花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

海外旅行「中国シルクロードの旅」(10)

2016年06月07日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「西寧」市内・市外観光≫(2)

街中を移動中に芋を売っている人や将棋?をしている人たちを見た。
 
③「青海省博物館」
ここには「青海省」の古代~現代の陶器、金細工、絵画などが展示され、村々に伝わる行事が泥人形で再現されていた。

(唐時代618~907年)
 
(清時代1616~1911年 仏像) (明時代1436~1449年 仏像と掛け軸)
 
(清時代1616~1911年 壷)


           
      (現代民間絵画 1988年栄誉授与された作品)

(ある村の古老の遊戯)

7日目は午後15時40分の国内線飛行機で「西寧」から「上海」に2時間40分で飛び、その日は「上海」のホテルに泊まった。
「上海」は雨が降っていて蒸し暑く、日本の梅雨の様だった。

8日目、「上海」発8時15分の国際線で「新千歳」空港に戻った。所要時間は3時間15分だった。
今回も得るものが多かった中国シルクロードの旅を楽しみ、無事に終える事ができて本当に良かった。
長くなったこの旅行記に同行していただいた方々は、どのような感想を抱いただろうか。
現在、国の内外に様々な社会問題を抱えている中国だが、雄大な自然と長い歴史の上に、今、14億人の人々が生活している。
私には、まだ広い中国で行き残している地域がある。次にまた中国に行くのは、何時になるだろうか。
                             (完

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(9)

2016年06月06日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「西寧」市内・市外観光≫(1)

「西寧」は「青海省」の省都で人口196万人、周囲を山に囲まれた盆地にできた町だ。
町自体が標高2275mという高地にあるため、年間平均気温が5.6度と涼しく、周辺から多くの人々が避暑ができるこの町に次々と転入して来る。(実際、朝の気温は6~7度位だった)
そのため、30階建てのマンションが林立し、今も建築ラッシュが続いていた。私は数段階段を登るだけで息が切れるのに、高層ビルの上には住めないと思ったが。(ガイドに聞くと、価格は中層階が最も高く、低層階、高層階は安いのだそうだ)
町の北東には「湟水」川、中心には「南川河」が流れていて、車も多く、町の中心部は片道6車線だった。
また「西寧」は、ラサまで走る「青海高速鉄道」の基点の駅もある。



 



①「南禅寺」
ここは町の南西の山の斜面を利用して建てられている中国の寺院だった。急な坂と階段を登って本殿に辿り着いた。
信者が線香を奉納しながら祈っていた。チベット仏教の「タルチョ」がはためいていた。蛙の形に加工した石が置いてあった。


       



 

       

②「タール寺」
ここはチベット仏教の「ゲルク派」寺院として1560年に創建され、学問センターとして今でも500人以上の修行僧が生活しているという。
広場に立つ「如来八塔」は、仏の八大功徳を表すらしい。



       

「大経堂」の傍の「大金瓦殿」には、開祖ツォンカパの大銀塔があった。ガラス越しにしか見られなかったが、宝石を散りばめた高さ11mの塔だった。


「五体投地」をしている若い修行僧や信者が沢山いた。私には何か痛々しく感じられた。また1度回すと1冊の経典を唱えた事になるという「マニ車」がここにもあった。
       
また現在、中国政府は観光客を「タール寺」に呼び込むために建物を次々と新築していた。少し前まで宗教を阻害していた政府が何故と疑問に思った。

丁度「仮面祭り」が行われる時間になったので、広場に行き、階段に座って待った。
動物や仏、悪魔の仮面をつけた僧達が、打楽器の演奏に合わせて優雅な動きが遅い踊りを踊った。小さな少年の僧は猿の仮面を被って踊った。
幾つかの踊りがあったが、説明がないので意味が分からなかった。信者は分かるのかもしれない。


 

「タンカ開帳」という行事が翌日あるというので再度出直したが、雨が降って中止になった。

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(8)

2016年06月06日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪黄土高原をバスで「西寧」へ≫

「七彩丹霞(カ)国家地質公園」を観光した午後は、4000mの峠を2つ越えて、340kmの行程を8時間ひた走り、「青海省」の省都「西寧」まで行った。
峠の3400mの所で青空トイレを使った時、空気が薄く呼吸が苦しかった。
山の雪解け水が川になっているところを暫く進むと、ダムが造られていた。その周辺では、ポプラの苗を沢山育てていた。


         



         



         



所々に5月15日から1ヶ月間、採取が解禁された「冬虫夏草」を取る人達のテントが点在していた。ある場所では数十人もの人達が一斉に「冬虫夏草」を取っていた。
自身がチベット族だというガイドは、「冬虫夏草」は3500m以上の所に生える万能薬で、とても貴重なものだ。1本50元はするので、遊牧民や農民は解禁のこの時期、1ヶ月ほど一斉に山に入るのだと説明してくれた。
バスの中で実物を見せてくれた。3~4cmの幼虫の先に草が生えたものに見えた。(下の写真は、西寧のスーパーの売り場で写したもの)


             

またガイドは時々窓外に見える遊牧民が放牧している「ヤク」について、干し肉にして食べたり、毛でテントを作ったりするのだと説明してくれた。


このあたりに住む「チベット族」の子どもは、7歳から小学校に入るが、10日間学校に寄宿し、休みの4日間は家にもどるという生活をするので可哀相だと話してくれた。
小学校では中国語の他にチベット語も学ぶ。中学、高校、大学では、英語、日本語も学ぶそうだ。そうしないと仕事に就き、自立できないのだという。

バスは景色が変化する山道を走り終わり、10時近くにやっと「西寧」の町に着いた。

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(7)

2016年06月03日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「七彩丹霞(カ)国家地質公園」観光≫

5日目の朝、早く起きて「張エキ」のホテル近辺を散策した。
13世紀に「東方見聞録」を表した「マルコポーロ」が滞在した事があり、その石膏像が立っていた。
           

また「張エキ第一中学校」もあった。生徒達はジャージー姿で登校していた。女生徒に声を掛けて写真を撮らせてもらった。
  

「昔の町並み保護区」という一画があった。



現代の建物の屋根の多くに、太陽熱で温水をつくる装置が設置されていた。
      

8時半にホテルを出発して、南西40kmの地域にある「七彩丹霞(カ)国家地質公園」を目指した。
途中の道路の街路樹は、背が高いポプラが大半だった。その幹には地上1m程の高さに石灰が塗られていて真っ白だった。虫除け効果があるそうだ。
ポプラと柳は乾燥と寒さに強いため、砂漠に適しているとガイドが説明した。
また、この地域では、小麦、トウモロコシ、じゃが芋、とまと、葉菜類が植えられていた。
バスから発芽して間もないじゃが芋畑とトウモロコシ畑が見えた。
ピンク色の花が咲いている木があったので、聞くと「ザクロ」の木だそうだ。


「七彩丹霞(カ)国家地質公園」に着いた。この公園は、東西45km、南北10kmにもわたる広大な地域で、虹色の断層が見られるのである。
バスを降り、展望台に向うリムジンバスに乗り換えた。
 

展望台は5箇所あった。どこもバスを降りてから坂道や階段を数十段上るが、展望台からの景観は絶景だった。
かって海底だったこの地域は、赤色は鉄分、黄色は硫黄分、青色は銅、黒は炭素、白は石灰分の鉱物を多く含む海底の幾重にも重なった地層が隆起して地上に現れたものだ。
その時、水平に隆起しないで斜めになったり縦になったりしゅう曲したりして、この地層ができ上がったらしい。表面に塩が噴き出している所もあった。
私は遠い原始の地球に思いを馳せながら、展望台を回った。軽登山の様に足腰が疲れたが、心が躍る感動的な時間を持てた。


  
           
          

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(6)

2016年06月03日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪高速鉄道で「柳園」から「張掖(エキ)」へ≫
「敦煌」の観光を終えた翌日の4日目午後は、バスで「黒ゴビ砂漠」と言われ≪高速鉄道で「柳園」から「張掖(エキ)」へ≫る地域を北上して、高速鉄道が止まる「柳園南駅」まで200kmの距離を2時間半かけて走った。途中、白い塩が沢山砂漠の表面に浮き出ていた。また風が強いので、アジア一の風車発電を計画中だという。

「柳園南駅」はできたばかりで、周辺地域も次々と建物を建築中だった。駅舎内に小さなコンビニ風の店があって、カップ麺や菓子などが売られていた。別の場所に湧いた湯の給湯器も設置されていた。


 

そこから16時28分の高速鉄道で、530km東の「張掖(エキ)」まで3時間半の旅をした。
座席は指定席だったが、運賃が高額(私達は「張エキ」まで5000円だった)なためか、地元の人たちは少なく空席が多かった。
窓外に広がる景色は、砂漠から次第に農地や放牧地が見え出し、鉄道の右側遠くに連なる「祁(キ)連山脈」を見ながらしばしゆったりとした時間を楽しんだ。
「張掖」に近づいた頃、植えたばかりの田んぼや大型の家畜小屋も見えた。


             


             
                 
「張掖」は「祁連山脈」の北側に位置する町で、漢の武帝の時代に匈奴に勝ち、張掖軍を置いた時からシルクロードの主要な交易の町として発展したという。
現在は人口131万人で、古くは「マルコポーロ」が1ヶ月滞在した事があるという。


             



その日は「張掖」のレストランで夕食を食べてからホテルに入った。
             

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(5)

2016年06月03日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「敦煌」観光≫

「敦煌」は甘粛省の西にある人口14万人のオアシス都市で、交易の町であり、漢代には西域のに対する最前線の軍事拠点だった。
しかし、中央権力の支配が弱まると、常に異民族が侵入して来て占領された。
郊外15kmの所にある「莫高窟」は、中国三大石窟の一つで、支配者が変わったとしてもいつの時代にも造られ続けたという。
現代の「敦煌」の町は「漢代」に造られたものであるという。

①「鳴沙山」と「月牙泉」観光
「敦煌」の南5kmの所に東西40km、南北50kmの広大な砂漠があるが、それが「鳴沙山」だ。
砂山を人が滑り降りると、大きな音が出る事から名づけられたらしい。
入り口から電気自動車に乗り、砂山の傍まで行った。40分程の自由時間に、思い思いに高さ100m程の砂山を登った。気温は31~32度あり、乾燥した砂が熱気を照り返して来る。結構登った所で休んでいた時、子どもを抱いて登って来た父子に写真を撮らせてもらった。
帰りは好き好きに「ラクダ」に乗ったり、電気自動車で帰るのだが、私は電気自動車にした。


           

「月牙泉」は、谷あいに湧く東西200mの三日月型の泉で、深さが5mある。枯れた事が無いらしい。
「鳴沙山」と「月牙泉」は「敦煌」ならではの景観だった。
         
          

その夜泊まった「敦煌」のホテルと、ホテルの近くの町の様子である。
中国もここまで西に来ると、なかなか日がくれない。本当は国内にもう1~2時間時差を設けても良いのにと思った。



            



            



②世界遺産「莫高窟」観光

4日目はいよいよ「莫高窟」へ行く日だ。
8時半にホテルを出発して、「莫高窟」の前知識を得る場所に行った。そこは凄く混んでいて、私達は9時からの入場を指示されて待った。45分間のビデオは、「敦煌」に人が集まり、交易の中心地になった経緯と「莫高窟」の紹介だった。


その施設からは写真のリムジンバスに10分乗り、「莫高窟」の入り口で降りて橋を渡り、山肌に造られた石窟を見学するのだ。

専門の研究員のガイドで、幾つかの石窟寺院に案内された。写真撮影は外部はOKだったが、内部はNOだった。

「莫高窟」は紀元366年に「楽尊」という僧が造営をし始め、その地の支配者が漢民族、チベット族、モンゴル族などと変わっても造営が続けられたそうだ。
ガイドブックによると石窟の数は734にも登るという。
1600年以上前から、岩を削り、壁に無数の仏の姿を刻み込んで来た数知れない多くの彫刻師たちや画家たちは、この厳しい砂漠で何を思ったり祈ったりして仕事をし続けたのだろう。
見学時間は僅か30分だったが、ガイドの説明が分かり易く、満足した。

 
         



           



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海外旅行「中国シルクロードの旅」(4)

2016年06月02日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「西安」観光≫(2)
起きてカーテンを開けると、13階の部屋の窓からは、高層ビルとその下にある古い建物が見えた。
 

 
バスに乗って郊外に向う途中は、新しいビルが沢山建ち並ぶ光景が目に入って来た。
郊外に出ると「火力発電所」があった。
 

             

③「漢陽陵博物館」
「漢陽陵博物館」は3日目ホテルを出て、バスで1時間行った所にあった。
朝の「西安市内」をバスから写した。

「漢陽陵博物館」は、前漢の6代皇帝「景帝」(劉啓)(紀元前188年~141年)とその皇后を祭った合奏墓だった。
「景帝陵」Aと「皇后陵」Cの間に「地下遺跡博物館」BEがあった。Dは「南関門遺跡」だ。
20年間の発掘で、5k㎡に200の陪葬坑と5000の陪葬墓が見つかり、その中に武士や女官などの陶製俑が見つかっている。


          
入り口でビニールの足カバーを履いた。
「地下遺跡博物館」は、全体に照明が暗く、通路の足元に厚いガラスが敷いてあって、地下3mほどにある遺跡を上から見下げる見学の仕方になっていたため、写真が上手く撮れなかった。
手がない小型の人形が沢山あり、馬車の車だと思われる輪も見えた。豚などの動物を形取ったものもあった。


 

 

観光後、「西安空港」から国内線の飛行機に乗り、1400km離れた「敦煌空港」まで2時間半、西に飛んだ。
途中から窓外の景色を見た。まだ残雪を抱いた「祁(キ)連山脈」が続いていた。雄大な光景だった。
その景色もやがて砂地の砂漠に変わって行き、「敦煌」の郊外が見え出した。


             



             



             

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(3)

2016年05月30日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「西安」観光≫(1)
上海空港で国内線に乗り継ぎ、2時間40分で「西安空港」に着陸した。しかし、ホテルに着いたのは23時近かった。
翌朝の2日目は、8時半にホテルを出発して「明代の城壁」から観光が始った。

①「明代の城壁」

この城壁は今でも西安市内の旧市街を四角く取り囲んでいて、高さ10~12m、底幅15~18m、頂上幅12~14mあり、東西に4256m、南北に2708m、周囲はほぼ14km近い距離で、古代の中国の城壁としては最も完全な状態で残されているものだ。
建設されたのは今から600年前、明の国の開祖「洪武帝」の時代の1370年~1378年だそうだが、僅か9年でこれだけの土木工事をやり終えたことに驚く。「洪武帝」の権力の大きさが想像できた。

私達が訪れたのは、「安定」と名づけられた「西門」だった。
因みに「東門」には「長東」、「南門」には「永寧」、「北門」には「安元」と名が付けられ、矢を射れる物見やぐらが設けられていたという。「南門」なら城壁に上る事ができるのだとか。残念だった。


 
 

城壁の直ぐ横に車道が造られていた。これは後で改良工事をしたものではないかと思った。



②「秦の始皇帝の兵馬俑」
城壁を見た後、バスは郊外を北東方面に50km、1時間走って、先ず窓外に「始皇帝陵」を見つつ、「秦の始皇帝の兵馬俑」に着いた。
私がここに来るのは3回目になるが、展示館の周辺の整備が進み、バスの駐車場も遠くなっていた。
7~8分歩いて入り口に入り、すぐ横のトイレを借りて驚いた。
世界遺産の博物館のトイレがひどく汚く、紙や使用した生理用品が隅の屑篭から溢れて散乱していたのだ。朝から一度も掃除されていないようで、その目を覆いたくなる有様に心が痛んだ。(帰りに展示室内のトイレに行ったが、そこは綺麗だった)

ここは42年前の1974年に、井戸を掘っていた農民達によって偶然発見された遺跡である。その時の発見者の一人「楊さん」は、みやげ物店を経営していて、まだ健在だと聞いた。
博物館は1号坑、2号坑、3号坑、文書陳列庁などに分かれている。まず、階段を登って1号坑に入った。


東西230m、南北62m、総面積14260㎡ある広大な体育館風の施設が5mの深さに掘利下げてあり、そこに兵馬俑が38列並んでいるのだ。
これまでに出土した陶製の兵馬俑は、兵2000体、戦車50輌以上(木製戦車20輌)だという。

入り内から全体を見下ろした時、一斉にこちらを向いて立つ兵馬俑にひどく圧倒される。
ずらりと立ち並ぶ「歩兵」や「戦車隊」の一人々々は、顔、髪型など皆微妙に異なっていて、当時の始皇帝が納めた広大な領地内の様々な民族が兵として参加していたことを物語っている。
「馬」の俑も実に写実的に造られていて、何度見ても驚く。


  
          

            

現在、発掘品を修復中の場所もあった。
中国の小中学生らしい生徒達が教師に引率されて見学に来ていた。実際に本物に触れられる機会を得られる中国の子ども達は幸せだと思った。
 

また、始皇帝の4頭立ての「銅馬車」と発掘品を展示してある坑の内部は、暗く凄く混み合っていたが、私は人を掻き分けてガラスで保護されている「銅馬車」を写した。


始皇帝は、これだけの数の兵馬を実際の兵隊や馬で自分と共に殉死させなかった事を思うと、私はいつもホッとするのだ。しかし、皇帝の墓を造る作業に携わった人々は、墓の場所の秘密を守るために皆殺されたとも聞く。

兵士や指揮官を身近に見られるよう一体ずつガラスケースに入れられた場所もあった。今にも動き出しそうな兵の様子に当時の製作集団の表現力は素晴らしかった事が良く分かる。
オリジナルは彩色されていたというが、発掘後は急速に退色するという。
 

            

兵馬俑はまだまだ未発掘の場所が多くあり、これから先の発掘で何が出土するか、楽しみが残されている。

この日は、他に「西安市内」の「青龍寺」「工芸品店」にも行ったが、割愛する。



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海外旅行「中国シルクロードの旅」(2)

2016年05月27日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪行きの飛行機で出会った人≫

今回行きは、「新千歳空港」から「上海空港」に向う「中国東北航空機」を利用した。
3時間25分の機内座席で隣人だった人は、若い中国人女性だった。
日本語が上手なので聞くと、研修生として3年間、道東のS町で水産工場に勤め、やっと研修が終わったので3年振りで中国の親元に帰るのだという。
実家は上海から列車に乗り継ぎ、何時間もかかる農村地帯らしかった。
「一人っ子なの?」と聞くと、姉がいると答えた。そういえば農村では、「一人っ子政策」が取られた後も、一人目が男子でなかったら2人目を産めると聞いた事があった。
「親達は農業をしているが貧しいので、日本に研修に来た。」と話す。
「水産工場は、今はあまり忙しくなく、仕事は楽だった。日本人は優しい人が多いので、良かった。」と言っていた。

彼女は現在26歳。「中国に帰ったら、できれば習得した日本語を生かせる仕事を見つけたい。」そうだ。
純朴そうな彼女を見て、願いが叶う事を願った。

因みに実家へのお土産を聞くと、「日本のカレーは美味しいので、カレールーを買って来ました。それとお菓子も…」と教えてくれた。
最後に私の電話番号を聞かれたので教えた。
彼女は、持っていた中国の糸で作った飾りをくれた。私は何も持っていなかったので、旅行中使おうと持っていたペンダントヘッドを差し上げた。
短時間の交流だったが、温かい人柄が感じられ、思い出に残る素敵な出会いだった。
                     

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(1)

2016年05月25日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪15日~22日迄、行って来ました≫

5月のゴールデンウイーク明けにする菜園の種蒔きと花畑の整理を慌しく済ませて、今回、またまた中国に行って来た。
長らく留守にしたが、防犯のために帰宅後の報告になった。

1週間後の庭は見違える程緑に溢れていて驚いた。
留守の間、大風に見舞われたそうだが、これと言って被害はなかった。
気温が急に高くなったらしく、雑草が繁茂し、蒔いて行ったとうもろこしやエンドウが発芽していた。
帰宅後の2日間は、朝6時からびっしりと草取りと発芽した野菜の間引き、薔薇の剪定などに追われた。
また、近くの苗農家に行って「トマト」や「ピーマン」「セロリ」などの苗を買って来て庭に植えた。
「トマト」は風や低温に対処するため、いつもの様にビニールで覆った。
そんな訳で、ブログの更新がすっかり遅れたことをお詫びしたい。

今回の中国旅行は「西安」から「敦煌」まで、古くからの東西交易の道「シルクロード」を尋ねて来た。
「西安」は3度目で、「兵馬俑」にも三度訪れる事ができた。


今回の行程は、「新千歳空港」から「上海空港」経由で「西安」に行き、「西安」観光後、1400km西の「敦煌」まで航空機で飛んだ。
「敦煌」で世界遺産「莫高窟」を観光した後、200km離れた「張えき」までは高速鉄道で戻り、含有鉱物の違いで七色に輝く「七彩山」を鑑賞した。
実は今回の中国再訪を決めたのは、この「七彩山」が観光のコースに入っていたからだったが、予想通りの素晴らしい景観だった。
        

次いでバスで「西寧」という町まで「黄土高原」を340kmを8時間かけてバスで走ったが、途中で標高3685mと3985mという高さの峠を2つ越えた。
峠は「富士山」の頂上と同じく空気が薄く、また着いた「西寧」も標高2000mを越す高原の都市だった。そのため肺活量が一般人の60%しか無い私は、観光のために少し階段を上るだけで息が切れ、付いて歩くのが大変だった。
「西寧」観光を終え、また「上海」に航空機で戻り、一泊して「新千歳空港」に戻ったのは8日後だった。

その間の食事は毎日「中華料理」だったが、どこも美味しく、私は中国旅行で初めて胃腸を壊さない旅ができたので嬉しかった。
気候も砂漠が広がる奥地「敦煌」では31~32度あったが、高原都市「西寧」では朝は6~7度、日中は20度程度と変化に富んでいた。そのため持参した衣服の種類は、いつもの旅よりも多くなった。

今回は、総じて言えば「経済発展する中国」と「それぞれ特徴ある都市」「長い中国の歴史と大自然」に触れる事ができた旅だった。
これから少しずつ、庭仕事をしながら旅の報告をしたいと思っているので、また宜しく来訪して頂きたい。

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中国「武陵源」の旅(6)

2012年06月13日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

《観光3日目の午後ー世界最長のロープウエイと『天門山』観光》
観光の最後は、『天門山国家森林公園』の観光だった。
この山は世界遺産にはなっていないが、張家界市の南方10kmにある標高1500mの山である。
この山の上部は、紀元263年の大地震の後、頂上に大きな洞窟ができたことで有名な山で、古くは嵩梁山(コウリョウサン)と呼ばれていたが、呉の景帝が洞窟ができたことを吉祥の兆しと考え、山名を『天門山』と改めたのだった。
洞は高さ131.5m、幅37m、奥行30mあり、1999年末にはロシア、イギリス、アメリカ、日本など15カ国のパイロットが集まって飛行機で洞を通り抜ける演技飛行に成功し、世界的に有名になった。

この山の観光ポイントは3つある。
1つ目は、市街地から7455mの世界最長ロープウエイで天門山の標高1279mの所まで20~30分で行ける事、2つ目はロープウエイの終点駅からの断崖絶壁に張り出して作られている遊歩道の散策、3つ目は天門山の洞まで登ることができる999段の急な石段登山だ。そのためには一度ロープウエイの中間駅に戻り、そこから専用のバスでピンキング道路を上り、石段のある場所迄行かねばならない。
今回私は、この3つの観光ポイントを全て達成することができ、本当に大感激したのだった。

生憎この日も天気が悪く、濃霧が立ち込めている中で写真を撮影した。またロープウエイから写したものはアクリルガラスを通しているのでさらにはっきりしないが、ポイント毎に私の記念写真を掲載する。いかがだろうか。

1つ目ー世界最長ロープウエイで天門山へ

   

2つ目ー濃霧の遊歩道を30分間散策

  
 
3つ目ー洞までの999段の石段登り

  

              

これで今回の中国武陵源の旅日記を完了する。
私が体験上言えることは、多くの方々に勧めたい僅か5日間で行ける素晴らしい観光地の一つだったということである。

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。   

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中国「武陵源」の旅(5)

2012年06月02日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

《観光3日目の午前中ー『普光禅寺』『土家風情園』》
旅行4日目(観光3日目)の朝、1人で早めに食堂に行くと、昨日テーブルで会話した韓国の方達がいつの間にか右の隣席に来ていた。すっかり旅友気分で食事した。
すると見知らぬ韓国人の若夫婦が左側に来た。夫君は日本語を少し勉強しているらしく私に話しかけて来た。
「このホテルには韓国人が沢山いますが、日本人は少ないです。ここは韓国では有名ですが、日本では知られていないのですか。」というのだ。私は「まだ余り知られていない事もありますが、何より去年の津波災害で、まだ立ち直っていない人が沢山います。」と答えると、「日本の放射能は、まだ危険なのでしょう?」と聞いて来たので、「危険箇所は今ではもう福島県の一部だけです。他は大丈夫ですから、是非美しい日本にも来て下さい。私は北海道ですが、大勢の中国人が来ていますよ。」と言った。
短時間だったが、隣国の旅行者と触れ合えて良かったと思った。

食後、またホテル近辺を散策した。漢方薬局、日用品店を覗いて見た。交通量が多い道路の両側には、街路樹としてタイサンボクの木が植えられ、大きい白い花が沢山咲いていて北国の私には珍しかった。

8時半に観光3日目の出発をした。午前中は張家界の市内観光だった。
最初に向かったのは張家界市の中心部にある『普光禅寺』だった。
ここは300年前の1413年に清朝時代の皇帝が建てた寺だ。ガイドの説明では、いつかは滅ぼされるという夢を見た皇帝が、自分の敵になる土地を探し当てた所、ここに寺を建て、自分よりも強い者が出ないように祈ったのだそうだ。張家界の寺の始まりはそんなものだったと言っていた。
隆盛時には寺80箇所、僧侶200人が居たらしい。良く見ると300年の年月を経た威厳が感じられる寺だった。

   

   

次は『土家(トゥチャ)風情園』だった。
そこは土家族の王が建てた木造の城『土司城』で、土家族の祭祀、行政、祈祷、祝賀行事を行って来た民族の聖地らしい。
私たちが入り口に向かうと門の横の高床式の建物からラッパと太鼓が鳴らされ、民族衣装を着た娘たちの歓迎の歌と酒で迎えられた。
『土司(ツシ)城』内に入ると城には白龍が配してあった。屋根から落ちる雨水を金色の亀と蛙の造形物が受け止めていた。水を大切にすると金持ちになるという言い伝えを表すそうだ。
内部には当時の手の込んだ木彫細工の額や生活用品などが展示されていた。
また、土家族の娘が結婚する時に、寝室で家族との別れを悲しんで3日間泣き暮らす習慣を劇風に見せてくれた。それには泣き屋も雇われたそうだ。
女性が身につける銀製品が有名だが、最上階には銀製品店もあった。
 
   

  

            

現在、中国の最大の民族は漢族である。しかし、かっては多数の少数民族が全土に住んでいた。彼らは戦いを好まず、軍事的にも弱小だったため、次第に国の南部や西部の険しい山岳地帯に追いやられて行ったのだ。今統計上は国内に55の少数民族がいて、それぞれ伝統を受け継ぎ、ある民族は今でも自給自足に近い生活をして暮らしているのである。
こうした事実に触れると、電気、ガソリン、多くの機械や近代産業の恩恵を受けて暮らしている私は、いつも驚きと疑問を抱く。しかし、そこに人間の原点を見る思いがして尊敬してしまうのである。彼らの民族的な生活は、いつまで守り続けて行けるのだろうか。 

※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。

もう1回分の最後の報告は、イギリスから帰国後に掲載します。sonata

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中国「武陵源」の旅(4)

2012年06月02日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

今日夕方の飛行機で成田に行き、一泊後明朝、イギリス10日間の旅行に出かける。
今回は友人と一緒にツアーに参加するが、もう少しで薔薇が開花し出すので、その毎日の手入れのためにこの日程より遅くすることができなかったのだ。
それで中国から帰国後は、毎日庭仕事に励んだ。草取りをし、薔薇の油虫をつぶし、インゲン豆に竹の支えを立て、育てて来たレタスの苗を植え、小松菜やホーレンソウの間引きなどをした。
帰国は12日の予定である。

《観光2日目ー張家界から武陵源の③『黄龍洞』の鍾乳洞観光》
早く目が覚めたので6時半に朝食会場に行った。韓国人のツアーグループが100人以上、すでに食事をしていた。私が大きい円卓で1人で食べ始めたら、数人の韓国人が私のテーブルに座り、タッパーから韓国のりを出して食べ始めた。「韓国のりは美味しいですね。」と話しかけると「どうぞ。」と勧められたのでもらった。中に日本語が分かるガイドがいたので「日本で毎日、韓国ドラマを見ていますよ。」などと少し話しをした。(ちなみに日本人は私たちのグループだけだった)

食後、ホテル近くの商店街に行って2~3の店を覗いた。キウイフルーツの原産地が張家界なので、お茶屋でそのジュースを2缶買った。
2日目の観光は8時半にバスでホテルを出て、武陵源の東の端にある『黄龍洞』に向かった。
この鍾乳洞は広さが10万㎡あり、アジアで2番目の規模の鍾乳洞だという。(私が「1番目はどこにあるのか。」と聞くと、ガイドは「中国にあるまだ公開されていない鍾乳洞だ。」と言った)
入り口から中に入り、暫く歩いて見た後、遊覧船に乗って鍾乳洞内を流れる川を往復した。空間が大きな広間になっているところが複数あったし、4階建ての鍾乳洞の上に行き、全体を眺めるには500段の階段を上ると聞いて、私は遠慮した。

  

             

次に総合民芸品店に連れて行かれた。竹繊維のタオルや頭巾、練り歯磨きなどの商品のデモンストレーションがあった。
竹繊維がいかに綿よりも吸湿性が優れているかを水に浮かべて見せた。竹繊維は直ぐに水に沈んだが、綿は浮いた。私は脱脂していない真綿を使ったのだと思った。何とも怪しげな実験だった。また、竹繊維の布を醤油と植物油で汚し、水で洗い落とすという実験もあったが、植物油はともかく、醤油は水溶性なのでどんな繊維に付着しても水で落ちるのが普通なのに変だなと思った。

昼食後は武陵源の西端にある『黄石サイ』の観光だった。
標高1200mの展望台まではロープウエイで登るのだ。
ロープウエイの乗り場に向かう途中、みやげ物屋が並んでいた。店の入り口で遊んでいる子どもがいた。
店を抜けると田園風景が見え、水田に農薬を散布しているらしい農民がいた。私が農薬を扱う時には、眼鏡、マスク、帽子、手袋、長袖、長ズボンで完全防備をするが、彼はそうは見えなかった。少し行くと大きくて立派な水車が回っていた。ここには中国の変わらぬ農村風景があった。

   

上の建物の最上階からは、張家界の全景を眺めることができた。しかしここでも1つの狭い展望台の上が写真撮影をする商売人に独占されていて不快だった。
警察の派出所の前で、民族衣装を借りて写真を写している女性たちがいた。

  

         

ロープウエイで下に下りた後、深い渓谷が続く『金鞭渓』を1時間半散策したが、下から見上げる石峰も迫力満点だった。
石峰の表面は、もろく崩れやすい状態なので、この景観もやがて少しずつ風化して変わっていくに違いないと思った。

  

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。

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中国「武陵源」の旅(3)

2012年06月01日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

《観光初日ー張家界から武陵源の②『天子山自然保護区』の『袁家界』の絶景観光》
30分で『宝峰湖』の遊覧船を降り、一端、ホテルがある町に戻った。改めて高い塔が目印の「武陵源入場券売り場」に行き、相乗りのグリーンバスで揺られながら2000の岩峰を有する『天子山自然保護区』の入り口に向かった。
ここでは入山する際、一人々々、右手の親指の「指紋カード」を作られた。
できた「指紋カード」を持って「天子山ロープウエー」の乗り場に行き、1台に5人ずつ分かれて乗り、遊歩道の入り口まで一気に登った。
途中、「土家族」の女性たちが茹で栗などを売っていた。

遊歩道では約50分間、整備された石段を上り下りしながら天子山地区の絶景を臨める展望台数箇所に立ち寄って写真を撮った。相変わらず濃霧が立ち込めていて余り見通しが良くなく、撮った写真がどのようになっているか心配だった。
264k㎡もあるという武陵源地区の岩峰は全部で3000位あるらしいが、どの山も太古の昔は海底にあった地層で、それが数度にわたる地殻変動で隆起した後、長い年月風雨にさらされたために削られてできた地形だと言うから驚く。
石の階段には古生代から中生代に海中にいた筒状の貝など当時の生物の化石が沢山残っていて驚いた。

   

深い峡谷と石峰を見渡せる展望台からの展望は、霧が立ち込めていたのにもかかわらず素晴らしいの一言に尽きた。
しかし一箇所の狭い展望台にロープが張られ、映画「アバター」の巨大鳥の模型が置かれていて、そこで観光客の写真を撮る商売をしている人達がいた。そのため私達はその展望台に入る事ができなかった。写真を撮ろうとするとカメラの前に手を出されて邪魔された。
世界遺産の一部が特定の商売人に占拠されている事を腹立たしく感じたのは私だけではなかっただろうが、多分これが賄賂が横行する社会の一端なのだろうと思った。

   

   

最後に岩峰の岩肌に垂直に設置され、屋外のエレベーターとしては世界最高の高さがある『百龍エレベーター』で下山した。下山後、そのエレベーターを見上げて写真を写した。

  

この日は朝から計2時間半にわたって硬い石段が続く遊歩道を上り下りしながら散策した訳で、最後の方では足が痛くなった。
その晩はホテルでゆっくりと浴槽につかり、自分で足をマッサージして湿布を貼って寝た。

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。

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中国「武陵源」の旅(2)

2012年05月31日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

先ず今回の旅を一言でいうなら、「大満足した」旅だったといえる。
何故かというと、中3日間の観光は、毎日、自分自身の足と目で大自然を満喫したからなのだ。
足腰が痛くなり、持参した湿布を貼りながら皆に着いていった旅だったが、登山と同じで達成感や充足感が大きかったからだろうと思う。
去年の「黄山」も感動したが、「武陵源」も自分がこの地球に生きている人間の一人であることを本当に嬉しく思った場所だった。
また私は映画「アバター」を見ていないが、実は「アバター」の撮影に使われた場所でもあったのだ。
中国の奥地とは言え隣国なので、5日間という日程も良かったし、日本との時差がほとんどない国なので、足腰の筋肉痛が取れれば体調は元通りなのだ。

《観光初日ー張家界から武陵源の①『索渓峪(さくけいよく)自然保護区』の絶景観光》
ホテルは3泊共、武陵源観光の拠点の町、湖南省「張家界」だった。下にK旅行社のガイドブックから武陵源の地図を転載する。

 

朝、8時半にホテルをバスで出ると30分程で世界自然遺産、武陵源の入り口の1つ『索渓峪』に着いた。
緩い傾斜路を上った先の急な石段を20分程登ると、『索渓峪』の中にある『宝峰湖』を遊覧する船の発着場所に着いた。
(2人の男性がかごに客を乗せて登るかごかき屋さんがいて、太りぎみの女性や高齢の男性が乗っていた。現地ガイドは、前交渉の値段の他に目的地に着いてから高額なチップを要求されるトラブルが多いと教えてくれた)
金曜日だったので、大勢の韓国人と中国人のツアーグループが来ていて発着場所は大混雑していたが、私たちのグループだけで一つの船に乗り込んでゆったりと山間の『宝峰湖』を往復遊覧した。

面白い事に、この険しい山岳地帯に住むという17の少数民族の内、『索渓峪』近辺で暮らす「土家(ドウチャ)族」の男女が数箇所の小屋の前で待っていて、遊覧船が近づくと歌を唄って迎えてくれるのだ。
昔は彼らには文字がなかったので、全て歌で生活習慣なを伝えたという。また、男女の恋愛も歌を交わすこから始まったという。
山間で遠い距離であっても良く声が届くように、男女とも音程の高い声を響かせて歌を歌うのである。歌はゆったりとした節回しなので聴いていて癒され、中々興味深い歓迎方法だと感心した。

峡谷の湖は深い新緑に包まれ、濃霧も立ち込めていてひっそりと静まり返り、都会の喧騒や現代社会のストレスを忘れさせてくれる場所だった。

  

   

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。


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