花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(11)

2016年03月12日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪「シンガポール」市内観光≫(3)

③「スリ・マリアマン寺院」
ここは、1827年に完成したシンガポール最古のヒンズー教寺院である。
ラッフルズに同行してやって来たインド人「ナライナ・ピライ」がインド人が沢山住んでいた地域に女神「マリアマン」を祀る寺院を造る上で尽力したという。
初期の頃は、ホームレスのインド系住民に寺院の一部を解放した。
現在でも「ティミティ」という裸足で熱い炭火の上を歩き、信仰心を示す「火渡りの儀式」が行われている。
は15mの高さで、ヒンズー教特有の形をしていた。廊下の天井部分の装飾も独特だった。
(私は数年前「火渡りの儀式」をインドの隣国「スリランカ」で見たことがある。炭が燃えると表面に白い灰が残るが、その上を歩いた様に見えた)

 

④「シンガポール・リバークルーズ」

市内観光の最後は「リバークルーズ」だった。
船着場から前日夕方観光した「マーライオン」や「ラッフルズ卿の像」が立つ「マリーナ・ベイ」まで、6本の橋をくぐりぬけて一周した。30分近い時間だっただろうか。船から陸上を眺めると、角度が違って見える川岸の景観が、またなかなか良かった。
最後の写真は、「ラッフルズ卿の像」の近くに建つ「国立美術館」である。

 


                 


現地ガイド氏が最後に「シンガポールの教育事情」などを話してくれた。
小中高は6-4-3制で、高校卒業迄無料だが、留年もある。
家族が4人で妻が働いていないために月に2000ドル(1シンガポールドル=85円とすると、17万円)以下の収入なら、朝食を学校で無料で食べられるし、洋服(制服?)ももらえる。」
「公団住宅の価格は30(2550万円)~100万ドル(8500万円)するが、その7~8割を政府から援助して貰って買う。マンションは200~300万ドルである。
60㎡位の住宅を30万ドルで買う場合は、自己資金は16万ドル(1360万円)で済む。以前買ったその公団住宅が、今なら60万ドルで売れる。ただし住む所をまた手に入れないと駄目だが。今では50階建ての公団住宅も増えている。」

最後の夜は、ホテルで荷物整理をし、翌朝4時半の起床に備えて早く寝たが、夜中に何処からとも無く打楽器を含む演奏の音が響き目が覚めた。その音は朝まで続いて、私は結局3時に起きてしまった。
バスは、ホテルを5時15分に出発し、シンガポール空港に向った。

朝食はパンが4個出たが、甘過ぎて食べられなかった。空港の待合室にいた青年に声をかけると、受け取って食べてくれた。あり難かった。
その青年は、アメリカの大学院を卒業して日本を含む32日間のアジア旅行を終えた人だった。チケットを見たら、偶然にも成田空港行き飛行機の座席が隣同士だったのには驚いた。
機内でも色々と話し、メールアドレスを交換した。
先日、メールが来たので、私からは「アメリカ総領事館の面接が済んだので、次はアメリカに行くのを楽しみにしている所だ。」と返信した。すっかり英語のスペルを忘れてしまって、短い文を書くのにも辞書を引いた。やれやれである。

やはりツアーに加わっての旅行は1人でも安全で効率が良いが、時間に追われて「できればもう少し見たい」という希望は実現できない。
初めて行った「シンガポール」もそんな場所だった。機会があれば、次回は12月か1月に子どもと再訪したいと思った。
今回で「マレーシア・シンガポールの旅」を終る。何か気がついた事があれば、指摘をして欲しい。
                               (完 成)

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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(10)

2016年03月11日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪「シンガポール」市内観光≫(2)

②「ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ」
ここは「近未来型植物園」と言われているそうで、「マリーナ・ベイ・サンズ」の湾を隔てた向い側のエリアに造られていた。
先ず驚いたのは、巨大樹を鉄パイプで造形した高さ25~30mのスーパーツリーだ。根元にはパイナップル科の植物やつる性の植物が植えてあるので、今後の生育が楽しみだと思った。
高さ22mの所に全長128mのつり橋が掛けられていて、5ドルでエレベーターに乗れた。高度感たっぷりの体験は楽しめたが、時間的に他のエリアに行く事は叶わず、残念だった。

 



               



③「マリーナ・ベイ・サンズ展望台」
人気の「空中プール」は宿泊客しか使えないが、一般でも23ドル(2000円)払って展望台に上る事ができた。高い所が好きな私も行って見た。
直前に「ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ」で高度感を味わったためか、あるいは広大な眺望のためか、私には余り高度感は感じられなった。しかし、眼下にシンガポールを見渡し、地形全体を知る事ができた。「空中プール」を脇から見られた事も良かったので、十分に満足できた場所だった。

           



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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(9)

2016年03月11日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪「シンガポール」市内観光≫(1)

観光の最終日は、シンガポールの市内観光だった。
11時まで自由行動で、その後、バスで市内観光に向かうという変則的な日程に戸惑ったが、ホテルがオーチャード通りに面していたので私は一人で9時過ぎにその通りの散策に出た。
間も無く「高島屋」が見えたが、10時の開店時間に間があったのでさらに散策を続けた。
ガイド氏が言った通り「車優先社会」で、交差点以外の水平横断は柵が設けてあってできないのだ。道路の向こう側に行きたければ、横断歩道以外は一旦地下に降りる階段を探し、降りてまた上がって渡らなければならないのだ。時間がかかるが、安全に渡りたければそうするしかない様だ。

あちこちに私服の警官がいて、路上でタバコを吸ったり、違法な横断をすると補導されるらしいから注意した。
また、近代的なコンクリートだらけの街に、彩りや癒しが目的と思われる造形物が置かれていた。ビルの間の通路には植物も植えられていた。

 

 

①「シンガポール植物園」
この日も気温は32℃はあっただろう。私が楽しみにしていた植物園に入ったが、面積が広大らしく、ガイド氏が「個人で見ようとしたら迷子になります。」と言うので、ガイドに着いて行った。ほんの入り口近辺しか案内されず、時間も少なく残念だった。
国花は「ランの花」で、あちこちに植えられていた。

 
                        (最小のバナナだとか)

 

 
 

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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(8)

2016年03月10日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪「シンガポール」の歴史概略≫

ガイドブック「地球の歩き方ーシンガポール」に略年譜が載っていた。それによると、
 14世紀  港町トゥマセクが史料に登場
 14世紀末 トゥマセク、シンガポールと改称
 1613年 シンガプーラ、ポルトガルに焼打ちされ壊滅
 1819年 ラッフルズ、シンガポールにイギリス東インド会社の中継港建設開始
 1832年 ペナン、マラッカと合わせたイギリスの海峡植民地の首都になる
 1858年 海峡植民地がイギリス政府の直轄となる
 1942年 日本軍、シンガポールを占領
 1945年 日本敗戦、シンガポール再度イギリス直轄領となる
 1955年 選挙でイギリスからの部分自治政府成立。
       将来の独立に向け、英語の他に中国語、マレー語、タミール語を公用語にし、それまで民族毎に経営していた学校を全て平等に扱う事にする
 1957年 シンガポール市民権法制定
 1959年 総選挙で完全自治に移行。人民行動党(PAP)のリー・クアンユーが首相に
 1963年 マラヤと合併し、マレーシアの一州となる
 1965年 マレーシアがら独立、シンガポール共和国成立 1967年 5カ国で「ASEAN」(東南アジア諸国連合)結成
 1990年 リー・クアンユー、31年間の首相職辞任

日本軍が占領していた3年半、シンガポールは「昭南島」と呼ばれ、貿易の停滞によって、職業、食糧、物資の不足、インフレが進行して住民は苦しんだという。また、民族を平等に扱わなかったため、民族対立もふかまったらしい。
1955年に部分自治政府ができると、国民統合の政策を進めた。

1965年、「バンコク宣言」で、シンガポール、マレーシア、タイ、インドネシア、フィリピンの5カ国が「ASEAN」を結成した。1984年、ブルネイが加盟した後、カンボジャ、ベトナム、ミャンマー、ラオスも加盟を果たして、現在は10カ国になった。

ガイドブックによると、独立当時、最大の課題だった失業率の高さは、外国企業の投資と誘致を進めて乗り切り、1972年頃には解消。その後、経済発展に伴って労働力不足が起きたが、外国人労働者で補い、驚異的な経済発展を実現した。この間、日本の企業進出も進んだ。
また政府は、それまで民族毎に居住区が異なる「カンボン」(集落)に住んでいた住民を、1970年頃からは高層の公団住宅を建て、そこで色々な民族出身の家族が混ざって住む政策を推進し、民族の融和を図った。
さらに英語教育が普及するに伴い、他の民族の言語を教える学校が少なくなって行ったという。近年は民族文化の伝統を守る意味で、他民族の言語教育も復活させているらしい。

            
                   

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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(7)

2016年03月09日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

②「マーライオン公園」
夕暮れが迫ってきた頃、一番有名な「マーライオン」がある公園に行った。気温がまだ高いためか、多くの観光客で賑わっていた。
「マーライオン」は、1972年9月に当時の首相「リー・クアンユー」が提案して造らせた高さ8mある上半身はライオン、下半身は魚の白い像だ。「シンガポール」の「シンガ」はサンスクリット語で、「ライオン」の意味なのだとか。
中には「マーライオン」像を手の平に乗せた様に見える写真を撮る人や、ライオンの口から流れる水を自分の口で受け止める様に見える写真を撮る人などもいて、とても混雑していた。「自撮り棒」の先にカメラを付けて、背景を変えながら自分を写すアジア人らしい観光客も沢山いた。「マリーナ・ベイ・サンズ」がとても真近に見えた。

 
       
またドリアンの形に見える「エスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイ」が「マーライオン」公園の近くに見えた。ここはコンサートやオペラ、バレーなどを公演する総合芸術文化施設で、2002年10月にオープンしたという。
屋根に直射日光を遮断するパネルを張っているので、こんな形に見えるそうだ。

「シンガポール」は、土地が狭く高価なためと、地震が無い国なので、結果的に高層ビルが建て混んでいるのだろうが、何か無機質で穏やかさの感じられない大都市に思われた。


見学後、傍の「マーライオン」商品店で20分程自由時間があったが、私は適当な物がなかったので何も買わなかった。

この日の夕食は「スチームボート」の店だった。
写真は9人用の食材と「ゆで鍋」2つだ。牛肉、鶏肉、海老、豆腐、水産練り製品、各種野菜類はどれも追加自由だったし、3種類ほどあるタレも美味しいので、全員、満足するまで沢山食べた。
      


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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(6)

2016年03月08日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪陸路で「シンガポール」へ国境を越える≫

ヨーロッパのEU加盟国では、国境を越すのに何も検査は無いか、またはパスポート検査程度で終る。しかし今回は、EU以外の国を陸路で渡って隣国「シンガポール」に行くという初体験をした。
先ず「マレーシア」を出国するための税関には、一般車輌6列、バス1列のレーンが作ってあり、物凄い数の車輌が続いていた。私達の大型バスは、左側のバス専用レーンから税関前に行った。

乗客はバスから降りて1人ずつパスポートと入国時に空港で受け取った「入国カードの半券」を持って並んだ。無事に税関を通過して出国すると、待っていたバスに戻り、少し行った所で今度は「シンガポール」側のバスに荷物ごと乗り換えた。ここで現地ガイドも代わった。

次に「シンガポール税関」の建物の前でバスから降り、各自、全ての荷物とスーツケース、パスポートを持って「シンガポール税関」の入国審査を受けた。
その際、両手の人差し指の指紋を登録させられた。
それが済むと全ての荷物のX線検査を受け、OKが出て初めて入国できた。中には荷物を開けられる場合もあるそうなので緊張した。
ちなみに「酒」「タバコ」の持込には税金が取られるのだという。
ここまでに1時間かかったが、陸続きの他の国にはない興味深い体験だった。


バスに全員戻って走り出すと、そこはもう面積が715.8k㎡と淡路島ほどしかない小国「シンガポール」だった。
「シンガポール」は中小の島々でできた人口531万人(2012年)の国で、「マレーシア」とは「ジョホール水道」に架けられた2本の橋で繋がっている。


         
橋を渡ると間も無く工場地帯に入り、工場や住宅が見えて来た。
 

          

中心部に着くころ、既に日が傾きかける時間だったが、2箇所の観光をした。

①「ラッフルズ卿の上陸地点」
昔「シンガプーラ」(椰子の町)と呼ばれ、小さな漁村に過ぎなかったこの地に、1819年に「トーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿」が上陸して、ここに「イギリス東インド会社」の中継港を建設することにし、名前を「シンガポール」と改めたのだった。これが現在のシンガポールに発展したスタートだった。
今では「シンガポール海峡」から湾に入ったその辺りには、近代的な高層ビルが建ち並ぶ中心地になっている。
向こう岸の赤い屋根の低い建物は、中国人が多く住んでいるという。
「ラッフルズ卿」が腕組をする像は、湾を背にしていた。傍に「プルメリア」の白い花が咲いていた。

 

 

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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(5)

2016年03月08日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪4日目は世界遺産「マラッカ」観光≫

この日は「クアラルンプール」のホテルを8時に出発後、前日、公開時間切れに間に合わず見学できなかった「国立回教モスク」に向い、9時からの公開に真っ先に入った。
私達は予め長袖、長ズボン、髪を包むスカーフを身に着けていたためそのまま入場が許されたが、入り口にそうでない人たちが借りる衣装が用意されていた。
その時間信者も少なく、信者で無ければ入れない祈りの場所は仕切りの上部から写した。
 
 


その後、「マラッカ」を目指して南に走った。道路の両側に「椰子の木」の畑が延々と続いた。
            
ガイド氏は「この木から椰子油(パームオイル)が抽出されます。木はインドネシアから移植されて増やされたものです。」「椰子油は健康に良いので、世界中に輸出されています。」という説明があった。
それに対し私から「椰子油には飽和脂肪酸が多いので、他の植物油に比べて酸化、変質しにくく加工食品に多く使われる様になったが、他の植物油よりコレステロールが多く含まれるので、決して健康的とは言えない。」と反論した。
その後個人的にガイド氏に「椰子油は、ポテトチップスなどのスナック菓子に多く使われ出したので、アメリカの子ども達のコレステロール値が中高年並みになり、問題視されているとの事です。」と話した。

「クアラルンプール」を出て2時間後に「マラッカ」に着いたが、この日も晴天で気温は32℃程度。
以前に来た時と同じく「オランダ広場」「マラッカキリスト教会」「セントポール寺院」「サンチャゴ砦」を見学した。
今回は現地ガイド氏が説明不足で、景観以外はあまり記憶に残らなかった。

 
      (オランダ広場の「マラッカキリスト教会」と「時計塔」)
 
(屋根が失われた「セントポール教会」は、ユネスコの指示で補修されていた)(日本人牧師の墓石もあった)
 
(ポルトガルがオランダの侵攻に備えて1511年に作った「サンチャゴ砦」の門と大砲、傍に咲いていた花)

(運転手が思い思いに飾り付けて客を乗せる「自転車タクシー」)

昼食は「ニョニャ料理」だった。これは中国から来た男性と結婚したマレーシアの女性が、夫のために作った両国の合作料理だという。美味しかった。

昼食後はすぐ傍の雑貨店で、30分程の買い物時間があった。私がこの店を訪れるのは2度目だったので、以前に買って美味しかった「カレールー」や「ココナツオイル」を親しくなった人達に紹介した。
この店が「マレーシア」最後の買い物のチャンスだったので、皆お金を使い切っていた様だった。私は残っていた僅かなお金を使い果たすために石鹸を1つだけ買った。

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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(4)

2016年03月07日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪「オランウータン保護島」に行く≫

3日目は、ホテルを8時にバスで出発し、「ペナン」の南東にある「ブキットメラ」まで約2時間走った。そして湖の中に浮かぶ「オランウータン保護島」に高速ボートで行った。
船着場のすぐ近くに入り口があり、遊歩道が付けられていて、そこを歩く人の両側に金網を張った檻が作られているので、檻の中の私達がオランウータンから見られている様な感じだった。
全部で30頭ほど飼われているらしいが、大人になると「ボルネオ島」の方に移すと言っていた。
私は「旭山動物園」のオランウータンが記憶にあるが、それとは種類が違う小型だった。
じゃれ合う子供たちは愛らしかった。また、飼育員が金網の外にピーナツを投げると、小枝を手にして引き寄せて食べていたのには驚いた。

 (「ブキットメラ」の船乗り場)
             
              (「オランウータン島」の船着場)


 

高速ボートで「ブキットメラ」に戻ると、アーケード街の中央で子ども達が噴水にボールを浮かべて遊んでいた。皆ずぶ濡れだったが暑い国なので風邪を引くなどの心配は要らないのだろう。


その後、「イポー」の町のレストランに昼食で立ち寄った。イポー名産のモヤシ料理を食べてから、バスは3時間走って首都「クアラルンプール」に戻り、市内観光をした。

≪新築された「王宮」≫
「クアラルンプール」の市内観光の多くは4年前の観光場所と同じだったが、新たな「王宮」ができていた。
「王宮」は「マレーシア」全土に13ある州の中で、「スルタン」がいる9州から5年ごとに選挙で「国王」が選ばれるそうで、その王の公邸なのだ。
門の左右2箇所に衛兵が立っていた。中に入っても宮殿まではかなり距離がある(150m以上かも)ように見えた。全体が金色に輝いていて、「マレーシア」が「イスラム国家」である事を確認させられた場所だった。

 

           
            (門は閉ざされていたので、写真は門の隙間から撮った)

≪「独立記念広場」の入り口にできた「歴代大統領の肖像」≫
以前の「独立記念広場」には国旗掲揚塔が立っていただけだったと記憶しているが、今回は随分変わっていた。
入り口に「歴代大統領の肖像画」が掲示されていた。観光客は気に入った大統領の前に立って一緒に写真に納まっていた。
 

他にも行ったが、前回と重なる他の観光場所は、今回ブログから割愛する。
観光後、初日のホテルに戻った。

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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(3)

2016年03月06日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪世界遺産「ジョージタウン」観光≫

マレーシアの北西部、「インド洋」に浮かぶ「ペナン島」は、南北24km、東西15kmの大きな島だ。
「ペナン」とは、ヤシ科の植物「ビンロウ樹」のことだという。
人口は70万人で中国系(華人)がその70%を占めている。8~10月は雨期、12~2月が乾期だ。
この島はイギリス人が1786年に初めて入植した。「東インド会社」のアジア進出の拠点として買い取られ、自由貿易港として発展した土地である。
そのため、西洋、中国、東洋、イスラム、ヒンズーの人と文化が出会い、混合し、独特の町並みが形成された。

「ジョージタウン」は「ペナン島」の北東部のマレー半島側にあり、2008年、ユネスコの世界遺産に指定された。

①「コーンウォリス要塞」
イギリス東インド会社の「フランシス・ライト」が、アジア進出の拠点にマレー半島に最も近い場所を選んで1786年に要塞を造った所である。


②「セントジョージ教会」
マレーシアで最も古い白亜の教会。小さいが、尖塔が印象的だった。
芝生にカラスがいたが、鳩ほどの大きさで色も真っ黒くなかった。
 

③「ビルマ寺院」
ビルマ、現在のミャンマーの人たちが1803年に建てたという寺院。靴を脱いで中に入ると立ち姿で金色に輝く大きな仏像が迎えてくれた。その裏の通路には、色々な国の仏像が立ち並んでいた。

 

④「クーコンシー寺院」
中国福建省からやって来た「邸氏一族」が建立した中国寺院である。


          

 

バスの窓から「ペナン旧市庁舎」が見えた。イギリスの影響を受けた「ビクトリア様式」の美しい建物で、1903年にオープンしたという。現在は市の歴史遺産に指定されている。


海岸からペナン島の海を眺めた。地震が無いそうで、高層ビルが多く建てられていた。建築中のビルも沢山あった。
しかし、インドネシアやフィリピン沖で大規模な地震がある際には、津波が押し寄せて来る場所でもあるらしい。
          

泊まるホテルの裏側に大きなスーパーマーケットがあったので、夕食後出かけて買い物をした。



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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(2)

2016年03月05日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪2日目は「ETS(高速列車)」で「ペナン」へ≫

2日目朝は6時のモーニングコールを待たず、30分程早く目覚めた。
その日は午前中に「ペナン」へ移動して観光し、1泊する事になるが、大きいスーツケースはまた戻って来るこのホテルに預けた。
それで先ず、ボストンバッグに2日間必要な洗面道具や着替え、パジャマ、雨具、上着、薬を入れて手荷物を作った

朝食を食べにレストランに行くと、メニューが凄く多い。しかし、マレー料理の味などが心配で、結局果物とパン、紅茶だけしか食べなかった。

8時15分、バスで駅に向かった。「ETS」はA~Fの6輌編成で、各車輌とも座席は半分から背中合わせに固定されていた。幸い添乗員が全員進行方向を向いて座れるように計らって切符を買ってくれた。
「クアラルンプール」から「ペナン」までは300kmあり、約4時間かかった。



列車が走り出すと冷房がガンガン効いて来て車内温度は15℃程度になった。余りの寒さに私は用意していたウールのカーディガンと薄いコート、マフラーを身につけたが、それでも寒い。仕方なく冷房が効かないデッキに時々行って、温まった。
しかしである。地元の人達は半袖、短パンでじっと座っているのだから呆れた。気温が30℃を超している国なので、できるだけ低温にする事がサービスなのかも知れないが、私達は風邪を引きそうになった。

車中の昼食は、現地ガイド氏が駅で仕入れた菓子パン4個と列車の食堂で買った温かい「炒飯」だった。
しかし、この国のパンは水分が少なくボロボロしていて美味しくないし、「炒飯」もやたら辛くて食べられなかった。いずれも高温の中でも腐敗し難くしてあるのだろうと思った。
余ったパンを傍の子どもに渡したら、喜んで食べてくれた。

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海外旅行「マレーシア・シンガポールの旅」(1)

2016年03月03日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール

≪「成田空港」から「クアラルンプール」へ≫

先月は「フィリピン」に行って来たが、今回「マレーシア」「シンガポール」に行って来た。
JALの直行便で「成田」から「クアラルンプール」を往復するのに合わせて、3月23日まで催行されるこの旅行には、「国内線往復1000円」という特典が付いているのに引かれたのだった。
北海道から成田まで往復するとしたら、航空券は早割りでも20,000円以上するから、こんな特典は他にはない。
「マレーシア」には4年前の2012年1月6~11日まで、6日間の旅行に1度行っているが、今回は主催旅行会社が前とは異なり、行く先も「ペナン」「ブキットメラ」そして陸路で国境を越えて「シンガポール」に入り、観光するというコースが前と異なっていたので申し込んだのだった。

前回よりも日程が50日近く遅いので気候が不安だったが、成田から8時間後に着いた「クアラルンプール」はやはり物凄く暑くて閉口した
2月25日の朝6時の新千歳空港の外気温は-17℃だったが、7時50分の飛行機に乗り、成田空港で国際線に乗り換えて8時間後に「シンガポール」に着いたら、気温は30℃を越えていた。何と私にとっての温度差は50℃弱もあって、肌をなでる空気の暑い事。
専用バス、レストラン、ホテルの中は冷房されていて、寒い時は上着が必要だったが、観光中は30~33℃の中を虫刺されが怖いので、長袖、長ズボン、帽子にサングラス、汗取り用に首には綿のストールを巻いたい出たちで歩いた。
「マレーシア」「シンガポール」は先月の「フィリピン」に比べるとかなり赤道に近く、年中真夏の国だった。

出かける日とその前日は大雪だったので、就寝前にも除雪をした。
朝6時過ぎに家を出るので前日にタクシーを予約しようとしたが、その時間はすでに台数が無く駄目だという。思い悩んだが、家からJRの駅に行かねば始まらないので、近所の方に車をお願いした
何とか雪が止んで、その方の車で送ってもらい、空港に行く事ができてホッとした。

今回は成田空港でのツアーの集合時間に間に合わなかったので、スーツケースに家から着て来たダウンコートを脱いで入れ、「新千歳空港」から最終目的地「クアラルンプール」まで預けた。
また、添乗員とは、今回初めて出発ゲートで待ち合わせをした。
JAL国際線の座席は72時間前からインターネットで予約ができるので、予約をして出かけた。
  
  (「クアラルンプール」の飛行場から市内に入るバスの中から写す)

帰りは「シンガポール」から朝8時20分発のJALで成田に帰国。新千歳空港行きは18時45分発だったが、目的地の天候悪化で引き返すこともあると言われて乗った。
1時間近く遅れて離陸し、除雪が済むまで着陸も遅れたが、何とかその日の内に帰宅できた。
家に入ると建物内は7℃と冷え切っていたが、ストーブを付け、出掛けに水を落して置いた水道を出した。
タライに水を入れた中に付けて置いた鉢花を元に戻し、顔を洗って早々に寝た。

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マレーシアの苺チョコ(11)

2012年02月14日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール
今朝は久々に曇っているためか気温が高めで、7時半の外気温はー5℃、夜間、暖房を切っていた居間の室温は15℃もあって暖かい。
昨日、用事を足しに、玄関先で帰る積りで知り合いの高齢者の家にお邪魔したが、強く招き入れられた。
仕方がないので居間にお邪魔したが、石油ストーヴがガンガン燃えていて、多分室温は24~25℃位あっただろう。空気が凄く乾燥していた。
すると急に私の喉が痛くなって来て、咳が出始めた。
間もなく帰宅したが、夜になると右の耳下腺が腫れて来て痛み出した。慌てて市販の総合感冒薬を飲み、温かくして寝たら、今朝は耳下腺の腫れは引いた。しかしまだ耳下腺が少し痛むので、今、薬を飲んだ。

今日はバレンタインデー。1年間のチョコレート売り上げの多くが、今日の日迄に売れるのだと聞く。
そこで今回は、先月、クアラルンプールのチョコレート専門店から買って来た苺チョコについて書きたい。

いつも丸ごと1個を口に入れて食べていたので、乾燥した苺が入っている事は分かっていたが、砕いた苺が数個入っているのかと思っていた。
いよいよ残りわずかになったので、今日、初めてナイフで半分に切って見た所、切り口が写真の様に綺麗で驚いた。乾燥してあるからだろうが、苺は味が濃縮されていて、香りと酸味を強く感じる。
苺を包んでいるホワイトチョコレートは、甘味、脂肪分を抑えたあっさり味に仕立てられている。日本の一般的なチョコレートよりも固めだ。
それだから苺の風味が引き立つ上品な味の高級チョコレートに仕上っていると感じた。
またこれは、熱が加えられた際の融点を高めにしていて、赤道に近い国で売られても溶けにくく腐りにくくしてあるのだろうと思う。
反対に、日本の国はミルクや砂糖を多くしてもチョコレートの品質低下は少ない温帯地域なので、味に幅があるチョコレートを作って売れる。それだけ選択の幅が広く、幸せだなと感じた。
皆さんが今日、特別な人に差し上げたり、頂いたりするチョコレートはどんなのだろうか。

                
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キャメロン・ハイランドの紅茶(10)

2012年02月05日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール
今朝、マレーシアから買って来たキャメロン・ハイランドの紅茶を入れて飲んで見た。
ティーバッグなのだが、今回はTVでやっていた「紅茶の入れ方」で入れた。
「紅茶の入れ方」の要点を簡単に言うと、沸騰した100度の湯ではなく、95度位で加熱をストップさせた湯で入れるのだ。
その湯には酸素が蒸発せずに残っていて、紅茶の葉から優しく成分を抽出するのだという。
確かに程良い渋みもあって美味い。

TVでは、紅茶が50度以下に冷めると、また嫌な渋みを感じる様になると言っていた。
つまり、紅茶は沸騰させない湯で入れ、冷めないうちに飲むのがベストなのだそうだ。
買って来た紅茶は、日本の有名メーカーのに比べて渋みが弱いようなので、冷めてもそれ程まずくは感じなかったが。

            
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マレーシアの旅(9)

2012年01月22日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール
≪最後に≫
思い切って出かけたマレーシアだったが、現地ガイドは戦時中の日本統治にはほとんど触れず、私達を気遣ってくれた様子だった。しかし、私は『旅行ガイドにないアジアを歩くーマレーシア』(梨の木舎)を図書館で見つけて借り、当時の実情を知った。

        
それによると、マレーシア国内にある日本人に殺された人たちの「追悼碑」は、著者たちが調査したものだけで70か所以上あり、中には赤ん坊を含む村人全員が虐殺されたとか、村の男性数十人が広場に集められて殺され、放置されたり埋められたりしたという場所も何か所にものぼっている。(彼らに穴を掘らせてから側に並んで立たせ、背後から銃を撃ったり銃剣で刺して殺戮して埋めたという調査も出て来る。共通したやり方は、集めた大勢の人達を幾つかに分けて兵士が4~5人ずつ付き、離れた場所に連行してから殺害したと書かれていた)

また、北ボルネオ島の売られた日本人女性『からゆきさん』で有名な「サンダカン」では、1944年11月に連合軍の大空襲を受け始めると、この地の放棄を決めた日本軍は、軍事用飛行場の造成をさせていた連合軍のオーストラリア軍、イギリス軍の捕虜を含む1000人強の兵士の逃亡を恐れ、250km離れたラナウまで険しいジャングルを3回に分けて強行行進させたという。
この途中、熱帯というだけでなく、食糧不足、過労で多くが倒れたり病気になり、その都度、刺殺、射殺された犠牲者が多く出て、日本の敗戦時にはわずか6人しか生存者がいなかったというのだ。「サンダカン、死の行進」といわれるこれらの事実を日本の私達にはあまり知らされていない。
私はこの本を読んで、今までナチスドイツが行ったおぞましいホロコーストや日本軍が中国で行った残酷非道な行いに心を傷めて来たが、ここでもまた、敗戦までの僅か3年9か月の間に、日本軍は大勢のマレーシア人(日本軍は、抗日運動をした中華人の排除を狙ったのだというが)や、連合軍捕虜を殺害したのである。
歴史に「もし」は無いというが、もし日本の侵攻が無ければ、マレーシアはもっと早くに大きな発展を遂げていたのではとも思ったりするのだ。
こうした史実を私達も知って、今世紀以降の国のあり方、国政の進み方に生かさなければならないと強く思う。

僅か数日間の旅行だったが、本当に行って良かった。私のつたない体験ではあるが、まだマレーシアに行った事がない方々や長くなった旅日記にお付き合いいただいた方々には、マレーシアという国について少しは身近に感じていただけただろうか。
旅を終えた今、今度はもう一つのマレーシア領である「北ボルネオ島」と、かってマレーシアだった「シンガポール」に行きたくなっている。(完)
                    
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マレーシアの旅(8)

2012年01月21日 | 海外旅行「東南アジアⅢ」マレーシア、シンガポール
≪マラッカ観光≫
旅行5日目の朝は、「クアラルンプールタワー」とヒンズー教の神々を祀った鍾乳洞「バツー洞窟」に行くオプションがあったが、私は健康上の理由で参加せず、ホテル周辺の地域でセヴンイレブンや小型スーパーを覗いたりした。
昼近くに全員でバスに乗り、有名なチョコレート店に行った。
敷地内にカカオの木が数本植えられていて、ガイドがカカオの実①を教えてくれた。外国人で溢れている店では、美味しいが高価なチョコレートが売られていた。試食後、苺を包んだのとアーモンドを包んだチョコレートを土産に買った。
店の前に果物屋が屋台を出していて、ランブータン他の南国の果物が並んでいた。②

 ① ②

  ⇒⇒

美味しい中華料理の昼食後、バスは南東の世界遺産「マラッカ」を目指して145kmの道を2時間半走った。
「マラッカ」は、1396年にスマトラ王に発見されてから築かれた王国で、季節風を利用してマラッカ海峡を東西に行き交うペルシャ、アラブ、インドの船の中継地となったため、イスラム教徒の影響を強く受け、15世紀には海上交易とイスラム教で栄えたという。
16世紀以降は、ポルトガル→オランダ→イギリスと支配国が変わり、その都度、マレー半島全体に支配権は及んだらしい。
1786年にイギリスがマレー半島とボルネオを支配すると、錫鉱山、ゴム農園を大規模に開発し、マレーシアの基幹産業になって行った。
「マラッカ」には、こうした長い間の歴史が残っていた。

ポルトガルが支配した時代は、西洋から来た宣教師たちは布教に力を入れたが、1521年にマラッカ海峡が見渡せる丘に建てられたのが「セント・ポール教会」③だ。屋根は崩れて無いが、ここで亡くなった宣教師達の墓石が壁に立てかけられていた。
教会の外で男性が歌を歌っていた。真っ赤なシャツが引き立っていた。④
ここで活動したフランシスコ・ザビエル(日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師)も、死後この教会に9か月間遺骨が置かれ、その後、インドのゴアに移されたと言う。
(ガイドは教会の前に建てられている片手が損傷したザビエルの像⑤を示して、「彼はインド人です。だからゴアに埋葬されたのです。」と確信を持って二度私達に言ったが、彼はスペイン生まれのバスク人である)
少し離れた所にフランス人が建てた「セント・フランシス・ザビエル教会」があるらしいが行かなかった。

 ③  

 ④ ⑤

丘の上からマラッカ海峡が見えた。⑥

 ⑥

丘を降りた所にマラッカの象徴「サンチャゴ砦」⑦があった。ポルトガルがオランダとの戦いを準備して1511年に建てた砦で、門と大砲が現存していた。
すぐ傍に「ムルデカ広場」(独立広場)もあった。
丘の下にある「オランダ広場」には、1753年に建てられた朱色の「キリスト教会」、噴水があった。⑨ 
傍に思い思いに飾り立てた自転車タクシー⑧が数台、客を待っていた。

 ⑦ ⑧

 ⑨  

「マラッカ」にはこの他に幾つもの歴史的遺産があるがツアーでは行かなかったので、また訪れる機会があれば個人でも楽に観光できそうな町なので、是非行きたいと思った。

その後、商店街の日本人相手の土産物店に案内された。私はそこでカレー粉⑩数袋(1袋10RM=280円)とマラッカの図柄が入ったTシャツを旅の記念に買った。
(本来カレーというスパイスは無いが、カレー粉として売られているのはターメリックや胡椒、唐辛子、シナモン、オールスパイス、クミン、コリアンダー、陳皮などの香辛料20種類ほどを調合して作ったものなので、調合の仕方で味が変わる)
帰国後早速、チキンカレーを作った。鶏肉にこのカレー粉をまぶして10分程置いてから、ニンニクと生しょうがのみじん切りを玉葱のスライスと一緒に炒め、じゃが芋、人参を入れて煮た後、いつものカレールーでとろみをつけてカレーを作った。すごくスパイシーな美味しさにでき上がり、感動した。

 ⑩

美味しい中華の夕食後、クアラルンプールに戻り、空港に行ってガイドと別れ、自分で出国手続きをしてから23;10発の大韓航空機に乗り込んだ。韓国仁川空港で乗り換えて新千歳空港に12;40着で戻った。
札幌圏は晴れていたが最高気温はー5℃程しかなく、留守にしていた家に帰ったら室内は12℃になっていて、マレーシアとの余りの違いに震えてしまった。
帰国後数日で体が当地の気候にも慣れ、この所毎日、昼間でもー5℃位しかない外を出歩いている。大寒の今朝はー14℃と寒く、マレーシアが懐かしい。








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