ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

追記

2016-03-03 13:50:21 | 日記・エッセイ・コラム
モーセはエジプトを出て、荒野をさまよった。
そこで神に出会う。
その時、神から言葉を預かる。
モーセはそれが神の言葉であることの証のため、
御名を教えてほしいと請う。
神は言った、「Iam 」と。
英語ではそう表記されている。
日本語では「私は在る」である。
文語体では「在りて在るもの」と訳されていた。
それはつまり、
すべての時・すべての場所に在るもの、
ということだ。
それが御名だと。
これは聖書の出エジプト記にある。
今、私が言う「一分の一」はこれである。
唯「在る」であり、それが部分であってもだ。
全体が(全体分の全体は)一としても、
部分もまた(部分分の部分は)一なのである。
在るものは在るがままに。
人の都合や計らいなどは無用。
それが日本の根である。
惟神(かむながら)の道・自然(じねん)の道。
とはいえ、人のことは人が計らうのは止むを得ない。
人分の人も一なのだから。
私分の私もまた同じ。
・・・・・
だから、日本は混乱しない。
世界がどうあれ。
一分の一は一である。
分母と分子が同じであればどこまでも一である。
そういう世界では混乱はない。
小競り合いや諍いがまったく無い訳ではないが。
世界が混乱するのは、それが分からないからだ。
欧米はもともとキリスト教国であり信仰がある。
だが、人は何でもできると錯覚した。
人分の無限大はつまり無限大である。
人は人のままでいいのに。
そのままで神的なのに。
それをまんま神になろうとでも言うのか。
それでは混乱が治まることはない。
シナ・朝鮮はどうだろう。
彼らに信仰はない。
大いなる者への信仰はない。
人のせめぎ合いがあるだけだ。
生きるためには、
安寧に生きるためには、
常に人より上に立たねばならない。
為にその事に奔走する。
つまり、人分の人+αを求める。
それは一の世界ではない。
はなはだ割り切れない世界である。
だから、混乱が治まることはない。
・・・・・
結果である。
欧米は平和の為に権力の集中を求める。
力による一極支配である。
その為に争う。
だが、それでは争いが絶えることはない。
全体分の全体は一だが、
全体分の部分は一ではないから。
不満が無くならない。
だから、どこまでも争うことになる。
シナ・朝鮮は論外である。
彼らはそもそも平和など求めない。
自分が有利であることを欲するだけだ。
そのために力を使う。
為に力が弱いときは平気で付き従う。
言われるところの、
中華思想とそれに一対の事大主義がそれである。
日本は違う。
一分の一の世界は棲み分けである。
棲み分けによる共生である。
その上で緩やかに連帯する。
これが日本の平和主義である。
ちなみに、
戦後日本のいわゆる平和主義は、
まやかしでしかない。

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