花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

今回の年賀状作成事情

2018年12月29日 | 日記
今回の年賀状作成作業は、先ず従姉から依頼された分を45枚印刷して、18日に札幌駅まで来てもらい引渡した。
この年賀状も、従姉から電話で原稿を伝えられてから、やり取りを電話で5~6回して完成させたものだ。

次は例年通り家族からの依頼分だ。原稿を渡されて、推敲すること十数回。やっと完成させて90枚を印刷して渡した。

最後に残ったのが自分のだ。原稿は2週間前に作り、何度も推敲、校正し、完成させていた。
昨年から伯母との連名で作成し、私の知らない伯母の親戚にも出しているので、今回は随分と体力が弱って来た伯母の様子を伺いながら、やっと印刷を決心したのは28日だった。

夜、残り少なくなったプリンターのインク量を気にかけながら、一気に数十枚の印刷を終えて、翌日宛名は手書き。ようやく昨日、投函し、ホッとした。
病院に行って伯母に報告すると、「有難う。」と感謝された。
伯母の両手が一昨日から酷く浮腫んでいるのに気づいたので、看護婦に聞くと、「尿の出方が減って来ているので、浮腫んだのでは。」という返事だった。
折角白寿を迎える事ができた伯母には、また暖かくなり、花が咲きだす春を迎えて欲しいと願っているのだが
                                  
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白寿の伯母の近況(1)食事の介助

2018年12月21日 | 高齢期の生活全般

病院の決まりで「面会は午後1時から」だったので、今までは昼食時間を除いて面会に行っていたが、昨日は用事があったので11時半に行った。
丁度ベッドを起こされて、セットされたテーブルに昼食のトレイが来ていた所だった。
少し前までは、自分でスプーンを持って食べていた筈だったが、昨日は、ヘルパーさんに頼まれて、私がスプーンで一口ずつ食べさせた。いつの間にか食事は介助が必要になっていたのだ。

ご飯もおかずも全てミキサーに掛けてから「とろみ剤」を加えたどろどろの食事だ。
緑色のものが入った器とオレンジ色のものが入った器なので、多分、「青菜」を茹でてミキサーに掛けたものと、「人参」をゆでたものだろうと推測した。白いものが入った小皿は、デザートの「林檎」を摩り下ろしたものらしかった。
伯母は全部食べた。最後に「摩り下ろしりんご」らしいのにヘルパーさんが「薬を混ぜて」食べさせてくれた。

その後、入院後初めてサインペンを持たせて紙に字を書かせて見たが、指に力が無く書けなかった。
おまけに自分の苗字の易しい漢字の書き方を忘れていた。ショックだった。
入院前には、小学校で習う「教育漢字」を、B2の鉛筆で全部「漢字練習帳」に書いていたのに、ベット生活が半年を越すと、予想していたよりももっと早く筋力も脳も退化するのかと驚いた。
しかし、伯母には私の驚きを悟られないようにして、その後、幾つか会話してから退室した。

                          
            (昨年10月27日の写真。「教育漢字練習帳」1026字を練習中の伯母。
             5月には6年生までの漢字の練習を完了していたのだが…)

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白寿を迎えた伯母と、彼女の人生

2018年12月14日 | 高齢期の生活全般

「脳梗塞」を起こし5月からの入院生活が7ヶ月に成ろうとしている伯母が、一昨日病院のベッドの上で満99歳の白寿を迎えた。
この間「誤嚥性肺炎」「尿管結石」「狭心症発作」を起こしたが、病院が直ぐに原因を見つけて処置してくれたお陰で、それら全ての病気を乗り越えた。
長期の入院で体中の筋肉が少なくなり、痩せたが、食事はミキサーに掛けた流動食を自分で食べている。
また、時々物忘れはあるが、基本的に頭ははっきりとしている。

誕生日の前日、何か欲しいものや、して欲しい事があるかを訊ねると、伯母は「自分はもう何も要らないけど、毎日世話になっている病院の看護婦さん達に日頃のお礼をしたい。」という。
それで私は、皆さんに行き渡るようにと「蜜柑」を2箱用意して、誕生日に事務室に届けた。
伯母に報告すると、凄く喜んでいた。

小柄な身体の伯母が99歳を迎える事ができたのは、先祖から受け継いだ「長寿遺伝子」と、伯母が粗食に耐えながらも、小さい時から「ずっと働き通した生活習慣」があったからだと思う。

「伯母の人生」 を大まかに記録して置く。(同居し出してから聞き書きしたものだ)

誕生日は、大正8年(1919年)12月12日(金)北海道空知地方の農家の次女として生まれた。

  この年は、1月に「ロシア・ソビエト社会主義共和国」が樹立する一方で、第一次世界大戦の終結に関する「パリ講和会議」が開かれた。
  3月には、朝鮮で日本の植民地支配に抵抗する「3・1独立運動」が起きた。4月に「関東軍」が設置された。
  10月には、孫文らが「中国国民党」を創立している。

しかし、伯母は小学生の頃に父親を亡くした。かまどでの炊飯は小学2年生の時からやり続けた。
4人の幼い子どもがいて一人で農業をやれなくなった母親は、他家に再婚し、そこで農業を営んだ。それで自分は小学校3年生の途中で学校を止めて、親戚に「子守」に出た。他の兄弟姉妹も、祖父母の所と母親の所に分けられた。
「子守」をしていた2年半後には祖父母の家に引き取られて小学校6年に入ったが、また途中でやめて母親の再婚先に引き取られ、そこで母親と暮らす事になった。
結婚するまで母の家にいて、農作業や家事を手伝った。

昭和16年(1941年)、23歳の時、親が結婚を決めて来た。
3月に結婚したが、義父からは「何があっても、決して婚家から戻って来たら駄目だ。」と言われた。
密かに好きな人がいたので、前の晩は泣き通した。
相手の顔も知らずに結婚したが、夫となった人はやさしい人で安心した。
婚家は大家族の農家だった。結婚の翌朝から10人分の食事作りをした。

この年の12月8日、日本がアメリカに宣戦布告して、「日米が開戦状態」になった。
夫は、結婚前にも1度戦争に行ったらしいが、結婚した年とその後と更に2回、計3回も兵隊に行った。心配したが、無事に戻って来てくれた。
しかしその後も、炭鉱に「徴用」された。

水道は無かったので「井戸」端でしていた家族の冬の洗濯が辛かった。干しても皆凍ってしまった。
冬の暖房用の石炭は、毎年、夫と畑の向こうの川に拾いに行った。上流の選炭場から流れてきた石炭だったが、寒くて重労働だった。
井戸水が枯れた事があったが、その時も川に行って水を汲み、運んだ。

終戦後、親戚が5人、朝鮮から引き上げて来て同居し、世話をした。その時は漬物を沢山漬けて、お菜にした。
夫の3人の妹は、皆女学校を出ていたので、満足に学校に行かなかった自分は、いつも劣等感で小さくなっていた。

70過ぎに目が悪くなり、白内障の手術を受けた。80歳過ぎには、耳が遠くなった。
自分達には子供ができなかったが、とに角農業は66歳まで、家庭用野菜を作る畑は80歳過ぎまでやったから、働き通した。
51歳の時に姑(79歳)を、52歳の時に舅(83歳)を、相次いで家で看取った。
90歳の時、94歳の
夫を家で看取った。

その後、田畑を手放し「高齢者専用賃貸住宅」で4年ほど暮らしたが、自炊ができなくなり、姪(私の事)が面倒を見てくれる事になって、今に至っている。
入院前も、してからも、「幸せだったのは何時でしたか。」と誰に聞かれても、伯母は「姪に世話になっている今が、一番幸せだ。」と答えていた。

今後の伯母の希望は、延命治療は受けずに、自然に死にたいと言うので、主治医には伝えてある。

いつまで元気でいてくれるか分からないが、現在目も耳も閉ざされている伯母の為に、私は会うたび、耳元で話し、なるべく色々な会話をするように心がけている。

          
(この写真は昨年の誕生日に家で撮ったもので、伯母が私からのパジャマなどのプレゼントを開けているところ。着ているベストは伯母の手編み)

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従姉と「登別温泉」に行く

2018年12月04日 | 「北海道内旅行」登別・定山渓・洞爺・函館・道東・三笠・旭川・道北・奥尻島他

私が伯母を家に迎えてから2年程になるが、この間、十数年、時々一緒にパークゴルフを楽しんで来た札幌の従姉とは、滅多に会えなかった。
そこでゆっくりと慰労会をしようと私がお膳立てをして、今回二人で道南の「登別温泉」に出かけた。
2日日曜日に札幌駅で待ち合わせ、2時発のホテル専用のバスで温泉に向った。バスは満席で、ホテルに着いたのは4時近く。もう薄暗くなっていた。

ホテルは老舗の「登別第一滝本館」だった。
このホテルは、江戸時代末期の1858年に「登別温泉の祖」と言われる「滝本金蔵」が初めてこの地に開湯した宿に始っている。だから、名所の「地獄谷」にも一番近い場所に建つ。
「日露戦争」の時は、「傷病兵の保養地」になったという。



地勢的な背景をネットで調べて見た。
登別温泉から2km東にある周囲8kmのカルデラ湖「倶多楽(くったら)カルデラ」は、今から約8万年~4万年前の火山活動でできたらしい。周囲は高さ500mの外輪山に囲まれ、川がないため水が澄み、透明度2位の湖だ。(1位は道東の「摩周湖」)
また1.5万年前に始った火山活動で「日和山」に溶岩ドームが形成され、約8000年前には水蒸気噴火が繰り返し起きて、今も見られる「地獄谷」や「大湯沼」ができたという。
「地獄谷」は面積11Ha、直径450mの爆裂火口で、無数の噴気孔から最高98~45度の熱湯が1日1万t、毎分3000リットル出、水蒸気が噴出して、「登別温泉」最大の源泉になっている。
ここから出る湯には、異なった9種類もの泉質があり、「温泉のデパート」と言われているらしい。
「硫黄泉」「食塩泉」「明礬泉」「ボウ硝泉」「緑バン泉」「鉄泉」「酸性鉄泉」「重曹泉」「ラジウム泉」だ。


    
「支笏洞爺国立公園」に指定されたのは1949年で、1998年には「非核平和都市宣言」をし、2004年には「北海道遺産」に指定された。
昔、母に聞いた時、「登別温泉」は私達の一世代前の人達の新婚旅行のメッカだったという。
この8500年間を調べると、700年に一度の割合で水蒸気噴火が起きているらしい。

夕食前に一回目の入浴で9階の部屋から「大浴場」に向った。増改築を繰り返したらしく、客室から「大浴場」まではエレベーターを2回も乗り継いだ。
このホテルには、私が5年前に友人たちと来たのが最後だったが、迷いそうになる程広かった。従姉は「一人では来れない。」などと言っていた。
浴室の浴槽も泉質ごと、温度ごとに分かれていて、実に広々としていて気持ちが良かった。

夕食は、広い会場で、ほぼ満席状態だった。テーブルは部屋ごとに決まっていた。
蟹足、海老、マグロ、ブリ、しょうゆ漬けイクラ、蛸、ステーキ、海老の天麩羅など、実に多彩で味付けにも拘った料理が並んでいて、私はその半分も食べてみる事ができなかった。最近行った3回の温泉ホテルの中で最高だった。(宿泊代も最高だが)
部屋で遅くまで会話して、寝たのは1時頃だった。
6時半に起きて朝風呂に入り、温まった体で朝食会場に行った。
朝もバイキングだったが、料理数が豊富で美味しかった。

      

早めにチェックアウトをして外に出ると、「赤鬼・青鬼」像が道路の傍にあった。鬼はこの温泉のシンボルだ。
従姉は魔除けになるといって、お土産に「赤鬼のストラップ」を買っていた。



ホテルのすぐ傍の「地獄谷」に行き、展望場所で雄大な火山の噴気活動を見た。何時見てもこの景観は、絶え間なく続いている地球の生々しい活動を見せ付けてくれる。


一般駐車場には大型バスが何台も止まっていて、行き交う人々は東南アジアの人達が多かった。
スカーフを被った女性と会ったので、「失礼ですが、インドネシアからですか?」と聞くとそうだった。数年前に私が観光で行ったことを話した。お互いに写真を撮り合って分かれた。
東南アジアから、多くの人達が北海道に観光で来る事はあり難い事だ。今は、国が行う「震災復興割引き」で安く来られるのかも知れない



                             

10時にホテルを後にしたバスは、札幌駅に11時半過ぎに着いた。疲れていたのでそのまま従姉と別れて帰宅した。

今回、久し振りに従姉と長い時間を共にしたが、80歳の彼女の記憶力が低下していた事に驚いた。日本の高齢者は人生100年時代を迎えているので、彼女にはまだまだ元気でいて欲しいのだが、残念な気がした。
彼女には、その内に「物忘れ外来」がある病院に行くことを進めた
彼女とは外国旅行も2~3回しているが、もう一緒の外国旅行は無理かもしれないと思った。
ショックだったので、夜、メールで娘にそのことを知らせた。「脳トレしたらいいよ。」という返信が来た

今年の宿泊を伴う外出はこれで終り、後は毎日、伯母の見守りだ。

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トイレの悪臭トラブル

2018年12月01日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
トイレの匂いが気になり始めてからかなりの月日が経った。
最近では気温が低くなり、窓も開けられなくなって来たので、臭いを急に強く感じるようになった。
今までは便器自体に付いている「脱臭装置」が劣化したのだろうかと思って来たが、よくよく調べたら悪臭は手洗いの水道管の隙間から立ち上って来ている事が判明した。つまり床下からの臭気なのだ。

私は配管の仕組みが分からないので、もしも配管の継ぎ目がずれるかどうかして便器内の排水が滞っているとしたら、床下が大変な事になっているに違いないと想像した。私の家の基礎は、セメントを流して作った鉄筋コンクリートの箱型の基礎だから、水が流れる所は配管外には無いからだ。
早速、我が家の建築会社の担当者に電話で事情を連絡したが多忙らしく、直ぐにはいつ来るかの返事が無かった。

その間、トイレの汚水をできるだけ流さぬように、昼間は近くのスーパーや公民館、伯母が入院している病院などのトイレを借用した。
しかし早朝や夜間はそれもできず、一階と二階の便器に流さずに放置していた。

連絡して10日目の昨日、家を建てた時の配管業者がやっと調べに来てくれた。
調べてもらって分かった事は、トイレ室内の手洗い場の下にある「排水用塩化ビニール管」(写真左側)が、床下の見えない所でずれていたと言うのだ。
それで、その隙間から汚水管の臭気が室内に立ち上がって来ていた訳で、便器内の汚水とは全く無関係だった事が分かった。
               

とに角、原因が分かって良かった。昨日から、必要な時はやっと安心してトイレを使えるようになった。
今回の様にちょっとした事が原因だったとしても、私が見て分からない場合はどうしようもなく、専門業者に早めに相談するのが一番だと思った出来事だった。

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