花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「スリランカ」旅行(13)

2013年04月11日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

最後に、今回の旅行で土産や記念に買って来た物について書く。
「スリランカ」と言えば、代表的な物として「宝石」、「天然ゴム」、イギリスの植民地だった影響で「美味しい紅茶」の三つを上げることができる。
その他として、料理に使う多くの「スパイス」の産出国でもある。

そこで私は、行きの航空機内で飲んだ紅茶が美味しかったので、アテンダントにその銘柄を聞いて置いた。また、泊まったホテルの部屋にあった紅茶も同じだった。
ところがツアーで連れて行かれた紅茶の店は、他の銘柄だったので、最後の日に行く予定になっていた「スーパーマーケット」まで買わないで、そこで自家用、土産用として沢山買った。
棚には普通の紅茶以外に色々な種類の紅茶があったので、「レモン紅茶」「桃紅茶」「生姜紅茶」も買った。
帰宅後飲んでみたがどれも優しいすっきりした味で美味しい。

 

「スパイス」は、「ターメリック」「チリパウダー」カレー用の「ガランマサラ」を買った。いつも世話になっている近所にも少しずつお裾分けした。
カレーを作る時に少量加えると、スパイシーな美味しいカレーが出来上がる。

また、日本で売られている「十穀米」にも入っている「赤米」があったので、500g25円で買って来て、これも近所にお裾分けした。いつもの白米に少量混ぜて炊くと、美味しいのだ。
(スリランカは今回のTPP交渉国には入っていないが、もしこの先TPPで日本が輸入米に掛けている778%の関税を撤廃すると、こうした日本の1/8位の価格のまま、参加している東南アジア諸国から米が入って来る事になるのだ)

         

さらにツアーで連れて行かれた宝石店では気に入った宝石は無かったが、たまたま寄ったスーパー横の専門店でデザインが素敵な「ルビーのペンダントヘッド」があったので、価格を値切って娘に買った。それをツアーの女性達に見せたら、彼女達もその店に行き、買い求めた様だった。

他に「ナッツ入りチョコレート」の小さいのを買って見たが、熱い国のためか日本のよりも砂糖が少なく甘みが弱かった。
私の買い物は、どこの国に行ってもせいぜいこの程度だが、今回の場合は「宝石」が特別だった。




今回の短期間の旅で、内戦が終わってまだ4年しか経っていない国「スリランカ」を、少しだけ見ることができた。
政府の手でこれから国内のインフラ整備や子ども達の教育が少しずつ進められて行くと、もっともっと世界中から多くの観光客が訪れるだろう。
その時、仏教を基盤として生活している人々の素朴で穏やかな暮らし方が、経済競争に疲れた先進国の人々にとっては、魅力的に見えるのではと思った。
反面、経済的な豊かさを手に入れる過程で、人々の宗教観が変化して行くかもしれないとも感じた。

また、気候がいいし、貯水池や運河の整備はなされているので、農業の近代化が進めば農業生産力は格段に向上するとも思った。
ただ、象を始めとした貴重な野生動物の保護と、農業や観光業の近代化とをどのように折り合いをつけるかが課題だろうけど。
私は、これからの「スリランカ」の進歩、発展を、見守りたい気持ちになった。

長い旅日記になったが、この日記から「スリランカ」という小国の歴史と今を、皆さんにはどのように感じて貰えただろうか。
(完)




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「スリランカ」旅行(12)

2013年04月10日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

≪コロンボ≫
象の孤児院見学後「ピンナワラ」から100km西方の「コロンボ」までバスは3時間かけて走った。
(スリランカの首都は「コロンボ」の西10km程離れた「スリー・ジャヤワルダナプラ」だ)

ガイドブックで「コロンボ」の歴史を見ると、「コロンボ」は15世紀までは「宝石」や「香料」が取れることが知られた小さい漁村だったそうだが、16世紀にポルトガル人が来て砦を築き、地名を「コロンボ」と付けた
やがて17世紀にオランダ人たちが入植し出すと、シナモン交易の主導権を巡った争いが起き、ポルトガル人が去って、オランダ人がスリランカを植民地化した。
ところが1796年にイギリスがオランダに勝って植民地政策を進めた
その頃、コーヒー栽培が上手く行かなくなっていた畑を、イギリスは紅茶畑に変える事に成功し、「コロンボ」は発展していった。

第二次世界大戦後の1948年、スリランカは「イギリス連邦内自治国」の「セイロン」として独立し、首都を「コロンボ」とした。その後、1984年にジャヤワルダナ大統領が首都を「スリー・ジャヤワルダナプラ」に移したという。

(1956年には、シンハラ語を公用語にした事に反発してタミル族が自治を要求。1972年に仏教を準国教的宗教に制定すると、タミル族は分離独立を要求し、若者達が武装闘争に入った。一方で東部のムスリムはこれに反発して来た。
そして遂に2009年5月に「スリランカ政府」と過激派組織「タミル・イーラム解放の虎」は内戦終結を宣言したのだ)


「コロンボ」市内に入ると、都市に特有の沢山の店、人、車が醸し出す賑やかな雰囲気が強くなった。
郊外は経済的には下町地域で、中心部に行くに連れて上流地域になるのは大体世界中そうだが、「コロンボ」はそれがはっきりしていた。

人々の足は、市内を走る飾り立てられた路線バスとオート三輪車の乗り合いタクシーが担っている様だった。バスは溢れるばかりの人を乗せて、ドアも閉めずに走っていた。
オート三輪車の大半は、中国製の車だそうだ。
大型バスもインド製が日本製のバスの1/3と価格が安いので、故障は多いが一番沢山走っているそうだ。









市内を一回りした後、インド洋に面した緑地「ゴール・フェイス・グリーン」でバスから降りた。傍に高級ホテルや政府観光局があった。
小学生の一団、ジョギングをしている警察官の一団に会った。
片手の先が無い障害者の男性乞食が、私達に近づいて来た。現地ガイドに聞くと、「内戦の地雷などで障害に陥った人には申請があれば国が手当てを給付するが、その他の手当ては無い。」と答えてくれた。
夕日がインド洋の地平線に沈んで行くのを見守った。この海の向こうは、最短距離で230km程しか離れていない「インド」なのだと思った。







日が沈んだ後、スーパーマーケットに寄り、買い物をした後、最後の夕食を中華料理店で食べた。頼んだパイナップルジュースに氷が入っていたので、ミネラルウオーターで作ったものかどうかを尋ねたらそうだったので安心して飲んだ。

           

飛行場に向かい、コロンボ発23;59のスリランカ航空で8時間20分飛んで、成田には時間通り6日目11;50に着陸した。

成田からはネットで調べておいた「京成成田スカイアクセス線」の直行便を初めて利用したが、1時間35分で羽田空港国内線ターミナルに着いた。これなら3000円かかるリムジンバスに頼らなくても良いと思った。
羽田空港から北海道新千歳空港に戻り、今回も無事18時に帰宅できた。居なかった間に、大分雪が少なくなっていた。


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「スリランカ」旅行(11)

2013年04月09日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

最後に泊まったキャンディのホテルは、100年程前に英国の軍人が所有していた建物をスイス人女性が買い取ってホテルを開業したという所で、古いが庭が美しく、今ではキャンディの大きい国際ホテルの一つとして世界中から来たグループで溢れていた。
夕食も朝食もバイキングだったが、ステーキやパスタを客の注文のたびに作ってくれた。デザートの果物やケーキも豊富で美味しかった。
朝はオムレツだけでなく、果物を言うと生ジュースも目の前で作ってくれるので、私はパインアップルジュースを頼んだ。美味しくて満足できる朝食だった。

(所でグループの一人が、2日目の朝食で、「卵の黄身が白くて変だ。」と言い出した。私は「黄身の色は餌の色素でどんな色を付けることもできる。日本ではベーターカロチンやトウモロコシを餌に混ぜて、かなり黄色い色を付け、わざと新鮮そうに見せているんだよ。」と教えた。
スリランカの鶏卵の黄身は本当に白っぽい自然色だった)




≪象の孤児院≫

5日目は9時にホテルを出て、50km南の「ピナウェラ」に向かった。
ここは「象の孤児院」がある事で有名な所だ。
ジャングルで親を見失った子象や怪我をしてしまった100頭程の象が連れて来られて、保護されているのだ。
子象が成長すると、象使いや寺院に引き取られるという。

バスを降りて「マハオヤ川」が見える場所に着くと、川の上流で沢山の象が水浴びをしたり体を洗ってもらったりしていた。
やがて水の中を下流に進み、次々と川から上がって傾斜した道路を孤児院まで登って行った。
私は昔「タイ」で象の芸を見たり、象クルーズをした事があったが、こんなに沢山の象を見るのは初めてだったので、気持ちが高揚した。

 


 
その後、「孤児院」に行って象がミルクを飲むのを観察した。眼前で見る象は大きく、優しい目をしていた。
外国人に混じって、スリランカの小中学生達が大勢見学に訪れていた。
実にスリランカらしい光景だった。






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「スリランカ」旅行(10)

2013年04月08日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

≪キャンディアン・ダンス鑑賞と仏歯寺≫

午後は、3時間かけて「ダンブッラ」の南100kmの地「キャンディ」に向かった。
「キャンディ」は標高300mの盆地で、シンハラ王朝がインドのタミール族に追われて最後に辿り着いた土地である。周囲の山が天然の要塞になり、300余年に渡ってここでシンハラ王朝の仏教文化は発展したという。
見晴らしの良い丘の上から見ると、最後の王が12年かけて造成したという「キャンディ湖」の傍に、レンガ色の屋根の「仏歯寺」が見えた。その向かいに「王女の沐浴場」もあった。狭いが美しい町だった。

 

丘を下りて「キャンディアン・ダンス」が行われる会場に行き、太鼓のリズムだけで踊るダンスを1時間鑑賞した。最後に披露された「火渡り」は、畳半枚ほどの広さに炭火が敷き詰められている上を裸足の男性が渡って行くというものだった。私は見ていて気分が悪くなった。
会場は蒸し暑く、各国からの観光客で一杯だった。今まで日本人ツアーにあまり会ったことが無かったが、ここではもう二つのグループもいた。
私は2階席に行ったが、両隣はデンマークとフランスからの観光客だった。彼らは2~3人で来て、現地ガイドを雇っている様子だった。
持参した扇子を使っていたら、隣のフランス女性からあり難がられた。


 

ダンスが終わってから直ぐ近くにある「仏歯寺」に行った。
キャンディにある仏歯は、ガイドブックに寄ると紀元前543年にインドで仏陀を火葬した時に手に入れた歯を、4世紀にインドの王子が頭髪に隠してセイロンに持ち込み、「アヌラダープラ」に奉納したもの。
その後、シンハラ王朝の権威を現す物として大切に守られて来た。仏歯がキャンディに運ばれたのは1590年だという。

その日は丁度3月の「満月の日」だったため、寺は手にジャスミンの花や寄進する僧服、托鉢の容器などを持って参拝する人達でごった返していた。
毎日3回行われる金品の寄進時間には、僧達が打楽器を打ち鳴らす大きい音と、前になかなか進めない程の大勢の人達の熱気で溢れる。
私達は1人1000Rs札(日本円で800円)を握り締め、30分以上かかって二階奥の仏歯が入れてあるという金ぴかの仏塔前まで入り、そこのボールにお布施を入れた。



一階に下りて釈迦の生涯を画いた沢山の絵が飾られている部屋に入った。そこには世界中の仏教寺院から寄進された仏像が並べられていた。日本の東本願寺が寄進した仏像(左側の背が高い仏像である)もあった。
廊下の天井を見ると、独特な木造建築様式の建物だった。



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「スリランカ」旅行(9)

2013年04月07日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

4日目は、「ポロンナルワ」の西南西80kmに位置する「ダンブッラ」に行き、世界遺産「洞窟寺院」を見学する事になっていた。
ホテルから出たバスは、およそ1500年前に造られた灌漑用の「ギリタレ貯水湖」を左脇に見ながら暫く走った。
途中で象に乗っている観光客に出会った。象使いは2人共裸足だ。その方が象を使うのに良いのかも知れない。実にのどかな光景が続いた。

 

 

≪世界遺産「ダンブッラ」の「洞窟寺院」≫

「ダンブッラ」の町に入り、バスを降りて「黄金寺院」がある平地から丘に向かってバスで少し登り、そこから傾斜路を歩いて10分弱登って行った。
高さ180mの中腹に、目指す「洞窟寺院」があった。入り口で睡蓮の花を売っている女性がいたので、3本100Rs(日本円で80円)で買い、仲間にも分けた。



この「洞窟寺院」は紀元前1世紀に「ワッターガーマニー・アバヤ王」が建立したもの。この王は、首都「アヌラーダプラ」からインドから攻め込んだタミール軍によって追われ、この僧院で15年間隠遁生活をしたが、再び首都に戻ることができたお礼に建設したと言われている。
その後、歴代のシンハラ王朝の王が寺院の規模を次第に大きくして行った。
現在、1~5窟まであり全部で153体の仏像とそれを壁画、天井画が取り囲んでいた。

手前の靴脱ぎ場で靴を預け、最初の第1窟寺院に入った。壁の岩と同じ自然石でできた全長14mの涅槃像が金色に輝いていた。壁や天井のフレスコ画は15~18世紀に描かれたものだという。



 

第2窟寺院は天井が高く、とても広かった。(ガイドブックには、間口52m×奥行き23m×高さ7mと書かれていた)
50体以上の仏像が並んでいて、仏陀の生涯やスリランカの歴史などが詳しく画かれていた。
第3窟からも同様に造られていて、どこも信徒や観光客で溢れ、仏教徒の聖地ということが分る場所だった。





 






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「スリランカ」旅行(8)

2013年04月06日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

≪いにしえの都「ポロンナルワ」②≫

「ポロンナルワ」観光の最後は、「ガル・ヴィハーラ」だった。
そこには立像、坐像、涅槃像が14mもの美しい一枚岩に彫刻されていて、芸術的にも素晴らしく、じっと向き合っていると信者でなくても何か清新な気持ちが湧いて来るのだった。

 

 




4日目の朝、体調が大分回復し朝食も少し食べることができたので、ホテルの周辺を散策した。
面白いアヒルがいたので写真を撮りたいと思い、カメラを取りに部屋に戻った。再度外に出た時には何処に行ったのかいない。前庭を掃いていた青年に聞くと、あちこち探して見つけてくれた。
写真を撮ってから彼に「ここで待ってて下さい。直ぐに戻ります。」と言って再度部屋に戻り、スーツケースから念のために持って来たカップめんを取り出して急いで庭に行き、「ジャパニーズ インスタントヌードル。サンキュウ」と言って手渡した。

 


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「スリランカ」旅行(7)

2013年04月05日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

≪いにしえの都「ポロンナルワ」①≫

「シーギリヤ」から下山後、再度75kmの道のりを「ポロンナルワ」に戻り、世界遺産の古都の寺院や石仏を夕方まで観光した。

ガイドブックによると「ポロンナルワ」は10世紀末から11世紀に、インドのチョーラ王朝が大軍を送り込み、シンハラ王朝の首都「アヌラーダプラ」を征服したため、シンハラ王朝は首都を「ポロンナルワ」に移し、灌漑設備の修復、仏教の普及に力を注いだという。
その結果、「ポロンナルワ」は仏教の聖域となり、タイヤビルマから訪れる僧が多くいたそうだ。

しかしインドのチョーラ王朝は、「ポロンナルワ」にも攻め込んだため、13世紀にはシンハラ王朝は島の中心部に後退した。
「ポロンナルワ」は次第に衰退してジャングルの中に埋もれて行く事になったという。

英国の植民地になっていた1900年以降発掘されてようやく様々な遺跡が日の目を見ることになったらしい。

私達は遺跡群がある「クワドラングル」(四辺形の意)を見学した。

①遺跡「ワタダーゲ」 
遺跡の入り口には「ムーンストーン」と呼ばれる象が彫られた半円形の石が置かれていた。この石の前で靴を脱ぎ、裸足で中に入るのだ。中心の坐像は「ダーガバ」だという。

   

 

②遺跡「ハタダーゲ」
12世紀に建てられた仏歯寺院である。中に碑文が残されているという。

 

③遺跡「トゥーパーラーマ」
天井が高く、小さな天窓しかない真っ暗な寺院だった。中に置かれている数体の仏像は砂金で造られているため、ろうそくの明かりや朝夕天窓から差し込む僅かな光で、キラキラと輝きを放つ様になっていた。



④「ガルポタ」
9m×1.5mの本の形をした遺跡だ。インドの侵略者の事、周囲の小国との関係、これを造らせた王への賛辞が刻まれている。

⑤寺院「ランカティラカ」
高さ17.5m、奥行き52m、幅18mもある大きな建物で、13世紀に建てられた。奥中央に頭のない巨大な仏像があり、シマリスが駆けずり回っていた。



他にも長い間ジャングルに埋もれていたといういくつかの遺跡があったが、割愛する。
ここには猿が沢山いて、私達を和ませてくれた。下の写真は、小猿を抱いたメスの所に近くにいた雄猿がにじり寄って来て、メスにアタックし出した所だ。

また、道路の修復工事をしている人たちの大半がスカートを穿いた中高年の女性だったことにも驚いた。現地ガイドに聞くと、日給制で700~800円位だと言っていた。



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「スリランカ」旅行(6)

2013年04月03日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

≪フレスコ画の美女に出迎えられた「シーギリヤ・ロック」≫

仏教の聖地「アヌラダプーラ」で三大寺院を観光した後、南東方向110kmにある町「ポロンナルワ」までバスで3時間かけて、ホテルに着いたのは17時半だった。
ホテルは、大きな「ギリタレ貯水湖」(5世紀の中頃支配していたダートゥセーナ王が貯水湖を造った)の東岸に面して建てられた古いホテルで、フロントがある広いロビーの貯水湖側は大きく開けられていて壁がなかった。
風景がまるで額縁に入っている様に見える建て方がされていた。
キーを受け取り、部屋に入って見ると、部屋の窓も同じように大きく、風景が素晴らしかった。
このホテルに連泊した。

 

3日目はスリランカ旅行の最大のハイライトであり、難関でもある「シーギリヤ・ロック登山」だった。

所が運悪く私は、2日目の朝食で食べた何が悪かったのかは分らないが、昼前から気持ちが悪くなり、軽い腹痛を起こし、その後、寺院の観光中に数回、下痢をした。
それで2日目の昼食、夕食、3日目の朝食を抜き、その間、日本で事前に病院から処方された抗生物質を服用していたのだ。
だから体力はガタ落ち状態、しかも気温が33度位で湿度が高いと来ていた。
しかし、スリランカに来て、ここに登らない訳には行かなかった。
何人もの男性ヘルパー(頼むと15ドル程らしかったが)が声をかけてくれたが、「ノーサンキュー」と全て断り、持って行った登山用の杖を片手に頑張った。

 

  

観光客で混み合っていたのでゆっくりと25分程登った所の岩肌に辿りつくと、そこに有名な美女のフレスコ画「シーギリヤ・レディ」が現れた。
カーシャパ王が、無念の死を遂げた父の霊を慰めるために描かせたと言われているが、別に美女は天国の妖精たちで、王自身を守らせるために描かせたという説もある。
1500年前には500人の美女が描かれていたらしいが、今は損傷が激しく、18人の絵だけがその美しさを保っていた。フラッシュ撮影は禁止されていた。私は混み合う大勢の人の背後から何とか撮影した。

 

  

ガイドブックによると、この「シーギリヤ・ロック」は、昔から仏教僧たちの修練場だったという。
所が「ギリダレ貯水湖」を造った王の長男カーシャパは、母親が平民の女性だったため、王族の血筋の母親から生まれた腹違いの弟に王位の継承権を奪われるのを恐れていた。
ある日カーシャパは、父王を監禁して王位を奪った。弟はインドに亡命した。
その後、カーシャパは「全ての財産を出せ。」と父に迫ったが、父は貯水湖を指差して「これが私の財産の全てだ。」と答えたという。
怒ったカーシャパは、家臣に命じて父を殺させた

その後カーシャパは、狂った様にシーギリヤ・ロックの頂上に宮殿を建造し始め、ついに7年後、頂上に王座を置き、岩山の周りには堀を造り、ワニを放し飼いにした。
11年後、弟がインドから攻めて来た時、カーシャパは岩山の中腹で自ら死を選んだという。

弟は首都を「アヌラーダプラ」に戻し、「シーギリヤ」の王宮を仏教僧に寄進したという。
そしてこの宮殿が発見されたのは、カーシャパ王の死後1400年後の事だった。

「シーギリヤ・ロック」は、こんな伝説とも史実ともされる物語があり、復讐される恐怖に震えた孤独な王の宮殿なのだった。
中腹から少し登った所に狭いが平坦な場所があり、「ライオンの両足」の間から登る階段が造られていた。造られた当時は、ライオンの頭部もあって、その口を通って階段が造られていたらしい。
さらに頂上までは、岩肌に造られた狭い急階段が続くのだった。

  

15年ほど前に「虚血性心疾患」だと診断され、肺活量が一般の人の70%程しかない上に、絶食でエネルギーを無くしていた私は、噴き出す汗を拭き拭きやっとの思いで頂上を目指した。
最後尾だった私も1200段の階段を登り切り、標高370m(岩山そのものの高さは195m)、1.6haある頂上に着いて、皆に拍手で迎えられた。バスを降りてから50分が経っていた。

そこには、王宮跡、王の沐浴場(プール)があった。ここに孤独な王は、1000人の侍女と住んでいたのだという。
周囲360度見渡せる熱帯の森林の景色は美しかった。
かって、カーシャパという奇異な王がいたお陰で、スリランカの国には今、世界中から大勢の観光客が来ていると思うと不思議な気がした。(南ドイツにある「ノイシュバンシュタイン城」も同じだが…)

 

             

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「スリランカ」旅行(5)

2013年04月02日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

≪最初に仏教が伝来した町「アヌラダープラ」②≫

②「スリー・マハー菩提樹」
ここの菩提樹は、紀元前3世紀にインドのアショーカ王の王女が、仏陀が悟りを開いたとされる「ブッダガヤの菩提樹の分け木」を運んで来て植え付けたものだという。

時々雨が降っていたが、次々と参詣する人が訪れていた。また入り口に座り、長い間じっと頭を垂れて身動きしないお年寄り達もいた。
そこには、私が日本の寺で目にする雰囲気とは違うものがあった。
ガイドが参道の花売りから買った睡蓮の花を私達に1本ずつ渡してくれた。花だけ摘んで大仏の前の献花台に供えた。
裏に回って菩提樹の傍に行った。樹齢2300年の幹から幾つもの枝が出ていた。

  

 

③「ルワンウェリ・サーヤ大塔」
菩提樹の寺院からこの寺院までは1km程の街路樹が並ぶ石畳の歩道が続いていた。その両側は草地になっていたが、牛やヤギが放牧されていた。その傍に白鷺が沢山舞い降りていた。

 

 

間も無く見えて来た大きな塔は、紀元前2世紀に当時のドゥッタガーマニー王が建設したという高さ55mもの水泡状の塔だ。この王は侵略して来た「タミル軍」を追い返した事でも有名だ。
綺麗な白色だが、ガイドに聞くと「毎年、塗装している。」と言っていた。
白いブラウスとスカートを着た女性達のグループが、参詣していた。

  

 

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「スリランカ」旅行(4)

2013年04月01日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

≪最初に仏教が伝来した町「アヌラダープラ」①≫

首都「コロンボ」は、スリランカの南西の海に面した町だが、そこから北北東180kmの内陸に、紀元前500年から1400年間栄えたスリランカ最古の町「アヌラダープラ」があり、そこまでバスで5時間かけて行った。
今回のバスは中型だが日本製で、座席は1人2席とゆったりしていて、冷房を効かせてくれて快適だった。

この町をかって統治していたのは「シンハラ族」の王「ウィジャヤ」で、既に高度な文明を持ち、大きな人工貯水池を造る灌漑工事を積極的に行って、上下水道、農業用水を確保した結果、農業が発展した。
この貯水池は現在まで使われていて、米の二期作や野菜栽培などを支えていた。

ガイドブックによると、この町には紀元前3世紀に仏教がインドから伝えられた。
仏教は、やがてこの地からスリランカ全土へ、またミャンマー、タイ、カンボジャ、そして世界中に伝えられて行ったという。
紀元前161年以降になると、南インドからの「タミール人」の侵略が始まり、王位を脅かされる事態が続く。
4世紀初めに釈迦の左の犬歯がインドから運ばれて王権の象徴となるも、10世紀にタミール軍の攻撃の前にシンハラ王朝はこの町を捨てたという。

町の遺跡地区には大小の寺院が残されていて、敬虔な仏教徒達が大勢参詣に訪れていた。

①「イスルムニヤ精舎」
岩肌を掘るようにして造られている寺院で、本堂に大きな涅槃仏(横たわる仏像)が置かれ、周囲を多数の僧の絵が取り囲んでいた。
東京の浅草寺が塗り替えの援助をしているそうだ。
仏像を背にして写真を撮ることは、仏像を汚す行為として禁じられているので、体を斜めにして撮る工夫をした。



  

寺院の裏に回り、岩山を登った。確かに何処までも続く立派な貯水池が巡らされていて、かっての王の見識の高さと強大な権力が今まで続く水の豊かさ、農業の発展を支えたのだと実感できた。



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「スリランカ」旅行(3)

2013年03月31日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
≪スリランカという国②≫
出かけた日の私の町の朝の気温はー5℃だったので、冬の服装の上にコートを着て家を出たが、それでもJRのホームで電車を待っている間に寒風が吹きつけて来て、寒さで震えた。
その日は予算の関係で新千歳から羽田行きの飛行機に乗ったので、羽田からはリムジンバスを利用して成田まで行き、そこからは無料送迎バスでホテルに向かった。

翌朝、前日よりも薄着をし、コートは手荷物に持った。
ホテルから無料送迎バスに乗り、成田航空第2ターミナルに行って旅行会社のツアーに加わった。

「スリランカ航空」の機内はかなり換気が強くて寒い位だったので、私は手荷物のコートを出して羽織り、膝には毛布をかけて寝た。
しかし、女性キャビンアテンダントの制服は「サリー」なので、背中と胸、腹部の肌が露出しているのだ
聞くと、「寒い。」と言っていたので気の毒に思った。
しかもスリランカのサリーは、前にインドで見たサリーよりも露出度が大きいと感じた。

帰りの機内も同じ位の室温だったので、くしゃみや咳をしていた乗客が何人もいたし、アテンダントの中にも咳をしている人がいた。
服装の第一の目的は、気候の変化に応じて体温を保持し、身体を健康に守るためのものだと考えると、スリランカと成田の温度差は凄く大きいのだし、機内の気候状況も特別なのだから、肌の1/4近くを露出した薄い生地のサリーを、常に制服として強要することに問題があるのではないだろうかと思った。

スリランカには現地時間の20時に着いた(日本との時差は、-3.5時間)が、空港は夜だというのに30℃近い気温があるように感じた。

ホテルの部屋に入ると、天井に大きな扇風機が付いていた。
早速回したが、寝る時は止めた。朝までに汗をかいた。
シャワーをした後、上半身は木綿のシャツ1枚だけ、下半身はGパンだけという真夏の服装になって、いよいよ始まる気温34~36℃のスリランカの観光に備えた。
しかし、バスやレストランは冷房が効いているので、上着と綿のストールを手荷物に持った。
陽射しが強烈なので、帽子とサングラスも必らず身につけた。


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「スリランカ」旅行(2)

2013年03月30日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
≪スリランカという国 ①≫
予定通り旅行の全日程を終えて、27日23;59にスリランカの「コロンボ空港」から帰国の途に着き、28日11:50に「成田国際空港」に着いた。
スリランカ航空は成田とは直行便で結ばれていて、時間的なロスが無いためか往復とも機内は95%位の搭乗率で混んでいた。

アテンダントは男性もいたが、終始和やかに仕事をこなしていた。
行きの機内で日本語放送を担当する女性アテンダントと言葉を交わしたが、彼女は会社から派遣されて千葉の日本語学校で1年間学んだという経験の持ち主だった。

 

スリランカは4年前に内戦が終結してやっと治安が安定し、現在国を挙げてインフラ整備と経済発展、国民の生活安定に力を入れているので、成田~コロンボ間の路線で多くの日本人観光客を呼び込みたいのだろうと思った。

また、スリランカは、国民の70%が仏教を信仰している(キリスト教11.3%、ヒンズー教10%、イスラム教8.5%)という仏教国のためか、人々の表情が穏やかで、言葉使いもおとなしく、旅の緊張が癒される国だった。観光地なら必ず居る物売りも、静かな言葉で話をし、断るとしつこくする人はあまりいなかった。

ガイドの話では、毎月満月の日は休日なので、家族で寺院に参拝に行くのだという。6月の満月は連休になるそうだ。
観光の最終日が3月のフルムーンの日に当たっていた。「仏歯寺」という世界遺産を夕方訪れたが、花や仏具、お金を供えようとする参拝の人達でごった返していた。
仏教のお坊さんは、歴史的にポルトガルやイギリスの植民地だった時に、独立運動の先頭に立っていたという事で、今でも人々の信頼と尊敬を集めていた。
こんな訳で、日本の様に葬儀と法事の時だけ頼られる寺院とはかなり違っているように感じた。

それと、世界遺産の寺院に入る時は、全ての人が履物を脱ぐしきたりになっていた。
にわか雨が降り、赤土の地面に水溜りができていても、入り口で靴を脱いで靴下一枚か裸足になって参詣した。
境内の地面は必ずしも綺麗ではないので、小石が多い所では本当に足裏が痛かった。もっと体重を減らして置くと良かったかも知れないが後の祭りだった。
それに加えて、参詣は白い服ですることになっていて、事前にそのことを私達は添乗員から連絡されていた。

 
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「スリランカ」旅行(1)

2013年03月22日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
今日の午後の航空機で、5泊6日の「スリランカ」旅行のツアーに参加するため東京に出発する。
1泊して明日23日13;20発のスリランカ航空直行便で出発する。
この時期の新千歳空港は、稀に雪害で航空機が欠航することもあるので、念のために私は前日の今日、成田まで行っておく事にしたのだ。

新千歳~成田までの往復チケットを旅行社に頼むと4万円もするので自分で購入することに。しかし、今回は価格的に私の許容範囲より高かった。それで結局、新千歳~羽田間の安い「エアドゥー」を取った。
羽田から成田へは、重いスーツケースがあるので片道3000円のリムジンバスで行こうかと思っているが、それを入れてもかなり安く済みそうだ。
ホテルもいつもの様に成田空近くのホテルをインターネットで予約した。

ところで「スリランカ」は、「インド」の東南端の海に浮かぶ小国で、昔「セイロン」と言われていた
面積は北海道の80%、人口は日本の1/5程。
気候は、熱帯性モンスーン気候で、雨期と乾期があり、年中平均気温は30度と高く猛暑らしい。今の時期は場所によっては最高気温が34度にもなるらしい。
そんな訳で今回の1番の心配は、まだ氷点下という北海道との気温差に私の体が着いて行けるかだ。(当地、昨日は真冬日で吹き荒れた1日だったし、今朝はー6度だ)
 
また、世界遺産「シギリヤロック」では、1200段の石段を登るらしい。
「登れる所まで登りたい。」と添乗員に言うと、「一方通行なので、できない。」と言われた。どうなることやら。

「スリランカ」の入国には「電子認証ビザ」が必要なので、今回も旅行社には頼まずに自分でパソコンで申請して入手した。金額の30ドルはカード払いをした。
旅行に出る度に、こうした色々な挑戦をするのも良いかなと思う。

帰国は28日の予定。
では、気をつけて行って来たい。   
 
   
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ネパールの旅 (9)

2010年12月08日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

ダルバール広場の一角に木造の大きい建物があった。女神クマリの化身が住むクマリの館だった。①
クマリは、ネワール族の僧侶、カーストの金細工師サキャの家族の中から、怪我や病気をしていない美しい少女が選ばれ、親と別れて初潮が始まるまでこの館に住み込むのだ。
ガイドの話では、生き神様なので、泣いたり、笑ったり、怒ったり、大きい声で話したり、走ったりしてはいけないのだという。
普段は姿を見せないのだが、私たちのグループが行ったために30秒程、中庭の3階の窓(3つの窓の真ん中)から顔を見せた。②
写真撮影は禁じられているので撮れなかったが、化粧を施したまだ7歳という痩せた無表情の少女だった。

クマリが去ってからガイドに言われて、各自お布施を箱に入れた。
ネワール族の人達のクマリ信仰は根強いらしいが、幼少期からずっと館に閉じ込められたクマリが、初潮後一般人になっても、社会でうまく生きて行くことが難しいらしい。その内、国際社会から人権問題として指摘される日が来るのではと、私は思った。

 ① ②

ダルバール広場を後にする頃には、夕日が傾いて来た。
一層混みだした狭い路地を、人混みを掻き分け、大きい道路の信号がない交差点では車に轢かれないようにゆっくり渡り、1km以上歩いてバスに戻った。道路にはごみが散乱していた。
ガイドは、「本当は、この辺を見せたくはないのだけれど。」と話した。しかし、これも今のネパールの現実だった。

夕食は、ネパール料理店ポーザングリハで食べた。アルコール度が55度というネパールの酒が1人に20cc程出たが、私は気が付くと飲んでしまっていた。




6日目の11月24日の午前中は、オプショナルツアーで小型飛行機に乗り、ヒマラヤ上空を遊覧飛行する予定だった。
私は事前申し込みはしていなかったが、今まですっきりとしたヒマラヤ山脈に出会っていないので申し込んだ。
オプショナル代は、25000円+17ドルだった。

ホテルを6;20に出て、遊覧飛行の飛行場に行った。手荷物を検査され、身体検査も3回受けた後、やっと飛行機に乗り込んだ。③
左右に1列ずつ座席がある18人乗りの小型機だった。④

 ③ ④

いよいよ飛び立ち、上空の雲の上に出ると、横のまどからヒマラヤ山脈が見えだした。⑤
しばらくすると1人ずつ女性アテンダントに招かれて、交代で操縦室に入り、前方の窓から景色を見たり、写真を撮らせてくれるのだ。
中には操縦士に山の写真を撮ってもらった人もいた。
そこには座席から見るのとはまるで違う景色があった。最高峰のエヴェレスト、8848mの三角形の頂上が目の前にせまった。⑥
私は3回操縦室に入って、全部で32枚の写真を撮ることができた。⑦
飛行時間は55分間だったが、まるで夢のような時間だった。

 ⑤ ⑥

 ⑦

これでネパールの旅は終わった。
ホテルに戻って休憩してから、スーツケースを積んだバスでカトマンドゥー空港に行き、13;50発のバンコク行きに乗りこんた。
バンコクで同じタイ国際空港の22;35に乗り換えたのだが、タイ空港では男女別に身体検査を4か所で受け、手荷物も最後は全部中まで開けて見せて、やっと搭乗することができた。
バンコクから5時間40分かかって成田に着き、成田からは新千歳空港行きに乗り換えて、予定通りの時間に、無事、帰宅できた。




今回のネパールの旅は、天気が悪くて展望台から目指す山が見えなかった事を差し引くと、80点位だったかなと思っている。
今まで良く知らなかったネパールという国を知ることができたのは旅の何よりの収穫だったし、憧れの世界の最高峰も飛行機から見る事ができたからだ。

しかし、1953年に世界最高峰のエヴェレストが初登頂されてから、ネパールは観光国になったが、現在、まだ人口の8割は農村部に住んでいる。
2008年5月28日、選挙で選ばれた議会が王制廃止と民主連邦共和制を決議して王制は廃止されたが、ガイドブックによると、インド系民族の南部タライ地方に住む「マデシ」は、カースト制の低位に置かれて住民証を得られず、差別され続けているのだという。
人口の4割を占める彼らは、ネパールからの分離独立運動をしているともいう。
今後ネパールの民主化が進み、経済が発展して治安が安定すれば、国民の生活水準も徐々に上がって行くだろう。
その時はネパールが、世界の人々の憧れの地になるのではないだろうか。いや、そうなって欲しいと思った今回の旅だった。
(映画「2012」では、地球の大変動が起こった時、最後の砦はヒマラヤの高地と南アフリカだとして描かれていたのを思い出す)
この記事を読んでくれたみなさんは、ネパールにどんな感想を持っただろうか。(完)


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ネパールの旅 (8)

2010年12月06日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール

フェワ湖の小島から足こぎボートで戻った後、ポカラの町に行き、坂を上って丘の上にある小さなヒンズー教の複合寺院・ビンドゥバシニ寺院を見学した。①
殺戮神ドゥルガー、繁栄神ヴィシュヌ、笛の神クルシュナが祀られていて、ドゥルガー神の洞では、毎朝、羊や鶏が生贄にされているという。
決まった屠殺場がないので、ここで祈りを捧げながら屠殺して売ったり、家庭で食べたりするのだろうと思った。人が生きるために動物の命をいただくという現実がすっかり遠くなってしまって、何も考えずにスーパーから買って来る私達との違いを考えさせられた。
この丘にブーゲンビレアの大木があった。② 丘の下を見ると白っぽい桜の花が咲いていた。③
桜は先日の山道で何度も見たし、真っ赤に色づいたポインセチアの大木やハイビスカスの木もあちこちで見かけた。標高は高くてもネパールはやはり南国だと思った。

 ① ②

 ③




5日目の11月23日は、ポカラ空港から、10;10の小型飛行機に乗って、また標高1300mのカトマンズに戻った。
今度は来た時と逆の左の窓側にヒマラヤ山脈が見えるはずだとして航空機の座席のくじを引いたが、私は当たらなかった。しかし、飛んでみると、先日と違って左の人にも山は霞んで見えなかったのだ。

10;45にカトマンドゥー空港に着き、直ぐにバスで市内にある世界遺産の観光に向かった。
最初に行ったのはカトマンドゥーの東北6kmにあるボダナートだ。
ここは昔からチベット仏教徒の巡礼地として栄え、1960年代以降、中国のチベット武力併合後は亡命チベット族が住み着いた場所だという。
ここには、15世紀に再建されたネパール最大のストゥーパ(仏塔)があった。④ 
台座やドームなどは、地、水、火、風、空という宇宙の5大エネルギーを表わして建てられていて、四方にある知恵の目は世界を見ているという。
ストゥーパの周りには、土産屋、仏具店などが取り巻いていて随分賑わっていたが、⑤ その中にタンカの書き方を教える学校があったので、写真を撮らせてもらった。⑥
その後、チベット料理店で昼食をした。「ギャコク」という火鍋が出たが、日本の鍋ものに似ていた。⑦

 ④ ⑤ ⑥

 ⑦

またバスに乗り、今度は中心街に向かった。
バスを降りてから少し歩くと、ダルバール広場に着いた。
午後2時を過ぎた狭い広場は人波でごった返し、⑧ 前に書いたが、その中を大きな荷物を背中に乗せて運ぶ荷役が次々と現れたので驚いた。1つ30kgもの重さがあるそうだ。
壁際に並んで野菜を売る女性たち、水牛の乳で作ったヨーグルトを売る屋台⑨、ろうそくや線香を売る人達もいた。
若い女性数人が、ポシェットを20個で1000円と言って私に付きまとって来た。要らないと言ってもずっと離れない。最後には30個1000円という売り子もいた。

 ⑧ ⑨

喧噪の広場の隅にガルーダ像があった。⑩ シヴァ寺院の階段では人々が休んでいた。⑪
12世紀に建てられたというカスタマンダプ寺院は、昔は巡礼宿だったとか。⑫

 ⑩ ⑪ ⑫

18世紀に建てられた木彫りの装飾が美しいシヴァ・パールバーティ寺院の上の窓からは、シヴァ神とその妃パールバーティーの人形が行き交う人々を見下ろしていた。⑫
シヴァの化身・カーラバイラヴの色鮮やかな像があった。この神は恐怖の神で、昔はこの前で嘘をつくと死ぬと信じられていたそうである。⑬ 
像の前もごった返していた。そこで露天を出している男女がいたが、「こんな所で商売をするのは禁じられている。」とガイドが話した。しかし、そのすぐ横が警察署なのだった。

 ⑫ ⑬









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