花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

伯母の事

2011年02月25日 | 高齢期の生活全般
長引いた風邪が落ち着いたので、一昨日、久しぶりに91歳の伯母に会いに行った。
旅行の土産にカフェオレ飴(マレーシア製)と蓮の実の砂糖菓子(ベトナム製)、近くのスーパーで求めたくるみ餅、伊予柑、カニ寿司などを持参した。
伯母のいるI市は、道路面に雪はないものの、両側にうず高く積もっている雪は札幌当たりの倍の高さに感じられ、流石豪雪地帯だと驚いた。
先月は降り続く大雪のため除雪が間に合わず、120棟以上の農家のビニールハウスが倒壊したという地域だ。

会うなり伯母は「腰が痛い。」と言う。数年前にタクシーがバウンドした時に腰骨を損傷しているのだが、また骨粗鬆症で骨に異常が起きているのかも知れない。病院に行くように勧めた。
目はさらに悪くなり、耳も聞こえなくなって来てTVは見なくなったが、脳の異常は全くなく、ラジオでニュースを聞いていて、私と普通にリビア情勢やNZの災害の事を話す。

しかし、1人息子の死後、身元引受人になった80代の妹が、昨秋癌で入院し、回復が望めない状況になったので伯母の今後を心配していたのだ。
今いる高齢者優良賃貸住宅には、朝夕の食費も含めて月々12万円程度かかっているらしいのだが、「95才位迄に死ねなかったら、生活費がなくなるから困る。」というのだ。
伯母には亡くなった伯父の遺族年金(軍人恩給)が年間60万円余りと自分の年金が年間8万円しかなく、今も半分以上の生活費は農業をしていた頃の預金を切り崩して充てて来ているのだ。その貯金も農業を止めてからすでに30年近くが経っているので、余り残っていないと思われる。
私は、「その時は私が何とかするから、大丈夫だから。」と言った。
しかし、今はまだ元気でもこの先どうなるかは分からないので、私は伯母の健康と生活面の不安を感じているのだ。

数年前に新築した私の家は、自分の高齢期の生活を考えたバリアフリー設計にしてあり、空き部屋もあるので、建物だけから言うといつ伯母が来ても良いのだが、私1人で全ての世話をすることを考えると体力的にも時間的にも不安が出て来て、今の所は踏み切れない。
かといって、直ぐに入居できる適当な施設が、我が家の近くにあるのかどうか。近々、市役所に行って相談して来ようかと思っている。

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アルコール体質判定テスト

2011年02月20日 | 医療・健康・食生活・衣生活
先日、北海道が主催する食品の表示を学ぶ会に参加したところ、講師の札幌ビール株式会社の方が参加者にアルコール体質を判定するパッチテストを配ってやらせてくれた。
このテストは、写真の様に腕の内側に小さなパッチを貼って20分待ち、肌の色がどう変化するかを見るのだ。

かなり赤くなっている人は、アルコールを全然飲めない体質で、少し赤くなった人は、本当は飲めない体質、そして肌の色が変わらない人は、飲み過ぎてしまいやすいので注意しなければならない『危ない』人だという。
これはアルコールを飲むと体内でできる悪酔いの元の「アセトアルデヒド」を分解する酵素「ALDH2」が、働く体質かどうかで別れるのだそうだ。

   

講師の説明によると、日本人の1割がALDH2が全く働かない体質で、ALDH2が僅かしか働かないため本当は飲めない体質の人も日本人の3~4割もいるそうなのだ。
そして貰った資料によると、本当は飲めない体質の人が無理に飲むと、肝臓を壊したり上部消火器がんになりやすく、果てにはアルコール依存症に陥る場合も多いのだという。
ちなみに私の検査結果は、本当は飲めない体質だという事がわかった。
ビールを製造販売する会社が、こんなテストと講演をしてくれた事が不思議だったが、自分の体質が分かり、凄く有意義な体験だった。
できれば成人式の会場などで、このテストや講演を大々的にやるべきなのではと思った。
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火山灰地について

2011年02月19日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
新燃岳の噴火に伴い、大量の火山灰が農作物に被害を与え、家屋の屋根に積もると重くなるし、降雨に伴う泥流の心配もされている。
一生懸命に除去している人々の様子をニュースで見て、大変な作業だと同情にたえない。
日本列島は、死火山、休火山、活火山が沢山あるので、火山灰地で生活したり農業をしたりしている人は多いと思う。以前、鹿児島に行った時、シラス台地も見たことがある。

実は私たちが今畑に借りている休耕地も、火山灰地なのだ。
火山灰にも種類があるそうだし、配分率も問題なのだろうが、その畑の場合、開拓者が第二次大戦後に入植してから農地としたそうだ。
とてもさらさらとした土で、水はけが良い。
勿論雨が降ると、元肥に入れた肥料分なども早く浸透してなくなってしまうので、普通の土地よりは幾分多めに石灰や肥料を入れるが、作物は結構良く育つ。農産物価格が低迷している昨今は、農家にとっては肥料代が大変だとは思う。
昨年私は、地主さんに断って、畑の土を家に運んで来て庭に入れた。
今年は乾燥が好きなトマトを植える土に、少し混ぜたいと思っている。
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最近の体調

2011年02月09日 | 医療・健康・食生活・衣生活
ベトナム・カンボジアの旅から帰国後2週間が過ぎたが、ずっと体調が優れないでいる。
先ず旅行中、腸を壊したのが帰国後も2日程治らなかった。そのため体力が落ちていた上、さらに気温差が40度と大き過ぎたためか、その間に風邪を引いた。
昨年10月にインフルエンザの予防接種は済ませてあったので、ちょっとした風邪だろうと軽く考えて市販の総合感冒薬を飲んでいた。
やがて喉が痛み、咳が出だした。
しかし、大雪に2回見舞われたので、胸が苦しかったが止むを得ず、玄関前の除雪にも汗を流した。
緑色の痰がすごく出て来たが、体力が落ちた状態で病院に行けば、またどんな菌を拾うかも知れないと思い、数日後の循環器内科の予約日まで待った。

今月4日、2か月振りで循環器内科に行った。待合室はマスクの患者で溢れ、私のような咳をしている人が沢山いた。
その日の私は、数か月に1度、予定されている胸のレントゲンと心電図を取られた。
医師は、「肺炎の兆候はありません。心電図も異常はありません。」と言った。
咳がひどい事を告げて痰を和らげる薬を出してもらった。5日間、その薬を飲んだ。昼間、ひどい咳が出る事はなくなったが、まだ完全ではない。

この間の外出は2回だけ。食糧の買い出しと図書館、整髪店だ。
後は暖かい家の中で家事をやり、本を読み、TVを見、ブログを書き、体に合わなくなったジャケット2枚の肩幅を直した。
(この服は10年ほど前に買った夏用の麻50%、ポリエステル50%のテーラージャケットだが、サラリとしていて着やすいし、まだ2~3回は旅先で重宝できそうなので、今風に肩幅を少し狭くするために、袖付けをほどいて縫い直したのだ。半日かかった。)

しかし、もうそろそろ外出がしたい。
今日は朝は-10度だったが快晴なので、昼は0度位に上がりそうだから、マスクをして、車で隣町まで足を延ばそうかな。
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HV特集「密着!!中国・問題児の訓練学校」を見て

2011年02月06日 | TV・映画・音楽・美術
昨夜、タイトルにある番組を8時から1時間半視聴した。
この番組で、中国の1人っ子政策の下、特に胡錦濤が「改革開放政策」を進めるようになってから生まれ、育っている1人っ子たちの中に、金銭的物質的には過剰な程の物を与えられながら、仕事に忙しい両親からは放置されていて、問題を抱えた子供が多くなって来ていることを知った。
番組は、そうした「小皇帝」の子供を対象にして運営されている私立の訓練学校が舞台だった。

毎日12~17歳位の数人の子供が親に連れられてやって来る。
親は多額の金を払い、自己中心的な考え方を身に着け、公立学校に通わず、怠惰な生活に陥ってしまった我が子を鍛え直してくれるよう、全寮制のこの学校に預けるのだ。
カメラは、200人程の中から数人の子供を取り上げ、入学時の様子から、年3回、2週間かけて行われる400km大行進まで密着するのだ。

中国の貧しい農村部の家庭では、若い夫婦が生活費を稼ぐために都市に出稼ぎに行く。その間、子供は祖父母に預けられるのは、極一般的な事だ。
しかし、昨夜の「問題児」たちは、都市で暮らしているが、子供には「勉強をして、良い成績を取れ。」としか言わない親に反発し、勉強を拒否し、不登校になり、遊び呆けて、自分の目的を見失った子供たちなのだ。
中の1人は、洗面、歯磨き、入浴などといった基本的な生活習慣もないまま、入学して来る。
所が学校の生活場面では、厳しい規律に基づいたまるで軍隊の様な集団生活が要求される。
そして今までの家では家政婦がしてくれた掃除やトイレ掃除、食器洗いなども自分でしなければならないのだ。

いよいよトラックの中で寝起きしながら2週間歩き続ける日が来た。途中で農家に1泊させてもらい、農村の生活を体験する学習も含まれている。
ある女生徒は、農家の主婦から昔の貧しかった生活と厳しい労働の話を聞き、それまで自分で何でもできると思って来たけれど、実は何もできない自分に気づく。
ある男生徒は、力仕事が好きかも知れない自分に気づく。
多くの子供たちは、辛い強歩の中で、互いに支えあいや友情も生まれ、達成感を知り、自信を取り戻す。
また、毎日歩きながら自分に向き合い、自分の限界や精神的な弱さ、足りなかった面に気づき、少しずつ新たな目標を掴んでいくのだ。

中には1年以上もいる子供も登場した。子供を連れて来た親たちは皆、親の責任を自覚せず、子供の人間的な教育までお金で買おうとしていた。
そんな中で、粘り強く、厳しく子供と接し、徐々に信頼されて行く教師達が魅力的に見えた。
急速な経済発展によって「お金至上主義」に陥っている今の中国社会、その教育問題の一つを考えさせられた特集だった。
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エジプトに起きた民主化運動

2011年02月05日 | 社会・事件・ニュース
この数日間、世界中の人達が、カイロのムバラク大統領の辞任を求める大規模デモと、その成り行きを見守っていることと思う。
私も今朝のBS1のワールドニュースを見て、一昨日、ムバラク派の暴力が荒れ狂ったタハリール広場が、その後、比較的落ち着きを取り戻し、軍が両者の衝突を抑えているというニュースに少しほっとした。
だが、ムバラク大統領はまだ、即時、退陣の意思を表明していない。
今まで自由と民主主義がないエジプトで、独裁者はどれだけの利権と汚職で手を汚して来たのかを想像すると、勿論、簡単にはその長年の特権を失いたくはないだろう。
しかし、世界の情報を知ったか弱き民衆も、最早、黙ってはいられないのだと思う。
その点でインターネットは、真実を隠したがる人達にとって、今後ますます厄介な代物になって行く事は間違いないのかも知れない。

今、私が心配なのは、大統領反対派に明確な指導者、指導組織がいないらしい事だ。
もし、大統領を辞任に追い込んだとしても、その後、どのようにして民主的な政治を具現化し、その実現のプロセスを示し、政権を掌握して行くのだろうか。
混沌としている現状の中で、その先を心配している世界中の人々が成り行きを見守っているが、1番不安に思っているのは渦中にいる彼ら多くの虐げられて来た市民たちなのではないだろうか。
フランスのニュースに出た若者が、「私たちはきっと殺されるでしょう。でも本音を表現できたことを後悔していない。」と言うのを聞いて胸が熱くなった。
命がけで立ち上がった民衆の願いが、少しでも叶うように私は見守りたいと思う。
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ベトナム・カンボジアの旅(7)

2011年02月02日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
昨夜は真夜中にホテルに着いたので周りの様子が分からないまま寝たが、朝食を食べに部屋を出たらいくつかの棟に分かれたフランス風の立派なホテルで、ベランダからハロン湾を見渡せる絶景ポイントに建っていた。①
ハノイは緯度が高いので、南部のホーチミンに比べると10度以上気温が低い。昨夜着いた時、部屋に電気ストーブがつけられていたが、室温が低かったのでそのまま朝までつけて寝たのだった。
朝、私は家を出発した時の様に重ね着をして旅の最後のハイライト、3時間のハロン湾クルーズに臨んだ。

湖の船着き場に待機していた中型客船を1隻借り切って②、「海の桂林」といわれる大小200もの島があるという景色の中を進んだ。③

 ① ②

 ③  

ハロン湾には鍾乳洞が4つあるらしいが、私たちが途中立ち寄ったのはダウゴー島にある「ティエンクン洞」だった。高さ20m、幅10mと大きくはないが、素晴らしい鍾乳洞だった。④ しかし、赤や青にライトアップされていたのはいただけなかった。
船に戻ると海鮮料理のランチが用意されていた。その後、絹製品や真珠の船内販売があったが、買った人はいないようだった。

 ④ 

船を降りてから午後は、賑わっているハノイの下町を歩いた。
花店⑤や靴店⑥もあったが、靴店の前の路上では店員が電動の道具を使って靴を修理していた。⑦
肉屋は切り分けたばかりの肉を、人通りの多い店先に無造作に並べて売っていた。真夏の炎天下でも、こうして売っているのだろうか。⑧
シクローに乗った欧米人が沢山通って行った。⑨

 ⑤ ⑥ ⑦

 ⑧ ⑨

ベトナムの食料品を扱っているという土産物店に行った。甘く味付けした黄な粉を紙に包んだ菓子や、ピーナッツを飴で固めた菓子などが売られていた。
その店の隅でベトナム刺繍をしている女性たちが数人いた。その刺繍も、完成すれば高価な売り物になるのだろう。⑩

それから「ホーチミン廟」⑪に行った。
現在のベトナム民主共和国を建国するリーダーとなったホーチミンは1969年9月2日に亡くなったが、6年後の命日に総大理石の「ホーチミン廟」が完成した。
彼の棺は衛兵に守られていて、週末には大勢の市民が訪れるのだという。
この建物の前は広大な広場になっているが、ここで彼は1945年に独立宣言文を読み上げたのだという。

 ⑩ ⑪

すぐ傍に「一柱寺」があった。⑫ ここは李朝の僧侶が1049年に創建したという小さな寺で、池に咲く蓮の花に似せて、水中に立てたたった1本の柱の上に乗るように寺が作られていた。⑬
クチの地下トンネルに行った時、そっくりな寺があったのを思い出した。90%の大きさで造られたものだったのだ。この古い寺は、ベトナム人の精神的な支えとなっているようだった。

          ⑫ ⑬

夕食後は、伝統ある「水上人形劇」を鑑賞してから、ハノイのノイバイ国際空港に向かった。
ANAは予定通り00;05に離陸し、4時間35分後の6;40に成田空港に着いた。
私たちはリムジンバスで羽田空港に移動した後、予定より2時間早い10;00の飛行機の席をとって新千歳空港には12時前に無事帰ることができた。




ベトナムとカンボジアは熱帯に位置する国ということで、マラリア、デング熱を媒介する蚊に刺されないよう虫よけクリームを持ち、破傷風と日本脳炎の予防接種も受けて行ったが、乾期のためか気になる程蚊は出ず、手首を3か所刺されただけだった。(時期的に日本の薬局では虫除けクリームが売られていなかったので、手に入れるのには、苦労した)

また、友人は医師に勧められて高価な狂犬病の予防接種もしたというが、ベトナムでもカンボジアでも犬はほんの少ししか目に付かなかった。ガイドに聞くと「犬の肉は美味しいから、食べます。」といわれて納得した。
水道水は飲めないので、1日1本配られるミネラルウオーターが有難かった。

食べ物はちゃんとしたホテルやレストランの物でも、私は用心した。生野菜、カットフルーツには手を出さなかったし、勿論、生ジュース類も避けた。時間が経っているものかも知れないし、水道水で作った氷が入っているかも知れないからだ。
そこまで注意しても料理に使われた油が悪かったのか、二度もお腹を壊した。そんな時は治るまで絶食することにしている。

行く前には、時期的に北海道の気温より40度も高い国に行く不安があったが、ホテルやレストランはクーラーが効いていたし、シェムリアップでは、昼食後ホテルで休憩させてくれたので良かった。

今回の短かった旅で、知っている様で知らなかった二つの国について、実際に自分の目で見て知ることができて良かった。
帰って来てからは図書館で借りた本を読み、旅行中抱いたいくつかの疑問の答えを探した。
皆さんは私の今回の旅日記に、どんな感想を抱いただろうか。(完)






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ベトナム・カンボジアの旅(6)

2011年02月01日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
6日目はオプショナルで「トンレサップ湖」のミニクルーズだった。
シェムリアップの南方にあるこの湖は、雨期には乾期の数倍の大きさになり、深さも乾期には1~2mだが雨期には5~6mにもなるらしい。
多様な淡水魚が生息しているので、水上生活者はこの淡水魚を取って食べたり、売ったりして生活しているという。しかし、乾期の4か月間は魚の産卵期に当たるため、漁労が禁止されているし、小魚を取って売っても、あまり良いお金にはならないのだという。そこで近郊で農業を兼業している人も多いのだとか。
内戦中にベトナムから来た人達も多く、ガイドの話では水上生活者の50%はベトナム人だと言っていた。
トンレサップ湖の水は、真っ赤な色をした泥水だが、水上生活者は生活用水としてその泥水を使い、飲み水は山の麓に行って買うのだそうだ。

バスで船着き場まで行き、湖を見たが、乾期の最中なので水はかなり少なかった。①
観光用小船の補助労働者として男子小学生が働いていた。② オイルを運んで来たり、船を船着き場に誘導してロープで止めたりするのだ。良く見ると、沢山の小学生程の男子が他の船でも働いていた。

 ① ②

小船が湖に出ると間もなく、傍に寄ってきた小さなボートから7~8歳の少女が船に飛び移って来た。籠の缶ビールや缶ジュースを要らないかというのだ。
誰も買わなかったらさっとボートに飛び乗って消えた。その鮮やかな行動力に驚いた。ボートを操縦していた男性は、父親だったのだろうか。

次にまた近づいてくるボートがあるので見ると、男性の横に大ニシキヘビを体に巻きつけた幼女がいる。驚いた。男性が手を出して物乞いしている。男性の後ろに座っていた2~3歳位の男の子は、なぜかずっと泣いていた。③

                 ③

ボートに果物を積んで売りに来た女性もいた。赤ちゃんを抱いて、私たちに物乞いをする女性もいた。次々と現れる予想外の光景に、私たちはただ唖然とするばかりだった。
漁労が禁止されている時期は、こうして物乞いをするしかないのだろうかと、深刻な思いに捕われた。

川岸に建てられた家も水中に建つ家も、屋根はバナナの葉かトタン葺きで、壁は板壁か布をかけてあるだけの家が多かった。④⑤⑥
見るからに貧しい生活が、目の前にあった。
資料を見ると、トイレがない家がほとんどなのだそうだ。湿地帯で米を作っている農家にも決まったトイレはなく、土に順次排泄物を埋めて行くそうだ。しかし、雨期になるとそれが溢れて来て、不衛生な状態になるようだ。

 ④ ⑤ ⑥

20分程行ったところで水上にレストランや土産物店がある住居に降りた。生簀でエビや魚を養殖していた。観光用だと思われる鰐も数匹飼われていた。
湖の上には、ベトナムの水上小学校とカンボジアの水上小学校もあった。子供たちはボートで通学するという。

その後、バスで湿地帯の田園風景を見ながら⑦シェムリアップに戻った。
ガイドの話では、水田に撒く殺虫剤が湖に流れ込み、漁業資源に打撃を与えているのだという。
シェムリアップに戻って、「オールドマーケット」を見学した。雑多な店が、決して清潔とは言えない所で経営されていた。簡易食堂や惣菜店もあった。⑧⑨⑩
土産物店では、どの品物にも値段がついていなかった。

 ⑦ ⑧ 

         ⑨ ⑩

バスの中でガイドが、カンボジアの結婚について話した。
田舎の女性は、中学までしか行かずに若くして結婚する人が多い。結婚したら男性が女性の家に入り、女性の姓は変わらないという。母系制社会が続いているらしかった。親の財産は末っ子が継ぐそうである。

18;05の飛行機で今度はベトナムの首都、ハノイに向かった。3時間半バスに乗って、ハロン湾のホテルに行った。
その夜は友人と今日見たカンボジアの人々の貧しさについて、色々話し合った。東南アジアが初めての友人にとっては、取り分けショックが大きいようだった。
私は、貧困の原因は混迷した国政にあったのではと思う。

「地球の歩き方」「カンボジアに関する60の疑問」、ネットなどの資料を調べて分かったことは、フランスの植民地だった1863年~1953年の90年間は、80%を占める農民の税金が周囲の東インドシナ連邦の国々よりはるかに高く、生活は困窮を来したらしい。
そして第二次大戦後、独立運動の先頭にたったシアヌーク国王が、紆余曲折を経ながら1953年11月9日、フランスからの完全独立を果たしたが、その後1955年に王位を父に譲ってからの活動は、独裁主義的なものだったらしい。
ベトナム戦争が起きると、1970年3月に実権を握った右派ロン・ノル将軍により、カンボジアは戦争に巻き込まれた。北京に亡命していたシアヌークは「カンプチア民族統一政権」を結成して共産勢力「クメール・ルージュ」と手を結ぶが、1973年以降は内戦状態に陥って行った。ここでも、国民の生活は疲弊を極めたという。

1975年4月17日、「クメール・ルージュ」を中心とした「カンプチア民族統一戦線」がプノンペン入城を果たして内戦は終わったが、政権を握ったポルポト政権(民主カンプチア政府)は、都市の無人化、農村への強制移住政策、市場・流通の廃止、学校教育の廃止、宗教活動の禁止、人民公社の設置を断行して、それまでの社会秩序を破壊し、通貨の廃止、私財の没収、寺院の破壊、政権に反対する知識人の虐殺や無差別虐殺などに走り、正確な数字は判明していないが100万人以上が死亡したといわれている。また、地方に広く地雷を埋めた。

1977年にはベトナムとの国境紛争が起こると、1978年12月、ベトナム軍がカンボジア領内に侵攻したため、民主カンプチア政府はプノンペンを放棄してタイ国境の山岳地帯に逃走し、その後10年間、タイ、中国、英国、シンガポールなどの支援を受け続けた。
同時にタイ国境地帯には、カンボジア難民が押し寄せた。

1998年4月15日、ポルポトが死亡後も政府は存在した。1998年12月、最高幹部と数千人の兵士がカンボジア政府に投降して、崩壊したとされている。
1991年10月23日、パリで19か国の代表によって「パリ和平協定」が調印され、1993年5月に制憲議会の選挙が行われた。ラナリット殿下がひきいるフンシンペック党が勝利した後、9月23日に新憲法が公布され、24日、シアヌークを国家元首とする「カンボジア王国」が誕生した。
経済的には、1989年旧ソ連が崩壊すると援助が停止されて、財政状況がひっ迫し、インフレが加速したが、1992年以降は西側諸国からの復興援助がなされるようになって、経済も徐々に成長をし出したかに見えた。しかし、一部の華僑とカンボジア人、それに政府高官が潤う事となり、都市と地方の格差、不動産を持つものと持たないものの格差が大きくなったらしい。
その後も政情不安は続き、公務員の賃金遅配は慢性化して、カンボジア国民の大半は未だに貧しさから抜け出せないでいるのだという。

カンボジア人たちが体験して来た戦争、貧困と生存権の抹殺は、ついこの間まで続いていたと言っていいだろう。
たまたま気候が熱帯性なので、衣服、住居は簡単なものでも生きていけるし、野菜、米は生産できる。トンレサップ湖などに生息する淡水魚も、税金を納めれば取ることができる。しかし、まだ衛生的な飲み水は、買うしかできない状況だ。
政治の在り方はその国の国民が選び取るものだとしても、カンボジアに政治的にかかわってきた国々の責任も大きいと思う。
また、国際的な援助も、政府高官の汚職に結び着かず、公明盛大に使われ、願わくば最底辺の人々にまで日が当たる物になって欲しいと思ったのだった。

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