花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

北イタリアの旅(12) ポルトフィーノ・ミラノ

2010年11月13日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

8日目泊まった高級保養地のサンタ・マルゲリータ・リグレのホテルは、海辺の避暑地向きに造られた高台のホテルだった。2人用の室に部屋が2つあって、ベッドが3つ入っていた。そしてベランダからプールにも出られるようになっていた。私と友人は初めて別室に分かれてゆったりと寝た。




9日目は、少し早起きし、海岸に出て散策した。町の様子が少しわかった。
8時半にホテル前から中型12人乗りの車に分乗して、大型バスが入れない海沿いの曲がりくねった狭い道路を6km走り、ポルトフィーノに着いた。
そこは風光明媚な小さな町で、観光業と漁業を主としていた。
自由時間がたっぷりあったので、丘の上につながる石畳の道を歩いて行った。少し行くと小さな教会があった。①
さらに細い道を進むと古い小さい城があった。入場料を払って中を見学した。庭から見下ろすと、ポルトフィーノの町が手に取るように美しく見えた。②

 ① 

       ②

海岸に降りてレストランで昼食を食べた。
その間添乗員氏は、サンタ・マルゲリータ・リグレ行きの船を手配してくれた。乗船は、昨日のチンクエテッレで船に乗れなかった代わりとなった。
船では、15分間、アメリカ人のツアー客と同席した。③
サンタ・マルゲリータ・リグレの港に近づくと、町が美しく見えた。④

 ③ 

            ④


それから大型バスに乗って、210km北の町ミラノまで走った。
ミラノ中央駅の傍にあるホテルに着いたのは4時半を過ぎていた。急いで部屋に荷物を置き、希望者のみ添乗員氏の案内で地下鉄に乗ってミラノ見学に出た。

ガイドブック「新個人旅行 イタリア」によると、ミラノは、紀元前5世紀にはエトルリア人が住んでいた。紀元前4世紀にガリア人が、そして紀元前3世紀にはローマ人に征服された町である。
その後紀元300年代には多くの教会が建ち、やがてキリスト教の中心地になった。
11世紀頃、多くの自治都市(コムーネ)ができ、12世紀の初めには神聖ローマ帝国の攻撃を排除した。
町は毛織物、絹織物産業が盛んになり発展したが、16世紀にはスペインの支配下に入った。
1796年ナポレオンが入城によって、ナポレオン軍の武器、被服供給地となって繊維産業が発展した。
1866年、イタリアに統一されたが、20世紀にはフランスファッションの生産基地になった。
1980年代になると、ミラノのデザイナーが活躍し出して、イタリアのブランド発信基地となり、今も発展しているという。

ドゥオモ前の広場で解散したので、私と友人はまず規模が大きいドゥオモの内外を見学した。これは14世紀後半に着工され、19世紀末にナポレオンが完成させた。完成までに500年を要したイタリア最大のゴシック様式の教会だ。
135本の尖塔があるが、中央の尖塔には、黄金に輝くマリア像が設置されている。内部は大きく、ステンドグラスが美しかった。⑤⑥

 ⑤ 

                ⑥

ドゥオモを出て、広場に続くビットリオ・エマヌエーレ2世アーケードを散策した。1878年に完成したものだが、規模が大きく美しいガラスの天井が特徴だ。⑦ 
私たちは十字路にある雄牛のモザイク画を探して、幸せになれるようにあけてある穴に靴の踵をつけ、一回りした。⑧

 ⑦ ⑧


突き当りのスカラ広場では、レオナルド・ダ・ビンチの彫像を見、⑨ 道路を渡って1778年にできたオペラ劇場・スカラ座⑩の周囲を歩いた。
夕暮れが迫るに連れ、大勢の人々や車が通行していた。傍のサン・フェデレ教会は、扉が閉ざされていた。
いよいよ暗くなって来たので、ドゥオモの横にあるラ・リナシェンテデパートに入った。地下1階~地上9階までをざっと見て、集合場所のドゥモ広場に戻った。
この自由行動で今回の北イタリアの旅は終わった。その夜は荷物整理をしてぐっすりと寝たのだった。

 ⑨ 

          ⑩

実は2回目となった今回のミラノ訪問で、レオナルド・ダ・ビンチが画いた「最後の晩餐」を見たかったのだ。前売り券を買いたくて家でネット検索したが、既に10月11月分は売り切れていた。直接サンタマリア・デッレ・グラツィエ教会に行って、キャンセルした人の所に入って見る方法もあるが、限られた自由時間しかなかったのでそれも諦めたのだ。

これで今回の「北イタリアの旅」の日記を終わる。
北イタリアはどの場所も歴史が古く、古さを大切にしながらも現代の新しさも取り込んだ不思議な魅力にあふれていた。また、とても変化のある地形と自然も素晴らしかった。最後まで読んでくれた方々に感謝します。


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北イタリアの旅(11) ポルトヴェーネレ・チンクエッテレ

2010年11月12日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

8日目は朝から大雨だった。
9;00に「ラ・スペツィア」のホテルを出、南に30分行って「ポルトヴェーネレ」に着いた。
ここはリグーリア海に突き出た海辺の町で、ムール貝の生産地だ。
岬は雨が降り、傘を差せないほど風も強かった。私は登山用に買ったゴアテックスの上下を着た。
バスを降り、海岸の展望台に行って、断崖絶壁に荒々しく打ち寄せる波を見た。①②
岬の突端に古い教会があった。③
 

        ③

その後、もう1度「ラ・スペツィア」に戻って商店街を散策した。広場にモニュメントがあり、市場が賑わっていた。④⑤



その後、電車で「チンクエッテレ」観光に向かった。その頃、ようやく雨が上がった。


「チンクエッテレ」とは、ラ・スペツィアからレヴァントまで並ぶ5つの小さな漁村の意味なのだ。
人々は明るい太陽が煌めく地中海沿いの断崖の上の小さな村で暮らし、すぐ背後にある急な斜面では、段々畑を作ってブドウを栽培して来た。⑥
昔は船でしか行けない村々だったが、今では海岸沿いの絶壁を抜ける沢山のトンネルを作って電車が通っている。⑦⑧
景観が美しいので世界遺産に登録されたが、私たちが行った昼食のレストランは98段もの急な階段を上らなければならなく、こういう環境で昔から暮らして来た人達の苦労が偲ばれたし、高齢者が暮らすには実に厳しい所だと思った。
急斜面で葡萄を作っている段々畑は、見る分には美しいが、機械が入らないので肥料や収穫物の運搬などの全てを人力でしなければならないから、それは大変な重労働なのだろうと想像した。

  ⑥ 


また、「リオマッジョーレ村」から「マナローラ村」迄の2kmの海岸沿いの道は「愛の小路」と名付けられ、多くの観光客が徒歩で30分の景観を楽しんでいる。
私たちもマナローラまで電車で行き、そこから一駅の距離を散策したが、海から吹く風が心地よく、軽快に歩くことができた。⑨
途中の手すりや落石止めの金網など、低い所からかなり高い所まで、錠前が掛けられていた。恋人たちが永遠の愛を誓って錠前をかけてから、鍵は海に捨てるのだ。⑩
グループ内の70代と思われるご夫婦に、記念撮影のシャッター押しを頼まれた。私は最高の笑顔で寄り添った瞬間の2人を写してあげた。



予定では「チンクエッテレ」の村々の景観をボートに乗ってみる事になっていたが、波が高く中止された。
「愛の小路」を歩いた後は、「リオマッジョーレ駅」から電車に乗って「ラ・スペツィア」に戻り、バスで「サンタ・マルゲリータ」のホテルに行った。

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北イタリアの旅(10) ボローニャ・モデナ・パルマ

2010年11月11日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

7日目はボローニャの市内散策から始まった。
ボローニャは13世紀に北と南の交易地として栄えた城壁に囲まれた町だ。
また町中に天井の高い柱廊(アーケード)、「ポルティコ」が全部で42kmも張り巡らされている町でもある。この「ポルティコ」は、雨と強い日差しから通行人を守って来た。
現在はエミリア・ロマーナ州の州都として栄えている。

私たちは「ポルティコ」の下を10分程歩いて、マッジョーレ広場に行った。広場には16世紀に造られた町のシンボル、ネプチューンの噴水があった。①
またローマ法王庁の直轄地になった時に、高官が建てたというコムーネ宮殿②があった。

 ① ②

角を曲がると、電車通りの向こうに有名な斜塔が見えた。③
この町には、12~13世紀頃、有力貴族が競い合って建てた塔が一時189もあったというが、今残っているのは少ないらしい。
高さ97mのアシネッリの塔には498段の階段があり、上へ登れる。上がないガリセンダの塔は、3mも傾いていて危険になったので建設が中止された塔だという。
時間があれば私も塔に登るところだが、残念ながら登れなかった。

                              ③

また、1088年に創立したヨーロッパ最古のボローニャ大学がある町としても知られている。




その後、ボローニャから北西に44kmの町、モデナへ行った。広く知られているこの町の出身者は、ルチアーノ・パヴァロッテイ、エンツォ・フェラーリである。
パヴァロッテイ広場で近郊都市の食の市が開かれていて、並んだテントの下でモデナで作られるパルミジャーノチーズ、バルサミコ酢、ワインなども売られていた。
写真④は、大きく固いパルミジャーノチーズをカッターで切りながら売る店の様子。⑤はジャムやバルサミコ酢を売る店。
液体は重いし、割れる危険もある。またチーズは、途中で発酵が進むと味が変わるかも知れないので買わなかった。美味しそうだった生栗を自分の土産に買った。

 ④ ⑤

ところで、ランチを食べたレストランで、塩辛い子牛のハム(ブレザウラ)⑥と濃厚で塩辛いチーズリゾット⑦、デザートにアイスクリームが乗ったミックスフルーツが出た。私はどれも半分も食べなかったのだが、その後バスの中で胃の調子が悪くなり、トイレ休憩した時に吐いてしまった。歩けない程のひどい目まいもして来て友人の世話になった。添乗員氏も心配してくれた。
ホテルで夕食を抜き、一晩寝たら治ったので良かった。きっと食べなれないものを食べて、胃が拒絶反応を起こしたのだろう。
それにしても今回3回出されたリゾットは、どれも米に芯が残ったものだった。ヨーロッパ人は米を洗わず、水に浸漬もせず、スープにパラパラと生米を入れ、加熱も15分位なのだからこんなものができるのだ。私の様な胃腸が弱い日本人なら、毎食後、消化薬を飲んでいても消化不良を起こしてしまう。
  
         ⑥ ⑦




次はモデナの北西60kmにあるパルマに行った。16世紀にはイタリアの文化芸術の中心都市だったという。
現在、人口18万人のこの町は、パルメザンチーズと生ハムで名物である。
ここでは、雨の中、クーポラの天井に描かれたコレッジオのモザイク画が有名なサン・ジョバンニ・エヴァンジュリスタ教会⑧と、コレッジオが描いた聖母マリアが雲の中を昇天して行くクーポラのフレスコ画があるドゥモ⑨⑩を見学した。
ドゥモは12世紀に建てられたものだが、13世紀に建てられた鐘楼は改修工事中だった。
残念ながら両方のフレスコ画とも余りに高所にあって、目を凝らしたが良く見えなかった。
洗礼堂の後ろに空中庭園を造っている家があった。⑪

パルマ観光の後、118km北西の町、ラ・スペツィア迄行って、ホテルに泊まった。

      ⑧ 

 ⑨ ⑩

                            ⑪

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北イタリアの旅(9) パトヴァ・フェラーラ

2010年11月09日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

6日目、7;50、コルティナ・ダンベッツォのホテル玄関前の気温は、0.5℃しかなかった。標高が1224mもある町の晩秋の寒さを感じた。
8;30にバスで176kmを3時間で南下して、ベネツィアの西隣の町、パトヴァに行った。
パドヴァは、人口20万人。90%がイタリア人だが、出身がアフリカ系の人1%、東アジア系の人1%いるという。
紀元前1183年に作られたという歴史の古い町で、ローマ時代には馬の飼育と羊毛生産が盛んだったらしい。

世界的にパドヴァを有名にしたのは、1222年に創立したパドヴァ大学だ。
世界最古の植物園が大学に開設されたこと(この植物園が世界文化遺産にしていされた)、またこの大学でコペルニクスが学び、ダンテやガリレオ・ガリレイが教師だったこと、解剖学教室が世界最古に置かれた事などがその理由である。

バスを降りてサント広場に向かう途中、大きな堀の両側に並んでいた沢山の彫像が印象的だった。①
サント広場に置かれたガッタメラータ像は、騎馬像としてはかなり有名らしい。②
その傍のサンタントニオ聖堂は、聖アントニオに捧げられた教会で、屋根にドームの数が多く、古くから信者の巡礼が後を絶たない所だという。③

 ① ②               

                           ③

何よりもパトヴァで必見なのは、ジョットのフレスコ画が壁一面に描かれているスクロヴェーニ礼拝堂だ。入場券は日本から予約することもできる。
添乗員氏が私立博物館でチケットを買っている間に、私たちは手荷物を預けた。そして直ぐ近くの礼拝堂に行ったが、しばらく外で待たされた。
内部は撮影が禁じられていた。

この小さな礼拝堂は、1300年に貸金業をしていたエンリコ・スクロヴェーニが敷地内に建て、ジョットにフレスコ画を依頼したものだ。
ジョットは1304~1307年に39の聖母マリアとキリストの生涯のフレスコ画を内部の壁に上下2段に描いた。
1回25人が15分間だけ見学することができるので、私たちのグループは2つに分けられた。
若い係りの女性が着いて入り、「これで終わります。」と言って中の人を出す。
その間、VTRを見ていた次の25人が代わりに入って見学するという具合に、徹底して礼拝堂への入場が管理されていた。
僅かな見学時間だったが、ここに来た人誰もがその絵を見るとキリスト教が分かるようになっていた。
最後の審判の絵もあったが、彼の独特な顔の描き方に人物の感情が溢れているようだった。

礼拝堂を出て荷物を受け取り、全員が見終わるまで待ってから、町を散策した。
列柱が並ぶ商店街で偽物のブランド品を地べたに並べて売っているアフリカ系の人がいた。④
添乗員氏は「警察が来たら、布の四隅を持って直ぐに逃げられるようにしている。」と、話していた。

                                ④




午後4時にパドヴァから南方77kmにある町、フェッラーラに向かった。
フェッラーラはルネッサンスの頃、エステ家が治めていた町で、今でもエステ家の居城・エステンセ城が保存されている。
その城は今、市庁舎として使われているとの事だ。⑤
エステンセ城前の広場にジローラモ・サボナローラの厳しい顔をした像が置かれていた。⑥
彼はこの町に生まれたドミニコ会の修道士だったが、1490年、貧富の差がもたらす社会の不公正を批判し、ローマ教皇と対立。1497年ローマ教会から破門され、98年焚刑に処せられた人だ。一時、フィレンツェ共和国で神聖政治を行った人物でもあるという。

その後、フェッラーラの守護神サン・ジョルジョを祀るドゥオモ⑦に行った。写真はロマネスク様式の入口扉の上の美しい聖母子像である。
夕刻、バスで48km南にあるボローニャに向かった。

 ⑤ ⑥

                         ⑦



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北イタリアの旅(8) ドロミテ・トレチーメのハイキング 

2010年11月06日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

朝起きて直ぐ、標高1224mにあるコルティナ・ダンベッゾ町のホテルの自室からベランダに出た。
冷たい空気の中で、眼前に夜明け前のトファーナ山(3244m)があった。しばらく朝日が昇るのを待って写真を写した。①
それから急いで外に出て、周りの山々も見た。西に見えたのはオドダダラゴ山(2715m)らしい。②
どれも朝日を受けて美しく輝いていた。

 ① ②

-2℃の気温の中、ホテルを8;30にバスで出て、まず町の南東16kmの所にあるミズリーナ湖に向かった。
湖畔を越えるといよいよ道は急こう配の曲がりくねった山道になった。
標高2300mの駐車場でバスから降りて、そこからはトレチーメの展望台を目指してのハイキングだ。

しかし、道路が雪で凍り付き、普通の靴では滑りやすくなっていた。
私と友人は、こんな事もあろうかと滑りにくい靴底の冬靴を履き、杖を持って行ったので安全に歩くことができたが、他の人達は皆、滑る夏靴だったので、転ばないように苦労しながら歩いていた。
最初の山小屋「アウロンゾ」は、駐車場から結構な坂道を5分間登った2320mの所にあった。公共トイレも山小屋もすでに閉鎖されていた。
そこからは平坦な道が30分程続いた。左手はトレチーメの裾野だが右手は絶壁になっていて、足を滑らせたら危険な道だ。しかし、景観は雄大だった。③④

 ③

 ④


 途中に小さなアルピニストの教会が立っていた。⑤
どんどん歩いて行くと、やっと左手に標高が3003mあるトレチーメ山の3つの峰が見えて来た。⑥

 ⑤ ⑥

さらに歩いて、標高2344mにあった山小屋「ラバレード」まで行った所で休憩した。
添乗員氏と山岳ガイドが相談した結果、その先へ行くのを中止すると知らされた。
私はもう少し先まで行きたかったので、添乗員氏の許可を得て、なだらかな傾斜路を1人で5~6分程先迄歩いた。その場所から山小屋を入れた写真を撮った。⑦
また今日の目的地であった方角の写真も写した。⑧ 
それから急いで皆の後を追った。目的地まで行けなかったが、私なりに満足できた。

 ⑦

                        ⑧

その後駐車場へ戻り、バスで少し下った所にあるレストランで昼食。
午後はミズリーナ湖(標高1756m)の湖畔2kmを30分かけてハイキングした。
現地ガイドの女性が、湖面に雪を投げた。雪は凍り付いている氷の上に乗った。まだ岸に近い場所だけが凍っている状態だった。
凍った散策路を滑らないように気を付けながら暫く行って振り返ると、クリスタロ山(3221m)がくっきりとその美しい雄姿を見せていた。⑨⑩

 ⑨ ⑩

散策後、コレティナ・ダンベッツォのホテルに戻ったが、その夜は美しい光景を見た感動と興奮がなかなか収まらなかった。


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北イタリアの旅(7) ドロミテ渓谷

2010年11月05日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

ボルツァーノの市内見学後、バスで東方のドロミテ渓谷に向かった。
バスで45分程行った所に、針葉樹(樅ノ木)に囲まれた透明な湖「カレッツァ湖」(水面標高1530m)があった。
湖の岸に近い湖面は凍り付いていたが、背後に切り立ったラテマール山(標高2648~2846m)が聳え立ち、石灰岩質が溶けた水は神秘的なエメラルドグリーンに染まっていた。
湖畔を一周できる遊歩道は、雪のため途中で閉ざされていた。展望台があったが、余りに近過ぎて写真撮影をしても全景は撮れなかった。
3℃の冷たい空気の中でまるで絵のような光景は静まり返っていて、私はしばし時間を忘れて見とれていた。

 

ガイド氏の説明では、この地方の針葉樹は樅ノ木で、気温が低い高地でゆっくりと成長するために木質が固く、古くより造船、楽器製造に重宝されて来たのだという。バイオリンの名器・ストラディバリウスなどが作られて来たそうだ。

ところで過日、NHKTVで、2009年に世界自然遺産に指定されたこのドロミテ山塊の成り立ちを報じたBBCTVが制作した番組を見た。
ドロミテ山塊は6000万年前にアフリカ大陸とヨーロッパが衝突した時に隆起してできた地形だそうだ。
ここには3000m級の岩山が18あり、どれも主成分はドロマイト(石灰岩にマグネシウムが結合してできた苦灰石)である。石灰岩は浅い海の海底にあったサンゴ礁なのである。
その証拠に岩を割るとハート形の化石が沢山出てくるが、それは大昔海底に生息していた二枚貝・メガロドンの置き土産だと言っていた。アンモナイトも沢山出てくるらしかった。
この地域には、地球の悠久の歴史が刻まれているのだ。

その後、バスで数日前に降った雪が残る景色を見ながら、さらにドロミテ渓谷を奥へ進んでいった。
標高1750mのカレッツア峠に着いた。
スキー場があり、眼前に標高2500m前後の山が聳えていた。僅かな時間だったが、その雄々しい光景に見とれた。

 

いよいよドロミテ渓谷で標高が2239mと1番高いボルドイ峠に着いた。
そこには数件のレストランと土産物店があり、サス・ボルドイ(標高2950m)に登るロープウエイが掛かっていた。
レストランで昼食を摂ってから、希望者はロープウエイに乗った。(20名以上の団体は、確か1人1.8ユーロだった)
上って行ったロープウエイは、最後に切り立った急峻な崖をほとんど垂直に近い状態で上った。(写真は私が乗っているロープウエイ内から、降りて来たのを撮った)

                  

サス・ボルドイの山頂につくと、そこには360度のパノラマが広がっていて、アルプス山脈の広大さに感動した。
この山の向こうはスイスやオーストリアだと思うと、そのうち機会があればそちら側からもこの光景を見てみたいと思った。

 
 
                   

山を下りてバスに乗り、標高2150mのファルツァレゴ峠を越え、46km離れたコルティナ・ダンベッツォに向かった。 
4つ星ホテルの「ホテル・ヨーロッパ」に着いた。
山小屋風のホテルで、2階の部屋のベランダに出て見ると、大きな山塊が眼前に聳えていた。トファナ山(3244m)だった。
 
        
 
夕飯までの間、町を散策した。
ここで冬季オリンピックが開催されたこともある町は、小さいながら山岳リゾート客向けのホテルが多く綺麗だった。
スーパーを見つけたので、ヨーグルト、イタリア独特のレッドオレンジジュース、菓子、チョコレートを買って戻った。







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北イタリアの旅(6) マントバ・ボルツァーノ

2010年11月03日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

ベルガモを観光後、バスで2007年世界遺産に登録されたミラノの東南東の町、マントバに向かった。
この町は紀元前からあり、ローマ時代に栄え、601年にロンバルディア公国の支配下に入った後も自治都市として栄えた。
13~18世紀にはゴンザーガ家の居城・ドゥカーレ宮殿が置かれた。
15世紀末にゴンザーガ家のフランチェスコ2世と結婚したイザベラ・デステが、多くの文化人、芸術家を支援した事により、ルネッサンス期の代表的な町の一つになったという。(彼女は、絵「モナリザ」のモデルかも知れないと言われている)

レストランで昼食を終えてから、先ずドゥカーレ宮殿があるソルデッロ広場に向かった。
直径が7~8cmもある丸い石を敷き詰めた歩きにくいローマ時代の石畳の道路① を進むと、同じ石畳のソルデッロ広場に出た。
広場を囲んで、ドゥカーレ宮殿(②の右の建物)、ドゥオーモ(サンタ・バルバラ教会)(②の正面の建物)があり、宮殿の奥にはサン・ジョルジョ城もあった。
宮殿には全部で500以上の部屋と多くの美術品があると言われているが、私たちはラファエロがデザインしたという素晴らしい大型タペストリーが並んで掛けられている部屋やベルサイユ宮殿に似た華やかな鏡の間、星座が描いてある宇宙の間などを見た。写真撮影は禁止されていた。
ドゥオーモの内部は、明るく華やかだった。③

  ① ②

                   ③

マントバ観光を終えた後、バスでその日の宿泊地である181km北のアルプスに近いボルツァーノまで3時間走った。途中、交通の要所として、またロミオとジュリエットの故郷として名高いヴェローナ郊外を抜けた。




4日目の観光は、まず、ボルツァーノの市内散策から始まった。
この町は現在、ボルツァーノ自治県の主都である。
ウィキペディアによると、ボルツァーノ自治県は、中世までは神聖ローマ帝国の一部になっていたが、1363年ハプスブルグ家(スイスに元を置いたドイツ系貴族)のルドルフ4世の領土になってからは1918年までハプスブルグ家に受け継がれて来ていて、チロル地方の内、南チロルでは、イタリア語を話す人もいたという。

第一次世界大戦でイタリアは、1918年、南チロルに軍隊を駐留させた。1919年9月10日、南チロルは正式にイタリア領となった。
1922年に誕生したムッソリーニ政権はイタリア化政策を進め、ドイツ語系住民にドイツ語を禁止した。
1939年ヒットラーは、ドイツ語系住民にドイツへの移住か、ドイツ語を捨ててイタリア化するかの選択を迫った。
第二次世界大戦後の1948年、この地域に自治が保障されたが不完全だったため、1950~60年代にはテロ活動も激化したという。
1969年、オーストリアと自治権拡大とドイツ語の地位向上で合意が成立した。
現在人口482,000人、コムーネは116、ドイツ語住民は25%だという。

このような複雑な歴史を持った地域だけに、チロル風の建物が目を引いた。
教会の屋根は色タイルを並べてデザインされていたし④、壁に絵を描いて装飾している建物が幾つもあった。⑤

 ④ ⑤

公用語としてイタリア語とドイツ語が通用する町のため、様々な標識が両方の言語で表示されていた。
小さな広場に並んでいた市では、近郊の豊富な農産物や果物が売られていた。⑥ 手作りと思われる野菜のコサージュには温もりを感じた。⑦

また、この町の近郊で1991年に発見された「アイスマン」のミイラを保管している博物館の壁には、研究の結果、想像される猟師姿のアイスマンの垂れ幕が下がっていた。⑧

 ⑥ ⑦

         ⑧



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北イタリアの旅(5) ベルガモ

2010年11月02日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

3日目はコモをバスで7;45に発ち、93km離れた人口12万人弱のペルガモに向かった。
ミラノの北東に位置するペルガモは、古くからベネチアとミラノの2大強国に挟まれながら、13世紀までは自由都市として、その後ルネッサンス期にも栄えた町である。
旧市街が残されている丘の町アルタは、標高365mの所にあって周囲を城壁に囲まれている。今はケーブルカー(フニコラーレ)で楽に行くことができる。(写真①)
私たちはバスを降りてフニコラーレに乗り、丘の上に上がった。
東側の展望台からは山に囲まれた下町の新市街・バッサが美しく見えた。②
中央付近から展望すると、幾つもの古い塔が見えた。③ 右端の塔が後で傍まで行って見た市の塔だ。

 ① ② 

 ③

その後、アルタの西側に向かって散策して行くと美味しそうなパン屋さんがあった。④
共同洗濯場がある広場には、水道の横に犬の落し物袋が備えられていた。⑤ (犬を連れた人がやって来た。少し離れた場所で犬が落し物をした。その後、使うかどうか見ていたら、使っていた)

 ④ ⑤ 

この門⑥をくぐると、アルタの中心地ライオンの噴水があるヴェッキア広場に出た。⑦ この付近には中世の面影が良く残されていた。展望台から見えた市の塔がそびえていた。 
広場の傍にサンタ・マリア・マッジョーレ協会、15世紀に建てられた独特な美しい姿のコッレオーニ礼拝堂⑧があった。
自由時間に広場にいたら、乳母車を押す母親が来た。「ボンジョルノ!」と挨拶をしてから、持っていた折り鶴を子供に渡した。⑨ 言葉が分からないので、残念ながらそれ以外の話はできなかった。

 ⑥ ⑦ 

        ⑧ ⑨

ベルガモ観光では、北イタリアの中世の雰囲気に触れることができた時間だった。


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北イタリアの旅(4) コモ・ストレーザ

2010年10月31日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

2日目、ゆっくり朝食を摂った後、9時にバスで出発。
スイスの国境近くに逆Yの字に広がるコモ湖は、水面の標高は199mの位置にあり、最大水深も410mとヨーロッパ一深い湖だ。
美しい湖が点在する湖水地方の中心の湖で、幾つかの島に向かう遊覧船の発着場所もある。
コモは、またローマ時代からのリゾート地でもあり、中世には自由都市として栄えたらしい。
私たちは先ず町の協会、ドウモを観光した。小さな町なのにどっしりとした協会は、繁栄の歴史と静かな威厳を漂わせていた。

   

   

1時間ほど自由に散策してから、少し離れたマジョーレ湖畔の町、ストレーザにバスで移動。
マジョーレ湖はスイスとの国境もまたぐ南北65kmのイタリアで1番有名な美しい湖である。水面の標高は193mで、スイス国では最低標高の地点だという。
湖には、ボッロメオ家が所有していた3つの島があることでも有名だ。
遊覧船から見た背景の石灰岩でできたアルプス山脈が美しかった。
私たちは船に乗ってマッジョーレ湖に浮かぶ漁師の小島・ペスカトーリ島(写真上)とボッロメオ家のベッラ宮殿があるベッラ島(写真中)をクルーズした。(2枚とも遊覧船から撮影した)
17世紀に建てられたというベッラ宮殿には、豪華に装飾された幾つもの部屋とイタリア式のバロック庭園があり、庭園内では十羽程の白孔雀が放し飼いにされていた。(宮殿内は撮影禁止だった)
素晴らしい晴天の下、穏やかな晩秋の半日をゆったりと過ごした後、バスでまたコモに戻った。

 

  

  
 



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北イタリアの旅(3) 成田から北イタリアへ

2010年10月30日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

1日目午前10;55に成田を離陸したほぼ満席状態のブリテッシュ航空は、日本海を北上し、極東のハバロフスクよりロシア上空に入り、何時間も広大なロシア上空を飛び続けた。
この飛行機は、エコノミー席でも比較的ゆったりとしていて、2回出た機内食も美味しかった。しかし座席前のTVは古く、VTR映画の日本語字幕がなかった。
眼下を見ると、すでに真っ白い雪に覆われた初冬の広大なロシアの大地が広がっていた。
大きな川では、水が少しずつ凍りかけ、蓮型の氷が浮いているのも見えた。

  

  

さらに航空機はオランダのアムステルダムの上を飛び、離陸から11時間50分後、ロンドンのヒースロー空港に着いた。
ロンドンは、日本との時差が8時間あるので、到着時はまだ14;45だった。私たちは時計の針を8時間戻した。
そこで私たちは、3時間45分後にイタリアのミラノに飛ぶ航空機を待った。

やがて同じブリテッシュ航空の小型機に乗り換えて、18;30離陸。外は、もうほとんど夕闇に包まれていた。
ミラノ・リナーテ空港には2時間後、イタリア時刻21;35分に着陸した。イタリアと日本との時差は7時間なので、時計をまた1時間進めた。
出て来たスーツケースを受け取ってから、迎えに来たバスでミラノの北50kmにあるコモに向かった。
外は真っ暗なので、あまり様子は分からなかった。

コモのホテルのツインルームは広く、インテリアが洒落ていて、さすがイタリアのホテルに来たと感じた。
ベッドに入ったのは24時近かったが、時差7時間分を足すと旅の1日目は31時間もの長い1日だったので、機内に座っていたとはいえ、やはり疲れて、ぐっすりと眠った。

  

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北イタリアの旅(1)

2010年10月17日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア

本日17日(日)~28日(木) 迄、11泊12日の日程で、またいつもの友人とツアーに加わり北イタリアに行く事にした。
私達は、今夜は成田のホテルで前泊する。
成田空港からは、明朝10時55分のブリティッシュ航空でロンドンに向かい、そこで乗り継いでイタリアのミラノに行く。
ミラノからは、コモ、マントヴァ、ポルツアーノ、コルティナ・ダンペッツオ、パトヴァ、フェッラーラ、ボローニャ、パルマ、チンクエテッレを回って観光し、ミラノ空港から帰国する予定だ。
今回の旅行の1番の楽しみは、スイス、オーストリアとの国境に位置するアルプス山脈をイタリア側から見て来る事だ。
また山間で暮らす町や村の人々の様子も見て来たい。

所がこの地域はまだツアーも少なく、一般的な観光コースになっていないため、旅行会社にもガイドブックが無いという。
図書館でイタリア旅行のガイドブックを見ても、僅かなページしか割かれていない。
そんな訳で今回は下調べが不十分だが、ぶっつけ本番で行って来たい。

この所札幌では気温も大分低くなって来たが、北イタリアは今の札幌と似た気候らしい。しかし、最高気温は3~4度高くなるようだ。
添乗員氏から電話があったが、カイロや風邪薬を心配していた。本州からの参加者よりも北海道の私たちは、1番向こうの気候に適応しやすいと思う。
しかし、日ごとに寒さに向かう時期なので、寒い日もあることを考えてカーディガンなどを重ね着し、薄手の半コートを着て、マフラー、手袋も忘れず、風邪をひかずに旅行を楽しんで来たいと思っている。(先程ミラノの週間天気予報を調べたら、今週はほぼ晴天が続くようだ)

霜に弱い庭の植物の鉢上げは済んだが、出かける前に小松菜を収穫して茹で、冷凍しようと思っている。
その間、暫くブログを休む事になるが、帰国後、また報告したいと考えているので、それまでこのブログをいつも見て下さる皆さんもどうかお元気で。

               庭で 今年初めて小さな実を付けた「アルプス乙女」   

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南イタリアの旅(11)

2010年06月01日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア
《ローマで自由行動③、そして帰国》
サン・ピエトロ寺院の次は、地図を見ると歩いて10分程の所にローマ歴代皇帝の墓、「サンタンジェロ城」があるのでそこに行った。①
そこで少し休憩を取ってから、天使が立つ「サンタンジェロ橋」を渡り、さらに街中を歩いて「パンテオン」②に行った。
ここは紀元前25年にアグリッパが建てた万神殿が火事で消失した後、紀元118~128年に皇帝ハドリアヌスが再建した物である。
高さ43.2mの天井に空いている直径9mもある明り取りの天窓が特に素晴らしい。③
私は何度見ても1900年近い昔に、この建物をどのようにして建てる事ができたのかと驚く。画家ラファエロも彼の遺言に従ってここで眠っている。④

 ① ②

 ③ ④

友人が最後に「トレビの泉」に行きたいと言ったので、また少し歩いた。泉の前は相変わらず混んでいた。
「泉に後ろ向きになってコインを投げると、もう一度ローマに来られる」という言い伝えがあるが、前回来た時、子どもが長い竿の先に磁石をつけてコインを拾っていた事を友人に話したら、投げるのをやめた。

地図を見るとそこからは地下鉄バルベリーニ駅が近い事が分かったので、さらに7~8分歩き、地下鉄、バスを乗り継いでホテルに戻った。どの地下鉄も、外側は落書きで埋め尽くされていた。⑤
結局、その日使った交通費は、共通チケット3枚だけだったから、3ユーロ(390円)で済んだのだ。

 ⑤ 

バスを降りると物凄いスコールだった。傍のパン屋に飛び込み、ほーれんそうピザを切り分けてもらって買い、ホテルの部屋で夕食とした。

さて、ここまでは記憶があるのだが、次に私が気づいた時は翌朝だった。私は服を着たまま、ベッドの上で朝まで寝込んでしまったのだ。
前日を振り返ると、とても疲れたが、1日中、本当に自分達の足と目でローマを歩き、見た、充実した自由行動の1日だった。

9日目の帰国日、ツアーのバスは朝ホテルを出て、テルミニ駅傍で私たちを降ろした。
飛行場に行く前の1時間半が、最後の自由行動時間だったのだ。
2人でまず駅の傍にある「サンタマリア・デッラ・ビットリア教会」⑥⑦ (入り口の廃墟の様な外観は、直ぐ後ろにあるローマ時代の浴場跡に馴染むようにという考えでミケランジェロが設計したもの)を見てから、テルミニ駅の地下に行き、スーパーで昼食用の飲み物とサンドイッチ、それに土産用の一寸した食品を買った。

 ⑥ ⑦

ローマのレオナルド・ダビンチ空港発の飛行機は55分遅れで離陸したが、11時間15分後、ほとんど寝ている内に成田空港に予定時刻に戻った。
機内で傑作だったのは、機内食に出された日本食にサラダソースとそばのたれが付いていなかったことだ。
私は仕方なく持っていた「インスタント味噌汁」の味噌をつけて食べた。しかし、機内放送でお詫びの言葉が流れただけだった。イタリア人の大らかで拘らない性格がこんな所にも現れていた。

今回の南イタリアの旅は、豊かな自然と土地々々の特有な歴史や文化に触れる事ができたし、大半の場所で観光客が少なくのんびりと観光でき、とても満足できた旅だった。
また、ホテルの部屋も広く、食事も昼、夜ともフルコースで、比較的美味しかった。土産屋に連れて行かれることも余りなかった。
私は4回目のイタリアの旅を楽しめたので、これでもうイタリアはいいかなと思っている。
最近は旅日記を書くことで、私は3回旅を楽しんでいる。事前学習で、現地で、そして日記を書くことでの3回だ。
最後まで旅行記にお付き合いいただいた皆さんには、南イタリアで興味が持てた場所はあっただろうか。


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南イタリアの旅(10)

2010年05月31日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア
《ローマで自由行動②》
その次は「バチカン美術館」だ。
またコロッセオ駅に戻って地下鉄に乗り、途中、テルミニ駅(ローマ中央駅)でA線に乗り換え、オッタビアーノ駅で下車。そこから歩いて10分で「バチカン美術館」入り口に着いた。
私は4年前に来た時は、ここの「シスチーナ礼拝堂」しか見ていないので、今回は是非、他の部屋にも入場して主要な作品を見たいと思っていたのだ。
実はそのことを旅行前にかかって来た添乗員からの電話で言うと、「当日はチケット購入に1~2時間は並ぶので、ネットで予約して行くと良いでしょう。」というアドバイスを受けた。
しかし、プリンターが不調なので、私は結局、予約せずに出かけたのだが、午後1時半近くだったためか、全く並ばずに2階のチケット売り場に行き、15ユーロで券を買って直ぐに入場することができた。(日本で予約すると、予約手数料4ユーロも加算される)

ギリシャ・ローマ時代の石像やエジプトの石棺、ミイラの箱などと、ルネッサンス期に活躍したラファエロなどの画家が残した壁画や絵画、手の込んだ素晴らしいタペストリーや天井の作りなどが、二十数個ある部屋のどれにも溢れていて、パリのルーブル美術館をも凌ぐのではと思える作品も多数展示されていた。①②③
それらは、世界の頂点を目指したローマカトリック教会の威信と富を示していた。歴代のローマ法王は、こんな豪勢なところで暮らしていたのかと私には意外に思えた。

 ① ② 

 ③ 

最後に有名なミケランジェロの天井画と壁画で埋め尽くされている「シスチーナ礼拝堂」に入った。
ここは映画「天使と悪魔」でも見たように、次期法王の選挙をする部屋である。
前回行った時は身動きができない位の人だった。今回はそれより少なかったが、やはり大勢の観光客で溢れていた。
管理をする人が、「シッ!!キープ・サイレント!」と言いつづけていたのが可笑しかった。
私たちは、広大な美術館全体を事前学習で分ったポイントとなる作品を探しながら急ぎ足で回ったが、それでも2時間程かかった。

美術館を出たところで写真④を写してから、外壁に沿ってぐるりと回り、「サン・ピエトロ寺院」の正面広場に行った。
そこにも大勢の人がいたが、並んで手荷物などのセキュリテイ検査を受けてから内部に入った。
ミケランジェロ作「ピエタ像」と「聖ピエトロのブロンズ像」、ベルニーニ作の「ブロンズの天蓋」⑤(映画「天使と悪魔」の最後で、若き司祭カメルレンゴが焼身自殺をする場面に使われたのは、この場所のすぐ後ろの階段下だったと記憶している)の鑑賞を友人に促してから早めに出た。

 ④ ⑤



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南イタリアの旅(9)

2010年05月29日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア
《ローマで自由行動①》
ローマ郊外のホテルに戻り、旅行もいよいよ最終盤。旅の8日目は、朝から1日自由行動だった。
添乗員が気を利かせて、オプショナルに参加する人たちのバスを、自由行動に行く人も往復2500円で利用して良いと言ったが、私たちは値段も高いし、それに帰りの集合時刻が早いので、自分の足で行動することにした。
ローマでは75分間乗り降り自由なバスと地下鉄の共通チケットが1ユーロ(130円)なので、それを煙草店が9時に開くのを待って買い、ホテルの傍のバス停でバスを待った。
(本当は1日乗り放題券1枚4ユーロを買いたかったが、そこにはなかった)
バスは接続する地下鉄の○駅まで35分かかった。
バスで郊外の田園風景や乗客を見るのは楽しかったが、バスが古く、座席が壊れて外れていたり、シートに落書きが多く、あちこち破れていたのに驚いた。

バスの終点がB線の地下鉄駅なので、さらにそこから地下鉄コロッセオ駅まで15分程乗った。出口から出ると、目の前に大きな「コロッセオ」が聳えていた。①
ここは紀元75~80年に、皇帝ネロの宮殿の庭にあった人工池の跡地に建設された建物だ。
10分ほど並んでチケットを買い、コロッセオの中を見学した。
3階まで上がるが、階段の段差が相当きつい。
3階をぐるりと回りながら、全体が見渡せる位置で数枚写真を撮った。とにかく大きい。長径188m×短径156mの楕円形で、高さは48mもあるというが、見ても細かなことは良く分からない。②

かってここでは4.5万人の人々が剣闘士の繰り広げる凄惨な戦いを見て熱狂したのだ。
今は1階の床は無く、地下が露出している。そこは猛獣の檻だったり、水を張って船を浮かべたりもした所だ。
コロッセオの建材は火山灰から造ったコンクリートで、大理石も使われていたというが、大理石はその後、建材として他に持ち去られ、今の形が残ったらしい。(大理石の一部は、サン・ピエトロ寺院の建設にも使われたという) 
私たちはゆっくり1時間、その巨大建造物に身を置いた。

 ① ②

そこから出て、コロッセオの直ぐ傍にある古代のローマ都市、「フォロ・ロマーノ」と「パラチーノの丘」にも入場した。
かっては広い広場や神殿、図書館などが立ち並んでいた場所を上から眺めて、当時の賑わいを想像した。③
また、陽射しが照りつける石畳の通路に、空き缶を置いてじっとしゃがみこんでいる女性がいた。④ 別の場所には、明らかに病気だと思われる男性が、同じように頭をたれてしゃがんでいた。
その日は夏を思わせる暑さだったので、広い場所を1時間半ほど散策したら、少し疲れた。

 ③ ④

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南イタリアの旅(8)

2010年05月28日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅡ」北イタリア・南イタリア
《ポンペイの遺跡見学》
カプリ島からナポリへ戻り、直ぐにそのままポンペイの町へ向った。
遺跡の傍のレストランで昼食を摂ってから、世界遺産「ポンペイ遺跡」を観光した。
私がポンペイを訪れたのは2回目だったが、今回は新たに発掘された場所を見る事ができた。

ポンペイは、紀元前8世紀頃から、ベスビオ山の噴火でできた丘に町ができ、海まで近かったこともあってギリシャ人の植民地として商業、交易で栄えたという。
それがベスビオ火山の噴火による降灰で、紀元79年8月24日、突如、地上から姿を消したのだった。
町は当時、人口15,000人、城壁を持ち、企画整備された都市の中に上水道、公衆浴場、神殿、公共広場、商店、住宅などがぎっしりと立ち並んでいた事が発掘により判明した。
①は整然と並ぶ住宅、②は神殿前広場、③は広場入り口の門

 ① ②

 ③

車の轍が残る石畳の道路の一部には、隙間を開けて石を並べた横断歩道も造られていたし、水道もあった。奥にはベスビオ山が見える。④
富裕な階層の人の家には噴水や池がある中庭があり、壁は素晴らしい壁画で飾られていた。
1時間ほど見回ったが、パン屋のカマド⑤は現在のものと違いがなかったし、オリーブ油などをカメに入れて売っていた店⑥もあった。
浴場は娯楽の場として、天窓から明かりを取る構造になっていて、壁の中には温水が張り巡らされ、暖房もされた贅沢な作りになっていた。⑦はその一部。ここに飲み水が出ていて、乾いた喉を潤せたらしい。

 ④ ⑤ 

 ⑥ ⑦

資料館には、発掘品が陳列されていたが、一瞬にして命を奪われた人や犬が火山灰で焼けてしまって空洞になった所に、石膏を流し込んで再現した像が幾つか無造作に置かれていた。⑧

 ⑧  

こうして現代とそっくりな古代の町を見学していると、ひょいと当時の人たちが沢山出て来そうな錯覚に襲われた。
友人は、「現代と違うのは、電気、ガス、通信網が無かったくらいなので、本当に驚いた。」と話していた。

帰りにバスから町を見た。何とベスビオ山の中腹まで家が建っていた。国の安全性を確保する建築基準がどうなっているのか、とても気になった。
バスはポンペイからローマまでの250kmを3時間半走り、ローマ郊外のホテルに着いた時は19時半を回っていた。
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