ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

祈り主

2015-06-30 15:04:03 | 日記・エッセイ・コラム
日本には祈り主がいる。
もちろん、天皇である。
世界ではどうだろうか。
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欧米はキリスト教国である。
近年は中東などからの移民がいるので、
国民全部がキリスト教徒ではないが。
でも、もともとはほとんどがキリスト教徒である。
いろいろ宗派もあるだろうが。
大きくはカトリックとプロテスタントである。
さらに東欧からロシアにかけては東方正教会というのがある。
キリスト教といえばバチカンにローマ法王庁があり、
そこにはローマ法王がいる。
バチカンはカトリックの総本山なのだが、
プロテスタントや東方正教会にとっても、
直接的ではないにしても関わりはあろう。
ならば、キリスト教にとってはローマ法王が祈り主なのか。
一応そうだろうとは思うが、ちょっと違うような気もする。
むしろ、組織を束ねる主ではないのか。
漏れ聞くところではあるが、
やってることはどうも胡散臭い。
祈り主的ではあるのだが。
・・・・・
中東などのイスラム世界はどうだろう。
近年やや宗教離れの傾向がある欧米に比べ、
信仰心は高そうだ。
一日に何回もお祈りをする。
イスラム寺院(モスク)への参詣も多い。
でもイスラム教には祈り主がいないようだ。
指導者は沢山いるのだが。
そのせいか、内部で揉め事が多い。
特にスンニ派とシーハ派の確執が酷い。
これは歴史的な問題らしい。
ともかくイスラム世界には、
個々人の祈りはあるのだが、
祈り主(祭祀王)はいないようだ。
それが混乱の一因か。
・・・・・
もう一つ、大きな世界がある。
中華世界である。
具体的には中韓である。
かたや名ばかりの共産主義国家
かたや名ばかりの自由主義国家、
どちらも騙りの国である。
どちらにしても言えるのは、
共に祈りが無いことである。
そこが共通している。
祈りが無いというのは、
いざというときの歯止めがないということだ。
そういう世界である。
その有様を彼らは易姓革命と言っている。
つまり強い者勝の世界である。



















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