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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

波乱の根

2020-01-20 11:36:25 | 日記・エッセイ・コラム
年明け早々世界が騒がしい。
波乱の予兆なのか。
てか波乱そのものかも。
テロや戦争等という理不尽な波乱がなぜ起こるのか。
その根はどこにあるのか。
前にも触れたが
今のところ、
その根は三つあると思っている。
隠し砦の三悪人である。
黒沢映画のよう。
・・・・・
一つはリベラルである。
人は言葉を持った時からすぐれて霊的生物となった。
ゆえに先ずその霊性を治めなければならない。
これが宗教の始まりだろう。
聖書はそこを押さえている。
そして厳しく警告を発する。
神そのものである言葉を手に入れたからには、
その謂を心に刻み徹底して神に従うようにと。
その現実を生きよと。
祈りの中で生きよと。
(以上、私の解釈)
なのに誤解をした。
曲解と言うべきか。
そこに記されている「人は神に似せて創られた」という言葉を。
偽物であるのに本物になろうとするのだ。
罪人として楽園を追われたのに。
彼らには「朝鮮死ね」はヘイトだが「日本死ね」は快挙らしい。
また愛知トリエンナーレとかいう展覧会があって、
そこには天皇の写真を燃やして踏み付けるという動画があった。
彼らは絶対正義(神)だから何をしてもいいと。
反対する者は悪だから懲らしめねばならないと。
その信念や鋼鉄よりも硬し。
まことにあっぱれ!である。
・・・・・
一つは中華思想である。
これにはシナ人と朝鮮人がいる。
人種的には限られているのです。
でも人口は非常に多いのである。
ところで北朝鮮についてはよく分からない。
それはさておき、
その特徴は文字通り自己中心ということです。
さりながら先ず自分なのは誰しも当然である。
それはそうだが、人は集まって生きると決めたのだ。
だから先ずは私であるが、同時に皆のことも考える。
私があると同時に公があるのです。
しかもそれらは協働するものです。
それが社会的動物と謂われる所以である。
しかし中華思想には公がない。
公の代わりに序列がある。
序列の中の私があるのみ。
それが中華社会での文化・文明の特質です。
その現れの一つが氏姓制度にある。
夫婦別姓とし、子は男性方となる。
女性は男性方の氏姓にはなれない。
父母の子なのに母は部外者なのだ。
しかして、その姓はいくら遡っても他姓と交わらない。
これは生物学的におかしい。
両親を辿ればすべての人はどこかで関わりを持つのに。
現人類はすべて共通の祖先から枝分かれしたと謂うに。
しかして自己中心に陥るのです。
そういう衣(文化)を作ってしまった。
まことに情なき世界であり、
それが公のない世界となる。
・・・・・
中華思想はもう一つの特徴を持つ。
それは祈りが無いということです。
祖先が決して交わらないから、
共通の絶対者が想定できない。
人としての親が壁になるのだ。
祈るには絶対者が必要なのに。
絶対者を想定すれば、そのもとで人は繋がる。
共通の霊性を持てば、人はそのもとで繋がる。
中華の衣を着る前はたぶん持っていただろう。
それを見失ったのか。
どこかで捨てたのか。
今はまったく見当たらない。
儒教は霊性を語らない。
孔子が「我鬼神を語らず」と言ったように。
儒教は素晴らしい思想だが、そこに祈りは見られない。
彼らはその儒教を良しとし「天」というものを創った。
天が天として機能すれば、それは祈りとなっただろう。
しかし天を私物化してしまった。
それゆえまったき袋小路となる。
中華の衣を着ている限り、序列の中の私があるのみ。
その序列から飛び出せない。
公の世界に向かえないのだ。
彼らにはこれが分からない。
昨年から香港が騒がしいようだが、
それを見ていれば分かる。
香港の人達は中華の衣を着ていない。
対岸の台湾の人々も勿論そうだろう。
そうでなければ、それは新参者です。
・・・・・
自己中心という点でいえば、
リベラルと中華思想は瓜二つである。
リベラルは神を欺き、自ら神になろうとする。
中華は神を捨て天を作り、それを私物化する。
一見仲がいいのも頷ける。
でも最後は大喧嘩だろう。
だからか日本のリベラルは夫婦別姓をうるさく言う。
それは人間(の情)を破壊する工作でしかない。
会社でも対等に合併すれば、社名は同じにするものだ。
そうでないと、できた製品はどこのものか分からない。
製品の出自はハッキリさせよう。
ところで、もう一人の悪人は…。
おっと時間切れだ、次の機会に。

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