ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

一分の一

2016-02-29 13:37:52 | 日記・エッセイ・コラム
一分の一は一である。
二分の二も一である。
分母と分子が同じなら皆一である。
兆分の兆も同じだ。
余りにも当たり前である。
言うのもアホらしい。
が、
あえて言っている。
・・・・・・
これは日本の思想である。
日本人の思いである。
人分の人は一である。(人÷人=1)
猫分の猫も一である。(猫÷猫=1)
鳥分の鳥も魚分の魚も同じ。
男分の男も女分の女も同じ。
私分の私も同じ。
個々に相違があっても一である。
皆一なのである。
だが欧米人は誤解する。
分母は人で分子を無限大とする。
すると結果は無限大になる。
そして傲慢になる。
聖書には、
人は神に似せて創られた、
と書かれている。
そう信じているらしい。
それで傲慢になるのか。
私はそれは曲解だと思う。
逆である。
人は罪を背負ったと記されている。
楽園を追放されたのは誰か。
鳥や獣ではない。
人なのだ。
・・・・・
この世界はすべてが一なのだ。
あるがままで一なのだ。
地球分の地球は一である。
太陽分の太陽も一である。
宇宙分の宇宙も同じ。
在るものはすべて一なのである。
神とは抽象的概念であり現実には認識できない。
だが、この世界を創った力が現にある。
その力の根源を神と称すれば、神は現実そのものである。
信じるとか信じないの話ではない。
人はそれを神と呼んでいるだけだ。
この世界を一とするなら、神もまた一である。
一神教という意味ではない。
神分の神は一ということである。
ゴッド分のゴッドも一、
アラー分のアラーも一、
神々分の神々も一、ということだ。
つまりは、神も人もその他も一なのだ。
・・・・・
そういう思いの中に日本はある。
まさに神人一体の国なのだ。
それが日本国史である。
神代の昔と人の世が歴史で繋がっている。
神皇正統記に曰く。
大日本は神国なり、
である





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