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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

覇の道と王の道

2018-05-07 12:32:28 | 日記・エッセイ・コラム
欧米の個人主義は覇道に陥りやすい。
自分が在って世界が在る、のだから。
自分中心になりやすいのだ。
てか、自分中心である。
だからこそ、所謂近代革命が起こったとも謂える。
王侯貴族だけが特権を享受し、他は奴隷か奴隷のごとしなのだから。
一般市民が力を持ってくれば、疑問が出てくるのは必定である。
結果「自由・平等・友愛」や「人権」という言葉が出てきたのである。
キリスト教という宗教的風土もあって。
でも注意すべきは博愛ではなく友愛であるということだ。
あくまで仲間内だけである。
根が個人主義だから、そこが限界である。
・・・・・
だから、苛烈な植民地支配も意に介さない。
何しろ自分が在って、世界が在るのだから。
力があれば世界は自分の思いのままである。
征服したもの勝ちなのだ。
だから覇権争いが起きる。
力のない被植民地はもっぱら蹂躙されるまま。
力のある者同士では争いが絶えない。
時に妥協して適当に支配領域の線を引く。
個人主義の当然の帰結である。
何度でも言うが、自分が在って世界があるのだ。
世界は自分の為に在るのだ。
その意識から逃れられない。
・・・・・
シナ(や朝鮮)はもっと酷い。
彼らも個人主義であるのだが、その上に中華思想があるのだ。
自分中心の上に更に自分中心なのである。
まったき力の世界であり、力のない者はひたすら従うのみ。
事大主義も韜光養晦もそれであり、常に日和見なのである。
だから中央に力がある間は何とか治まるが、力がなくなれば泥沼となる。
それが彼らの歴史である。
もともとは彼らにも信仰があったのだろうが、
今や欧米のような信仰の根もなく、
自由や平等などという言葉は使っても、
そこに意味などまったくない。
あるのはもっぱら自分の都合だけ。
その点は欧米より始末が悪い。
・・・・・
日本は違う。
個人主義ではないのだ。
なら集団主義なのか。
そうとも言えるが、
それよりも、
場中心主義とでも言ったほうがいいだろう。
自分が在るのは自分の力によるのではない。
場があってこそである。
場から生まれ、場に生かされ、そして場に立つ。
自分と場は一体なのだ。
場とは世間や自然を含む、この世界のすべてである。
考えたら分かるだろう、
欧米やシナの発想こそ偏っているのであり、
日本の発想は現実であり真理である。
ゆえにこそ日本に覇道はない。
王道あるのみ。
その象徴(心柱)が天皇である。
・・・・・
先の戦争では欧米は誤解をしていた。
いやむしろ知ってて誤解したのかも。
日本には覇道がないのに。
大東亜共栄圏とは覇道による支配ではない。
棲み分けによる共生とその上での緩やかな連帯、
そんな王道の世界を目指したのである。
戦前の日本人はそれを理解していた。
だからこそ硫黄島や沖縄などで命を賭して戦ったのである。
自分(命)を守ると場(国)を守るとは同義であり、
そのことに殉じたのである。
祈念あるのみ。

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