花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

道路の排雪

2008年02月29日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 毎日のように降り続いた雪が道路の両側にうず高く堆積していて、ようやく車一台が通れるような道幅になっていた。見通しも悪いので車の運転も危険だ。それで私はこの1週間、一歩も家から出ないで、ひたすら玄関周りの除雪に精を出していた。こんな中でもしも火災が起きたり、救急車が通るのは大変だと思っていた。
 所が今朝外に出たら、遠くから除雪車が来るのが見えた。いよいよ家の前の道の排雪をするらしい。急いでカメラを持って待った。

 まず、道路に20~30cmの厚さに積もった雪を削るのだ。
 見ていたら右側、左側、そして真ん中と何度も往復しながら時間をかけて削っていった。次にそれを片側に寄せて行く。
 最後に別の小型除雪車で硬い雪を細かく砕きながら、待機している数台の大型トラックに吹き上げる様にして、次々と積んで行くのだ。
 先頭のトラックが雪で一杯になると、雪捨て場に捨てに行く。次に控えているトラックが先頭に来て、また雪を積む。除雪車とトラックの連携プレイは見事だ。
 こうして数時間後、道路から雪がほとんど無くなり、歩道も歩ける様になって、広々した安全な道路に戻った。

 しかし、市の予算の関係か、排雪が行われるのは幹線道路だけだそうで、住宅地の中の細い道路は、当分、雪が自然に溶ける迄待たなければならないのだ。
 明日から3月。今後、大雪が降らないことを祈るだけだ。

  
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バードテーブル

2008年02月28日 | ガーデニング・家庭菜園
 今年は、去年より大分雪が多い。
 人間は除雪に忙しく、疲れ気味だが、野鳥も雪の中で餌を見つけることが難しいのではと心配だ。

 最近、私の手作りのバードテーブルに用意する餌は、伊予柑の皮と向日葵の種だ。
 見ていると早朝やって来るのはヒヨドリ、少し遅れて来るのが雀たちだ。時々一緒になることもあるが、余り喧嘩する様子もない。
 中には餌を撒き散らす鳥もいる。そんな時、雪の上に散らかった向日葵の種が、春にあちこちで発芽しないかと心配になる。しかし、後1ヶ月半もすれば雪も溶け出す。今日も降りしきる雪の中でやって来た鳥たちには、春まで元気に生き抜いて欲しい。
 
     
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私の住まい史(10)

2008年02月22日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 不動産屋さんが紹介してくれた土地を、翌日、早速見に行った。住んでいたマンションから車で20分の場所にあった。
 面積は丁度100坪で、南面した更地が落ち着いた雰囲気の住宅街の一画にあった。敷地の南側の幅12mある道路は、幹線道路の一つらしいが交通量は少なく静かな雰囲気だった。
 また、年をとって車に乗れなくなっても、JR駅が近く、徒歩6~7分で行くことができ、電車に乗れば札幌駅までは25分で行ける。おまけに土地から徒歩3~4分の場所には、市内循環バスの乗り場もあった。大きな病院もあり、立派な図書館もある。
 それなのに価格は、札幌のかなり交通の不便な郊外の土地よりも安かった。これなら上手に栽培できないかも知れない大根や豌豆を植えてもそれ程勿体なくはない。
 札幌のベットタウンになっている中都市のその土地を、私は一遍で気に入った。そして、翌日、早速、買う返事をした。間もなく売買契約を結び、手持ちの資金で全額支払いも済ませた。
 それからは、その土地に退職後どんな家を建てるか、あれこれ考えながら楽しんだ。2~3年、夏には草刈りにも通った。

 一方、60才で退職した後、私の場合、62才になるまで年金が出なかった。それで引き続きパート労働をしたいと思っていた。
 そうしたら、たまたまマンションから歩いていける職場に再就職できることになったのだ。それで仕事を続ける間は、もう少しそのマンションに住むことにした。

 ところが全く考えても見なかった晴天の霹靂に見舞われたのだ。
 パートで働いていた秋に、偶然にも左乳癌を見つけたのだ。
 それからは手術、術後の治療と続く中で、土地は買ったものの、私が何時まで生きられるのか、果たして園芸を楽しむ事ができる迄に元気になれるだろうかと悩んだ。
 特に初めの半年位は、治療の副作用のために姿も心も悲惨だったし、病気に対する十分な知識も足りなくて、不安ばかり募り、希望を見いだせない日々が続いた。
 悩みを主治医に相談してみたら、「自分で決めなさい。」と言われた。その返事を聞いて、私は「ああ、そうなんだ。直ぐには死なないみたいだから、私の最後の仕事として、思い切って家を建てよう。」と決心した。
 それと癌になって自分の死を自覚したら、「例え残された生が短くても、精一杯生きよう」という意識が次第に強く湧いてきた。
 また、お金は単に持っていても価値が無い。どうせ死ぬ時はあの世に持って行けないのだから、退職金などの貯蓄は、自分への褒美として新しい家の建築費に使おう。
 そして、生きている間の生活は、予算を立て、贅沢さえしなければ何とか年金で暮らせるはずだと思ったのだ。

 決めたら一日でも早い方が良い。抗癌剤の副作用で頭髪は脱毛していたが、大分体力が戻って来ると、夏でも帽子を被って幾つもの業者に建築現場を見せて貰い、依頼する業者を捜して歩いた。

 また、病院の帰り、体調が良い時には、「北海道住宅指導センター」まで50分歩いて行った。そして、療養中に家で何枚も書き直した平面図をその日の当番の建築士に見て貰ってアドバイスを受けたり、色々な相談にも乗って貰った。特にバリアフリー建築を得意とする建築士のアドバイスは、健康に不安を抱き、老年期に向けた私の家造りをするのに役立った。

 数ヶ月後、最終的に、「外断熱工法」の建築施行会社に決めた。
 その後の詳しい内容は、1年前に既に「外断熱・バリアフリーの家」のカテゴリーでブログに書いてあるので、この続きとして読んでみて欲しい。

 長かった私の「住まい史」はこれで終わる。
 振り返って見ると、何と私は色々な住まいの体験をして来た事かと感慨深い。その時々に実体験した住まいの苦労も喜びも、全部、次へのステップになった様に思う。
 そして皮肉な事に、最後の家では、病気になり仕事ができなくなったからこそ、自分の家造りをじっくりと考えたり、あちこち見て歩く時間も持てたのだと思う。
 今の家は、私の生命が終わりに近づく時迄、できるだけ在宅で生活したいと思い、必要になった時にはいつでも家庭用エレベーターが付けられるようにしておく等、あれこれ自分で考えて建てた家だ。だから今後はもう、住まいを変えることは無いと思う。

 最後の死を施設で迎えるか、あるいは病院になるか分からないが、少なくともこの家でぎりぎりまで暮らしたいと思う。
 だから、これからも体調に注意しながら庭仕事を楽しみ、季節の変化を愛で、近隣の人達ともゆるやかな人間関係を築きながら、自分らしく楽しく、最後まで私の命がほのかに輝くように生きたいと願っている。
 今はまだ、庭は深い雪に埋もれているが、雪が溶けて花木が芽吹き、色とりどりの花を咲かせ、庭仕事ができる季節の到来が待ち遠しい。
 

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私の住まい史(9)

2008年02月21日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 57才になった頃から、退職後どのような生活をするのが良いか、あれこれ考える様になった。
 長い間働いて来たから、したくてもできなかったことが色々ある。それらを思い出し、定年退職後もやりたいかどうか考えた。

 一方、確かにマンションには、安全性、プライバシー、断熱性、快適性があり、交通も便利だが、何か足りないのだ。それが生き甲斐だった。一握りの自由にできる土地も無く、近所の人との交流も無かった。
 おまけに仕事をしている間は、職場で良い意味でも悪い意味でも多くの人達との人間関係があるし、なにがしかの自己実現もできる。また、適度に身体を動かすこともできるが、退職したらそれらは何も無くなってしまうのだ。
 色々考えた結果、やりたい事の一つが鮮明になって来た。それは園芸だった。自然と触れ合いながら身体を動かす事ができるし、種蒔きや苗から、毎日、植物の生長を観察して楽しむことができる生活に生き甲斐も見い出せそうに思った。

 当時住んでいたマンションの南側のベランダは、長さが5m、奥行きが1.41mあったので、プランターを40個近く並べて花やミニトマトを栽培していた。
 しかし、ベランダはどうしても風が強く乾燥しやすいので、上手く育つ花や作物は限られていた。また、1週間位家を空ける時には、枯れてしまわないかといつも心配だった。枯らさずに育てるにはやはり土地が必要だった。
 それでやっぱり土地付きの家を持とうと決心した。そしてまた、私の家探しが始まった。

 建て売り住宅を幾つも見たが、適当なものはなかったので、土地を探して建てることにした。
 庭を造るとなると、やはりある程度の広さが欲しいし、方位も問題だった。
 不動産情報を頼りにして札幌市内や近郊都市を色々と歩き回ったが、とうとう私の条件と資金に合う土地を探すことはできなかった。
 ほとんどの宅地は一区画60坪程度の広さしかなかったし、たまたま見つけた2区画続きの南面する土地の場合は、土地の価格だけで二千数百万円もしたため、それでは家の建築費がなくなる始末だった。

 ある時、新聞で、札幌の中心部に近いのに、安い土地の広告を見つけた。早速不動産屋に連絡して案内して貰った。何とそこは、藻岩山の標高200m位の場所にある土地だった。南面で眺望は悪くなかったが、私が車を運転できる間は良いとして、年を取ったら、到底そこまで毎日歩いて上り下りする事はできないと考え、断った。
 そうしたらその不動産屋さんが、まだ一般に公表していないという今の土地を紹介してくれたのだ。

 
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私の住まい史(8)

2008年02月19日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 そんな恐ろしい夢を見てから、私は日曜日毎に札幌での家探しを開始した。
 先ず市営住宅に入れて貰えないかと電話で問い合わせたが、条件が合わないと断られた。そこそこの収入に対して、家族数が少なかったためらしい。
 日本では、収入が低い人は色々と社会から保護され、収入がかなり多い人は自力で住み心地良い暮らしができる。ところが私のような中間層には誰も振り向いてもくれず、放って置かれるのだ。そんな矛盾を感じた。

 色々見たが、建て売り住宅は表面の内装仕上げは綺麗だが、建築途中の家を見に行くと柱は細く、断熱材の入れ方も今一つ不十分に思われた。中には目立たない場所で手抜きをしているらしい家もあった。当時、欠陥住宅が話題になっていた事もあり、価格の安い建て売り住宅は信用できなかった。

 その頃、次第に沢山建てられるようになったマンションも20棟位見て歩いたが、価格によって品質に大きな差があった。壁が薄かったり、間取りが画一的で生活するのにどうだろうかと思った物件も多かった。
 土地も探して見た。私が考える様な場所や方位、面積の土地はなかなか見つけられなかった。

 探し始めて1年後、やっと適当なマンションが見つかり、手を打つ事に決めた。正直な所、その時持っていたお金では、土地を買って家を建てるには少し不足していた。
 そこは建ててから2年半の中古の3DKだったが、JR駅にも徒歩2~3分という立地場所は娘の通学に安心だった。(娘はその家からJRで高校、大学へと通った)
 しかも札幌市の広い公園に隣接し、自然環境に恵まれ、建物自体も壁や床が厚くしっかりしていて、隣人の音は聞こえなかった。
 しかし、バブル期に建った高品質のマンションだったので、価格は郊外の一戸建ての家を買う位高かった。しかし私はローンを組むことは止め、貯金をかき集めてやっと支払い、引っ越しをした。
 (実は、金利が高かった時に預けた郵便局の定額貯金は絶対解約したくなかったので、足りない分を夫から借りた。2年後に当時の定期預金の利息を付けて夫には返済した。この事情は夫には未だに伏せてある)
 引っ越しの荷物がざっと片づいた二日後に前の借家に行ったら、その家は潰されて平地になっていたので驚いた。
 
 このマンションは暖かかった。真冬でも寝る時にストーブを消してタオルケットと薄い毛布を1枚ずつ掛けて寝るだけで良かったし、朝起きた時の室内温度は17~18度に保たれていたので、朝は全くストーブを焚かずに身支度をして出勤できた。
 都市ガスによる暖房方式は初めての経験だったが、ゴーゴーというガスが燃える音は好きになれなかった。
 また、余りにも機密性が高いので、各室の換気口は年中開放していたし、入浴後や調理の際は換気扇を回し、冬でも洗濯物はなるべく外で干すようにしたが、それでも窓は結露した。
 調理で鍋に味醂を入れたのに、うっかり換気扇を回さなかったら、途端に警報機が作動し、管理センターから管理人が飛んできて恐縮することも何度かあった。

 この家から私は、退職するまで二つの職場に自家用車で通勤した。
 
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私の住まい史(7)

2008年02月18日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 上の子どもはすでに家を離れて本州の大学に行っていた。下の子どもが中学を卒業すると同時に、私の札幌への転勤が決まった。地元の高校への合格を果たしていた子どもは、札幌の高校に編入できたので、その子どもを連れての単身赴任だった。
 住む場所を探す時間がなかったので、取り敢えず職場の近くという条件を優先して借家を見つけて契約し、バタバタと引っ越しをした。

 入居後分かったのだが、その場所は、札幌に多い泥炭地の中でも特に地盤の悪い地域だった。
 その冬、何度か大雪が降った。その借家は建ててから25年位しか経っていなかったが、その都度、屋根に積もった雪の重みで家の一部が少しずつ土中に沈下して行くのだ。平均に沈下するなら問題は小さいが、弱い地盤の所が一番沈下するので家が歪み、玄関や居間のドアがきちんと閉まらなくなった。

 私は慌てて図書館から「札幌の地勢研究」の本を借りて勉強した。
 それによると札幌は、南部の丘陵地を除き、大半が泥炭地で、地表から10~25m下まで水分と腐葉土が大半を占める軟弱な泥炭でできている事を知った。
 (反面、地下水が豊富に得られるため、都市の中心部に建つ高層ビルが地下水を汲み上げ、その影響による地盤沈下が問題になったりもしていた)
 それで、当時の新築住居の大半は、地面から地中の硬い岩盤迄到達するように、予め長いコンクリートの杭を数十本打ってから、その上に基礎工事をする工法で建てられていた。
 5階建て位の新築マンションを見に行った時、基礎工事の設計図面を見せて貰ったら、25mの杭が百数十本入っていた。
 この杭打ちはもの凄く高価なのだが、それをしない家は数年後には傾き出し、バランスが崩れて外壁に亀裂が入るのだった。私の借家が建った頃は、まだこの工法は行われていなかったのだろう。

 入居した年の夏、震度3程度の地震が起きた。居間に下がっていたガラスのシャンデリアが大きく揺れて、もう少しで天井にぶつかり落下する所だった。私は肝を冷やした。その地域では、震度が6位あったように思った。
 ある晩、私は夢を見た。家が陥没し、モグラのように土中で自分が寝ている夢だった。目が醒めてからも恐ろしかった。


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私の住まい史(6)

2008年02月17日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 ところが新築した住宅に入居してから3年程経った年末、ローンの返済に銀行に行った時、何気なく家のローン残高を調べた。3年間、毎月高額の返済をして来たのだから、大分元金が減った筈だと考えていたにも拘わらず、借りた元金はほとんど減っていなかったのだ。

 驚いた私は、「住宅金融公庫のローンの仕組み」が書かれている本を、図書館から借りて来て読んだ。
 何と住宅金融公庫のローンの返済方法は、長期間借りる金額に付く莫大な金利分からまず先に支払って行き、元金は、何年も後になってからようやく少しずつ減っていく仕組みになっていた。それが国の持ち家政策の隠れた本質だった。

 その事を知った私は、一大決心をした。一日も早く借金を返してしまうのだと。
 それからは節約生活に徹し、ボーナスが出る度にまとまったお金を銀行に運んだ。そして当初20年で支払う計画になっていたローンの残金を、数年間で全額完済することができたのだった。勿論、当初予定されていた金利分は、かなり減額された。
 この時、私は、『借金すれば、利息分だけ高い買い物になるのだ』という事を、大きな借金の体験を通して学んだのだった。
 
 こうしてやっと自分の家で落ち着いて暮らせるようになってから間もなく、私に上の子どもとは7才離れた長女が産まれた。
 町の保育所は、1才からしか入所が認められない制度になっていたが、その代わり、「保育ママ制度」(個人の家で0歳児を預かる場合に、町から助成金が支給される制度)があった。この子はこの制度を利用して生後7週目から近くの50代の主婦に見て貰い、1才4ヶ月になった4月からは保育所に預けた。
 (子どもは12月生まれだったので、保育所に入れる4月までの3ヶ月間は助成を打ち切られる事を知り、何とかして欲しいと町に掛け合って助成を延長して貰ったりした。)

 この子が1才になった頃、トイレを和式に改装して、子どもが落ちる危険性をなくした。しかし、男女共用の和式トイレは、男性が小用に使うと、飛沫が周囲を不潔にすることが分かった。
 数年後に下水道が整備され、トイレも水洗式に変わった。

 この家で二人の子どもを育てたが、上の子どもはすっかり丈夫になり、下の子どもも比較的元気に順調に育ってくれた。私も落ち着いて、16年間仕事に没頭した。


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「木のびっくり話100」を読んで

2008年02月15日 | 日記
 2005年に講談社から発行されたこの本は、日本木材学会の会員82人の手で書かれている。大学や研究所で木について研究している人達が、自分の得意分野について分かりやすく書き、一冊に集大成したのだ。
 読んだ中で、私が幾つか「あっ」と思った部分を紹介したい。

 まず、自然物の一部である人間は、森林の中に行くと脳が活性化し、精神的にもストレスが低下する。林野庁がこれを「森林浴」という造語を作って呼ぶようになった。
 ネズミを、亜鉛鉄板、コンクリート、木材の三種類の飼育箱を用意して飼育し、子どもを産ませて育てた実験では、木製の箱に入れた子ネズミの二十日後の生存率は、コンクリートの12倍、亜鉛鉄板の2倍だったという。この事から分かるのは、生活の中に木の製品を沢山取り入れる事は意義のある事なのである。

 木造の家が建ち並ぶ都市の住宅街を、この本では「都市の森」だと言っている。
 森の木々は二酸化炭素を吸収して酸素を吐き出し、地球上の生命を支えている。
 木々は太陽のエネルギーで光合成を行い、体内に炭素を固定している。住宅建築の木材には炭素が固定されているのだ。
 数十年経って家が取り壊され、燃やされて二酸化炭素が出る。しかし、伐採した森に、また植林をして木を育てて行けば、その木が二酸化炭素を吸収してくれる。こうして永遠の循環により、化石燃料とは異なって木は地球温暖化を防止するのだという。
 この章を読んだ時、私は今の住宅をコンクリートにするか木造にするか悩んだのだが、木造にして良かったと思った。

 太い木は燃えにくいが、細い木は燃えやすいという欠点がある。これには住宅の中で使う燃料をできるだけ炎のないものにしたり、難燃性のある材質を多くし、火災報知器の設置など考えて行けば解決するはずだ。
 本当は木造住宅は、時々点検、補修すれば、100~300年の耐久性があるのだという。作り方次第で、地震に強い家にもなるのだ。

 日本は雨に恵まれ、森林に恵まれた国だ。しかし、少しずつ森林が少なくなり、木の保水力、地滑り防止、酸素の生産、動物や虫の生存環境の保持などが問題になって来ている。
 里山の自然を守ったり、庭に木々を植え、花を育てたりする昔ながらの生活は、本当は地球環境を守るために貴重な事なのだ。

 木から作られる紙は、人間の文化と歴史を作ってきた。日本ほど古紙のリサイクルに国を上げて取り組んでいる国は、まだ少ないという。日々のゴミの分別が地球環境の保全に大切だという国民的な意識は、今後も維持したいと思った。
 
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ブログ開設1周年

2008年02月15日 | 日記
 昨年の2月14日にブログを始めて、昨日で丁度、1周年を迎えました。
 この1年間、コメントを書いて私を励まして下さったブログ友達(こんな言葉があるかどうか知りませんが)の皆さん、時々陰ながら読んで下さった皆さん、本当に有り難うございました。
 ブログに私の思いを書き込むようになってから、前よりも前向きに、そして意識的に生活するようになったのではと感じています。また、書き込むことによって、自分を少しは客観的に見たり、そそっかしい私がちょっと立ち止まって物事を考えるようになったのも良かったと思っています。
 特にブログ友達の皆さんからは、大いに勇気づけられ、学ばされて来ました。今では私にとってかけがいのないお仲間です。
 これから2年目に入りますが、どうぞ引き続き宜しくお願い致します。 sonata
 
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私の住まい史(5)

2008年02月15日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 公宅に住んでいる人達よりも遙かに高い借家賃を払いながら、子どもが体調を崩して病院通いに明け暮れなければならない借家に、何時までも住み続ける事はできなかった。

 そんな時に丁度、町の広報紙で、町役場が新しい造成地に分譲住宅を建てて売り出すことを知った。
 憤懣やる方ない私は、家を建てようと夫に相談したが反対された。しかし、私の責任で建てるのなら良いと言われ、翌日、直ぐに申し込みに役場に走った。
 役場の都市計画課との会合、住宅金融公庫とのローン契約、設計、その変更など、それら一切は私一人で行った。
 私が31才、子どもが6才の年末に私名義の家が完成して引き渡された。引っ越しの荷造りも、全部私一人でした。

 その家は、当時、大学の建築科の研究者達がしていた最新の寒地住宅研究に基づき、北海道住宅供給公社が建てた「北方型寒地住宅」だった。
 北海道の気候の特徴は、本州とは大きく違って寧ろ北方圏に近い。住宅は北方型の気候に合い、冬の寒さを快適に乗り切ることができるものでなければならない、という基本理念に立った住宅だったのだ。
 建築費と熱効率、強度を考え、家の平面形は単純な長方形になっていたし、屋根は、急勾配の三角屋根で、大雪が降っても屋根に積もることはなかった。
 外壁は軽量鉄骨入りのブロック造りで、内壁、天井裏にはグラスウールが100mm以上の厚さで入り、床下には20mm位の厚さがある当時最新の断熱用建材、スタイロフォームが貼られていた。
 窓は外窓が機密性の高いアルミサッシ、内窓が木製の二重窓になっていて暖かかった。

 1階の部屋の配置は「居間中心型」になっていて、13畳もある広いリビングダイニングにつけた灯油ストーブ一つで、居間に面した6畳間2室と台所が全部暖まる様に設計されていた。

 また、公社の平面図では、台所が西向きで、玄関は道路からかなり段差のある方角についていたので、私は考えて、図面を東西に180度ひっくり返して建ててくれるようお願いした。
 お陰で夏場、東向きの台所では食品は腐り難かったし、車の出入りもスムーズな家になった。

 その家に入居する事になってから、私は、「北方型寒地住宅」について勉強し始め、当時作られ出したモデルハウスの見学に行ったりするようになった。
 その結果、初めての冬に備えて、玄関の上がり框にアルミサッシのガラスの引き戸を付けて貰い、北向きの玄関戸から玄関ホールに直接、寒風が入り込まないよう「風除室」を作った。

 トイレは男女兼用の洋式だったが、便漕がU字型になった汲み取り式だったので、常に排泄物が一定の高さまで貯留していた。そのため、もし小さな子どもが大きな穴に落ちたとしたら、絶対に助け出すことが無理なものだった。それで、子どもが小さい間、トイレに行く時は心配で、必ず着いて行った。

 2階は住み手の自由な造作に任されていたので、知り合いの大工さんにお願いして小屋裏をうまく収納として使えるように私が設計し、二部屋作った。

 敷地の広さは105坪あり、しかも北、東、南の三方向が道路に面している角地だったので、家と大きな車庫、物置を建てても、南側にたっぷりとした庭が残った。
 ベランダの前には芝の種を蒔き、芝生を作った。敷地の周りには生け垣を植え、庭には子ども達の記念樹、色々な花木、球根花、苺、各種の野菜類などを育てて季節の変化を楽しんだ。


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私の住まい史(4)

2008年02月13日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 当時は、幹線道路は舗装されていたが、小さな田舎の一般道路はまだ砂利道が多かった。
 夏のある日、自転車で保育所に子どもを迎えに行き、やっと町外れの家に着いて後ろを振り返ると子どもがいない。
 驚いて引き返すと、途中の坂道の端で子どもがしゃがんで泣いていた。自転車が砂利にタイヤを取られてガタガタし、バランスを崩した時に、後ろの荷台にいた子どもを落としてしまったのだ。

 この事があってから、私も運転免許を取ることを決心した。
 夫や舅達には「危ないから駄目だ」と猛反対されたが、子どもを守り、共働きを続けるためには、私も車を持つ必要があると思ったのだった。
 自動車学校へは毎日仕事が終わってから通い、1ヶ月余りで無事に免許を取って中古の軽自動車を買った。
 それからの私は、夫に頼らずに通勤し、保育所に子どもの送り迎えをし、自分の好きな時に好きな所へ買い物などをしに行くことができるようになったし、もう子どもを落としてくる心配も無くなった。
 しかしその反面で、生活の大半の責任を、次第に私一人でしょいこむ事になって行った様に思う。

 当時、私が働いていた職場には公宅があった。転勤者が出て行くことになって空いた公宅の入居を何度か申し込んだが、いつも私は除外された。大抵、私よりも幾つも若い男性職員の家族が、入居することになるのだ。
 不審に思って上司に理由を聞いてみた。
 「家は世帯主に貸すことになっているから。」という答えが返ってきた。それならどうして初めに言ってくれないのかと憤慨した。
 確かに我が家も慣習的に夫が世帯主になっていた。しかし、小さい子どもを抱えているので、夫が働く隣の町に居住するより、私が働くこの町に居住する方が、保育所の事も含めて生活しやすい。上司にその事を説明しても埒があかなかった。

 私は町役場に飛んで行った。住民課の係に、世帯主を変えられるか聞いたのだ。
 すると「一般的には家族の中で、主に生計を担っている者が世帯主となるので、変更もできる。」とその職員は説明した。私と夫の所得はほぼ同じだったので、直ぐにその場で変えて貰い、その写しを証明として貰った。

 所が次の公宅の入居選考にも、私はまた漏れたのだ。改めて上司に理由を問い正したが、「特に理由はない。」とはぐらかされてしまった。
 明らかな男女差別だと私は大いに憤慨したが、当時は公宅の数が限られていたし、今よりずっと借家の住宅事情も悪かった中での出来事だった。


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私の住まい史(3)

2008年02月12日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 春先、毎日、無数に湧き出すヤスデに悩まされていた家で、長男は2才を迎えた。
 その夏、私が働いている間、ずっと子どもを見守ってくれていた母親が、突然体調を崩して入院した。急性肝炎だった。そしてあっという間に肝硬変に進行して、秋にはわずか54才の若さで急逝してしまった。
 私の精神的なショックは言葉では言い表す事ができない程大きかったが、葬儀を済ませた数日後には働かなければならないという現実を前にして、悲しみに浸っている暇はなかった。

 その町には保育所はあったが、4才以上の子どもしか預からないという。仕方がないので2才半になる長男を連れて早朝の汽車に乗り、職場に通った。職場のある町でも保育所は3才児以上の子どもしか預かってはくれなかったが、見るに見かねた同僚の奥さんが暖かい手を差し伸べてくれた。

 冬が来て雪が舞い出すと、子連れ列車通勤はもう心身共に限界になった。意を決して夫に相談し、私は子どもと二人で職場のある町の公営住宅に引っ越すことにしたのだ。
 所がその1DKの公営住宅は新築されたばかりだったが風呂がなかった。仕方なく道東の凍てつく夜に2才の子を連れて公衆浴場まで片道30分程かけて歩いたが、本当に大変だった。
 所が、また私達を見かねた同僚から声がかかり、その家で風呂を焚いた日に、たまに子どもと貰い風呂をした。凄く有り難かった。

 夫と別居しての共働き生活は、もう限界かも知れないと思っていた矢先、私の生活を見かねた上司が力を尽くしてくれて、3才未満児の保育所がある遠くの町の職場へ私の転勤が決まった。その町は、夫の勤める町の隣だった。
 また家族で生活ができると喜び勇んで引っ越しの準備をしたのだが、そこも小さな町のため、またまた適当な借家がない。何とか見つけた借家は、安普請の2DKの一戸建てだった。

 その家は夏は快適なのだが、冬は床から冷気が上がって来て座っていられないのだ。子どもと二人でストーブの傍に置いた長いすの上にお座りをして過ごした。
 この家で暮らし始めてから、子どもがしょっちゅう風邪を引くようになり、やがて慢性化して気管支喘息だと言われるようになった。その内、何度も中耳炎をぶり返す様になり、毎週のように病院通いをした。いつも具合が良くない子どもの看病も、親としては辛いことだった。

 またその家は、玄関側に雪が落ちてくる屋根の形だったため、大雪が降って雪が積もると、外開きの玄関戸が開かなくなり慌てることもあった。そんな時はベランダから外に出て、玄関前を除雪して出勤した。
 風呂場は木製だったが、ある時、子どもと入っていたら底が抜けた。古くて底板が腐っていたのだと思う。大家さんに連絡して新しい風呂桶に取り替えて貰った。
 この家では、初めてポット式の石油ストーブをつけた。煙突掃除の必要がなくなってもの凄く楽になった。また、初めて電話をつけた時には大感激した。
 保育所へは2年前に車を持つようになった夫が、朝、子どもを送り届け、夏場の夕方は、私が自転車で子どもを迎えに行った。その保育所で息子は、最初は3才未満児のクラスに入ったが、毎年一つずつ上のクラスになって、小学校に上がるまで4年間通い続けた。


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私の住まい史(2)

2008年02月12日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 就職したのは昭和40年代に入ったばかりの時である。
 それまで名前も知らなかった道東のある小さな田舎町からスタートした職業生活は、町が用意していた女子寮の一室で始まった。
 ここでは石炭のルンペンストーブがついた2階の6畳間があてがわれた。ガステーブルがなかった1年間は、部屋のルンペンストーブで煮炊きをしたので、熱くて参った。水道のある調理場は1階の片隅にあったから、階段の上り下りも大変だった。
 しかし、その寮で暮らしていた数名の独身女性達とは、直ぐにうち解けた話ができる友人になれた。

 やがて結婚することになり、新居となる借家に引っ越しをした。
 住むことになった町は職場から30km離れた田舎町だったが、今のようなアパートはほとんどなかった。新居とは名ばかりのやっと見つけた家は木造の古家で、冬になると玄関の土台が凍上して戸枠が歪み、ガラス戸が閉まらなかった。5cm位できた隙間からはマイナス20度前後にもなる冷気や雪が容赦なく吹き込んで来て、本当に参った。
 洗濯機も湯沸かし器もない新生活のスタートだったので、冬場の洗濯には難儀した。初めての洗濯機は半年後に買った。調理は一口のプロパンガスコンロだった。
 当時、車はまだ一般化していなかったので運転免許取得などには考えも及ばず、私は毎日、朝6時40分発の国鉄で通勤した。真冬のマイナス20度を超す気温の中、当時流行したミニスカートを履いて駅から職場まで行く間に足が紫色になったが、当時の私は若かったのだと思う。

 余りにもひどい古家だったので、それから間もなく、少しマシな借家を見つけて引っ越しをする事にした。
 しかし、住んでみたら陽が当たらないし、木造モルタル壁なのに凄く寒い家だった。
 その家には背の高い貯炭式のストーブを付けた。このストーブは、予め一日分の石炭を一杯ストーブに入れ、下から少しずつ燃やしていく構造になっていて、一々石炭をくべる手間がいらない新式のストーブだった。

 しかし、ある年、昼間働いている時に、天井から下がっている棒状の蛍光管が幾つも落ちる程の大きな地震が起きた。考えたらいつも火種があるストーブが誰もいない家にある事を思い出した。もしも地震で倒れたら出火する。慌てて職場から汽車に乗り、家に駆けつけたが、大丈夫だったのでホットした。あちこちで道路が陥没したり、函館では大学の校舎が潰れたりしたが、その時の我が家では棚のこけしが一つ倒れていただけだった。

 やがてこの家で、初めて生まれた子供を育てる事になったのだが、生後1ヶ月過ぎから夜泣きが始まり、子どもの世話を引き受けるために同居してくれた私の母親を困らせた。

 その頃丁度、2戸建ての借家が1棟新築されるという事を伝え聞き、どんな家でもここよりマシに違いないと考えて、間取りを確かめることもせずに予約した。
 初めて入る木造モルタル壁の新築の家は、2DKの西向きで陽が射す明るい家だった。西側は畑になっていたので初めて開放感も味わえた。
 不思議なことにその家に引っ越した夜から、子どもは夜泣きしなくなり、私達もやっと落ち着いた住生活ができるようになった。
 その家でも貯炭式のストーブを付けたが、やっと初めて、すきま風が少なく、割合温かな家での冬越しができるようになったのだった。
 しかし、春になって驚いた。畑側のモルタル壁一面に、下から這い上がった無数のヤスデが真っ黒くへばりついているのだ。箒でたたき落としてから集めて燃やすのだが、ちり取り2杯にもなり、毎日、次々と土中から湧き上がって来るのだった。多分、昔は田圃だった所に家を建てたのかも知れないと思った。
 この家では2年間暮らした。

 
 

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映画「earth-アース」を見て

2008年02月11日 | TV・映画・音楽・美術
 今日は朝から雪が降り続いていて、これといった用事もない。思い立って「earth」を見に行く事にした。

 地球の北極から南極まで、生命の営みと輝きを、これほど素晴らしい映像と音楽で表現したものに私は初めて出逢った。兎に角、宇宙の中で命が息づくこの地球で、営々と暮らすもの達の命を守る戦いの凄さと美しさに感動し、素晴らしい地球の姿を再確認させられた。
 まだ見ていない方には、お薦めしたい心に残る映画だった。


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私の住まい史(1)

2008年02月10日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 昨日、「つらら」について書いた後で、私が半生を暮らしてきた住まいについて振り返りたくなった。もしかすると私の個人的な住まい史の中に、北海道の住生活史が、また、日本の経済成長史をのぞき見る事ができるかも知れないと思っている。

 「つらら」には、子ども時代住んでいた木造の家について、その雪下ろしの思い出を書いたが、今考えると本当に冬は大変な家だった。
 壁は土壁で、その表面に板を重ねて張ったトタン屋根の家だった。
 北海道なのに基礎は布基礎ではなく、コンクリートの土台を地面に何十本か埋め、板張りの床を作ってその上に畳を敷いただけの物だった。窓も木の窓枠に小さなガラスが数枚入っていただけだったし、板張り天井も木の節が抜けた所には穴が開いていた。
 冬は冷たいすきま風が入るので、昭和30年代になると売られるようになった透明なビニールを買ってきて、外側から窓に貼った。お陰で冬中、窓を開けることができなかった。
 その町は北海道の豪雪地帯なので降雪量が凄く、毎年、窓を塞いで屋根の軒下に届くほど雪が沢山降った。幾つもの窓の前を除雪して明かりが入るようにする仕事も私の役目だったが、除雪するには窓を塞いでいる雪を跳ね上げるしか方法がなかった。
 そんな寒い家だったから、居間のストーブが唯一の熱源だったが、石炭ストーブだったために月に一回は煙突掃除が必要で、その度にまき散らされる真っ黒い煤と、その後始末のための掃除にはいつも閉口したものだった。
 寝室には当然暖房はなかったから、真冬は寝る時、熱い湯を入れた湯たんぽを利用していた。この湯は、毎朝、顔を洗うときに役立った。朝起きると、布団の襟元が自分が吐いた息でガバガバに凍ったようになっていることもあった。
 そんな隙間だらけの家だったから、結露やカビが生えること等は聞かなかった。

 昭和30年代の後半、私は念願の札幌の大学に入った。そこで暮らした定員数十人の女子寮の作りも同じ様な古い木造だった。
 だるま式の石炭ストーブがある1間幅の押入がついた6畳間に、二人ずつ生活するのだった。ベットなどという洒落た物は無かったし、煙突掃除があった日の真っ黒く汚れた部屋の掃除は大変だった。
 風呂場はコンクリートの床に大きな木製の桶が置かれていて、週に2回湧かされた。
 食事は朝と夕の2回出た。調理の女性が居たが、自治寮だったので献立を立てるのは寮委員だったし、配膳は毎朝順番に当番制で全員が行った。
 22時の門限があり、遠くへアルバイトに出掛けた場合は、やっと間に合う事もあった。
 それでも国立大学の寮だったので寮費は比較的安かったが、学費も全て自分で賄わなければならなかった私の大学生活は決して楽ではなかった。日本育英会の奨学資金と家庭教師などのアルバイトを掛け持ちして、何とか4年間頑張って卒業した。


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