個人主義というのが分からない。
何が分からないって、言葉の意味ではない。
何というのかその捉え方である。
そも違和感があるのです。
命の行動単位として個人はある。
個が行動単位とは人に限らない。
すべての生命は行動に主体たる単位がある。
特に動物はそうです。
それはそうですよね。
そこに主義を付ける。
てかその主義が個人をゆがめる。
そのことがです。
主義とは正に言葉の本質である。
それが現実を歪めるのです。
歪めてなお良しとする。
ここに主客が転倒、
亡霊が現れる。
・・・・・
個人は個人として生きている、取り敢えず。
でも個人だけで生きているのではない。
他人なくして存在しえない。
他人とは同種の存在のこと。
ちなみに種が一つではこれも生きていけない。
動物種は植物種なくして生きていけない。
植物種は大地なくしては生きていけない。
そして大地(水と炭素)だけでなく光も。
そしてその他諸々を含めそこに場がある。
その場に生きているのです。
その場の巡りの中で生き続けている、
それが命である。
こんなことは当り前で疑いようなし。
数学で言えば1+1は2である。
なのに歪めるのです。
個人は取り敢えず個人で生きている。
そこにはそれを動かす力がある。
それはその個人のイである。
人は言葉を持ってそのイをシキする。
これが言葉と謂うものです。
これが厄介の始まりである。
理解と誤解は同じもの、
それを心得ていればいいのだが、
それを心得ず、
シキが突出させた我に任せれば、
それを自分の都合で一方的に固定させる。
そして方便を真理して譲らない。
これが嘘と狂気の因である。
だから言うのです。
現下の世界を歪めているのは知識人だと。
言葉を生業としている者の仕業だと。
勿論全員ではない。
でも知らず知らず取り込まれる。
それを思うのです。
最後は庶民が頼りかな。
現実をまんまに生きる庶民です。
自ずから然りに生きる庶民です。
石や木や虫らともイを通わせる庶民です。
ちなみに市民ではなく庶民です。
市民という言葉は好きじゃない。
我を特別だとする心が嫌だから。
てか又逸れてきた。
個にはそこに命のイがある。
個が倒れたら命はこわれる。
為に個は立たねばならない。
それが大事ということなら、
個人主義に何の問題もない。
しても個は個だけで生きてる訳ではない、
個々の命(集団)があってこそなのです。
問題はこの先です。
個人と集団は対立するものではない。
ヒトの細胞(個)とその體を思えばあきらか。
調和(健康)が大事ということです。
なのに今の個人主義は我が突出する。
それを良しとして集団を対立軸に据える、
そして調和を損ない利己主義になる。
そんな個人主義が嫌いなんですワナ。
そうなんですワナ、
ワナワナ!
・・・・・
言葉はつまりは「こと」である。
ことは流れであり、
これは「もの」が流れることのさま。
ゆえ言葉を話すとは物語りすること。
物語りを文字で著わせばそれが歴史。
文字が創られた以降は、
言葉はそれ自体が歴史となった。
言語はその中に既に歴史が内包されている。
言語は歴史であり伝統でありまさに文化である。
しかして、
日本にはそも個人主義はなかった。
そういう概念が不要であった。
現実を生きるに不要であった。
ちなみに個人主義には自由とか人権が付き纏う。
自由も人権も日本には馴染まない。
してもこれは日本人が創ったもの、
原語は欧米であったが。
自由とはフリーダムのことか。
欧米のフリーダムは奴隷制度が生み出したもの。
奴隷からの解放のために必要であった。
その理論武装として創られたのが人権。
それが欧米の歴史です。
それが欧米の言語です。
何を言いたいのかと言えば、
日本には奴隷はいなかったということ。
役割分担はあってもすべからくが人間であった。
すべてが自由人であったのです。
ゆえ人権という言葉もなかった。
一体誰に人権を主張するんや、犬や猫にか。
てか同じ人間にそんなもん必要ないやろが。
てか、
自由という言葉がこのことを示している。
自由とは「自(おのれ)の由(よし)」である。
この由(よし)とは自分が自分であることの根拠とでも。
ゆえ自由とは「自分が自分を生きる」と謂うだけのこと。
個人としてもはたまた集団の一員としても。
それだけのことである。
これをフリーダムに宛てたのです。
素晴しいです、まことにまことに。
これが日本である。
個人主義という言葉は本来は不要。
まあ翻訳語としてはあってもいい。
というほどのもの。
だから何度でも言うのです、
言葉には注意しようと、
ホントにホントの、
ホン、トホホ。
何が分からないって、言葉の意味ではない。
何というのかその捉え方である。
そも違和感があるのです。
命の行動単位として個人はある。
個が行動単位とは人に限らない。
すべての生命は行動に主体たる単位がある。
特に動物はそうです。
それはそうですよね。
そこに主義を付ける。
てかその主義が個人をゆがめる。
そのことがです。
主義とは正に言葉の本質である。
それが現実を歪めるのです。
歪めてなお良しとする。
ここに主客が転倒、
亡霊が現れる。
・・・・・
個人は個人として生きている、取り敢えず。
でも個人だけで生きているのではない。
他人なくして存在しえない。
他人とは同種の存在のこと。
ちなみに種が一つではこれも生きていけない。
動物種は植物種なくして生きていけない。
植物種は大地なくしては生きていけない。
そして大地(水と炭素)だけでなく光も。
そしてその他諸々を含めそこに場がある。
その場に生きているのです。
その場の巡りの中で生き続けている、
それが命である。
こんなことは当り前で疑いようなし。
数学で言えば1+1は2である。
なのに歪めるのです。
個人は取り敢えず個人で生きている。
そこにはそれを動かす力がある。
それはその個人のイである。
人は言葉を持ってそのイをシキする。
これが言葉と謂うものです。
これが厄介の始まりである。
理解と誤解は同じもの、
それを心得ていればいいのだが、
それを心得ず、
シキが突出させた我に任せれば、
それを自分の都合で一方的に固定させる。
そして方便を真理して譲らない。
これが嘘と狂気の因である。
だから言うのです。
現下の世界を歪めているのは知識人だと。
言葉を生業としている者の仕業だと。
勿論全員ではない。
でも知らず知らず取り込まれる。
それを思うのです。
最後は庶民が頼りかな。
現実をまんまに生きる庶民です。
自ずから然りに生きる庶民です。
石や木や虫らともイを通わせる庶民です。
ちなみに市民ではなく庶民です。
市民という言葉は好きじゃない。
我を特別だとする心が嫌だから。
てか又逸れてきた。
個にはそこに命のイがある。
個が倒れたら命はこわれる。
為に個は立たねばならない。
それが大事ということなら、
個人主義に何の問題もない。
しても個は個だけで生きてる訳ではない、
個々の命(集団)があってこそなのです。
問題はこの先です。
個人と集団は対立するものではない。
ヒトの細胞(個)とその體を思えばあきらか。
調和(健康)が大事ということです。
なのに今の個人主義は我が突出する。
それを良しとして集団を対立軸に据える、
そして調和を損ない利己主義になる。
そんな個人主義が嫌いなんですワナ。
そうなんですワナ、
ワナワナ!
・・・・・
言葉はつまりは「こと」である。
ことは流れであり、
これは「もの」が流れることのさま。
ゆえ言葉を話すとは物語りすること。
物語りを文字で著わせばそれが歴史。
文字が創られた以降は、
言葉はそれ自体が歴史となった。
言語はその中に既に歴史が内包されている。
言語は歴史であり伝統でありまさに文化である。
しかして、
日本にはそも個人主義はなかった。
そういう概念が不要であった。
現実を生きるに不要であった。
ちなみに個人主義には自由とか人権が付き纏う。
自由も人権も日本には馴染まない。
してもこれは日本人が創ったもの、
原語は欧米であったが。
自由とはフリーダムのことか。
欧米のフリーダムは奴隷制度が生み出したもの。
奴隷からの解放のために必要であった。
その理論武装として創られたのが人権。
それが欧米の歴史です。
それが欧米の言語です。
何を言いたいのかと言えば、
日本には奴隷はいなかったということ。
役割分担はあってもすべからくが人間であった。
すべてが自由人であったのです。
ゆえ人権という言葉もなかった。
一体誰に人権を主張するんや、犬や猫にか。
てか同じ人間にそんなもん必要ないやろが。
てか、
自由という言葉がこのことを示している。
自由とは「自(おのれ)の由(よし)」である。
この由(よし)とは自分が自分であることの根拠とでも。
ゆえ自由とは「自分が自分を生きる」と謂うだけのこと。
個人としてもはたまた集団の一員としても。
それだけのことである。
これをフリーダムに宛てたのです。
素晴しいです、まことにまことに。
これが日本である。
個人主義という言葉は本来は不要。
まあ翻訳語としてはあってもいい。
というほどのもの。
だから何度でも言うのです、
言葉には注意しようと、
ホントにホントの、
ホン、トホホ。
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