花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

私の大雪の対策

2016年03月10日 | 高齢期の生活全般

ここへ来て年齢的に体力が低下し出したので、1年ほど前から、あまり積もり過ぎない内に小まめに除雪をするようにしている。
1日で50cmも降り続くと、3回ほどに分けて除雪をする。また、雪が降り続くと、夜10時頃、最後の除雪をしてから寝る事もある。

除雪の道具も大切で、冬の間は軽いプラスチック製ショベル、ママさんダンプ、金属製角型スコップ、長靴を直ぐに取り出せる場所に常備している。
これから雪解けが始ると、氷割りのための重いツルハシも必要だ。

私は高校生まで豪雪地帯の実家で生活していた。家は平屋で大きかった。その家の屋根の雪下ろしが私の仕事だったので、当時は安全ロープもヘルメットもないまま滑りやすいトタン屋根に上がって雪下ろしをしていた。滑って下に落ちた私の傍に、遅れてスコップが落ちて来て、冷や汗をかいたことも数回ある。
屋根から雪を下ろしたら軒先まで雪が積もる。それでは室内が真っ暗なので、今度は窓のガラスを覆った雪を撥ねて窓を明るくする仕事に取り掛かるのだ。窓の数は10個程だったが、本当に大変だった事を思い出す。

最近は、大雪情報が出ると車で遠出するのは控える。
遠距離通勤していた時は、車内に毛布、剣先スコップ、バッテリー接続用ケーブル、牽引ロープ、長靴、厚手の手袋、携帯カイロなども常備していた。ガソリンは少し多めに入れて置く。それと携帯電話は今や必需品だね。

冬場、買い物に出られなくなる事を考え、家には最低3日間ほどの食糧は備蓄している。
パックのご飯、乾麺、缶詰類、保存が効く野菜、菓子類などが中心。
それと何より大切なのは、燃料を切らさないことだ。北国で暖房がないと生きて行かれないだろうから。
停電することも考え、ポット式の電気が要らない石油ストーブ、携帯ガスコンロも一応用意している。
それとソーラー充電の他、手回し発電もできる小型携帯ラジオも買ったが、毎日窓辺で使っている。
                

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログを始めて良かった事

2016年03月10日 | 高齢期の生活全般

私がブログに関心を持ったのは、思いがけなく分かった病気の治療中、ある同病のブログ投稿者の記事を読み、病気の進行、治療の仕方、治癒の経過などを知って自分に見通しが持てるようになった事が大きいと思う。
自分でも書きたいと思うようになったのは、治療中は体力が落ち脱毛もして、外出がままならなくなった事で、ほとんどの時間を家にいる様になり、気力の低下を防ぐために何かしたい、またできれば自分も何か生きた証を形に残したいと考える様になったからだ。

良かったと思うのは、まず、毎日の生活にメリハリがつき、気持の上で張り合いができて前向きになった事が上げられる。特に書いた記事にコメントが来ると、とても嬉しくなるし、くれた方との交流も記事の上だけだとしても人間関係が広がり楽しい。(以前にはわざわざ遠くから私を訪ねて来てくれたブログの友人もいた)

また、記事を書く様になってからは、ものの見方が変わった様に思う。
それまで見逃していた事も、記事になるかも知れないと考え、きちんと見るようになったのではないかと思う。

さらに表面的な事だけではなく、物事の奥に隠れているものも知りたくなった事、さらに、いい加減なことを書いてはいけないので、できるだけ正しく物を見ようとしたり調べたりするようになった事も上げられる。

私の主な記事は、今の所、ガーデニングと旅行位しかないが、幾つになっても好奇心を失わずに活動的な生活をしたいと願っている。
それには健康維持が基本なので、年々年を重ねて行くが、今後もしばらくは元気で生活したいと願っている。
                  

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(8)

2016年03月10日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪「シンガポール」の歴史概略≫

ガイドブック「地球の歩き方ーシンガポール」に略年譜が載っていた。それによると、
 14世紀  港町トゥマセクが史料に登場
 14世紀末 トゥマセク、シンガポールと改称
 1613年 シンガプーラ、ポルトガルに焼打ちされ壊滅
 1819年 ラッフルズ、シンガポールにイギリス東インド会社の中継港建設開始
 1832年 ペナン、マラッカと合わせたイギリスの海峡植民地の首都になる
 1858年 海峡植民地がイギリス政府の直轄となる
 1942年 日本軍、シンガポールを占領
 1945年 日本敗戦、シンガポール再度イギリス直轄領となる
 1955年 選挙でイギリスからの部分自治政府成立。
       将来の独立に向け、英語の他に中国語、マレー語、タミール語を公用語にし、それまで民族毎に経営していた学校を全て平等に扱う事にする
 1957年 シンガポール市民権法制定
 1959年 総選挙で完全自治に移行。人民行動党(PAP)のリー・クアンユーが首相に
 1963年 マラヤと合併し、マレーシアの一州となる
 1965年 マレーシアがら独立、シンガポール共和国成立 1967年 5カ国で「ASEAN」(東南アジア諸国連合)結成
 1990年 リー・クアンユー、31年間の首相職辞任

日本軍が占領していた3年半、シンガポールは「昭南島」と呼ばれ、貿易の停滞によって、職業、食糧、物資の不足、インフレが進行して住民は苦しんだという。また、民族を平等に扱わなかったため、民族対立もふかまったらしい。
1955年に部分自治政府ができると、国民統合の政策を進めた。

1965年、「バンコク宣言」で、シンガポール、マレーシア、タイ、インドネシア、フィリピンの5カ国が「ASEAN」を結成した。1984年、ブルネイが加盟した後、カンボジャ、ベトナム、ミャンマー、ラオスも加盟を果たして、現在は10カ国になった。

ガイドブックによると、独立当時、最大の課題だった失業率の高さは、外国企業の投資と誘致を進めて乗り切り、1972年頃には解消。その後、経済発展に伴って労働力不足が起きたが、外国人労働者で補い、驚異的な経済発展を実現した。この間、日本の企業進出も進んだ。
また政府は、それまで民族毎に居住区が異なる「カンボン」(集落)に住んでいた住民を、1970年頃からは高層の公団住宅を建て、そこで色々な民族出身の家族が混ざって住む政策を推進し、民族の融和を図った。
さらに英語教育が普及するに伴い、他の民族の言語を教える学校が少なくなって行ったという。近年は民族文化の伝統を守る意味で、他民族の言語教育も復活させているらしい。

            
                   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米国札幌総領事館にビザの面接に行った

2016年03月09日 | 海外旅行「北アメリカⅡ」ニューヨーク、ワシントン・ボストン

過日、パソコンによるビザ申請をした結果、昨日が米国が決めた面接の予定日だった。
10時からだったが、場所が直ぐには分からないかもしれないと考え、早めに家を出て札幌駅に向かった。駅からは手稲方面行きのバスに乗った。
運転手に目的地を話し、近い停留所で降りた。そこから5~6分歩いたが、それらしい場所が見つからない。うろうろしながら人に聞き、予定時間の10分前にようやく辿り着いた。

待合室で待つこと10分弱。名前が呼ばれ、X線による手荷物検査を通り、やっと面接室へ入った。既に待っている人がいた。
私の番になり、先ず、ガラスでできた仕切りの手前に置いてある機械に指を置いて、両手の指10本の指紋を取る段になった。
ところがなかなかOKされないのだ。何度かやり直しをさせられた。
後で指を見たら、どの指も指紋が薄くなっていたのだ。今まで気づかなかったが、年齢のせいだろうか。

また、申請書の一部の記載を私が間違えていたので、面接官に申し出て訂正してもらった。
それから隣の面接官に「パスポート」を渡し、「昨年10月に「イラン」旅行をしたので、ビザを取りに来ました。」と言うと、「イランはどんな国でしたか。」と聞かれた。「綺麗な国で、ホームレスの様な人は見当たりませんでした。」と答えた。
次に「ビザの事はどうして知りましたか。」と聞かれた。「ツアーに参加を申し込んだ旅行社から、2月7日に連絡が来たので、それから申請書を作りました。」と返事した。
最後に「アメリカには何時行きますか。」と聞かれたので、「今月〇日に旅行する予定でしたが、面接日が今日なので間に合いそうに無く、予定を4月に変更しました。」と言うと、「そうですか。済みませんでした。」と言われた。
最後に、「1~2週間以内にパスポートを郵送します。」と言われて面接は終った。
渡されたプリントを見ると、「パスポート」は一旦東京の米国大使館に送られ、そこから自宅に返送されるとの事だった。

その後、札幌駅で妹と待ち合わせをし、「イタリアンレストラン」で食事をした。
妹には私が旅行に出る時は、伯母に何かあった場合の連絡先を引き受けてもらっている。それで、お礼を兼ねて旅行の土産「ドライマンゴー」「ココナッツオイル」と「(スリランカ製)ディルマの紅茶」 を持参して渡した。妹は紅茶が好きなので、パック50個入りの紅茶は喜んでくれた。1時間半程楽しくおしゃべりをしてから、JRで帰宅した。

前日に旅行社からビザについて問い合わせがあったので、帰宅後、面接が済んだという報告の電話をした。
また、一緒にアメリカ旅行に同行する予定の友人にもメールで伝えたら「オメデトウ」という返信が来た。

正直な所、電子ビザを完成させるまで精神的に大変だったが、同行を予定していた友人がいたからこそ最後まで諦めずにできたと思っている。
面接が済んで本当にホッとした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧友の近況を知りたくて葉書を出した

2016年03月09日 | 高齢期の生活全般

小学校時代から近所に住んでいた同年齢の友人で、学校にも誘い合って行っていた人だ。
彼女は看護婦になって国立の大学病院(北大・京都大・東京大など…)でずっと独身を貫きながら働いた人で、今は東京に住んでいる。
最近、年賀状でも余り元気が感じられなくて心配していた。

先日、返事が来た。ちゃんとした文面、最近した転居の土地にもようやく慣れたなどと、暮らしぶりも少し書かれていたので安心した。
10年以上前には私が彼女の家に泊めて貰った事があり、4年ほど前には彼女が我が家に来てくれた事がある。できれば今年、また会いたいと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(7)

2016年03月09日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

②「マーライオン公園」
夕暮れが迫ってきた頃、一番有名な「マーライオン」がある公園に行った。気温がまだ高いためか、多くの観光客で賑わっていた。
「マーライオン」は、1972年9月に当時の首相「リー・クアンユー」が提案して造らせた高さ8mある上半身はライオン、下半身は魚の白い像だ。「シンガポール」の「シンガ」はサンスクリット語で、「ライオン」の意味なのだとか。
中には「マーライオン」像を手の平に乗せた様に見える写真を撮る人や、ライオンの口から流れる水を自分の口で受け止める様に見える写真を撮る人などもいて、とても混雑していた。「自撮り棒」の先にカメラを付けて、背景を変えながら自分を写すアジア人らしい観光客も沢山いた。「マリーナ・ベイ・サンズ」がとても真近に見えた。

 
       
またドリアンの形に見える「エスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイ」が「マーライオン」公園の近くに見えた。ここはコンサートやオペラ、バレーなどを公演する総合芸術文化施設で、2002年10月にオープンしたという。
屋根に直射日光を遮断するパネルを張っているので、こんな形に見えるそうだ。

「シンガポール」は、土地が狭く高価なためと、地震が無い国なので、結果的に高層ビルが建て混んでいるのだろうが、何か無機質で穏やかさの感じられない大都市に思われた。


見学後、傍の「マーライオン」商品店で20分程自由時間があったが、私は適当な物がなかったので何も買わなかった。

この日の夕食は「スチームボート」の店だった。
写真は9人用の食材と「ゆで鍋」2つだ。牛肉、鶏肉、海老、豆腐、水産練り製品、各種野菜類はどれも追加自由だったし、3種類ほどあるタレも美味しいので、全員、満足するまで沢山食べた。
      


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(6)

2016年03月08日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪陸路で「シンガポール」へ国境を越える≫

ヨーロッパのEU加盟国では、国境を越すのに何も検査は無いか、またはパスポート検査程度で終る。しかし今回は、EU以外の国を陸路で渡って隣国「シンガポール」に行くという初体験をした。
先ず「マレーシア」を出国するための税関には、一般車輌6列、バス1列のレーンが作ってあり、物凄い数の車輌が続いていた。私達の大型バスは、左側のバス専用レーンから税関前に行った。

乗客はバスから降りて1人ずつパスポートと入国時に空港で受け取った「入国カードの半券」を持って並んだ。無事に税関を通過して出国すると、待っていたバスに戻り、少し行った所で今度は「シンガポール」側のバスに荷物ごと乗り換えた。ここで現地ガイドも代わった。

次に「シンガポール税関」の建物の前でバスから降り、各自、全ての荷物とスーツケース、パスポートを持って「シンガポール税関」の入国審査を受けた。
その際、両手の人差し指の指紋を登録させられた。
それが済むと全ての荷物のX線検査を受け、OKが出て初めて入国できた。中には荷物を開けられる場合もあるそうなので緊張した。
ちなみに「酒」「タバコ」の持込には税金が取られるのだという。
ここまでに1時間かかったが、陸続きの他の国にはない興味深い体験だった。


バスに全員戻って走り出すと、そこはもう面積が715.8k㎡と淡路島ほどしかない小国「シンガポール」だった。
「シンガポール」は中小の島々でできた人口531万人(2012年)の国で、「マレーシア」とは「ジョホール水道」に架けられた2本の橋で繋がっている。


         
橋を渡ると間も無く工場地帯に入り、工場や住宅が見えて来た。
 

          

中心部に着くころ、既に日が傾きかける時間だったが、2箇所の観光をした。

①「ラッフルズ卿の上陸地点」
昔「シンガプーラ」(椰子の町)と呼ばれ、小さな漁村に過ぎなかったこの地に、1819年に「トーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿」が上陸して、ここに「イギリス東インド会社」の中継港を建設することにし、名前を「シンガポール」と改めたのだった。これが現在のシンガポールに発展したスタートだった。
今では「シンガポール海峡」から湾に入ったその辺りには、近代的な高層ビルが建ち並ぶ中心地になっている。
向こう岸の赤い屋根の低い建物は、中国人が多く住んでいるという。
「ラッフルズ卿」が腕組をする像は、湾を背にしていた。傍に「プルメリア」の白い花が咲いていた。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(5)

2016年03月08日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪4日目は世界遺産「マラッカ」観光≫

この日は「クアラルンプール」のホテルを8時に出発後、前日、公開時間切れに間に合わず見学できなかった「国立回教モスク」に向い、9時からの公開に真っ先に入った。
私達は予め長袖、長ズボン、髪を包むスカーフを身に着けていたためそのまま入場が許されたが、入り口にそうでない人たちが借りる衣装が用意されていた。
その時間信者も少なく、信者で無ければ入れない祈りの場所は仕切りの上部から写した。
 
 


その後、「マラッカ」を目指して南に走った。道路の両側に「椰子の木」の畑が延々と続いた。
            
ガイド氏は「この木から椰子油(パームオイル)が抽出されます。木はインドネシアから移植されて増やされたものです。」「椰子油は健康に良いので、世界中に輸出されています。」という説明があった。
それに対し私から「椰子油には飽和脂肪酸が多いので、他の植物油に比べて酸化、変質しにくく加工食品に多く使われる様になったが、他の植物油よりコレステロールが多く含まれるので、決して健康的とは言えない。」と反論した。
その後個人的にガイド氏に「椰子油は、ポテトチップスなどのスナック菓子に多く使われ出したので、アメリカの子ども達のコレステロール値が中高年並みになり、問題視されているとの事です。」と話した。

「クアラルンプール」を出て2時間後に「マラッカ」に着いたが、この日も晴天で気温は32℃程度。
以前に来た時と同じく「オランダ広場」「マラッカキリスト教会」「セントポール寺院」「サンチャゴ砦」を見学した。
今回は現地ガイド氏が説明不足で、景観以外はあまり記憶に残らなかった。

 
      (オランダ広場の「マラッカキリスト教会」と「時計塔」)
 
(屋根が失われた「セントポール教会」は、ユネスコの指示で補修されていた)(日本人牧師の墓石もあった)
 
(ポルトガルがオランダの侵攻に備えて1511年に作った「サンチャゴ砦」の門と大砲、傍に咲いていた花)

(運転手が思い思いに飾り付けて客を乗せる「自転車タクシー」)

昼食は「ニョニャ料理」だった。これは中国から来た男性と結婚したマレーシアの女性が、夫のために作った両国の合作料理だという。美味しかった。

昼食後はすぐ傍の雑貨店で、30分程の買い物時間があった。私がこの店を訪れるのは2度目だったので、以前に買って美味しかった「カレールー」や「ココナツオイル」を親しくなった人達に紹介した。
この店が「マレーシア」最後の買い物のチャンスだったので、皆お金を使い切っていた様だった。私は残っていた僅かなお金を使い果たすために石鹸を1つだけ買った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(4)

2016年03月07日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪「オランウータン保護島」に行く≫

3日目は、ホテルを8時にバスで出発し、「ペナン」の南東にある「ブキットメラ」まで約2時間走った。そして湖の中に浮かぶ「オランウータン保護島」に高速ボートで行った。
船着場のすぐ近くに入り口があり、遊歩道が付けられていて、そこを歩く人の両側に金網を張った檻が作られているので、檻の中の私達がオランウータンから見られている様な感じだった。
全部で30頭ほど飼われているらしいが、大人になると「ボルネオ島」の方に移すと言っていた。
私は「旭山動物園」のオランウータンが記憶にあるが、それとは種類が違う小型だった。
じゃれ合う子供たちは愛らしかった。また、飼育員が金網の外にピーナツを投げると、小枝を手にして引き寄せて食べていたのには驚いた。

 (「ブキットメラ」の船乗り場)
             
              (「オランウータン島」の船着場)


 

高速ボートで「ブキットメラ」に戻ると、アーケード街の中央で子ども達が噴水にボールを浮かべて遊んでいた。皆ずぶ濡れだったが暑い国なので風邪を引くなどの心配は要らないのだろう。


その後、「イポー」の町のレストランに昼食で立ち寄った。イポー名産のモヤシ料理を食べてから、バスは3時間走って首都「クアラルンプール」に戻り、市内観光をした。

≪新築された「王宮」≫
「クアラルンプール」の市内観光の多くは4年前の観光場所と同じだったが、新たな「王宮」ができていた。
「王宮」は「マレーシア」全土に13ある州の中で、「スルタン」がいる9州から5年ごとに選挙で「国王」が選ばれるそうで、その王の公邸なのだ。
門の左右2箇所に衛兵が立っていた。中に入っても宮殿まではかなり距離がある(150m以上かも)ように見えた。全体が金色に輝いていて、「マレーシア」が「イスラム国家」である事を確認させられた場所だった。

 

           
            (門は閉ざされていたので、写真は門の隙間から撮った)

≪「独立記念広場」の入り口にできた「歴代大統領の肖像」≫
以前の「独立記念広場」には国旗掲揚塔が立っていただけだったと記憶しているが、今回は随分変わっていた。
入り口に「歴代大統領の肖像画」が掲示されていた。観光客は気に入った大統領の前に立って一緒に写真に納まっていた。
 

他にも行ったが、前回と重なる他の観光場所は、今回ブログから割愛する。
観光後、初日のホテルに戻った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(3)

2016年03月06日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪世界遺産「ジョージタウン」観光≫

マレーシアの北西部、「インド洋」に浮かぶ「ペナン島」は、南北24km、東西15kmの大きな島だ。
「ペナン」とは、ヤシ科の植物「ビンロウ樹」のことだという。
人口は70万人で中国系(華人)がその70%を占めている。8~10月は雨期、12~2月が乾期だ。
この島はイギリス人が1786年に初めて入植した。「東インド会社」のアジア進出の拠点として買い取られ、自由貿易港として発展した土地である。
そのため、西洋、中国、東洋、イスラム、ヒンズーの人と文化が出会い、混合し、独特の町並みが形成された。

「ジョージタウン」は「ペナン島」の北東部のマレー半島側にあり、2008年、ユネスコの世界遺産に指定された。

①「コーンウォリス要塞」
イギリス東インド会社の「フランシス・ライト」が、アジア進出の拠点にマレー半島に最も近い場所を選んで1786年に要塞を造った所である。


②「セントジョージ教会」
マレーシアで最も古い白亜の教会。小さいが、尖塔が印象的だった。
芝生にカラスがいたが、鳩ほどの大きさで色も真っ黒くなかった。
 

③「ビルマ寺院」
ビルマ、現在のミャンマーの人たちが1803年に建てたという寺院。靴を脱いで中に入ると立ち姿で金色に輝く大きな仏像が迎えてくれた。その裏の通路には、色々な国の仏像が立ち並んでいた。

 

④「クーコンシー寺院」
中国福建省からやって来た「邸氏一族」が建立した中国寺院である。


          

 

バスの窓から「ペナン旧市庁舎」が見えた。イギリスの影響を受けた「ビクトリア様式」の美しい建物で、1903年にオープンしたという。現在は市の歴史遺産に指定されている。


海岸からペナン島の海を眺めた。地震が無いそうで、高層ビルが多く建てられていた。建築中のビルも沢山あった。
しかし、インドネシアやフィリピン沖で大規模な地震がある際には、津波が押し寄せて来る場所でもあるらしい。
          

泊まるホテルの裏側に大きなスーパーマーケットがあったので、夕食後出かけて買い物をした。



コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(2)

2016年03月05日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪2日目は「ETS(高速列車)」で「ペナン」へ≫

2日目朝は6時のモーニングコールを待たず、30分程早く目覚めた。
その日は午前中に「ペナン」へ移動して観光し、1泊する事になるが、大きいスーツケースはまた戻って来るこのホテルに預けた。
それで先ず、ボストンバッグに2日間必要な洗面道具や着替え、パジャマ、雨具、上着、薬を入れて手荷物を作った

朝食を食べにレストランに行くと、メニューが凄く多い。しかし、マレー料理の味などが心配で、結局果物とパン、紅茶だけしか食べなかった。

8時15分、バスで駅に向かった。「ETS」はA~Fの6輌編成で、各車輌とも座席は半分から背中合わせに固定されていた。幸い添乗員が全員進行方向を向いて座れるように計らって切符を買ってくれた。
「クアラルンプール」から「ペナン」までは300kmあり、約4時間かかった。



列車が走り出すと冷房がガンガン効いて来て車内温度は15℃程度になった。余りの寒さに私は用意していたウールのカーディガンと薄いコート、マフラーを身につけたが、それでも寒い。仕方なく冷房が効かないデッキに時々行って、温まった。
しかしである。地元の人達は半袖、短パンでじっと座っているのだから呆れた。気温が30℃を超している国なので、できるだけ低温にする事がサービスなのかも知れないが、私達は風邪を引きそうになった。

車中の昼食は、現地ガイド氏が駅で仕入れた菓子パン4個と列車の食堂で買った温かい「炒飯」だった。
しかし、この国のパンは水分が少なくボロボロしていて美味しくないし、「炒飯」もやたら辛くて食べられなかった。いずれも高温の中でも腐敗し難くしてあるのだろうと思った。
余ったパンを傍の子どもに渡したら、喜んで食べてくれた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

預金のくじの当選品届く

2016年03月04日 | 暮らしと経済・経済生活

「宅急便の不在連絡表」数枚が郵便受けに入っていた。旅行に出かけている間、毎日届けに来ていたらしい。
早速電話連絡をして、届けてもらった。
当選3度目の今回も、第一希望の「乳製品の詰め合わせ」が送られて来た。
ラッキーなできごとなので品物を独り占めせず、普段世話になっているご近所に今回も旅の土産に加えて1個ずつ差し上げた。

(上部の3箱はトーストに塗って食べられる「チーズスプレッド」で、ブルベリー、オレンジ、苺の3種類。「蔵王」と書かれているのは、「クリームチーズ」と「クリーミィスプレッド・バニラ」、その真ん中のは「ニンニク味スプレッド」。下部には「クラッカー」の箱が入っていた)
     

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(1)

2016年03月03日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪「成田空港」から「クアラルンプール」へ≫

先月は「フィリピン」に行って来たが、今回「マレーシア」「シンガポール」に行って来た。
JALの直行便で「成田」から「クアラルンプール」を往復するのに合わせて、3月23日まで催行されるこの旅行には、「国内線往復1000円」という特典が付いているのに引かれたのだった。
北海道から成田まで往復するとしたら、航空券は早割りでも20,000円以上するから、こんな特典は他にはない。
「マレーシア」には4年前の2012年1月6~11日まで、6日間の旅行に1度行っているが、今回は主催旅行会社が前とは異なり、行く先も「ペナン」「ブキットメラ」そして陸路で国境を越えて「シンガポール」に入り、観光するというコースが前と異なっていたので申し込んだのだった。

前回よりも日程が50日近く遅いので気候が不安だったが、成田から8時間後に着いた「クアラルンプール」はやはり物凄く暑くて閉口した
2月25日の朝6時の新千歳空港の外気温は-17℃だったが、7時50分の飛行機に乗り、成田空港で国際線に乗り換えて8時間後に「シンガポール」に着いたら、気温は30℃を越えていた。何と私にとっての温度差は50℃弱もあって、肌をなでる空気の暑い事。
専用バス、レストラン、ホテルの中は冷房されていて、寒い時は上着が必要だったが、観光中は30~33℃の中を虫刺されが怖いので、長袖、長ズボン、帽子にサングラス、汗取り用に首には綿のストールを巻いたい出たちで歩いた。
「マレーシア」「シンガポール」は先月の「フィリピン」に比べるとかなり赤道に近く、年中真夏の国だった。

出かける日とその前日は大雪だったので、就寝前にも除雪をした。
朝6時過ぎに家を出るので前日にタクシーを予約しようとしたが、その時間はすでに台数が無く駄目だという。思い悩んだが、家からJRの駅に行かねば始まらないので、近所の方に車をお願いした
何とか雪が止んで、その方の車で送ってもらい、空港に行く事ができてホッとした。

今回は成田空港でのツアーの集合時間に間に合わなかったので、スーツケースに家から着て来たダウンコートを脱いで入れ、「新千歳空港」から最終目的地「クアラルンプール」まで預けた。
また、添乗員とは、今回初めて出発ゲートで待ち合わせをした。
JAL国際線の座席は72時間前からインターネットで予約ができるので、予約をして出かけた。
  
  (「クアラルンプール」の飛行場から市内に入るバスの中から写す)

帰りは「シンガポール」から朝8時20分発のJALで成田に帰国。新千歳空港行きは18時45分発だったが、目的地の天候悪化で引き返すこともあると言われて乗った。
1時間近く遅れて離陸し、除雪が済むまで着陸も遅れたが、何とかその日の内に帰宅できた。
家に入ると建物内は7℃と冷え切っていたが、ストーブを付け、出掛けに水を落して置いた水道を出した。
タライに水を入れた中に付けて置いた鉢花を元に戻し、顔を洗って早々に寝た。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする