リベラルの嘘はいろいろあるが、
てかそのほとんどが嘘であるが、
それはいつも偽善に塗れている。
人の言葉は虚構であるとはいつも言っている。
それが嘘を免れるはその構えによる。
神の言葉つまり現実に如何に依拠しているか、
そのことによる。
てかそのことに尽きるかと。
人類がまだ地球上に現われる前にあったのは現実、
人類がこの地球上から消えてもそこにあるは現実、
現実はすべてである。
その神の事の場にある現実に対峙して、
ヒトは「人の事の場」を創る。
人類はそこに天と地を認めた。
人類はそこに光を認めた。
そしてそこに「ものごと」を認めた。
さらにそこにあるさまざまな違いを認めた。
それを分別(ふんべつ)と謂う。
それは分別(ぶんべつ)と謂う短絡的なものではない。
それはゴミではないのだ。
それは鮮烈で決定的な違いから、
一寸した微妙な違いまで、
分別できっるものに印(しるし)を付けて行った。
その印が言葉である。
ゆえ言葉は分別(ふんべつ)である。
ゆえ言葉は分別の積み重ねである。
ゆえ「こと」である言葉は歴史である。
ゆえ「こと」である言葉は伝統である。
ゆえ「こと」である言葉は文化である。
それは単なる只今の「こと」ではない、
過去と未来を包含した只今の「こと」である。
言葉を生きるとはそれを想うこと。
リベラルはそんな言葉を壊す。
過去と未来を閉じ込めて。
それが人間をこわす。
それを知らねば。
・・・・・
だから今まで言っていたのです。
これからも言い続けます、それがなくなるまで。
ひとつ今世界の嘘と狂気の大元、
一つはリベラル、一つは中華思想、一つは原理主義、
大きく言ってこの三つがあると。
これらはすべて言葉に関わっているもの。
やはり一番の問題は言葉なのだ。
ひとつリベラルの大嘘、
てか今世界を直接牛耳っているのはリベラルである、
その彼らが掲げているプロパガンダ、
それを私は、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
と言っている。
これはもう敢えて説明の要なし。
してもここで言いたいのはポリコレ、
それも男女にかかわること、
ここで分別が消されている、
このことが特に不快なのだ。
ポリコレとはまさに言葉の技である。
てかリベラルの本義がまさにそこに。
人は分別を持ち言葉を創り、
以って違いを知り、現実を知識してきた。
生物は無性生殖から有性生殖へと大きく転換。
その方が生存に有利だから。
それは植物もですが動物なら尚あきらか。
その動物にはいろんな種がある。
魚類や昆虫から哺乳類まで。
そこで思うのです。
雌雄ってのはこれは決定的な分別である。
種をも超えた決定的な違いです。
それを同じだとは如何。
何とも面妖な?
これに関わる災いの始まりは男女共同参画か。
人類はその初めから男女共同参画である。
それを敢えて言う理由がどこにある。
次に女性の社会進出という話し。
これも意味不明、家庭は社会の外にあるのか、
家庭は社会を繋ぐもの社会を成立させるもの、
それは命の使命である命を繋ぐための礎です。
それが社会でないとは?
てかこれを維持するのが社会の要諦かと。
女性の社会進出とはようするに、
どこでどう関わるかだけのこと。
そも人間は皆社会的動物である。
ちなみに唐突だが、
ここで想うのです、与謝野晶子の歌を、
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家、
これは生命の核心を歌っている、
悠久の生命の核心を、女の心で。
そう想うのです、
実に素晴らしい。
ここにはつまらない理屈はない。
ポリコレは一切ありません。
ハイ!
・・・・・
今喧しいのは選択的夫婦別姓である。
ひとつの家庭の印は当然一つでいい。
姓をその印とするならそれはひとつ。
ゆえ意味が分からない。
夫婦別姓とは何なんだ。
てかそこになお選択的と付ける。
欺瞞の上にもなお欺瞞を重ねて。
てかシナ朝鮮の夫婦別姓は意味が違うと。
アレは家庭を指しているのではない。
アレは血統を指しているのです。
母は父方には決してなれないのです。
思えば今の日本に知識人はいるのか、
思えば思うほどに情けない、
想えば皇室には家庭がない、
てか庶民の言う家庭はない。
そこに在るのはすべての家庭を包むもの、朝庭である。
ゆえ皇室の方々には姓がないのです。
そのかわりにか宮号がある。
しても陛下にはそれもない。
而して陛下は二人あられる。
天皇陛下と皇后陛下である。
真の芯として。
それを想うのです。
てかてかしかじかであるが、
ともかく分別を取り戻そう、
しかして言葉を取り戻そう、
言葉を持ってこその人間であり、
ときに捉えた現実への想い、
ときの鮮烈な想いを持って。
と常々思っている。
うん!
てかそのほとんどが嘘であるが、
それはいつも偽善に塗れている。
人の言葉は虚構であるとはいつも言っている。
それが嘘を免れるはその構えによる。
神の言葉つまり現実に如何に依拠しているか、
そのことによる。
てかそのことに尽きるかと。
人類がまだ地球上に現われる前にあったのは現実、
人類がこの地球上から消えてもそこにあるは現実、
現実はすべてである。
その神の事の場にある現実に対峙して、
ヒトは「人の事の場」を創る。
人類はそこに天と地を認めた。
人類はそこに光を認めた。
そしてそこに「ものごと」を認めた。
さらにそこにあるさまざまな違いを認めた。
それを分別(ふんべつ)と謂う。
それは分別(ぶんべつ)と謂う短絡的なものではない。
それはゴミではないのだ。
それは鮮烈で決定的な違いから、
一寸した微妙な違いまで、
分別できっるものに印(しるし)を付けて行った。
その印が言葉である。
ゆえ言葉は分別(ふんべつ)である。
ゆえ言葉は分別の積み重ねである。
ゆえ「こと」である言葉は歴史である。
ゆえ「こと」である言葉は伝統である。
ゆえ「こと」である言葉は文化である。
それは単なる只今の「こと」ではない、
過去と未来を包含した只今の「こと」である。
言葉を生きるとはそれを想うこと。
リベラルはそんな言葉を壊す。
過去と未来を閉じ込めて。
それが人間をこわす。
それを知らねば。
・・・・・
だから今まで言っていたのです。
これからも言い続けます、それがなくなるまで。
ひとつ今世界の嘘と狂気の大元、
一つはリベラル、一つは中華思想、一つは原理主義、
大きく言ってこの三つがあると。
これらはすべて言葉に関わっているもの。
やはり一番の問題は言葉なのだ。
ひとつリベラルの大嘘、
てか今世界を直接牛耳っているのはリベラルである、
その彼らが掲げているプロパガンダ、
それを私は、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
と言っている。
これはもう敢えて説明の要なし。
してもここで言いたいのはポリコレ、
それも男女にかかわること、
ここで分別が消されている、
このことが特に不快なのだ。
ポリコレとはまさに言葉の技である。
てかリベラルの本義がまさにそこに。
人は分別を持ち言葉を創り、
以って違いを知り、現実を知識してきた。
生物は無性生殖から有性生殖へと大きく転換。
その方が生存に有利だから。
それは植物もですが動物なら尚あきらか。
その動物にはいろんな種がある。
魚類や昆虫から哺乳類まで。
そこで思うのです。
雌雄ってのはこれは決定的な分別である。
種をも超えた決定的な違いです。
それを同じだとは如何。
何とも面妖な?
これに関わる災いの始まりは男女共同参画か。
人類はその初めから男女共同参画である。
それを敢えて言う理由がどこにある。
次に女性の社会進出という話し。
これも意味不明、家庭は社会の外にあるのか、
家庭は社会を繋ぐもの社会を成立させるもの、
それは命の使命である命を繋ぐための礎です。
それが社会でないとは?
てかこれを維持するのが社会の要諦かと。
女性の社会進出とはようするに、
どこでどう関わるかだけのこと。
そも人間は皆社会的動物である。
ちなみに唐突だが、
ここで想うのです、与謝野晶子の歌を、
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家、
これは生命の核心を歌っている、
悠久の生命の核心を、女の心で。
そう想うのです、
実に素晴らしい。
ここにはつまらない理屈はない。
ポリコレは一切ありません。
ハイ!
・・・・・
今喧しいのは選択的夫婦別姓である。
ひとつの家庭の印は当然一つでいい。
姓をその印とするならそれはひとつ。
ゆえ意味が分からない。
夫婦別姓とは何なんだ。
てかそこになお選択的と付ける。
欺瞞の上にもなお欺瞞を重ねて。
てかシナ朝鮮の夫婦別姓は意味が違うと。
アレは家庭を指しているのではない。
アレは血統を指しているのです。
母は父方には決してなれないのです。
思えば今の日本に知識人はいるのか、
思えば思うほどに情けない、
想えば皇室には家庭がない、
てか庶民の言う家庭はない。
そこに在るのはすべての家庭を包むもの、朝庭である。
ゆえ皇室の方々には姓がないのです。
そのかわりにか宮号がある。
しても陛下にはそれもない。
而して陛下は二人あられる。
天皇陛下と皇后陛下である。
真の芯として。
それを想うのです。
てかてかしかじかであるが、
ともかく分別を取り戻そう、
しかして言葉を取り戻そう、
言葉を持ってこその人間であり、
ときに捉えた現実への想い、
ときの鮮烈な想いを持って。
と常々思っている。
うん!
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