花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

「エジプト」旅行(15) エジプトから出した絵葉書の事

2013年01月30日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

昨年12月中旬にエジプト旅行をした時、ナイル川を下るクルーズ船の中で友人や親戚、ご近所数人に絵葉書を書いた。
船の売店で買った切手を張って、クルーズ船のポストに投函したのが、確か12月15日だったと思う。

それが一昨日から今朝までに5人の人から、「絵葉書が28日に届いたよ。」という連絡があった。
何と1ヶ月半も掛かったのだから呆れる。
(93歳の伯母からは、「三角のが写っているけど何なの?」と聞かれた)

                  

私は着くのが余りに遅すぎるので、「絵葉書代も切手代も国の収入になったのだからと、そのままナイル川に捨てられてしまったのではないだろうか。」とかなり疑っていたのだ。
時間が掛かったとはいえ確かに届いた訳で、疑った事を反省している。

一番上に赤字で「AIR MAIL」「TO JAPAN」と大きく書いたのだが、ひょっとして船便で日本に運ばれたのかな。まさかね。
以前、南アフリカのボツワナ共和国から出した絵葉書が3ヵ月後に届いた事があった。受け取った人は、「切手が剥がれて、ぼろぼろになっていたよ。」と話していた。
やはりアフリカは、まだまだ遠い国なのかも知れない。

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樹氷

2013年01月25日 | 日記
昨日午前10時頃、岩見沢に向かった。
気温はー10度位あったと思うが、郊外の農道を走っていると道路脇の木々が枝先まで樹氷に覆われていて真っ白くなっていた。
曇って太陽が出ていなかったので、その時間帯でも溶けなかったのだろう。
広大な農地に植えてある防風林の美しさは格別だったが、写真を撮ることはできなかった。
路面は凍結していて、スピードが30km/h 出ていたら、赤信号でも停止できなかった。
(写真は白樺の立ち木)

  

岩見沢に行くと例年よりも積雪量が多いと言っていた。伯母の施設のごみ集荷場は雪に埋もれ、近所の家の車庫も埋まっていた。
一軒の家の車庫は完全に雪の中だったが、周囲の雪の重みも加わって潰れてしまうのではと気になった。
幹線道路のあちこちで排雪作業をしていて、郊外の雪捨て場に捨てられた雪の山の高さ、大きさも凄かった。

  

                

伯母の伸びた髪を散髪後、お喋りをし、早めに帰宅した。
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初めての排雪

2013年01月09日 | 日記
今冬は12月から大雪が降り、道路の両側にうず高く雪が堆積していて、道路が極端に狭くなり、車2台は走れなくなっていた。
交差点では全く見通しが利かなくなっていて、車にとっては危ない状況になっていたのだ。
今日は今年一番冷え込んだが、ザーザーという大きい音が聞こえたので、カメラを持って飛び出した。

案の上、この住宅街にも待っていた排雪車がやって来たのだ。
先頭の回転する部分で凍結した硬い積雪を崩して、隣に併進するトラックの荷台に入れていくのだ。
トラックは雪が満たされると郊外の広い雪捨て場に捨てに行く。代わりに、次に控えている空のトラックが来て併進する。
こうして瞬く間に雪がなくなり、道路が本来の広さを取り戻した。作業員の方達、寒い中お疲れ様。

折角、予算を使って排雪したのだから、後は暫く大雪が降らないことを祈りたい。

  

                 
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「エジプト」旅行(14)

2013年01月08日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

今朝は晴天。そのために放射冷却現象が起きたのか、明け方の気温はー18℃だったらしい。8時半にはー13.5℃に上がっていたが、室内もかなり冷えた。
ニュースでは、今朝、北と南の気温は最高地点で50℃も差があったと言っていた。南では桜が咲いたらしい。
北海道電力からは、朝8時からの節電が要請されているが、我が家のような電気暖房の家では、節電すること自体にかなり難しい現実がある。
昨日は図書館が休みだったが、今日は3時間ほど行って、その間、家の電気は切ろうかな。
12日頃から少し暖かくなりそうなので期待したい。

昨日、伯母に電話をかけたら、私から食事が冷たくて美味しくないという伯母の苦情を伝えた後に改善されて、「大分美味しくなった。嬉しいよ。有難う。」と言われた。「それは良かったね。だけど本当は、良く知っている自分達で施設に言わなければ駄目なんだよ。」と話して置いた。




《カイロの市内観光》
7日目の午前中は、観光の最終時間だった。
泊まったギザのホテルはデラックスなリゾートホテルで、幾つもの棟に分かれているので初め自室を探すのに苦労した。
部屋、洗面所、浴室とも広く、設備も整っていたし、ホテル内で数軒のみやげ物店も営業していた。
入り口では荷物のX線検査もされ、安全に配慮していた。何よりもプールがある広い中庭の植栽が素晴らしかった。

  

          

朝8時半、バスでカイロに行き、最初にギザの三大ピラミッドの傍にある「香水店」に行った。私は香水のきつい匂いにアレルギーなので、店の外に出てぶらぶらしていた。
丁度現地ガイドとツアーポリスが駐車場にいたので、簡単な会話をした。ポリスは2人とも20代だという。立派な私服のスーツの下に銃を下げていた。

次に「エジプト考古学博物館」の見学に向かった。
数千年前の貴重な遺跡からの出土品や彫像の展示品の大半が、大きな建物の廊下や部屋に無造作に並べられていた。
写真撮影は禁じられていたので、ガイドの説明を聞きながら見て回った。

 

1番記憶に残っているのは、「ツタンカーメンの黄金のマスク」と「玉座」、王のミイラが入っていた入れ子細工式の4重もの「大きな棺の箱」「棺」とそれに描かれた極彩色の絵だった。

なおガイドブックによると、この建物は古くなったので、新たな「大エジプト博物館」をギザに建設中だという。総工費700億円の半分を日本のODAが出しているそうだ。

その後、車が多い市街を走って、「モハメドアリ・モスク」の概観を見に行った。
途中、高速道路の下にある有名な「タフリール広場」(写真の奥が広場)も見たが、屋台も人も沢山出ていて、高速の下には車も沢山駐車していた。この狭いごみごみした場所が「アラブの春」で拠点となった所なのかと思った。

 

また街中や運河の水面にはびっしりごみが散乱していて、その内町中がごみに埋まるのではないかとも思った。郊外では自然では分解しないビニール袋が散乱し、それを鳥や動物がつつく様には心が痛んだ。
バスが駅の傍にある駐車場に止まっていた時の事だ。大きい袋を担いで来た男性が、袋を逆さまにして中のごみを駐車場の隅に出すと何食わぬ顔で立ち去ったのを目撃した。間も無く野良猫が数匹現れて、餌を漁り出した。

  

  

夕刻、スーパーマーケット「シティスターズ」に連れて行ってもらい1時間買い物をした。
そこは巨大なスーパーで、門番が居て手荷物がチェックされ、中産階層以上の人しか中にはいれないらしかった。
私は小型の「ヘーゼルナッツ入りチョコレート」10個とミックススパイス3個を買った。

夕食後空港に行き、23;20発のエジプト航空機で成田まで帰った。帰りも運良く席を3つ取ることができ、11時間40分の飛行中大半を寝る事ができて幸せだった。
成田には19日18時に着いたので、旅行社が取ってくれたホテルに一泊し、20日、成田空港発10時の新千歳行きに乗って無事に帰宅した。

今回のエジプト旅行は、予想外の収穫が沢山あった旅行だった。やはり旅行は思いついた時がチャンスなので、ぐずぐずしないで実行するべきだと思った。
長くなったこの旅行記を読んでいただいた皆さんには、エジプトを前よりも身近に感じて貰えただろうか。 

12月15日にクルーズ船のポストに投函した絵葉書が、まだ届いていない。既に3週間になるというのにどうしたのだろうか。   (完)

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「エジプト」旅行(13)

2013年01月07日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

年末から来ていた家族もみな去り、恒例の賄い婦としての役割が終わった。認知症予防の1つは「料理をすること」だというので、少しは予防ができたかなと思う。
今朝7時の外気温はー14℃。これから1ヶ月間、まだまだ寒い日が続くのではないかと思うが、風邪など引かぬように注意して暮らしたいと思う。




《カイロのダハシュールのピラミット》
ダハシュールには2つのピラミッドがあり、「クフ王」の父になる「スネフェル王」が作ったものだ

1つは高さ105mで真ん中辺で角度が変わっている「屈折ピラミッド」で、もう一つは赤い石で作られている「赤のピラミッド」だった。

後者は中に入れるそうだが、私達は行かなかった。
ガイドブックに「凄く臭い」と書いてあったので、理由をガイドに聞くと、「管理人が中で用を足すからだ」という答えが返って来たので驚いた。
こちらは、二等辺三角形のピラミッドとしては最古のものだという。

  

この後、古王国時代(紀元前3000年~2040年)に1000年間にわたりエジプトの首都だった「メンフィス」に行き、「メンフィス博物館」の二階に上がって体長が10mもある横たわる「ラムセス2世の巨像」を見学した。
保存状態は良いが、あまりにも大き過ぎて上手く写真に納まり切れなかった。
この王は、随分あちこちに自分の彫像を残している。

傍の公園に小型の可愛い顔をした「スフインクス」があった。アラバスター石(大理石だが柔らかい石)で作られているそうだ。

  

幾つか質素な土産物の小屋台が出ていたので、私は「ツタンカーメンのマグネット」を数個買った。
その店のハンサムな男性店員はシャイなのか、不思議なことに客に品物を売り込もうとする気持ちがほとんど感じられなかったので応援したくなり、他の人にも「あの店良いよ。」と宣伝した。

博物館の入り口横で日本円「100円!」といって絵葉書などを売っていた男性がいたが、自由時間に私が近寄ると100円硬貨を10枚出して、「これを1000円札にチェンジして欲しい。」と話しかけられた。
私は1000円札を持っていなかったので断ったが、エジプト国内では使えない日本の硬貨で商売している人に初めて出会ったのもメンフィスだった。
考えて見たら同じものを1ドルで売るより、100円で売る方が15%位高く売れる訳だ。彼なりに頭を使って考えたのだろう。

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「エジプト」旅行(12)

2013年01月05日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《カイロのサッカーラ観光》
6日目は早朝に下船して「ルクソール空港」から6;45発の航空機で「カイロ空港」に向かった。飛行時間は1時間10分だった。

たまたま窓側の席に座れたので、夜明け後のカイロ近郊の景色を上空から見ることができたのだが、一面に砂漠が広がっている光景に胸が痛んだ。
本当に上空から見ても、緑があって農業や牧畜ができるのはナイル川の岸辺に僅か4%程しかないというオアシスだけなのだ。
産業の近代化を進めなければ、この国は豊かになれないことが良く分かった。

1年前に「アラブの春」で民衆が立ち上がり、長く続いた独裁政権を倒したのだが、新憲法を作る段階で90%を占めるイスラム教信者がイスラムの教えに基づく憲法にしたいと言いだした。
それで私が旅行中に国民投票があったのだが、不正があったのかなかったのか、結果はイスラム憲法支持者が過半数だったという。
イスラム教の影響を排除したい「アラブの春」の中心になった若者達の中に諦めムードが広がっているのではないかと心配だが、暫くはエジプトに宗教戦争さながらの不安定な政治状況が続くのだろうか。

数日振りでカイロに戻り、バスは高速道路を走ってギザの南方10kmにあるサッカーラに行った。
そこには、ピラミッド建設の第一歩を記したという「ジョセル王の階段ピラミッド」があった。
高さ60m、底は140m×128mと独特な長方形をしていて、6段の階段状をしているのだ。その傍に祭壇、葬祭殿などの複合施設(ピラミッド・コンプレックス)が残っていた。

ここでも売り子数人が私達にしつこく付きまとって来ていた。施設の上部に上がるとらくだ引きも2人いて、写真を撮らせてチップを稼いでいた。

  

   

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「エジプト」旅行(11)

2013年01月03日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《ルクソール東岸観光》(2)
「カルナック神殿」を観光後、次はすぐ近くにある「ルクソール神殿」に向かった。
この神殿は「カルナック神殿」の付属神殿として造られたといわれる。かってはスフインクスが並ぶ参道で、両者がつながっていたらしい。

入り口から入ると中庭があり、そこに「ラムセス二世座像」と高さ25mの「オベリスク」が立っていた。
かってこの「オベリスク」は左右一対のものだったが、右側の物は持ち出されて、今は何とパリの「コンコルド広場」に立っているのである。

(調べたら、1805年にトルコのスルタンにエジプト総督として任命された「ムハンマド・アリ」はエジプトの近代化に着手したが、彼にはヨーロッパ各国の技術者が群がり、導入する機械や技術と引き換えに貴重な遺跡の持ち出しを認めた事が分かった)

ラムセス二世の「第一塔門」を入った所に「ラムセス二世の中庭」があり、列柱が並んでいた。
この頃、既に陽が沈み、神殿はライトアップされ、太陽の下で見るのとは違う雰囲気に満たされた。

  

  

午後の2箇所のオプショナル観光は、こうして結構充実し、満足できたものだった。









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「エジプト」旅行(10)

2013年01月01日 | 海外旅行「中近東Ⅱ」エジプト

《ルクソール東岸観光》(1)
「ルクソール西岸観光」を終えて船に戻り、昼食を摂った後は、オプショナルツアーの「東岸観光」(8000円)だった。
私は折角遥々エジプト迄来たのだからと、申し込んだ。
14時から3時間半の観光で、先ずはバスで「カルナック神殿」に向かった。

「カルナック」は、ナイル川を挟んで「東岸」が生者が暮らす町、「西岸」は死者が暮らす来世の町とされていた。
「カルナック神殿」は、東西540m、南北600mの広さに、エジプト最大規模の「アムン大神殿」と「ムート大神殿」「モンツ大神殿」がある。

古王国時代は、王がラーと一体になり、王自身が神として崇められる対象だったが、中王国時代になるとテーベ(ギリシャがナイル川の河畔地域をこう呼んだ)が発展して行くにつれ、「アムン神」(羊の頭をした神)は太陽神「ラー」と結合して最高神となり、王の地位は下がって、神に寄進する立場になったという。

「カルナック神殿」は、入り口から奥に「スフィンクス参道」→「第一塔門」→「第二塔門」→「大列柱室」→「第三塔門」→「第四塔門」→「第五塔門」→「至聖所」と順に造られている。
建築が始まったのは紀元前1800年頃の第11王朝辺りからで、紀元前170~116年に在位していたプトレマイオス8世が完成させるまで実に1700年近い間、何人もの王が様々な建物を次々と寄進し続けたのだ。
(第30王朝が寄進した「第一塔門」は未完成のまま残されている。「大列柱室」と「スフィンクス参道」、自分の「巨像」は第19王朝のラムセス二世が寄進したもの)

まず、入り口にズラリと並ぶ「アムン神」の像が見学する私達を圧倒した。さらに第一塔門から中に入って見た光景の壮大さ、列柱室に林立する太い柱に本当に仰天させられた。

(クレオパトラとアントニウスがオクタビアヌスに敗れた紀元前30年以降、ローマ帝国の属州となった。紀元395年にローマ帝国が東西に分かれると、エジプトは東ローマ帝国領になった。この頃、原始キリスト教の「コプト教」が盛んになり、紀元42年には使徒マルコが布教を始めたという。
「カルナック神殿」の一部にも、彫像が削られて十字型に変えられている場所があった)

  

  

  


実はこの間、紀元前675年に「アッシリア」王がエジプト討伐作戦を命じた。アッシリアの大軍が国内に攻め入り、古都メンフィスが占領された。
(アッシリアは、今のイラクに当たるチグリス川沿いの高原地帯にある地域で、雨が多く農業、遊牧が盛んな豊かな地域であった)
紀元前667年にはカルナック神殿の破壊を免れるためにアッシリア軍に門を開けた。アッシリア軍は宝物を奪い、建物を破壊しつくした。遂に紀元前664年には、覇権国家エジプトは終わりを告げた。
(一方、南方のヌビア軍が攻め入ると、アッシリア軍は敗退し、紀元前609年にはアッシリアも滅亡したという)

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