花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

ベトナム・カンボジアの旅(5)

2011年01月29日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
5日目は5時に起きてまだ夜明け前の5;45にバスで昨日見た「アンコールワット」に向かった。朝日が昇る光景を鑑賞するためだ。
早朝にもかかわらず係官が数人出勤していて、次々とやってくる人達のアンコールパスを確認していた。
私たちは西側の入り口から参道を通り、思い思いの場所で中央寺院の東に日が昇るのを待った。
私がここならいいなと思ってカメラを持ち、立っていたら、後から私の直前に数人の人がやって来て邪魔になる。仕方がないので、そのたびに少しずつ場所を変えた。
やがて次第に空が明るくなって来た。①
後ろの城壁を振り返ると、日の出を待つ大勢の人がいる。② 
いよいよ陽が昇り始めたが、残念ながらその場所はアンコールワットから外れていた。もう移動する時間がないので仕方なく陽が昇り切る前に数枚写した。③

 ① ②

              ③

前日、アンコールワットの奥の柱に日本人、森本右近大夫が書いたという文字があった。1632年、彼は仏像4体を奉納するためにアンコールワットを訪れ、それを落書きの様に記録したらしいが、今では日本人初の足跡となっている。当時江戸時代の初期は、東南アジアを「南天竺」、ここを「祇園精舎」と考えていたようだ。

ホテルに戻って朝食を食べ、少し休憩してから9時に「ロリュオス遺跡」の観光に出かけた。
途中の町には、朝の喧騒があった。④
遺跡は町の中心から東に13km程の場所にあり、9世紀初めにアンコール王朝が誕生してから1世紀の間、王都だったところである。
9世紀に築かれた遺跡だというが、修復しながら良く保存されていた。⑤⑥⑦⑧

 ④ ⑤ ⑥

 ⑦ ⑧

ところで遺跡近くに小さい子供が4人並んでいて、私たちが行くと、日本語でまるで歌を歌う様に、「おにいさん、かっこいい。おねえさん、かわいい。」と何度も繰り返すのだ。見ると箱が置いてある。お金を要求しているのだ。⑨
帰りに通った時、全員に手持ちの飴を渡して写真を撮らせてもらった。全員裸足だが、皆いい顔で写っていた。
私を見ていたツアーの男性が、「お金なら誰かに巻き上げられるけど、飴なら自分の口に入るから、子供にとっては却って嬉しいかも知れないね。」と言ってくれた。

            ⑨

カンボジアを訪れる外国人で1番多い国は韓国で、2位が日本、3位がアメリカらしい。どこへ行っても売り子(大人だけでなく、裸足の6~7歳の子供も多い)は、私たちに、「シルクスカーフ、1枚1000円」「絵葉書、10枚1ドル」等と日本語で呼びかける。
どこで韓国人と日本人を見分けるのか分からないが、生活のための彼らの必死な気持ちが伝わって来る。しかし、その都度お金を渡す訳には行かないのだ。

内戦の地雷で足を失った中年男性たちのグループが、砂ぼこりの舞い上がる道路脇で弦楽器や打楽器で演奏していた。韓国民謡の「アリラン」を演奏していたが、私たちが近づくと日本の「さくら」を演奏し出した。帰りも同じ道を通ったので、私は手持ちの2ドルを差し出した。
(ガイドに聞くと、貧しい家庭の場合、家族数人の生活費は1日0.5~1ドル程度だという。だから1か月3千円位で普通に暮らしているそうだ。先生や警察官の月給は50ドルで良い方だとも言っていた)

昼食を食べたホテルのレストランで、給仕の若い男性が料理に出た野菜の日本語名を教えて欲しいという。彼は日本語をもっと勉強して、人生に役立てたいと話していた。

食後2時間ほどホテルで休んでから、「バンテアイ・クレイ遺跡」に行った。
ここは7世王によってヒンズー寺院から仏教寺院に改修され、王国内の様々な争いを裁く場所だったらしい。⑩
     
            ⑩

夕方、「プレ・ループ遺跡」に夕日の鑑賞に行った。彫刻は見られなかったが、急な石段を上ってから⑪西側に回ると、広々とした熱帯雨林が広がり、夕日を待つ人で溢れていた。
高い所から森に沈む太陽を見るだけよりはもっと色々な写真を撮りたかったので、私は早めに降りて下で数枚、写真を撮って見た。⑫⑬
(遺跡の警備員の男性が、バッチを外して私にプレゼントをするという。慌てて断り、傍を離れた。多分、売りつけようとしたのだろうと思う)

 ⑪ ⑫ ⑬

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ベトナム・カンボジアの旅(4)

2011年01月28日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
ガイドブックによると、カンボジアの国名は「カンボジア王国」で面積は日本の約1/2、そこに1360万人(2005年世界銀行)の人が暮らしている。民族的にはクメール人が90%、華人3.7%、ベトナム人3%などである。
現在の宗教は、大半が上座部仏教を信仰しているが、キリスト教などを信仰している人もいる。現在の首都は、南部のプノンペンだ。
北西部の町シェムリアップのホテルは、部屋が広くて設備も良く、部屋付きのベランダに出ると植栽が素晴らしく整備された中庭と、そにある大きなプールが望めた。
私たちはこのホテルに3泊して、デラックスバスに乗り、3日間、ゆったりとアンコールワットの観光をした。

資料によると歴史的にカンボジアは、古くは中国の一部だったこともあるし、北部や南部がベトナムやタイに支配されていた時期もあるのだ。
9世紀から15世紀にかけてインドシナ一帯を制圧したクメール王朝は、11世紀には王位継承を巡って内部分裂を起こし、ベトナム中部チャンパ王国から攻撃を受けるなどしていたが、1113年に国内を平定したスールヤヴァルマン2世が王位に就いてからは、広大なアンコールワットの建設に取り掛かった。
およそ3万人の精鋭職人が30年の歳月を費やし、当時としては他に例を見ない一大石造建造物をアンコールワットに誕生させ、15世紀迄首都としたという。

9時にホテルを出て、先ずアンコール王朝が最も盛んだった時に建てられた「アンコールトム」(大きい城都を意味する)の遺跡に向かった。
途中で見学料を払って「アンコールパス」を取得したが、それはガイドの顔写真と見学者の顔のカラー写真が入った首から下げる立派なカードだった。2008年発行のガイドブックには、1日券が20ドル、2~3日券が40ドルと書いてあった。

「アンコールトム」は、1辺が3kmの四角形の敷地の東西南北に門が設けられているが、私たちは南大門から入って東の勝利門から出るコースを辿った。
この城の特徴は、チャンパ王国などからの侵入を防ぐための城塞も兼ね備えていて、仏教徒だった7世王が、悟りを求める者は誰でもが救われるという日本と同じ大乗仏教の世界観を現した物を造ったのだ。

南大門が近づくと大勢の観光客が詰めかけていた。門につながる橋の両側には、阿修羅と神話に基づく神々が54体づつが、太い大蛇の胴体を抱えて引きあっていた。①
門の高さは25mあり3mもの大きさの菩薩の顔が、「クメールの微笑」をたたえて4体刻まれていた。②

 ① ②

次々と「シクロー」に乗った人たちが門から入って来た③が、私たちは門の中で待っていた小型バスに乗り、中央の「バイヨン寺院」まで1kmちょっとの森林に囲まれた道を進んだ。降りるとパスの確認を受けた。
入り口に日本国政府アンコール遺跡救済チームが1999年5月~2005年4月にかけて最外周壁の崩落部材を850個修復したという立て看板が立っていた。④
見ると向こうに高さ42mの本殿が聳えていた。⑤

 ③ ④

 ⑤

第1回廊の壁画には、当時の生活が絵巻の様に掘られていて、チャンパ王国との水上決戦や地上決戦などを見る事ができた。⑥
闘鶏の場面では、耳が長いクメール人と髪を束ねた中国人の姿もあった。豚を処理して串焼きにしている壁画もあった。⑦
第2回廊に進むと、ヒンズー教の神話や伝説をモチーフにした彫刻がぎっしりと彫られていて、当時の彫刻師たちの忍耐強い精緻な芸術的表現に感動させられた。

 ⑥ ⑦

中ほどに進むと中庭があり、大きな4体の女神の顔が迎えてくれた。⑧ 上に上がって回り込んだ所にも微笑を浮かべた女神の顔が彫られていた。⑨

 ⑧ ⑨

「アンコールトム」より少し東に規模の小さい「タプロム遺跡」があった。ここは、ジャヤバルマン7世が母親の菩提を弔うために、先に建てた仏教寺院である。
ここは深い森に接しているため、長い歳月の中で自然の浸食を受けていた。野鳥が糞と共に落とすガジュマルの種が芽吹いて、やがて巨大な根を張り、遺跡を破壊し覆い尽くしているのだ。インド政府の協力で今、修復が進められているが、根を取るとバランスをかろうじて保っていた遺跡が崩れてしまう危険性もあるのだそうだ。⑩
敷地内の他の遺跡にも行ったが割愛したい。

 ⑩




昼食後、ホテルで1時間半の休憩を取ってから、いよいよ「アンコールワット寺院」の観光に出かけた。⑪
この寺院は西が正面になっていて、大きい濠に囲まれた530mの参道を歩いて行くと幾つもの頭を持つ蛇のナーガ神が迎えてくれた。
この寺院の高さ5mの回廊には、インドのヒンズー教にまつわる物語が克明に彫られていた。長さは数百メートルに及ぶそうだ。⑫
急な階段を上って第二回廊に行くと、美しい女神像が幾つも彫られていた。⑬ さらに上の第三回廊に上る階段は急だが、その日は登ることができない日だった。⑭

 ⑪ ⑫

      ⑬ ⑭

外へ出てから池に映る寺院を鑑賞した。当時の日本でここは「祇園精舎」だと考えられていたと言うが、そんな雰囲気が伝わってくるようニ思った。⑮

       ⑮




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ベトナム・カンボジアの旅(3)

2011年01月27日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
帰国してから4日目になるが、毎日朝の気温は-10~-6度と低いながら、晴天の日には陽射しにも春が感じられるようになった。
先程、雪解けを少しでも早めようと、庭に高く積もった雪の端を崩して、除雪してある玄関前にばら撒いた。しかし、まだ当分は雪が降るだろうな。




3日目はレストランで朝食を早く済ませ①、ホテル周辺を出発までの1時間、散策した。
ホテルは高い塀をめぐらしプールまで作られているので、周辺の地域とは別世界の雰囲気だが、一歩外へ出るとそこにはベトナムの人達の普通の生活があった。②
この地区にはバイク店が軒を連ね、中古のバイクを売っている店やバイクの中古部品店が沢山あった。良く見るとホンダ製のバイクが1番多い。③ 店先で修理の仕事をしていた男性に声をかけると、快く写真に応じてくれた。④ どこでも日本人には親切である。

 ① ② 

             ③ ④

時間的に物凄い数のバイクの通勤ラッシュで交差点は恐ろしい状態だったし、排気ガスが立ち込めて空気が悪く、マスクをしている運転手も多かった。1台のバイクに3人位乗っていたりして驚いた。
そんなラッシュ時の道路淵の木の下に、食器を並べて朝ごはんを食べている中年女性がいて驚いた。

この日のバスはホテルを8時半に出て北西に70km走り、ベトナム戦争時に米兵を恐れさせた「クチ」の地下トンネル見学に向かった。
背の高い熱帯の木が生い茂るジャングルの中に細い歩道があり、しばらく歩いた所に最初の落とし穴があった。1m×2mの大きさで深さは1.8m位に思われた。人が木の葉で覆ってある蓋の上に乗った途端、蓋がどんでん返しして回転し、人が落ちる仕掛けなのだ。底には25cm以上ある何十本もの鉄釘が上を向けて仕掛けられていて、戦争中は底にサソリや毒蛇も入れてあったという。⑤⑥
その傍に1人が身を隠すための25cm×35cm程の小さな穴があった。⑦ 
私も中に入ってしゃがみ、草で覆われた蓋をしてもらったが、中は結構大きくなっていた。隙間から漏れる光だけが頼りだが、戦争中は緊張して身を潜めたのだろう。出ようとしたら足場が無く、背が低くて腕の力が弱い私は、自力で出られないのだ。男性2人に引き上げてもらってやっと脱出した。

 ⑤ ⑥ ⑦

木の根元に蟻塚そっくりの粘土の塊が造られていた。実はその周囲に地下トンネルに続く空気穴が沢山開けられていたのだ。⑧
手作りの武器も展示してあったし、錆びた戦車も置いてあった。展示を見て、アメリカが落とした不発弾の火薬は手投弾に、鉄の破片は溶かして武器に加工していた事も分かった。⑨

            ⑧ ⑨

いよいよ地下トンネルに入る体験をすることになった。
私たちが入ったトンネルは地下3m位のところにあって、1人が身をかがめてやっと通れる大きさのものだった。⑩
体験トンネルの長さは10m程だったが、2か所で曲がっていて、中は真っ暗でとても恐ろしかった。場所によっては地下8mもの場所に、3層のトンネルを作ったらしい。
ガイドの話では、深くなると空気が悪く寒いし、サソリや蛇もいて、長時間入っていることはできなかったそうだ。
最終的にこのトンネルは全長250kmにも張り巡らされていて、南ベトナム傀儡政権とアメリカが敗北する大きな力になったという。遠くはカンボジアの国境にも達していたと聞いた。
私は実際にクチを訪れて見て、当時の大国アメリカと闘った人々のすばらしい知恵と、命を懸けた戦いのすざましさを、かいま見た気がした。
 
         ⑩

昼食後、サイゴン教会と中央郵便局に行った。
サイゴン教会⑪は休日で中に入れなかったが、中央郵便局⑫には土産物店が入っていて、奥にはホーチミンの写真が飾られていた。⑬

 ⑪ ⑫ ⑬

この日の夕刻はカンボジアのシェムリアップ空港に行く事になっていたので、2時間前にタンソンニャット国際空港に行った。ここは飛行機の搭乗者しか中に入れないので、ガイドと入り口で別れた。
添乗員がEチケットを集めて受付カウンターに出すと、ダブルブッキングで私たちの席が無い事が分かった。
急遽、空いているビジネスクラス席に乗ることになったが、その数にも限りがあり、数人の希望者は30分遅い便のビジネスクラスで行ってくれと言われた。私と友人は後の便で行く事を了解した。ビジネスクラスでは、まだ飛ぶ前に飲み物が出て来たし、軽食もテーブルにナフキンが敷かれ、ちゃんとした食器に入ったものだった。
添乗員は先の便で行き、シェムリアップ空港で私達を待っていてくれた。30分程度遅れただけのハプニングだったので、楽しかった。


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ベトナム・カンボジアの旅(2)

2011年01月26日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
23日にベトナムから帰宅したが、留守中録画していたTVを見終わるのに2日かかり、その間椅子に座っていたので腰も痛くなった。
今日から旅日記に取りかかりたい。今回は、できるだけ要点をまとめて見たいと思っている。

先ず1月16日成田発19;35のANAに搭乗した。ベトナム南部のホーチミン・タンソンニャット国際空港までは8時間かかるが、日本との時差は-2時間なので、到着したのは真夜中の1;25だった。
ムッとした気温の中をバスでホテルに向かった。真夜中なのに暑いためか、外に人が出ていた。
現地添乗員が、「1000年前のベトナムは、北部はベトナムだったが、中部はチャム王国、南部はクメール王国、ホーチミンはカンボジアだった。」と話した。
そして、「歴史的には、1000年間は中国の支配を受け、100年間フランスの植民地になり、50年間(1925~1975年)はアメリカの支配を受け、1975年4月30日、ベトナム戦争は終結して今のベトナムが誕生したが、300万人の人が戦死し、南部や山岳部で枯葉剤の影響を受けた子供は400万人もいる。3世代後まで影響が出ている。」という話をした。日本ではべとちゃん、どくちゃんが有名だが、まだまだ沢山の人々が、近代の化学兵器を使った戦争の犠牲になっていることを改めてベトナムで知らされたのだった。

ホテルに着いたら2時半になっていた。風呂に入り、荷物を片づけて寝たら4時を過ぎていた。




2日目は9時にホテルを出発し、75km南にあるミトーに向かった。ミトーは南シナ海に流れ込むメコン川のデルタ地帯にある人口5万人の小さい町だ。
古くからデルタ地帯で取れる米の集積地として、また米麺(日本ではビーフンという)の生産地らしい。
この辺りでは1年に3回米がとれるという事だが、丁度稲刈りをしている農家を見た。ベトナムはタイに次ぐ米の輸出国なのだが、稲刈りのほとんどは人手に頼ってやっていた。田んぼの中にお墓があった。田舎ではほとんどが土葬らしいが、先祖が見ている前で、労働に精を出しているのだった。

ミトーに着くと、まず茶色に濁ったメコン川を小舟に乗り(写真①)、 トイソン島に行った。マンゴウ、パパイヤ、ドラゴンフルーツ、ライチ②、パイナップルなどの果物がなっていた。養蜂家もあって③、蜂蜜を売っていた。バナナの葉で屋根を葺いた場所で、フルーツを食べた。④

 ① ② 

              ③ ④

いよいよ4人乗りのボートでメコン川のボートクルーズだ。私が乗ったボートは50歳位の夫婦が前後で漕いでくれた。15分位だったが、行きかうボートが多く、川辺には熱帯植物が生い茂っていて楽しめた。⑤⑥

 ⑤ ⑥

また初めの小舟に乗ってミトーの船着き場に戻ったが、船の中でココナツにストローを刺して飲むココナツミルクがサービスされた。薄い甘味のジュースだった。

その後、ホーチミンに戻り、元南ベトナム政府が置かれていた「統一会堂」を見学した。
入り口には、南ベトナム解放戦線が乗りつけて統一会堂を占拠した戦車が置かれていた。大統領執務室にはアメリカとの直通電話が置かれ、緊急時の避難口も付いていた。実際に大統領は最後に屋上のヘリコプターで逃げたのだが、屋上にはヘリコプターも置かれていた。⑦⑧⑨

 ⑦ ⑧

 ⑨

最後にホーチミン市の広大なベンタイン市場を見学したが、雑多なベトナムグッズが所狭しと積み上げられ、狭い通路は人でごった返していて、ベトナム人の勢いが感じられた市場だった。









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今の周辺道路

2011年01月15日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
最近降った雪が道路の両側にうず高く積まれていて、道幅が凄く狭くなっている状況は、北国の人は知っていても、南国に住む人は知らないと思うので、今日は近郊住宅街の道路を撮影してみた。いつもなら通学中の小中学生が通る時間だが、土曜日なので誰もいない。
まだこの道路は冬を想定して広く作られているが、狭い道路では車1台がやっと通れる状態になってしまうのだ。
下の写真は、歩道の状況である。

     

                             

このような状態では、車庫から車を出す時も、交差点に出る時も、左右の見通しが全然効かないので、どうしても前に1m位飛び出して確認せざるを得ず、とても危ない。
北国の冬には、こんな苦労もあるのである。
(まだまだ積雪すると、幹線道路だけは排雪車がやってきて、積もった雪を数日間かけて市の雪捨て場に持って行くのだが、除雪予算緊迫の昨今は、春までにやっと1~2回なのである。)

また、各家々は、屋根や通路を開けた雪を敷地内に保管する雪捨て場を確保しておく必要があるが、都会になるほど住宅地価格は高く、札幌でも100坪に3軒などという狭い敷地面積の家さえ分譲されている。
敷地に余裕がない家では、屋根の雪を落とす場所がないので屋根の形をフラットにして、春まで雪を乗せたままにする。雪は凄く重いので、家にとっては決して良い事ではないのだが、それも仕方がないのである。

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ベトナム・カンボジアの旅(1)

2011年01月14日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
来る16日から23日までの予定でベトナムとカンボジアに行って来る事にした。
今回の旅行を決めたのは、中国から帰った翌日だ。
北海道の冬は寒く、昼間も路面が凍結していて歩くのも危ない。(今朝は-13度。最高気温も多分-5~6度だろう)
車での外出も道路の両側に高く積み上げられた雪山のため見通しが悪くて危険だし、スピードによってはブレーキをかけてもタイヤが滑って止まれない時があり、凄く恐ろしい。
家に居ても高い電気暖房を使うだけだ。それならいっそう暖かい場所に行って楽しむのも良いのではと思う。
また、この先の人生に、何が起こるかも分からないのだから。

早速、去年、外国旅行に4回同行した友人に電話した。友人は一晩考えてからOKの返事をくれた。
そこで札幌の旅行社に申し込んだが、「すでに一月を切っているので、席が確保できるかどうか分からない。少し時間が欲しい。」という返事だった。
2日後、OKの回答があった。

次にしなければならないのは、カンボジアのビザを取得することだ。(ベトナムは要らない)
旅行社に依頼すると東京の大使館にパスポートを送るらしく、実費と手数料等で結構な金額になる。
ネットで調べたら、札幌に領事館があり、そこでもビザを発給することが分かった。必要書類は証明写真を貼った英文の申請書と3200円。
領事館の近くに住む友人が、早速直接行ってくれて、申請書を2枚貰って来てくれた。
数日後、札幌駅で待ち合わせ、それぞれが撮った証明写真とパスポートを持って領事館に行き、申請した。ネパールで経験済みなので割合簡単だった。
そして、領事館が年末の休みに入る前日、私たちのビザは発給された。

この時期は乾期だが、最高気温はベトナムのホーチミン、カンボジアのシェムリアップとも32~33℃でかなり暑いが、2月以降はもっと暑くなるので、急遽今月行く事にしたのだ。
私は服を着ていても蚊に刺されるたちなので、南国のマラリアなどを媒介する蚊についてネットで調べたら予防薬があるとわかった。
翌日、市の保健所に問い合わせ、札幌のS総合病院の感染症科に行くと良いことを知った。
(実は先のブログで書いた友人や従妹と出会った日に行った病院が、S総合病院だったのだが)

相談に応じた医師は、「マラリアの予防薬は1日1錠で800円し、行く1週間前から飲み始め、帰国後も1か月間飲み続けなければならないし、吐き気、頭痛などの副作用もきつい。」と話してくれた。虫よけスプレーやクリームをたっぷり持って行くと良いと言われたので、薬は止めて、そうすることにした。
今マラリアはアフリカで流行しているらしい。「3年前に何の予防もせず、南アフリカ、ジンバブエ、ザンビアやモロッコ行って来た。」と話したら、医師に驚かれた。
また、今の若い人たちなら、破傷風や日本脳炎の予防接種を子供の時に義務づけされているが、私たちの年代では免疫を持っていないということなので、その2つのワクチンを打ってもらった。
日本脳炎の注射は2回必要だが、今後の旅行計画も考えて受ける事にした。いずれも予防には保険は効かないので、全額自費負担だった。

本当は、狂犬病も予防するに越したことはないらしい。
日本の飼い犬には毎年、狂犬病の予防注射が義務付けられているが、東南アジアや南米、アフリカなどの国の犬は管理されておらず、ほとんどが野犬同然なのと、コウモリや鳥類からも感染するらしいのだ。
しかしこの薬は高価なので、私は止めた。すると医者は、「犬と目を合わせないようにね。」とアドバイスしてくれた。


そんな訳で急に決めて、準備も短期間だったが、何とか必要な準備ができたので行って来たい。またしばらくブログを休むのを了解頂きたい。
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本格的な雪に見舞われる

2011年01月08日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
今冬は雪が少ないと喜んでいたら、昨日朝から今しがた迄降り続き、この間の降雪量は60cm近くになった。
市の除雪車が夜中に入って、道路の除雪をしたらしい。
しかし、雪を左右に押しのけて道を開け、車が通れるようにするだけなので、家々の入り口には道路を削った固い雪が積み上げられる。その除雪は個人がすることになっているから、道路に面して広く開口部分を取っている家は、その除雪が1番大変なのだ。

昨日の昼、図書館に行く前に30分、就寝前の23時半から1時間、そして今朝は8時から1時間、計2時間半も除雪をした。
近所では大抵、小型除雪機を持っていて、その家の男性が操作して除雪しているが、我が家は1人でプラスチック製ショベル1つで除雪する。
週末に娘が来るかも知れないので、玄関前は車1台分の駐車スペースも確保する。そのため、除雪面積はかなり広い。
しかし、「千里の道も1歩から」。初めは気が遠くなるような思いだが、やっているといつの間にか除雪が完了する。
(61歳まで仕事をしていた時は、朝、車を出して出勤しなければならなかったので、大雪が降れば就寝前と早朝4時ころから起きて真っ暗い中で除雪したものだが、今は時間の制約がないから、気持ちの上では比べものにならない位楽だ)
今朝の外気温は-9度だったが、終るころには汗だくになる。久々に体を使ったという快感も湧く。

    

やっと陽が射して来たが、天気予報では数日間雪マークなので、まだまだ降ってくるかも知れない。
最近見たBBCの「プラネットツアー」(なかなか良い番組なので、このシリーズは気に入っている)で、地球の水資源が枯渇しつつあるということを言っていたが、日本海の水蒸気からできた雲が降らせる雪だと思うと、何だか愛おしくさえ思えてくる。
庭一面、1m近い積雪で埋もれているが、雪が布団になって花木の根を守ってくれるし、春になって溶けて地下水になれば、庭や畑を潤し、飲み水が枯れる事もなくなるのだ。
だから、多少の肉体的な負担は、自分の健康のためにも、そして大きく言えば地球の自然を守るためにも引き受けたい。
除雪機を買う気持ちは、今の私にはない。

    

  
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今年もよろしくお願いします

2011年01月03日 | 日記
年末から昨日まで、主婦としてバタバタと忙しく、新年のご挨拶が遅れてしまった。
こちらの天候は、年末からは雪も降らず穏やかで、今朝も晴天。
外は6時で-10度程度。庭には雪が積もっているが室内は22度。
窓辺では秋に鉢に上げておいた椿やアザレア、ゼラニウムなどが、柔らかな日差しをたっぷり浴びて咲き誇っている。

          

今年は日本経済がもう少し立ち直り、社会全体が明るい雰囲気を取り戻して欲しいのだが、どうだろうか。
今年は選挙があるが、自分としてもどう投票しようかと悩んでいるので、国民の判断が気になる所だ。
だが、現在の様々な問題の根源は、戦後ずっと政権を握って来た政党が作って来た事を考えると、絶対に後戻りさせる訳には行かないとは思うのだ。

個人的には今年も菜園や庭で野菜や花を栽培し続けたい。もう1度、サツマイモにも再挑戦したいと考えている。
一方、パークゴルフをしたり、旅に出たりと、元気な内にできるだけ生活を十二分に楽しみたいとも思っている。
去年は、登山には2回行ったが、今年もまた行きたいと思う。

ところで、元旦に、高齢者専用有料賃貸住宅にいる92歳の伯母の所に行って来た。
1年2か月前に1人息子に先立たれてからは、80代の妹さんが身元引受人になって来たのだが、伯母の話によるとその彼女が、乳がんで12月に入院したというのだ。
『以前からシコリがあるのは分かっていたが、乳がんとは思わずに放置して来た。すると大きくなって膿が出て来るようになり、また足も浮腫んで歩けなくなった。それで病院に行ったところ、乳がんで、既に全身に転移していると診断された。』と話したというのだ。
医者には、手術はしても意味ないし、抗がん剤も高齢なので使えないと言われているそうだ。

何という事だろうか。私には全く考えられない話である。
以前彼女は、夫婦で貰っている僅かな国民年金の内、毎月1人分は貯金して、1人分の6万円程度で生活していると言っていた事を思い出した。
その時私が貯金の目的を聞くと、『死んだ後、子供たちから、何も残っていなかったと言われたくないから。』と言っていたのだ。
ひょっとして、自分はもう歳だから、医者に行って治療費をかけてまで生き延びる必要はないと思っていたのではないだろうか。
伯母が見舞いに行ったら、『自分は、今でもがんになったとは思っていない。』と言っていたそうである。
彼女には私と同世代の子供が2人いるらしいが、そんなに無理して家計を切り詰め、命を軽んじざるを得なかった親たちの生活に気が付かなかったのだろうかと、情けなく思う。
新年の挨拶らしからぬ内容になってしまったが、これも日本の高齢者の1つの姿なのだろう。

そんな訳で、彼女に何かあれば、血はつながっていない姪の私が、伯母の面倒を見ざるを得ないのではないかと思っているのだ。
伯母も不安らしいので、一昨日は私が相談に乗るよと伝えて来た。
伯母は92歳の今、長年の農作業で腰が曲がってしまったため、「最近、足が前に出なくて、歩きにくくて困った。」というが、他にはどこにも問題がなく元気なのが私には嬉しい。
伯母には、100歳を目指して生き抜いて欲しいと願っている。
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