花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「チュニジア」旅行(13)

2012年12月21日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

今日は5日目に行ったアルジェリアとの国境に近い南部のオアシス都市「トズール」の「ジャメル砂丘」での日の出鑑賞と「スターウォーズ」の映画セットについて書く。

朝5時の暗い中、ホテルの玄関前に数台の4WD(トヨタのラウンドクルーザー)が待っていた。砂漠の朝は気温が低いと聞いていたので私はセーターやカーデガンを重ね着し、砂塵の予防にマフラーですっぽりと頭を包み、マスクもして、カメラにも透明なナイロンを被せて待機した。
4WDに4人ずつ分乗して30分程走ると、サハラ砂漠の東端「ジャメル砂丘」に着いた。

待つ事10分程で次第に空が紫色に染まり出した。その日はたまたま雲があるので、光が映えて幻想的だ。
やがて地平線にオレンジ色の光が現れると間も無く太陽が昇って来た。美しい太陽だった。

どこからか砂漠の民「ベルベル人」らしき男性がかなたから歩いて現れて、手に持っているネックレスやブレスレットを要らないかと売り始めた。毎日彼は、朝日鑑賞に来る観光客相手に商売をしているのだろうか。
写真を時系列で並べる。

  

                        

  

               

                

その後、急傾斜の斜面を降りて砂漠を少し走ると、映画『スターウォーズ』のセットが残っている場所に着いた。私はその映画は見ていないが、見た人たちは興味深そうだった。セットの裏にあった小高い砂丘に登り、そこからも写真を撮った。砂が細かくて歩き難いが、風が無くて砂が飛ばず幸いだった。

                 

 

                 

 

朝食後訪れた「砂漠動物園」では、サソリや蛇、コーラーを一気飲みするらくだ、アフリカ狐などを見たりした。飼育係りのユーモア溢れる歓待振りと熱演に爆笑した一時だった。

以上で長くなったチュニジアの旅日記を終える。未知の国「チュニジア」は、変化に富む素晴らしい観光国だった。
読んでくれた皆さんには「チュニジア」を、今までよりも身近に感じて貰えただろうか。  《完》

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「チュニジア」旅行(12)

2012年12月12日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《タメルザ渓谷の山岳オアシスを訪ねる》
塩湖を後にした私達は「トズール」の町でランチを食べた後、6人ずつ4WDに分乗して西側の隣国「アルジェリア」との国境近くにある三箇所の山岳オアシスに向かった。
ガイドブックによるとオアシスに向かう一般の交通手段はなく、個人で高額だが4WDをチャーターするしかないと書かれているので、今回の旅行の観光コースに組み込まれている事が嬉しかった。

それぞれが違う光景のオアシスだが、約30年前に起きた大洪水によって住居の大半は離れた場所に移り、今は数軒の土産店と素晴らしい景観だけが残っていた。
不毛の山岳大地の所々に湧き水が出たり、川が流れて地面を潤し、そこだけがなつめやしや野菜、果樹(イチジク、ザクロ、オレンジ、レモン)が育つ光景を見せていた。それがオアシスなのだ。

最初の入り口にある渓谷が「シェビカ」渓谷だ。4WDを降りて暫く渓谷を下って行くと、滝や小川が流れる絵の様に美しい谷が開けていた。
  

次に4DWが向かった「ミデス」渓谷は、上から見下ろすと深い渓谷が見て取れた。
まるでアメリカのグランドキャニオンさながらに地層がはっきりと刻まれていて、幅が狭く深く、水が流れて大地を侵食してできたのだと分かる。
地層を見ると、太古の昔、この地方は海の底にあって海底の土砂が堆積した後の地殻変動で隆起してできた事がわかる。
また、この山は、隣国アルジェリアからモロッコまで続く「アトラス山脈」の東の端に当たる山なのだ。
(そう聞くと数年前モロッコで、バスから降りて20分ほどアトラス山脈越えをした思い出が懐かしく蘇った)
映画「イングリッシュ・ペイシェント」で、主人公が夢の中で砂漠を彷徨うシーンが撮影された所としても有名だそうだ。

  

最後に訪れたのは「タメルザ」渓谷だった。
大きく開けていて滝がある美しい渓谷だが、川はアルジェリアの山から流れて来る水なので、そこが晴れていても急に大水が来たりする危険な場所だそうだ。
高台に土産屋が2~3あって、色々な色の砂をびんに詰めながら画く砂絵を売っていた。

  

  

この日は午前中は「塩湖」を見、午後はなかなか行けない「山岳オアシス」を巡る行程に満足した一日だった。

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「チュニジア」旅行(11)

2012年12月12日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《チュニジアの中西部に広がる塩湖》
3日目、「マトマタ」から不毛の山を越えて西の「ドゥーズ」に向かった。
その途中で夕日が沈んだ。バスは日没直前に停車し、降りて沈む夕日を鑑賞した。どこで見る日没も同じ筈だが、チュニジアの大地の向こう(アルジェリア)に沈む陽を見て少し不思議な気持ちになった。

 




翌朝は宿泊した「ドゥーズ」のホテルを出、バスは57kmもの距離の直線道路を西北西の「トズール」目指して走り出した。
間もなく平らな白っぽい大平原が現れた。これが塩湖「ショット・エル・ジェリド」なのだった。
海抜0mの場所にあって、最大幅80km、最長200kmだというからその広さは想像ができない。
太古の昔、サハラ砂漠は海の底にあった。地球の大変動によって海底が隆起し、やがて太陽熱で海水が乾くと塩分濃度の濃い水ができ、やがてそこから塩が結晶するのだ。

バスが走っていると遠くに蜃気楼が現れた。また、小さなみやげ物店も点在していた。塩を採取している工場もあった。

 

途中でバスを下り、道路の両側に広がる「ショット・エル・ジェリド」に足を踏み入れた。表面は砂粒の様に塩が固まっているが、掘ると濃い塩水が出て来るのだった。
小さな山が幾つも作られていて、表面に塩の結晶が白花が咲くように噴き出していた。舐めると塩辛いが甘い。
私達が普段使っているエンカナトリウム99.1%の真っ白い精製塩と違って、無機質を沢山含む天然塩だからなのだ。私はとっさにビニール袋を取り出して、その結晶を爪で削って集めた。
見ていた他の人たちも同様にし出した。面白かった。
道路の反対側の店に行くと、採取したのと同じ塩がビニール袋に入って売られていた。可笑しかった。

    

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「チュニジア」旅行(10)

2012年12月11日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《ベルベル人が暮らす穴倉式住居》
バスが進むに連れて砂漠状の地形が広がりだした。所々に椰子の木が生え、羊を連れた遊牧民が現れる。ここ「マトマタ」の山岳地帯は先住民族「ベルベル人」が隠れて暮らす地域だった。
1700年前の戦いに敗れてからは、生きるにはとても厳しい環境の砂漠地帯に逃れ、密かに自給自足生活をして来たのかも知れない。

バスを降りた。砂漠の大地の下で「穴倉式住居」に住む家族を訪問するためだった。
地表から5~6m地下に穴を掘って中心部を吹き抜けにし、その周りに横穴式に幾つかの居室を造ってあった。
水は雨水を貯めて使っている様だが、雨がほとんど降らない乾期はどうしているのだろうと思った。

  

年を取った婦人と中年の女性、それに若い息子がいたが、寝室は別々の広さの穴倉だった。1つの広さは4.5~6畳程の広さで入り口は木の扉やカーテンだった。
中央の吹き抜け部分には、雨期に雨もそのまま下まで降るのだろう。
中年女性はにこやかに私達を歓迎してくれ、いつの間にかツアー客の2人がベルベル人の民族衣装を着せられて登場したのを見て、皆沸きかえった。
この「穴倉式住居」は夏涼しく冬は暖かいので住み易いそうだが、職業を尋ねると「町に通勤している。」との返事が帰って来た。

  

バスはその後、乾ききった赤土の山岳地域に入っていったが、少し形は違うが似た様な「穴倉式住居」が点在していた。
山の頂上近くにある小さな土産店前にトイレ休憩のためバスは止まった。
絵葉書が5枚1DH(51円)だったので買い、その夜ホテルで今日見た「穴倉式住居」と明日行く渓谷や塩湖について知らせる手紙を書いた。

 

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「チュニジア」旅行(9)

2012年12月11日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

「ケロアン」の世界遺産を見た後、南に212km離れたチュニジア中東部にある町「ガベス」に向かった。
途中の「シテイ・ブジド」町は、昨年起きた一連の民主化運動「アラブの春」の先駆けとなった「ジャスミン革命」が起きた町である。バスから見る限り、静かな田舎町といった雰囲気しか感じられなかった。

《昨年のジャスミン革命を振り返る》
路上で果物・野菜を売る青年モハメド・ブアジジ(26歳)が、2010年12月17日無許可商売だとして警察に摘発され殴られたことをきっかけにして、イスラム教で禁じられている焼身自殺をしてしまったのである。
その映像がインターネットで流されると、若者の失業率が30%と高く貧困に喘いでいた市民に衝撃を与え、これに抗議したデモや暴動が起き、瞬く間に全国に広まって行った。

2011年1月になると、この市民の抗議運動はベンアリ大統領の23年間に及ぶ抑圧的な長期独裁政権に反対する運動になり、ついに大統領は1月14日サウジアラビアに亡命し、革命は成功したのだった。

やがてこれが引き金となって北アフリカのエジプト、リビアなどへ民主化革命が飛び火し、一連の「アラブの春」といわれる市民運動になったことは私達の記憶に新しい。

そしてこの影響は瞬時に情報が世界を駆け巡る様々なインターネットによって、北アフリカに留まらず世界的な規模に波及した。
ネットで「アラブの春」の影響を調べたら下の様になる。

政権を打倒した国は、エジプト(ムバーラク)、リビア(カダフィー)、イエメン(サーレハ)(イエメンの女性活動家ダワッフル・カルマン女史は2011年ノーベル平和賞を受賞した)
何らかの進展結実があった国は、アルジェリア、モロッコ、サウジアラビア、ヨルダン、レバノン、イラク、クエート、オマーン、バーレーン 
運動が継続中の国は、シリア 
政権側がデモを制圧した国は、ジブチ、モーリタニア、西サハラ、スーダン、ソマリア 
それ以外に影響が及んだ国は、中国、アメリカ、イスラエル、ロシア、アルバニア、イラン
これだけ世界中に影響を与えたジャスミン革命がチュニジアの田舎町から起きたことは、歴史に刻まれるだろう。モハメドさん、どこかで見ていてくれるかな。

移動中、バスから見た珍しい光景の一つは、道路のあちこちに18L入りのプラスチックタンクを積み上げて売っている人々の姿だった。ガイドに聞くと、隣国リビアから国境を越えて安いガソリンを売りに来た人々だという事だった。
二つ目は、道端の簡素な店に白い肉がぶら下げてあることだった。ガイドは、羊の肉を売っているのだと話した。(スピードがあるバスからの撮影なのでぼけている)

  

私達は地中海近くの「ガベス」のレストランでランチを採り、赤土だけの大地が広がるガベスの南西40kmにある中南部山岳地帯「マトマタ」に向かった。

 


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「チュニジア」旅行(8)

2012年12月10日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《ローマ衰退後のカルタゴ》
ガイドブックを参考に、簡単にその後のカルタゴの歴史を見る。
カルタゴはローマ帝国第三の都市(第二はアレキサンドリア)として発展して行ったが、4世紀に入るとキリスト教徒が増え、キリスト教が公認されたという。
しかし、ローマ帝国は繁栄の陰で徐々に衰退しつつあった。

439年に北アフリカのバンダル族がカルタゴに侵入して王国を築いた
534年東ローマ(ビザンチン)帝国(395年東西に分かれたローマ帝国は、476年西ローマ帝国が滅亡する)がバンダル族を滅ぼした。
その後はしばらく誰にも支配されない時期が続くが、やがてサウジアラビアに起きたイスラム教が布教のために勢いを増し、30年程でアラビア半島、エジプトを支配する。
そして647年、東ローマ帝国の進駐軍は1万人のアラブ軍に破れたのだった。

669年にはアラブ軍は「ケロアン」に入りモスクを建てた後、西に進攻して行くが、
683年、北アフリカ原住民である「ベルベル人」と東ローマの連合軍に敗退し、「ケロアン」は「ベルベル人」の支配を受けた。

689年、アラブ軍が再びカルタゴを占領したが、「ベルベル人」との戦いは続いた。ついに701年「ベルベル人」達は「エルジェム」の「円形闘技場」に追い詰められ、自ら火を放って自滅したという。

その後、北アフリカの中心が「カルタゴ」から「ケロアン」に移されたため、「カルタゴ」は近郊に新たにできた町「チュニス」の建築資材供給庫となり、荒れ果てて行ったらしい。




では今回訪れた1700年前から首都として栄えた「ケロアン」の世界遺産を載せる。
(1)「グランドモスク」
640年に権力者ウクバによって建てられた最古のイスラム教モスク。再建、改修が何度か行われている。
右の写真は礼拝所だが、中央が男性の、そして左の仕切りの奥が女性用の礼拝所だ。

  

(2)「旧市街メデナ」
鷹さ8m、厚さ2mある4つの門で囲まれた東西1.3km、南北0.7kmの旧市街で、中心部は入り組んだ狭い路地が幾つもあった。
モロッコのメディナは規模が大きくごみごみしていたが、ここは電気、上下水道が通っていると言うことで遥かに清潔で気分が良かった。
朝行ったので、直径30cmもある丸く平たい形の「アラブパン」を売る屋台も出ていた。

  

       

  

(3)「シディ・サハブ・モスク」
ここは7世紀に建てられたモハメッドの同志で床屋だったという「アブ・ザマエル・ベラウィ」が眠る霊廟である。
17世紀になると、巡礼者の宿泊所やモスク、ミナレット、神学校が作られ聖地となった。
棺が置かれている霊廟には、信者以外は入れなかった。
(しかしである。霊廟の門番が身振りで私にカメラを渡せという。渡したら、棺や霊廟の内部を数枚写して返してくれた。最後に靴を脱いで入り口迄行けというのだ。私はつい入り口でVサインをして撮影して貰った。後で考えると聖地の棺前でVサインはやり過ぎたと思った。
カメラをくれた後、物欲しそうな素振りをするので、私は写真を確認後1DHのチップを渡した。彼は毎日そうしてチップを稼いでいるのだろう)

  

  



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「チュニジア」旅行(7)

2012年12月08日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《次々と忘れ物》
いや~参った。本当に。
今まで忘れた事など無かったのに、今回は幾つも…。

1.先ず旅行で初めてホテル泊をした翌朝の事だった。着替えをしようと持って来た下着類を見たのだが、大事なBが1つも無い。忘れたのだ。
男性添乗員に事情を話し、「衣料品店があったら少しの時間、立ち寄らせて下さい。」とお願いした。
しかしBにはサイズがあるので、結局買うのを諦めた。
一人部屋なのを良いことに着て行ったBを毎晩洗濯し、バスタオルで水分を絞って干した。化学繊維が多く使われているので、乾きやすくて助かった。
添乗員氏曰く、「ブリーフを忘れて添乗し、穿かないで過ごした。」とか…

2.折角持参した薄地の浴用タオルを、ホテルの洗面所のドア裏に干したまま忘れた。
ドアを開けたら見えない所に干した私が馬鹿だった。
無いと洗面、入浴に困るので、アラビア語の単語『マンシュファ』を教えてもらい買うことにした。
ある衣料品店で単語を言うと、その店にはバスタオルしか置いて無かった。
すると店にいた10歳位の少年が「待っていて!今探して来るから。」とどこかに走って行った。
暫くしたら5種類のタオルを持って来た。まあまあ良いかなというのがあったので、「いくら?」というと「20DH。」という。明らかに吹っかけている。「高いからいらない。」というと「10DHでいいよ。」と来た。私が「5なら…」というと、「OK」だって。これがアラブ商法なのだ。
多分、実際価格は2~3DH(1DH=約50円)だったのだろうが、とりあえず手に入って良かった。次回は2枚持つ事にしたい。

3.集合時間が迫っていたので、スーツケースに荷物をまとめて蓋をし、鍵を掛けた。そしてベルトを掛けるために鍵を脇のテーブルに置いた。
ベルトが掛かったので、スーツケースを持ち出した。
何と鍵を忘れたことに気づいたのは観光後の夕方、別の町のホテルに着いてスーツケースを開けようとした時だった。
スペアキーがあったので助かったが、そうでなければ絶体絶命だった。

一昨日、地元の鍵専門店に行って合鍵を作ってもらった。630円だった。もう決して忘れないように大き目のキーホルダーを付けた。

4、帰宅後見るとテーブルに娘の書置きがあった。
「警察から窓が開いているので閉めて欲しいという電話が来たので、年休を取って閉めに来た」というものだった。
そういえば出かける日の朝、二階の部屋の掃除をした時に開き窓を少し開けたのだ。内側のレースのカーテンを引いてあったため、目視できずにそのまま出かけたのだ。
結局1週間もの間、強い風が吹く度に少しずつ戸が大きく開いて行き、家中に零下の寒風が吹き込んでいた訳だ。(近所の人の話では、吹雪の日もあったらしいとか)
屋内がすっかり冷え切っていて暖めるのに時間がかかり、省エネを実践しようとしている身には何ともやり切れないできごとだった。
警察に出向いてお礼を言って来たところ、「急ぐ時には忘れやすいから、気をつけて!」と言われた。

こんな訳で、私もいよいよ認知力の衰えかと情けなくなった。家族からは「旅慣れし過ぎて、気持ちに緩みが出て来たのでは…」との言。
今一度、気持ちを引き締めたい。

                 「また どうぞ」

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「チュニジア」旅行(6)

2012年12月07日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《ローマの力を今に語る数々の壮大な遺跡》(3)
(3)世界遺産 チュニスの「アントニウス共同浴場」跡
ここには、チュニジア観光最後の日のカルタゴ遺跡見学後に行った。
ガイドブックによると、この浴場は2世紀にアントニウス・ピウスが建設したもので、2階建てで更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プール、噴水、談話室、トイレなど100以上の部屋が左右対称に配置されていたと言う。(入り口にあった立て看板の写真を見て欲しい)
当時、浴場の水は南に60km離れたザグーアンから水道橋で運ばれ、雨が少ない季節を考えて一端、貯水池に貯められていたそうだ。

  

  

  

       

しかしこの浴場は、5世紀のバンダル人の侵入で破壊され、その後、建築に使われた大理石や花崗岩は、トルコ、ピサ、ジェノバ、イギリスなどへ運ばれてしまったらしい。マーブル色の大理石の円柱が倒れて放置されていた。これも持ち出されようとしていたのだろうか。

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「チュニジア」旅行(5)

2012年12月06日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《ローマの力を今に語る数々の壮大な遺跡》(2)
(2)世界遺産「ドゥガ」のローマ遺跡
「ドゥガ」の遺跡はチュニスの西南西100kmの内陸にあって、19世紀の末に発掘された新しい遺跡だ。4世紀に最も繁栄し、少なくとも1万人の人がそこで暮らしていたという。アフリカ最大のローマ遺跡だとして1997年に世界遺産に指定された。

①「円形劇場」
紀元168年に造られた観客席19段、高さ15m、3500人が収容できる大きさで、保存状態も良く、今でも野外劇場として使われている。

 
     
                

②「風の広場」と「キャピタル」「風の広場」は円形劇場から少し離れた場所にあった。「キャピタル」はジュピター、ジュノー、ミネルバの三神を祭った8mの高さの神殿で、当時はとりわけ壮大な建造物だったのだと思った。

 

     

③ローマ人の「住宅」やローマ時代の「売春宿」跡住宅の大きさで貧富の差が見て取れた。
丘の最も低い位置に小さい個室が並んだ売春宿があり、少し離れたところに男女共用で10人程が並んで腰掛けて使ったという水洗トイレがあった。

  

④浴場跡他
巨大な公衆浴場が残っていたが、冬場に営業したらしい。蒸気をパイプで通す蒸し風呂だったようで、粘土で造ったパイプがあった。
ローマ帝国は、支配地域になったカルタゴにも住民の憩いの場である公衆浴場と娯楽の場である闘技場を造ったのである。それは政治から目を反らさせるローマ帝国の基本政策であった。

  

   

  


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「チュニジア」旅行(4)

2012年12月05日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《ローマの力を今に語る数々の壮大な遺跡》(1)
ガイドブックによると、カルタゴは農業技術と航海術に優れていて、紀元前8世紀から前2世紀まで地中海のシチリア島、サルディーニャ島、コルシカ島、モロッコ、スペイン南部にまで殖民市を築き上げ、繁栄して行ったそうだ。
※改めて現在の地中海周辺国とチュニジアの地図を載せる

    

ところがローマ帝国がイタリアをほぼ統一して勢いを増すに従ってカルタゴと敵対し、紀元前264~241年、シチリアの所有権を争う第一次ポエニ戦争が起きた。この時はカルタゴが敗北したが、スペインからの豊富な物資があったので国力は衰えなかったらしい。

紀元前218年、スペインにいた英雄ハンニバルが象部隊を伴ってフランスからアルプスを越え、北からイタリアに軍を進め、南からとの挟み撃ち戦法で勝利を収めたのが第二次ポエニ戦争(前218~前201年)として語り継がれている。
しかしその後次第にカルタゴの勢力は衰えて行き、遂にアフリカ以外の領土を失ってしまう。

ローマはカルタゴを諦めず、第三次ポエニ戦争(前149~146年)を起こして市街戦となり、ローマは5万人のカルタゴ人を奴隷にし、焼け残った建物を全て破壊、カルタゴは滅亡したという。

その後、前44年にローマ皇帝カエサルがカルタゴ再建に着手、後アウグストゥスに引き継がれた。
2世紀には巨大建造物が作られ、人口も30万人と膨れ上がり、カルタゴは第三のローマと言われる程になったという。

今回の旅では、先ず首都チュニスから南方約180kmにある地中海沿いの町「エルジェム」とチュニスの南西約100kmの町「ドゥッガ」、首都「チュニス」に残るローマ遺跡を見学した。

(1)世界遺産「エルジェムの円形闘技場」
紀元230年に建設された縦149m、横124m、鷹さ36mもの巨大な規模で地下もあり、現在でも3万人を収容することができるという。ローマのコロッセオと同様の作り方がされていた。今のエルジェムは静かな町である。

 

  

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「チュニジア」旅行(3)

2012年12月04日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《遠いカルタゴの記憶》
紀元前9~3世紀にチュニジアの地で栄えたカルタゴの歴史は、フェニキア人を征服したローマが全て焼き尽くし、破壊しつくしたとずっと信じられていた。
しかし現在の首都チュニスの中心に程近いチュニス湾に面した海岸に「カルタゴの軍港と商業港」がある。湾を望む「ピュルサの丘」の上には都市の跡が発掘され、博物館に当時の町並みの想像図が展示されていた。
ローマに征服された時に焼き討ちにあった焼け跡が、遺跡のあちこちに黒く残っていた。
少し離れた所にある墓地も見て来た。子どもの墓も多く見られた。

  

 

遺跡から見つかった沢山の遺物は、現在遺跡がある「ピュルサの丘」に建てられた「カルタゴ博物館」に収められて一般に公開されていた。
地中海のシチリア島やローマと近かったこの港から、沢山の交易品を積んだ商船が出入りし、賑わっていたことが伺えた。

  

またチュニスから北東に80km程離れたところに位置する地中海に突き出たポン岬近くの「ケルクアン」からも広大なカルタゴ時代の都市が発掘されていた。

特に「ケルクアン遺跡」の住居跡からは、当時の人々の家庭生活(富裕層は二階建ての家に住み、多くの部屋を有していた。家庭には風呂があり、排水も設備されていた。共同の井戸もあるなど)を推測することができた。耳を澄ますと、カルタゴの町のざわめきが風に乗って聞こえる気がした。

 

  

いずれも二千数百年の年月を越えて、現代の私達が目にすることができることに不思議な感動を覚えた。

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「チュニジア」旅行(2)

2012年12月03日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ

《エミレーツ航空利用体験》
とても変化に富んだ国なので、10日間があっという間に経ってしまったチュニジア。
何をどう話そうか悩むが、先ずは今回初めて乗った「エミレーツ航空」の利用体験団から話したい。
「エミレーツ航空」はアラブ首長国連邦に本拠地を置く航空会社である。

往路成田から顧客評価世界一と言われている「エミレーツ航空」のエコノミー席は機体が大きく、座席が広い。一般的な航空会社のよりも座席の幅が10cmは広いように感じた。だから体格の良いアラブ人が臨席に座っても、まあ我慢できそうに思った。
出て来た機内食はイスラム教の人たちのを標準食としているらしいが、それ以外の乗客にも対応していて美味しく、アルコール等の飲み物も色々あり、成る程と思った。
2階には立派なファーストクラス席があるそうだが、残念ながら見ることはできなかった。
(①最初に出た夕食。ご飯がキャベツで包まれていて、ビーフの煮込み、サラダも味が良かった。②私が頼んだ和食の朝食。成田空港から積んだのだろうが薄味で美味しかった。)

 ① ②

所がである。28日の帰国に当たりチュニジアのチュニス空港から14;30にドバイに向けて飛んだEK-0748の飛行機は、散々だった。
運悪く私の席は機体中程のトイレの前の2つ奥の席だったのだ。嫌な予感がしたが、離陸後間もなくそのトイレの水が出なくなったといって閉鎖されてしまったのだ。
「使用禁止」と書いた小さな赤い紙がドアに張られたが、故障を知らない人達が次々とやって来てトイレの前でドアが開くのを待ち続ける事態になり、ドア前の私の隣席に居た知人と私は、ついにその人たちへの説明のため5時間半全く寝られなかったのだ。
聞くと満席の乗客に対して、トイレが3箇所も同じ原因で使用できなくなっていたのだ。
だが乗員は「私達はメンテナンスができないので、直すことはできません。」というばかりだった。離陸前の機体点検に不備があったのだろうと思うが、これが世界一の快適さを誇る「エミレーツ航空」かと呆れ果ててしまった。
もしこれが日本の飛行機なら、こんな事態を許すだろうかと考えてしまった。

しかし悪い事ばかりではなかった。
ドバイで乗り換えた成田空港行きの「エミレーツ航空」機は、その日エコノミー席が空席だらけだったため、私達はそれぞれ3~4席を独占でき、機内食以外の時間は寝て来る事ができた。9時間25分ゆったりと足を伸ばして大きな飛行機に乗れて、全く文句なしだったのだ。お陰で溜まっていた疲れが少し軽くなった気がした。


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「チュニジア」旅行(1)

2012年11月20日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ
本日20日午後、北アフリカの「チュニジア」に出かける。10日間の旅だ。
今回は札幌に支店があるH社のツアーに1人で参加する。
チュニジアは昨年起きた一連の「アラブの春」闘争の先駆けとなった国として、まだ記憶に新しいのではないだろうか。

国教はイスラム教で周辺国と同じだが、世界一早く黒人奴隷の解放に踏み切ったり、民法で女性の人権を定めている国なのである。
(イスラム教が男性には最大4人の女性迄との複数婚を認めているのに対して、チュニジアはアラブの国の中で唯一単婚主義を規定している国である)
そんな歴史的な伝統が「アラブの春」に繋がったのかもしれないと思ったりするが、日本の私達にとってはチュニジアはやはり「遠い異国」だ。

赤道に近い場所にある南国は、冬に向かうこれからが気温が低くなるので、旅行先には最適な場所となる。
ネットで調べたら最高気温は18~24度らしいし、モスクには肌を出しては入れないので秋の長袖の服を用意して行こうと考えている。

またサハラ砂漠にも朝日を見に4WDに乗って行くので、マスク、スカーフを忘れないようにしたい。
砂が細かいのでカメラの故障も心配だ。レンズの所だけ穴をあけたビニールの袋を作って行くつもりだ。(モロッコ側のサハラ砂漠に行った時は、それでも砂が入り込んで暫く不調だった)

アフリカには2007年9月にモロッコ、2008年6月に南アフリカ、ジンバブエなどに行っているが、今回は古くから地中海貿易のアフリカ側の主要都市だったというカルタゴやチュニスがある時差ー8時間のチュニジアを自分の目で見て来たい。

日程は下表の通り。
帰りは成田の到着時間が遅いため北海道からの参加者は成田のホテルに1泊し、翌朝30日帰宅する予定だ。

  

出かけるに当たって、昨日までに家中の掃除を済ませた。今は室内の沢山の鉢植えをたらいに移し、少し水を張った。これで花木も8日間を乗り切ってくれるだろう。これから冷蔵庫とガス台の掃除をする。
外国に行く時は、いつも帰れないかもしれないと考えて始末をすることにしている。直前は少し忙しいけれど、飛行機に乗りさえすれば何もすることがなく寝られる。
 
                        「今月中、ブログを休みます…」

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垣間見たモロッコ 《4》特異な自然と生活が映画の撮影舞台に

2007年09月21日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ
「モロッコに行かないかい。」と娘に誘われた時、正直、その国の正確な場所も様子も良く分からなかったが、まず、かなり以前にTVで見た映画「カサブランカ」という題名が思い浮かんだ。その次が意味は分からないが「カスバ」という言葉だった。
 今回モロッコに実際に行って見て私が一番感動させられたのは、太古の昔から変わらずにあっただろう実に雄大な独特の自然とサハラ砂漠、そして、まるで私には中世に迷い込んだように感じられたカスバなどの泥の家の集落、それから想像する人間の絶えることのない逞しい営みだった。

 ②

 これらの事は世界的に随分前から知られていて、モロッコの大地で撮影された映画が幾つもあったのだ。
 「アラビアのロレンス」のロケ地はワルザザートにあるカスバ「ティフルトゥト」(写真①)だ。
 カスバとは、四角い泥の家の四隅に見張り場を造ってある要塞を指すとの説明があった。
 モロッコに詳しい添乗員さんは映画の撮影場所として選ばれる理由として、1.独特な風土であること 2.人件費が安いこと 3.雨が少ないので予定通りに撮影が進むことの三つを挙げていた。

 何でもこの「ティフルトゥト」のカスバの元々の持ち主は、依頼主のマラケシュの隊商からお金を取って、サハラ砂漠を通る時にその隊商を盗賊の被害から守る仕事をしていたそうだ。ところが依頼を断った隊商に対しては、逆に盗賊になって襲ったというのだ。
 それで財を築いた彼の一族は、植民地時代には宗主国フランスにも協力した。それで独立後は地域に居られなくなり外国に逃亡したため、現在このカスバは国の管理の元に置かれているという。
 聞いていて、まるで映画のストーリーになるような話しだと思った。このカスバにいた沢山の女性は、外部から見えないように二階で暮らしていたという。

 この町から少し離れた草原に映画の撮影所があった。そこでは撮影と映画の仕事を教える学校の様な事もしているとの説明があった。

 トドラ渓谷を見た後、ワルザザードに向けてしばらく走ると、カスバ様式の家がズラリと建ち並ぶ「カスバ街道」があった。
 また、世界遺産の「アイト・ベンハッドゥ」(写真②)は、アカデミー賞受賞映画「グラディエーター」の背景になった所だった。実際に「アイト・ベンハッドゥ」の下にセットを組んで撮影したらしい。私はこの映画を、たまたま帰国した翌日の夜、BSで見た。
 これ以外にも、幾つもの映画がモロッコで撮影されているのだった。

 サハラ砂漠はアフリカ大陸の1/3の面積を占める世界最大の砂漠である。大昔、海の底にあり、2億年位前に砂漠化したそうだ。そのため、今でも岩が多い岩砂漠からは、当時、海底に棲んでいたアンモナイトや三葉虫などの化石が発見されるのだ。
 私達はサハラ砂漠に日の出を見に行った帰り、化石探しを体験した。本当に岩の中に幾つかの化石が潜んでいた。岩の表面はとても硬かったので、私は現地の方が割って取り出した小さなアンモナイトを頂いた。

 サハラ砂漠(写真③は、日の出直後の朝焼けの砂漠を撮影したもの)、広大な不毛の大地とオアシス(写真④)などツアー中、毎日変わる光景は、本当に新鮮で驚きの連続だったし、地球の数十億年の営みを感じずにはいられない感動的なものだった。

 ③ ④

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垣間見たモロッコ 《3》暮らしぶり

2007年09月18日 | 海外旅行「北アフリカⅠ」チュニジア・モロッコ
 数日間滞在しただけでその国の人々の生活を知ることはまず難しいが、生活格差、収入格差が日本よりもずっと大きい様に感じられた。
立派な屋敷を持ち、輸入車(国産車はない)に乗っている人も沢山居れば、道端で乞食をしている大人も沢山見かけた。ゴミ捨て場を漁っている大人も見かけたし、何処へ行っても昼間から道端にしゃがんでいたり、ぶらついている人達が沢山いた。高齢者以外の人達は、きっと失業者なのだろうと思った。
 交通手段についていうと、鉄道は一部分を走っているが、1~2時間に1本なので通勤には使えない。乗用車は大変高価なので、普通の人達は自転車かオートバイに乗っていた。オートバイはかっての日本の50ccよりは大型だが、自転車にモーターを付けたような独特のものだった。添乗員さんの説明によれば、タクシー料金が安く、通勤にも利用する人が多いのだそうだ。

 世界文化遺産になっているフェズなどの旧市街地区を三カ所歩いたが、給排水が無いような地域もあり、道幅が1.5m位と狭いため車が入れず、未だにロバや馬、荷車、リヤカーが物資の運搬に活躍していた。私達は何度も荷物を運ぶロバと鉢合わせになり、ぶつからないように壁際に避けなければならなかった。
 タダでさえ風通しが悪い迷路状のその町で、それら動物の糞尿と臭い、加工場の煙や臭い、騒音、そして人々の生活臭が渾然一体となっていて、私は気分が悪くなりそうだった。
 また世界遺産なのに、狭い通路には所構わず色々なゴミが散乱していた。私は今の中国の様に国を挙げて清潔な環境作りのキャンペーンをした方が良いと強く思った。(写真①丘の上から臨んだフェズのメディナ ②極端に狭い迷路状の通路)

 ① ②

 靴屋、洋服仕立て屋、洋服屋、鍛冶屋、馬具屋、金属加工場、鋳物屋、木工場、パン屋、菓子屋、肉屋、食料品店、なめし皮工芸など、ありとあらゆる零細な規模の店や工ばが所狭しと連なり、中には一坪にも満たない空間で1~3人で手仕事をしている工ばもあった。まさに中世の家内工業と暮らしが、そのままの姿で数百年間、受け継がれている様に見受けられた。
 衛星放送のアンテナを上げているアパートも近くに沢山あったので、ここの人達は世界的な情報も得ているらしいのだが、それと自分達の暮らしとは別だと考えて居るのだろうか。極端な悪条件下でも一生懸命に汗を流している人達の姿を見ながら、私は複雑な思いに捕らわれた。
 なめし革の加工現場を革製品の店の最上階から見下ろしたが、シャツ一枚着ただけの男達が、炎天下で悪臭が立ちこめる中、薬品や染料で皮を処理する重労働をしている姿に胸が痛んだ。
 町はずれの陶器やタイルを焼いている焼き物工房も見学したが、そこではオリーブ油の絞りかすを燃料にしていて、公害となっているに違いない独特の臭いがする真っ黒い煙が、もくもくと立ち上っていた。また、イスラム模様の複雑な絵タイルを、根気強く一つ一つカットして組み合わせて造る作業は実に厳しそうだった。
 (写真③一坪程で営む生きた鶏屋 ④貴重な共同水道の前のサボテンの実売り。サボテンの実に水道水をかけていた。 ⑤なめし革の染色作業を店の4階から撮す)

 ③ ④ 

 ⑤

 田舎に行くとウイークデイなのに、学齢期と思われる女の子どもが幼児をおんぶして歩いていたり、男の子どもが遊牧の手伝いをしていたりする姿に出逢った。義務教育は小学校までで無償だという。しかし、家庭の事情や学校が遠すぎるために、学校に行けない子どもが田舎ほど多いようだった。
 また、奥地のトドラ渓谷に行く途中で川で洗濯をしている大勢の女性達に出逢った。川で洗濯するというのは今の日本なら昔話の世界にしかない光景だと思った。(写真⑥)

 ⑥

 モロッコは昔、アラビア半島から来た人が住み着いた事からできた国らしいが、長いこと幾つかの国の(最後はフランスの)植民地だった歴史を持ち、自主的な経済、政治の発展が遅れている事は否定できない。
 しかも、雨が少なく、鉄分と石灰岩を含んだ赤土の大地には植物が育ちにくく、計画的な植林もまだまだ足りないように感じた。
 水産業、農業、牧畜業が主で、鉱山からは燐鉱石が採取されるのだという。
 近代的な工業製品のほとんどを輸入に頼っているので、国の経済収支は大変なのだろう。

 添乗員さんの説明によると、この国の平均収入を計算することはあまり意味がないのだと言う。理由は80%の人が貧困層に入るからなのだ。大金持ちの収入を足して労働人口で割ったら、多分1ヶ月当たりの平均収入は、日本円にすると4~5万円になると思うが、と言っていた。
 ODAの経済援助額2位の日本ではあるが、本当に必要な所に私達の税金が行っているのだろうかと思った。
 サハラ砂漠の近郊の町を通った時、日本の青年海外協力隊の人が来ていて、製造業の指導をしていると聞いた。看板には日の丸の絵とその事が書いてあった。

 日本はモロッコからの輸入額も2位である。蛸や海老、マグロなどの海産物が多いらしいが、日本の商社や水産会社は安く買いたたくことなどせず、適正価格で輸入しているのだろうか。私はそんな事も考えさせられた。




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