花好き・旅好き女性のセカンドライフ  (ブログを始めて17年目)

幾つもの持病を持ちつつ伯母の介護をし、春~秋はガーデニ
ングと家庭菜園、その合間に旅行も楽しむ定年後の生活日記

海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(15)

2016年07月13日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪近代芸術都市「ビルバオ」を見学≫(2)

②「グッケンハイム美術館」
「ビスカヤ橋」を渡った後、バスで「グッケンハイム美術館」に行った。
中には入らなかったが、周囲を散策した。
二階の広場に幾種類もの花を組み合わせて作った大きな「犬のモミュメント」があった。この美術館の象徴なのだそうだ。
二階入り口を入ると、軽食喫茶店があった。ビールも売っていた。



 

      
階段を下りて川沿いに美術館の敷地を歩いた。屋外にも近代的なモニュメントが置かれていた。ギターを弾いてチップを貰っている人が2人いた。



        
橋を渡って昼食のレストランに行く途中、自転車用のもある信号機を見つけた。珍しかった。
街角には大きなゴミ箱が並んでいた。仕分けするようだった。

 

今回の旅行でレストランで摂る最後の食事が出された。海の町らしく鱒、鱈、海老、烏賊などの材料で作った料理が美味しかった。小カップに醤油が沢山出されたので驚いた。

 

帰国便は「ビルバオ空港」から17時発のトルコ航空機だった。
まだ明るかったので窓側席を取った。「ビルバオ」を飛び立つと太西洋側の海岸線が分かった。
その後、飛行機は地中海に出、ギリシャの上空を横切って、約4時間後にトルコの「イスタンブール空港」に到着した。すでに真っ暗だった。

「イスタンブール空港」で3時間半待った後、成田行きのトルコ航空機に乗り換え、「成田空港」には11時間50分後の19時10分に到着した。
私はスーツケースを受け取った後、大急ぎでターミナル間バスに乗り、第一から第三へ移動。何とか成田発「新千歳空港」行きの最終便、20時20分発のバニラ航空に乗って北海道に戻り、その日の内に帰宅した。

今回の旅行は、ヨーロッパの大きな都市を避け、郊外の小さな町とピレネーの景観を楽しむことを目的としていた。予想以上に感動する事が多かった旅だった。
帰宅後、待った無しの草取りなどをしながらこの旅日記を書いたためすっかり時間がかかってしまったが、完成まで漕ぎ着ける事ができてホッとしている。読んで下さった方々はどんな感想を持っただろうか。

また、記事の写真の内、走っているバスから撮ったものは、ガラスの色がかぶる形で緑色が濃い写真に撮れている。

帰国数日後に、トルコの「アタチュルク国際空港」のフロントと荷物預かり近辺でテロ事件が発生した。
今回、往復で11時間も待機した空港だったが、乗り継ぎの私達の待機場所は空港の奥だったので、例えテロが起きたとしても、被害には会う確率は小さかっただろうと思うが、それでもショックだった。
確かに「アタチュルク国際空港」は大きいハブ空港で、空港内はイラン、シリア、イスラエル、ギリシャ、パキスタン、インド、アフリカ方面、ヨーロッパ方面の各国民族や各種宗教の色々な服装の人達が、大勢行き交っていたのだった。
(待ち合い場所の椅子のたまたま隣席に座った女性に話しかけた。イスラエルとイランの人だった。帰国時の2つ向こうのゲートは、パキスタン行きのゲートで、白い長着で白い円形帽を被った男性と白い長着とスカーフを被り、鼻の上から白い布を下げて目だけ出している女性達のグループで混雑していた)
それに続いて「パキスタン」でも、ジャイカの仕事に行っていた日本人7人が巻き添えになるテロ事件が起きた。
一日も早くこうした無差別なテロが起きなくなる世界を強く望んでいる。
                                (完 成)
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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(14)

2016年07月12日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪近代芸術都市「ビルバオ」を見学≫(1)

9日目は、朝9時に2連泊した「サン・セバスチャン」のホテルを後にして、バスは「ビルバオ」まで2時間走った。
「ビルバオ」は、スペインバスク州ビスカヤ県の県都で、人口35万人の町だ。
大西洋の「ビスケー湾」から「ネルビオン川」を19km上った所にある。1300年に「アロ5世」が町を建設して以降、スペイン北部の商業の中心地として発展した。
川を下った港からは、ビスカヤ地方の鉄鉱石が輸出され、19世紀になると工業化が成し遂げられて、スペインで2番目の工業都市ともなった。
今日では1997年に開館した「グッケンハイム美術館」に象徴される「近代芸術の街」として知られるようになり、また、1893年に「ネルビオン川」の最下流に掛けられた「ビスカヤ橋」は、珍しい運搬橋として2006年に世界遺産に登録された。

①「ビスカヤ橋」

この運搬橋は世界最古のもので、エッフェル塔を設計した「ギュスターヴ・エッフェル」の弟子の一人である「アルベルト・パラシオ」が設計したという。産業革命期の人類の創造的才能を表現する建築作品として、世界遺産に指定されたのだ。 
長さ164m、水面からの高さもある橋は水上貨物船の運航を妨げず、また長い大きな傾斜橋を作らないために考案され、世界的なモデルになったそうだ。
現在、一度に車6台と人300人を2分弱8分間隔で、24時間運行されている。

私達は「ポルトガルテ地区」の橋の傍でバスから降りて運賃を支払った添乗員から券を受け取った。
先ず、エレベーターで観光用に50mの高さに作られている歩道まで上がった。エレベーターは狭く、一度に5~6人しか乗れなかったが、晴天だったので歩道をゆっくり渡りながら眼下に見える景色を楽しめた。

 



        

「ゲチョ地区」に渡ったので、エレベーターで下に降りた。下に小学生の一団が見学に来ていて、教師の説明を聞いていた。
橋の下に小さなみやげ物店があった。「ビスカヤ橋」のキーホルダーが色々売られていた。2個買った。また、0.05€硬貨に橋の絵を自力で刻印する機械が置かれていた。費用は1€。刻印した。面白かった。



 

ツアーのグループが揃うのを待って、今度は運搬橋のゴンドラに乗った。あっという間に反対側に着いた。120年以上前から運行している橋には思えなかった。とても素晴らしい体験だった。


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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(13)

2016年07月12日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪「ゲタリア」のワイナリー見学≫

旅の8日目は、「サン・セバスチャン」のホテルを出て、大西洋が見渡せるワイナリーに行った。
この地域は山が多く雨が良く降ってブドウ栽培には適していないが、35k㎡の畑の葡萄棚を1.7mの高さにする事でそれを克服して来たという。
但し傾斜地にはトラクターが入って作業ができるように、低く仕立てていると話していた。



 

ここでは8本のステンレスタンクで15~20度の低温で葡萄を発酵させ、年間300万本のボトルを生産していた。
また、10日間-2度を保って炭酸ガスを液体化すると微少発泡性のある「チャコリワイン」ができる。それを52万本生産しているそうだ。
「チャコリワイン」の試飲をする事ができた。注ぎ方はグラスから25cm程の高さから注ぐと円やかな気泡が立つのだそうだ。中には買った人もいた。

 



見学後、「サン・セバスチャン」に戻り、街中を散策した。
フランスとの国境から20kmしかなく、ビスケー湾沿いの町「サン・セバスチャン」は、「ビスケー湾の真珠」と称えられる人口437000人の美しい町だ。
1489年大火災が起きた際、木造家屋が消失してしまったため、石材を使って復興した。
1808年にフランスのナポレオン一世によって占領されたが、1813年、イギリス軍とポルトガル軍が町を奪還した。この時の戦いで町は焼き払われたというが、その後町は再建されたという。
今は商業と観光業が盛んな町で、2016年の「欧州文化首都」に指定されている。

 

 

          



         

 
         

昼食後、夕方から自由に「バル」巡りができるよう近所の「バル」を見学した。
バスク地方には、赤ワインやビールを飲みながらオープンサンド風の小型料理のつまみ「タパス」として何種類かの「ピンチョス」を食べる習慣がある。
どの店も「ピンチョス」作りを始めていた。



私は大通をぶらぶらして、途中「ビスケー湾」に出て船の写真を撮りながら、50分後のバスの待合場所「市庁舎前広場」に行った。「市庁舎」は格式がある建物だった。



最後に「ビスケー湾」が見える展望台に行って、写真を撮った。

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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(12)

2016年07月11日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪「ピレネー山脈」を横断する≫

6日目、「ゴーブ湖」のハイキングの後、「ポン・デ・エスパーニャ」の町から1時間15分かけて「ピレネー山脈」のピンキングカーブを登って「マレー峠」を越え、「ピック・ドゥ・ミディ」の麓の町「ラ・モンジ」に下った。
2115mの「マレー峠」は「ツール・ド・フランス」の最も難関の峠だ。
途中、バスの車窓から見た石灰岩の山々の景観は素晴らしかった。これぞ「ピレネー」と感じた。
僅かに生えたばかりの若草を求めて、羊や山羊が斜面に散らばっていた。









「ラ・モンジ」は、スキーのメッカらしく、標高2877mの「ピック・ドゥ・ミディ」頂上へ上るゴンドラがある。駅舎の柱に日本語を含み3ヶ国語で書いた旗が掲げてあった。写真はその一部だ。

          

60~70人ほどの人達と1時間近く出発を待っていたが、電気系統の故障とかで残念ながらゴンドラは動かなかった。
標高差1077mを15分で頂上まで行って、360度の景色が何処までも広がる大パノラマを見てみたかったが仕方が無い。
(地図に私が記入した赤い⇒が頂上の「ピック・ドゥ・ミディ」だ)



バスの運転手が気を利かせてくれ、再度「マレー峠」まで戻ってくれた。峠でバスを下りて10分間ほど展望する事ができた。
「ツール・ド・フランス」のモミュメントとレストラン、土産店があった。風が強かったので、自分を写してもらったら髪の毛が逆立っていて可笑しかった。



 






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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(11)

2016年07月09日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪生ハムの町「バイヨンヌ」散策≫

「ポー」から大西洋の「ビスケー湾」沿いにある町「バイヨンヌ」へ移動し、「聖エスプリ橋?」を渡り、旧市街で1時間ほど散策した。
「バイヨンヌ」はピレネー・アトランティック県の郡庁所在地で、バスク地方の中心都市である。
1152年、この町の女性領主だった「アリエノール・ダキテーヌ」がイングランド王「ヘンリー2世」と再婚した後、15世紀までイングランドに支配されていたという。

大きな「アドゥール川」に面して市場や独特な色の建物が並んでいた。




フランスの巡礼路にあるため世界遺産になった「サント・マリー大聖堂」があったので、ちょっと覗いて見た。
13~14世紀に建てられたというゴシック様式の聖堂で、85mの高さの2つの鐘楼があった。

 

 

教会の傍のスーパーに入り、オレンジジュースとミニトマトを買った。美味しかった。
またここは近郊で採れる唐辛子で味付けされた「生ハム」と、16世紀にポルトガルのユダヤ人が持ち込んだ「チョコレート」をフランス全土に広めた事でも有名な町。
精肉店を覗くと豚のもも肉で作った大きな生ハムが天井からぶら下がっていたし、レストランの昼食にもメイン料理として出された。(以前、北イタリアに行った時、生ハムで体調を崩した事があったため、残念ながら私は食べなかった。それで味は分からない)

           
町は1854年に鉄道が敷設されて、パリと結ばれた。

散策後は「バイヨンヌ」から近郊の「サン・ジャン・ドゥ・リュズ」の町にバスで移動した。
この町は大西洋に面している漁港として発展したが、今はリゾート地として有名だとか。
赤く塗った木組みの家が美しい。チョコレートや織物類の土産店が並んでいた。
有名だと教えられた「マカロンの店」には、この地方の名産の唐辛子が飾られていた。何でもチョコレートにも韓国の様に唐辛子味のがあるそうだ。
また、広場の前に立つホテルには、かって「ルイ14世」が滞在していた事があるらしい。



              



その後、バスは1時間で国境を越えて、スペイン側の港町「サン・セバスチャン」のホテルに着いた。






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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(10)

2016年07月08日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪フランスの「ポー村」散策≫

ルルドのホテルを9時に出発して40分程で「ポー村」に着いた。
村にしては立派な駅があって電車が走っていた。駅には改札が無く誰でも自由にホームに出る事ができる。
添乗員が駅にトイレは無いと言っていたが、駅員に聞くとホームの端にあった。

この村には公衆トレが数箇所あるが、1人が入り、終ると自動的に水が流れて清掃するため、5分以上の時間がかかりなかなか扉が開かないのだ。近代的なトイレでもこれでは使い難い。
       

駅の傍に40m程の高台があった。その上に上がる無料の「ケーブルカー」に乗った。入り口に「フニクラ」と書かれていた。乗ると2分程度で上に着いた。


            
そこには結構大きい町があり、端には昔の「王宮」もあり、庭はフランス庭園になっていた。
また、昔使われたらしい大きな井戸が残されていた。
王宮内を見学もできたが、時間的に無理だったので止めた。

 



 

この「王宮」は、1553年12月13日「フランス国王・ナバラ国王アンリ4世」(ナバラ国王としての名は、バスク語で「エンリケ3世」だ)が誕生した宮殿だ。父親はブルボン家の「アントワーヌ」、母親はナバラ国女王「ジャンヌ」だ。
1589年「アンリ3世」が暗殺されると、フランス国王に即位した。
1598年、40年近い戦争を「ナントの勅令」を出して終結した功績が残る。
母親が「プロテスタント」だったので、彼は「カトリック」と「プロテスタント」を自ら政治的に渡り歩いた王でもあった。
1610年5月14日、56歳の時、急進的なカトリック信者によって暗殺された。
愛人が56人以上いたことでも有名らしい。

1時間自由行動だったので、渡された地図を見ながらぶらぶらした。村役場があったのでそこでトイレを借りた。
奇抜なデザインの「小型電気バス」が運行していた。
役場の向かいに「サンマルタン教会」があったので、入って見た。綺麗な村だった。曇っていたためか、ピレネー山脈は確認できなかった。
帰路は「ケーブルカー」に乗らず、脇の階段を下りてバスに戻った。


 
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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(9)

2016年07月07日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪「ポンデ・エスパーニャ」の町から「ゴーブ湖」までハイキング≫

6日目は、ルルドを8時に発ち、「ポンデ・エスパーニャ」に向った。
駐車場でバスから降り、5分程歩いてリフト乗り場に行った。途中、勢い良く流れる滝があった。

 

別の滝の傍には、桜に似た花が咲いていた。
この山にはスキー場があり、冬場はスキー客用のリフトになるのだろう。そのリフトに乗った。



標高1400mからリフトで12分登った到着地点は、標高1750m程の高さだった。
そこからはスキー場とは反対側の方向に、山の斜面に作られたほぼ平坦な山道が通っていた。私達はそこを20分程、ゆっくりとハイキングした。
気温は20度ほどで清々しいハイキング日和だった。途中、現地ガイドが植物の名前などを説明してくれた。
子ども連れの女性が、私達を追い越して行った。



 



行った先には美しい山と湖「ゴーブ湖」があった。この湖は、標高1725mだそうだ。
私は湖に山が逆さに写るところを見つけ、岩の上に上って写真を撮ったり、弁当のサンドイッチを食べたりした。1時間弱の休憩時間だったが、大自然に抱かれ、絶景を独り占めした様な贅沢で素敵な時間だった。
まるでピレネーを散策するフランス人になったような心地良い気分を味わった一時だった。



同じ道を戻って、下山のリフトに乗った。眼下にリフトを使わずにハイキングしているグループや羊の群れが見えた。



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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(8)

2016年07月06日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪祈りの町「ルルド」≫

午前中「ガバルニー圏谷」でピレネーの景色を楽しんだ後、バスは午後15時半から1時間半、南西フランスにあるカトリック教会の聖地「ルルド」を目指して走った。

夕方5時頃「ルルド」の町に到着したが、まだ日が高く明るかった。
ホテルは教会から歩いて5~6分の距離にあった。部屋に荷物を置き、直ぐに聖地「ルルド」の町を通り、教会に向った。
教会前の大広場「聖域」を通り、教会に入った。中は広く荘厳な造りになっていた。


          



              
この教会は、1858年2月11日に近くで薪拾いをしていた14歳の少女の前に聖母マリアが現れたという伝説に基づいて建てられた。
少女が洞窟の水で顔を洗うように促されて湧き水に行くと、泥水が清水になったという。やがてそこが「ルルドの泉」になり、難病を治すなどの奇跡を起こす泉としてカトリック教会の信仰を集める事になったらしい。
現在では人口1.5万人の小さな町に、世界中から年間500万人の人が訪れるという。
少女は修道院に入り、シスターとなったが、35歳で肺結核で死去したという。

教会を出てから、向って右側に回りこんで奇跡を起こしたと伝えられている「マサビエルの洞窟」に行った。
傍に水道の蛇口が10個程作られていて、大勢の人々がペットボトルなどに水を汲んでいた。
また、既に大勢の信者たちが洞窟前に集まって祈ったり、蝋燭を手に洞窟に入るために行列をしていた。私達もその行列の後に続いた。


              
大中小の蝋燭が売られていて、蝋燭を寄進する場所がズラリと並んでいた。ガイドは、溶けた蝋はまた作り治すと言っていた。


          
2階のロビーから洞窟を見下ろした。背後に川が流れているのが分かった。

夜9時から蝋燭行列があるというので出かけた。2階のロビーは人で一杯だったが、その中に入れてもらった。
聖域では式典の準備がされていて、洞窟の方から蝋燭を掲げた人々が行列しながら広場を回りこみ、最後は教会に向って整列した。前部には車椅子の人達が並んでいた。
大きな音で「マリア、マリア」という歌がスピーカーから流される中、次第に夕闇が降り、蝋燭やマリア像が浮かび上がって行った。独特な雰囲気の祈りの集会だった。



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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(7)

2016年07月04日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪「ガヴァルニー圏谷」散策≫

旅の5日目は、「ヴィエリャ」のホテルを8時に出て「ガヴァルニー村」に向った。
「ガヴァルニー・カール(圏谷)」をハイキングするためだ。
この日の天気は、ハイキングにはまあまあだった。
「ガヴァルニー村」の中央でバスから降り、奥の渓谷を目指して歩き出した。
家畜やニワトリが放し飼いされ、アキレギアなどの野の花が咲くのどかな山間部の村だった。


 

          

途中から川沿いの道になり、やがて15分もすると第一展望台に着いた。中には馬に乗って行く人もいた。
 

遠くにピレネー山脈の一部、標高3000mの山々が連なっているらしいが、残念ながら雲がかかって山の全体が見えない。
雲の下の部分を写真に写した。


また、山の全体を書いた立て看板があったので、それをカメラで写した。
手前の村には、かなり上までスキーのコースが作られていて、冬場はリフトが何機も動いているようだった。(赤と緑のペンの印は筆者が記入した)

さらに奥まで歩くとホテルがあり、大きな滝が見えると言われたが、山の景色は見えそうに無いので、私は数人の仲間と途中の見晴台で眺望を楽しむ事にした。
この渓谷は、大昔、氷河が削り取って谷ができた所だという。写真赤〇の展望台から三角形で印をつけた「ガバルニー圏谷」全体を見渡すとなかなかの景観だった。

隠れている雲の下の部分では雪解け水が幾筋かの滝になって流れているのと、まだ厚い雪が残っているのは分かった。
滝が流れている屏風岩は「グランカスケード」と言われ、幅が400mもあるそうだ。

       
同じ川沿いの道を引き返す途中で何気なく後ろを振り返ると、何と今まで山を覆っていた雲が晴れ、短時間だったが頂上付近が見えた。感動した。



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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(6)

2016年07月01日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪アラン渓谷「ルション」の町散策≫

4日目、朝、スペイン側の「ヴィエリャ」のホテルを出て、フランスとの国境「アラン渓谷」に向った。
そして「ルション」の町へ。
「ルション」は温泉が湧く町で、古くから湯治場として人気がある所らしい。
自由時間が1時間あったので、教会や共同の水場、市場などを見学した。この水場から出る水はカルシウム分などの無機成分が多く、古くから老化を防ぎ、長生きの水だとして汲みに来る人が多いのだそうだ。
町角に「第一次世界大戦」の時、この町から出征して戦死した「戦没者の慰霊碑」が立っていた。見送る女性の像もあった。
 

 
市場では広場のテントでソーセージや果物を売っていた。「サクランボ」と「プラム」が美味しそうだったので、知人と一緒に買った。日本の半額以下だったが、美味しかった。


           

「ルション」の町のレストランで昼食を食べてから、「サンベルトランドコマンジュ」に向った。山脈の少し小高い場所に「サント・マリー大聖堂」があった。
添乗員の説明では、この町は2000年来の巡礼の町だという。巡礼の人達を迎える食べ物屋や宿泊所、土産物屋などが立ち並んでいた。
「サント・マリー大聖堂」は、聖堂の中が仕切られていてその中の様子は分からなかった。



外に出て一回りすると、洞窟を利用したほんの小さな聖堂があった。マリアとイエスを祀る場所のようだった。その傍に、白薔薇が咲いていた。
 
町の入り口には、共同の水場があった。

雨が降って来た。バスで山の町から降りる時、一面に黄色いエニシダが咲いた景観が見事だった。
       
その日は「ヴィエリァ」に戻り、ホテルに連泊した。

 
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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(5)

2016年06月30日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪モリエリス渓谷のハイキング≫
3日目午後は、「ボイ渓谷」の村の散策を終えてから「モリエリス渓谷」に移動した。
昔、氷河が削ったU字谷の底を片道30分程、のんびりとハイキングをして、渓谷の奥にある滝を見に行った。途中の平原に咲く高山植物の幾つかは、私の庭にある草花だった。
まだ残雪がある石灰岩の山からは、雪解け水が流れ、その水が集まって作られる滝の水量は多かった。





 

      


その後、ピレネー山脈のスペイン側にある「アラン渓谷」の町「ヴィエリャ」に行ってホテルに投宿した。




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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(4)

2016年06月26日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪「ボイ渓谷」の村の教会≫

3日目は「アンドラ公国」から3時間半、山を下った所にある「ボイ渓谷」に向った。


         


何でも10~12世紀、アンダルシア地方のイスラム教徒がフランスを侵略しつつあったために、フランス国王は軍事目的でピレネー山脈南部に新たに領地を建設して領地国を造ったという。
やがてここを統治していたバルセロナの公爵は、人口が増えるように村や城、教会、修道院などを沢山造った。
オリバ修道院長という人は、イタリアに行き、建築家や画家をカタルーニャに招いてロマネスク様式の教会を沢山造らせたのだそうだ。
2000年、「ボイ渓谷」にあるこうした古い教会9箇所が、ユネスコの世界遺産に登録された。
私達は、二つの村の教会を訪ねた。

①「タウル村」の「サン・クレメンテ教会」
小さな教会だった。祭壇周りの壁画はかなり傷みが激しかった。祭壇に置かれていたキリスト像は木造だった。
所が5~6分後に入り口が閉められ、中が暗くなると映像が流れ始めた。祭壇周囲の壁画が以前はどんなものだったかが映し出された。800年以上前の画家達の仕事に感動した。



 

 

教会には6階建ての鐘楼があった。鐘楼に登る階段は、梯子を立てかけただけのもので勾配が急だったが、何とか最上階まで登った。
鐘は鳴らさなかったが、そこから見たピレネーの景色はすばらしかった。


          

教会にほど近いレストランで、「ウズラ鳥の料理」を食べた。美味しかった。
②「ポイ村」の「サン・ジョアン教会」
村に入ると一軒の家に旗が立っていて、共同の水場があった。人は多くは住んでいないようだったが、住んでいる家には花が飾られていた。村からはピレネーの景色が美しかった。
 

 
教会の中には入れなかったが、入り口に当時の壁画が残されていた。また、裏にある岩を利用して、羊飼いの様子が再現されいた。キリスト教に関係するのかも知れない。
 

        
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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(3)

2016年06月26日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪「アンドラ公国」という国≫

「カルカソンヌ」の観光を終え、バスは18時半に1日目の宿泊地「アンドラ公国」の「ラ・ベリャ」を目指した。
暫く田園風景が続いた。温泉が湧くという「テルメ」の町の駅で一度トイレ休憩をしてからは石灰岩がむき出しになった山岳地帯に入った。


      

やがて道は急なツヅラ折りの山道を登って行った。ピレネー山脈に来たのだ。
3時間走って山脈の中の盆地になっている標高1000mの場所が「アンドラ公国」だった。
険しい山間部にもかかわらず、観光客用のホテルが沢山建ち並んでいて、高給ブランド店がならんでいた。

添乗員の説明では、フランスとスペインに共同統治を受けていた時代が長かったが、1993年3月に独立国となり、その後国連にも加盟した。
2011年までは「タックス・ヘイブン」(租税回避地)の国として知られていた。2012年までは消費税がなかったが、今は4%だ。消費税が20%近いスペインやフランスから、沢山の買い物客が来る。彼らはここで電化製品や耐久消費財などの高額の買い物をするという。また、高原リゾートを目的に来る家族連れも多い。
郵便局や裁判所、軍隊はなく、独自の切手もないが、学校はあり、民族毎の生徒にその民族の言語で教育をしているという。郵便事業はフランスとスペインが行っているので、町には両国のポストが並んで立っている。国内の郵送料は無料だ。
治安は警察が行い、国防はフランスとスペインに委ねている。鉄道、飛行場はないが、道路は整備され、ヘリポートがあるらしい。
議会は一院制で、国家収入の大半はEUからの物資の輸入税だという。
2011年現在、「アンドラ公国」に住む日本人は、4人だという。

今回の旅の初めての宿は「アンドラ公国」のホテルだった。部屋は小さめだったが、水周りは清潔で、食事も美味しかった。

翌朝は少し遅い出発だったので、朝食後にホテルの近辺を散策した。
路線バスが走行していた。見ると運転手は女性だった。
高い山あいの狭い平地に、小さいが瀟洒な教会があった。お洒落な窓の飲食店や小物店が並んでいた。また、トレッキング用品店が多かった。
 


 


 
          
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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(2)

2016年06月26日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪世界遺産「カルカソンヌ」観光≫

成田国際空港から22時に離陸したトルコ航空機は、12時間後の現地時間4時15分(日本との時差は-6時間)にトルコの「イスタンブール」に到着。
前回書いたように、当日「イスタンブール」でISによるらしいテロ事件が起きたという事で、広い空港内でフランスの「トゥールーズ空港」行きに乗り換える11時まで、何処にも行かずに待機した。
この空港はヨーロッパ、西アジア、アフリカ方面に乗り継ぐ「ハブ空港」で、国籍や民族が異なる大勢の人達が行き交っていた。

椅子に座っていた時、隣に座った体格が良く、大きな目をしたお洒落な女性はイラン人だった。私が昨年10月にイランに行ったと言うと、急に彼女との距離が近まり、片言の英語でイランの思い出などを少し話した。私が驚いたのは、イラン国内では全ての女性はスカーフを被らなければならないのに、彼女は派手な色柄の服装で化粧もバッチリ、香水がひどくキツイ。そしてスカーフは被らず、イラン人だと聞かなければ全くそれとは分からない外観だった事だった。

隣席に次に座った女性はイスラエル人だった。彼女は黒っぽい服装をし、夫と子どもを連れていた。英語が話せないので会話ができなかった。

昼の飛行なので飛行機の座席を窓側に取った。飛行機はトルコからギリシャ上空を横切り、地中海に入り、フランス国土に向った。
目的地のフランスは、日本との時差は夏時間で-7時間なので、機内でまた時計の時刻を直した。
フランス上空に来た時、下を見ると地中海が見えた。海辺に大きな町があったが、どこかは判らなかった。

 
              

「トゥルーズ空港」には3時間40分後の13時40分に着いた。

          
     

飛行機に預けたスーツケースの内、一人のメンバーのが壊れていたらしく、その手続きのために1時間待った。空港側は、同じ様な大きさのスーツケースを持って来て交換してくれたそうだ。

現地ガイドは中年の女性だった。
バスは気温25度ほどある「トゥルーズ」市内は通過して「カルカソンヌ」に向った。
見ると空港の傍に「エアバス社」があった。この町はフランスが世界に誇る「エアバス社」の町だったのだ。
バスで1時間半ほど移動しながら窓外を見ると、何処までも緑豊かな田園風景が続いていた。
小麦、大麦、トウモロコシ、じゃが芋、葡萄などの畑が広がり、時々牛や羊の姿も見えた。実にのどかな南フランスの光景だった。
フランスがヨーロッパの穀倉地帯だという事は、都市にいると分からないが、今回はそれが良く分かった。


         

やがて「カルカソンヌ」に着いた。
今この町は、人口4.7万人の「オード県」の県庁所在地である。
ここは古くからフランスのモンターニュ・ロワールとピレネー山脈の間にあり、また地中海と大西洋を結ぶ交通の要所だった所として重要視されて来た。
「オード川」を挟んだ向こう側に、二重の城壁で囲まれた城塞都市が造られていて、中に中世の城「コンタル城」が立っている。
内側の城壁がローマ時代の3~4世紀に建造され、外側は13世紀に造られたという。
川の反対側には、旧市街が造られた。



1659年の「ピレネー条約」によりフランスとスペインの国境が定められてからは、「カクカソンヌ」の戦略的な意味が失われると城は荒廃したが、19世紀の中頃、修復の機運が盛り上がって修復され今日に至っている。
1997年、世界遺産に指定され、集客数では「モンサンミッシェル」に次ぐフランス第二位の観光地になっている。
入り口の門の上には、敵を攻撃する仕掛けの穴が開けられ、城内の道は曲がっていた。今では観光客相手の店が幾つもあり、一番奥にはステンドグラスが美しい教会があった。
内壁と外壁の間を歩いたら、保育所の子ども達が内壁の木陰で遊んでいた。


          

 

            



 

    






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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(1)

2016年06月17日 | 海外旅行「西ヨーロッパ」
≪昨夜帰国した≫

先月22日に中国から帰国した後、庭の整備と豆類の植え付けを全て終わらせてまた旅に出た。
今回の旅は、トルコの「イスタンブール」空港で乗り継ぎをして、フランス南部の町「トゥールーズ」に降り立ち、南西フランスの町や村を散策やハイキングをしながら、ピレネー山脈を南のスペイン側に越え、スペインの海の町「ビルバオ」から帰国した9日間の旅だった。
山や自然が好きな上、この時期、特にテロの不安が少ない大都会を避けて決めたツアー参加だった。
(下の地図上に書き込んだ⇒は、飛行機の到着地と帰国日の搭乗地。また白線は、この地図に出ていた訪問地である。その他訪れた小さい町はこれには載っていないので悪しからず…)



7日の夜、成田を出発し、翌日、「イスタンブール」で6時間以上の待ち合わせ時間があった。
しかし、7日に「イスタンブール」でテロ事件が起きたという事で、主催旅行社からの指示で空港の外へ出ることを控えさせられ、残念だった。

実質的に航空機に乗っていた時間は、トルコまでが12時間、次いで旅行の基点地南フランスの「トゥルーズ」までは3時間40分だったから、合計で15時間40分だった。やはり隣国「中国」に比べるとヨーロッパは遠い。今回のフランスとスペインの日本との時差は、マイナス7時間だった。

地図で確認するとこの地域の緯度は「札幌」とほぼ同緯度なので、気候も植栽も北海道にとても良く似ていたが、草花の開花状況や小麦、トウモロコシ、じゃが芋、トマトなどの野菜の生育状況を見ると北海道よりも2週間ほど進んでいると思った。この差は多分、ドーバー海峡に暖流が流れているからではないかと思った。

山道をハイキングしている時に見た白樺や松、高山植物は、本当に北海道を思い起こさせてくれるものが多かったし、我が家の庭に植えてある植物もあった。また、湖沼や残雪があるこの時期の山の風景は素晴らしかった。ピレネー山脈の雪解け水も水量が多く、その流れは豪快だった。

ただヨーロッパアルプスは、草木が生えない石灰岩質の山が多いため、水道水は石灰分が多いアルカリ性で、日本の軟水とは異なっていた。
ミネラルウオーターは毎日1本付いていたが、ある日の夕食でテーブルの上にあった「水道水」を知らずに飲んで、案の定、翌朝から下痢をした。1日絶食をし、下痢止め薬を飲んで回復した。

ところが今回の旅行ルートのガイドブックが無く、事前予習をしないまま出かけたが、山奥の小さな町や村にも歴史や独特の文化遺産があった。
中でも世界一小さな国「アンドラ公国」に一泊したのは良い経験になった。
 
帰宅して見ると、9日振りに見た我が家の庭は大いに変化していた。
この時期は植物の生育が大盛で、大きくなったホウレン草や青梗菜、小松菜を、今朝は間引くように収穫して近所2軒に届けた。まだスーパーでは野菜が高いが、これからは私の庭で収穫する野菜で十分間に合いそうだ。
ニンニクの芽も伸びて来たので先ほど摘み、知人に届けたり、自家用で食べたりした。

10日前に満開だった「ツツジ」「ボタン」「ジャーマンアイリス」の花が終り、「芍薬」「かきつばた」「サツキ」が開花して来た。薔薇もポツポツ咲き始めた。ようやく北海道にも本格的な花の季節が到来したと思うと本当に嬉しい。

昨日も今日も雨だが、明日晴れたら庭の草取りと「とまと」や「隠元豆」に支えをし、農園の見回りに行きたいと思っている。
庭仕事をしながら、旅のまとめも頑張りたいので、また、訪れていただければ嬉しい。

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