てか物は事の側面に縛られず、
てか事は物の側面に縛られず、
てか物事は完全に一体化して、
ときにまったきフリーになる。
多分その向こうに神様がいる。
てか私の體がそう言っている。
うん!
現実とは現に在る実(ものごと)のこと。
時と所の現に在る実(ものごと)のこと。
初めに現実があり、そこに命が現れる。
この順序は鶏か卵かではない。
言わずもがな、てか念のため。
そしてその體が持つ全身(もの)全霊(こと)を駆使して生きる。
そしてその命はその種を生きその個を生きる。
その命にとって主体(私)はあっても、
私が在って世界があるのではない。
世界が在って私が在るのです。
私もその一部ではあるが。
それを想うのです。
当然てかそう思う。
・・・・・
生物は全身全霊で現実に向き合う。
そこで生きるからには現実をシキしている。
それは当然のこと。
でもイをシキしている訳ではない。
それを無意識というが、
これは無の意識でなく、これは無意の識である。
つまり意識が無いのではなく、
つまり意のない識なのである。
てかいつもの言葉遊び。
ヒトが言葉を持つ経緯はまったく分からないが、
言葉がどういうものかはある程度。
ヒトは言葉を持って人間になった。
それは現実をイをもってシキして生きるがゆえ。
これはこの地では人間だけである。
他の地にはいても不思議はないが。
てか言葉の初めはただの印である。
このことだけなら大したことではない。
でもこれはこれだけでは留まらないのです。
印がどんどん増えていくのである。
これには勿論限界がある。
しても入替は自由である。
それにこれが凄いことなのだが、
それら印は自ずと繋がることで、
その組み合わせがもう変幻自在、
それが際限なきアヤを生み出す。
これが文化文明を育てる。
してもこれは言葉が持つその質による。
言葉はその印を以って意思疎通を諮るもの、
為に言葉は先ずは問いそしてそれに答える。
これは言葉の基本的作法である。
ここに大きな力が生れる。
だからの表題の問うです。
てか意思疎通を諮るとはいえ、
これは一般的には他者との間のことである。
でも思えば分かるだろう、
その前には必ず自分に問うている、
それが無意識であっても。
一般的にはこれを自問自答という。
てかこれが「考える」ということ。
人間は考える葦である、とは何処かの誰かが言った。
考える猿と言ったほうが実相だが、
これでは興趣に欠けるか。
にしても思うのです、
人間は自分に問う生き物であると。
そしてこれが人間たるの決定的な力となる。
でもこれこそが私を突出させるのです。
他者との意思疎通の場合は概ねその場限り。
それがオトとしての言葉の真骨頂。
でも自問自答の場合は際限なく続けられる。
私と私のキャッチボールはね。
そこでまた浮かぶのです。
何処かで誰かが言った言、我思う故に我あり、です。
この言はズバリこのことを指しているのか。
私と私の問答の中で私が私を見てのつぶやきか。
そう言うことだと思うが、
その内どこかで会ったら聞いてみよう、
あのデカルトさんに。
てかもうちょっと先になるが。
・・・・・
ちなみにここで又想うのです、
標題の問うとは少し離れるが、
言葉にあるもうひとつの特徴、
それは現実の後追いであるということ。
音である言葉は波動でありその場限り。
その波動が脳に刻まれて初めて言葉になる、
その場限りのものが脳に留まるのです。
ときの今の心として、それが念である。
人は尚それを盤石にするため、
書き言葉(文字)をつくった。
そんなこんなで言葉は大きな力を持つ。
してもそれは使い方を違えれば災いをもたらす。
ゆえ言葉には陥穽があると言うのです。
だからである、
言葉のその質を知ろうと、
それを知らねばと。
言葉を以ってなお言葉に捉われず、
まことたる現実を捉える人の言葉、
虚構たる言葉のその構えを糺せば、
ときに言葉は「まこと」ととなる。
これが神の言葉ならば、それは無から有を創る。
人の言葉はそこまでは無理だろう。
ちなみに量子論はその辺りのことを言っているのか。
科学的には無作法で、
よく分かりませんが、
私はそう思うのです。
・
以下は蛇足。
物と事の究極の境いに至れば、
そこでは事は自由になるのか。
てか物は事の側面に縛られず、
てか事は物の側面に縛られず、
てか物事は完全に一体化して、
ときにまったきフリーになる。
多分その向こうに神様がいる。
てか私の體がそう言っている。
うん!
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