花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

英国周遊(13)

2012年06月29日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《観光最終日は、ロンドン市内観光②》
その後、11時半から始まる「バッキンガム宮殿」の衛兵交替式を見に行った。
この宮殿は1703年にバッキンガム公爵邸として建てられたが、1837年のビクトリア女王の統治時に王家の居城になった所だ。(正面広場にある金色の展死像はビクトリア女王記念碑)
人が大変多い中、衛兵の交代式の前半部分、つまり交代する側の衛兵の行進だけを見た。これも私が前に来た時に見た場所と全く違っていて、肝心の交代式を見ることができず残念に思った。
 

       

昼食後は「テムズ川クルーズ」をした。
「ウエストミンスター」から「ロンドン塔」までという短時間の乗船だったが、私には初めての経験で、『ビックベン』の時計塔がある『国会議事堂』の壮大な建造物全体を真近に見られて良かった。
エリザベス女王在位60年祝賀のためだと思うが、河畔に若き日の女王一家の巨大な写真が展示されていた。

  

船を下りて傍の『ロンドン塔』に入場した。
ここは、1066年にフランス・ノルマンディー公ウイリアム1世がイングランドを征服した後、20年かかって外敵を防ぐために建てた要塞だった。
やがて国王の宮殿となったが、1282年からは身分の高い政治犯の監獄ともなり、テムズ川から船に乗ったまま扉の内側に着いた者は二度と生きて出られなかったらしい。
今でもロンドン塔の中庭の一角に処刑の場所だったところがあり、王族で死刑になった人達の名と執行年が表示されていた。

   

            

幾つかの建物があるが、世界最大のダイヤモンドをあしらった杖や宝石でちりばめられた王冠などが展示されている場所がある。以前はその前では立ち止まらないようにと注意する係官がいたが、今回入って見ると展示物の前だけ『歩く歩道』がついていた。これでは絶対に立ち止まってじっと見ることはできない。
テムズ川に架かる『タワーブリッジ』(1894年に建設された美しい跳ね橋)は、『ロンドン塔』内の通路から最も近くに見ることができたので、最後にカメラに収めた。

 

その後2時間の自由時間があったが、私は『ナショナルギャラリー』に行き、レオナルド・ダ・ビンチ、ボッティチェルリ、ミケランジェロ、ルノアール、ラファエロ、ブリューゲル、ルーベンス、モネなど、65もある展示室を回ってイギリスが所有する名だたる画家達の数多い貴重な絵を鑑賞した。
部屋ごとに案内人がいて、画家の名を言うと案内してくれた。今回は旅行の最後にこんな時間が持てたことが嬉しかった。
因みにここも入場料は無料。ただ、日本語のフロア案内を1パウンド(131円)で買った。

これで英国周遊10日間の観光は全て終わった。
翌日、ロンドン・ヒースロー空港発13;30のブリティッシュ・エアウェイズで帰国の途に着き、成田空港には11時間35分後の6月12日9;05に到着した。私は14;45発のJALで北海道新千歳空港に乗り継ぎ、16;25着陸した。

今回の旅も短いながらも有意義な内容だった。
それに前回から間を置かずに行ったのに、何事も無く、元気で無事に帰宅することができて幸いだった。同行した友人にも感謝している。
今回も長い報告になったが、私のブログを訪れた方々、コメントを書いてくれた方々にお礼を言います。

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(12)

2012年06月28日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《観光最終日は、ロンドン市内観光①》『ストーンヘンジ』を観光後、バスは一路140kmの道のりを最終目的地の東北東のロンドンに向かって走った。ホテルはケンジントン地区にあり、スーパーマーケットも傍にある賑やかな場所だった。

観光7日目はロンドンの市内観光だった。
朝バスで先ず「リージェンツ・パーク」の南にある『クイーンメアリー・ローズガーデン』に行った。土地は王室の土地なので、門に紋章が付けてあった。
中は宿根草の花壇が少しあるが多くは薔薇の花壇だった。今まで見て来た庭より薔薇が沢山植えてあったが、花が終わって枯れた薔薇もそのままになっていたので、手入れをあまりしていないように思われた。
私の場合は、終わった花殻は全部切って、株が疲れないように、また見苦しくないようにしているのだが、そこではあくまでも自然のままの「 natural garden 」を目指している様だった。
1つ参考になったのは、つる薔薇を高い位置に太いロープを張って誘引している事だった。こんな簡単な方法でつる薔薇を這わせるのも良いな~と思えた。
ガーデン内に滝が造ってあったし、リスが薔薇の中をちょろちょろ遊んでいた。

  

   

               

次は『大英博物館』の展示物鑑賞だった。
行く直前のTVで、大英博物館を2時間で見る回り方をやっていたが、今回は現地ガイドに連れられて何と僅か38分の見学に過ぎなかった。エジプト、メソポタミア、ギリシャの遺跡から出土した貴重な展示品と、出口にあったエジプトから出土した『ヒエログリフ』(古代のエジプト文字など3種類の文字で書かれた墓碑)を駆け足で見た。
私は以前に個人で2日間行ってじっくりと見ているのだが、大英博物館は無料なので、「ちょっと覗いただけ」という旅行会社のやり方を疑問に思った。
(最後の写真は、ギリシャのパルテノン神殿から持って来たレリーフの中の一部、三角形の屋根下部分のレリーフだ。30年以上前からギリシャが返還を要求しているが実現していない)

  

                

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(11)

2012年06月27日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《世界遺産、ストーンヘンジ》
「バース」を出たバスは田舎道を58km東に向かって走った。着いたところが有名な『ストーンヘンジ』だった。
人が土を盛り上げて作ったような小さい丘が幾つかある以外は広大な平原に『ストーンヘンジ』があるだけなのだ。少し違和感を感じてしまった。
次々と色々な人種の人達がやって来たが、周囲にはロープが張られているので、観光客はその外周を巡るように歩いて、かなり離れた場所から見るのだ。
中には歩道に紙を広げて絵を画いている人もいた。

ガイドブックによると、ドルイド教信者が今でも聖地にしているため、彼らの祖先が造ったのではと思われていたが、研究の結果、今から5000年昔の新石器時代に造られた事が分かったと言う。
最初は紀元前2600年前に重さが4トンもあるブルーストーンが385km離れた場所から幾つも運ばれ、さらにそれから200~300年後になると、30kmも離れた場所から25トン以上ある茶色のサーセン石が運ばれて今のような形になったらしい。
誰が何の目的で、どのような手段でそんな大昔にこの石組みを作り上げたのだろうか。

しかし紀元前1600年頃からは、石は建設用石材として持ち去られたりしていた。また100年前までは巨石を砕いて道路建設にも使われたらしい。
そこで1918年に国が所有して調査と保護が始まり、1986年には世界遺産に指定された。

  

        
 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(10)

2012年06月26日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《世界遺産「バース」のローマ風呂》
朝起きると晴天だった。初めてだ。しかし気温がかなり低い。今まで穿かなかったタイツを穿いてバスに乗った。
観光6日目は、ストラドフォード・アポン・エイボンのホテルを出て135km南南西にある街「バース」に向かった。

町の名「バース」は、ケルト語で風呂を指す語からつけられたらしい。ローマ人によって紀元75年に作られた二階建ての温泉施設だ。写真の温泉は吹き抜けだが、地下1階にも大浴場がある。この温泉は長い間埋もれていたというが、18世紀に貴族の保養地として復元された。その後長い間使われていたが、1978年に閉鎖されたという。
日本語ガイドを借りて中に入り、1時間以上かけて内部を回った。この温泉風呂が2000年近い昔に造られたものとはとても思えないような壮大な規模だった。今でも1日110万リットルの湯が湧き出て、排水溝に流れ出ていた。

   

隣に120年もかかって造られたという1617年創設の「バース寺院」があった。
バースと寺院はカギ型に配置されているが、その前の広場は入場を待って並んでいる人々や行きかう人が多い。それを当てにした歌手やギターリストたちが入れ替わりたちかわりやって来てなかなかなパフォーマンスを披露し、CDを売っていた。

  

バスは、「バース」の近くにある『ロイヤル・クレッセント』に立ち寄った。
ここは18世紀にジョン・ウッドが建てたテラスハウスである。このテラスハウスは三日月型をしていた。現在の集合住宅にも通じる建築だと思った。

         

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(9)

2012年06月24日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《コッツウオルズの小さな村》
アフターヌーンティーの後はバスでコッツウオルズ地方に向かった。
雨が降り、風もあったが、先ず廃墟と化した『スードリー城』の庭園に行った。
ここはイングランド王室史上最高のインテリだったというヘンリー8世王の6人の妻たちが暮らした古城だが、市民革命時に破壊されてしまったという。残っていた建物部分が博物館になっていて、6人の妻を表した人形などが展示されていた。

 1人目 キャサリン・オブ・アルゴン (スペイン出身、最初はヘンリー8世の兄と結婚したが、兄の死去後、持参金を持ち去られたくないためという理由もあって1509年王が結婚。生まれた2人の男児は直ぐに死亡した。最後にメアリー一世を生んだが、男児を望む王は1533年離婚した。やがてメアリーはエドワード6世の死後、イングランド初の女王に即位した。在位1553年7月~1558年11月)

 2人目 アン・ブーリン (1人目の侍女でスペイン出身。王は結婚を認めなかったローマカトリック教会から離脱し、イギリス国教会を設立して1533年結婚した。後のエリザベス1世を生むが、男児でなかったのを理由に王は離婚したかった。しかし応じないので1536年にロンドン塔で処刑された)

 3人目 ジェイン・シーモア (1536年、王はアン・ブーリンの侍女だった彼女と結婚。後のエドワード6世を生むが、1537年病死した)

 4人目 アン・オブ・クレーヴズ (オランダ人。1540年結婚したが、結婚前に見た美しい肖像画と大違いだったので、6ヵ月後に離婚された)

 5人目 キャサリン・ハワード (1540年結婚したが、恋人がいたため1542年処刑された)

 6人目 キャサリン・パー (1543年結婚。学識が豊かだった彼女は自身も4回目の再婚となる王との結婚をしぶしぶした。1547年王が死去すると、恋人と結婚した)

写真左は、「ヘンリー8世王」と「エリザベス」 右は、6人の妻の人形。右端は1人目の「キャサリン・オブ・アルゴン」。2人目の「アン・ブーリン」は確か後ろに居て手前と重なり、写真に撮れなかった筈だ。

  

広大な庭には城の残骸部分が残っていて、「華麗な王女たちの夢の跡」を感じた。同時に絶対権力を持つ王は、どんな屁理屈もつけられるし、堂々と妻の殺害もできたのだと再確認した。
私は子どもの頃、もし生まれ変わることがあったら、高貴な身分の家柄に生まれたいと思ったことがあったが、その後、高貴な家柄だった故に不幸になった女性も多かったのだと知ることになる。王にとってこの数人の妻たちは、人間ではなく、単に跡継ぎを生むための道具に過ぎなかったのだろう。
庭の奥に、刈り込まれた樹木で囲われた「秘密の花園」と名づけた庭園があった。つる薔薇が植えてありベンチもあった。恐らく彼女たちにとってこの庭を散策する時間は、唯一心が癒される時間だったに違いない。

  

次にコッツウオルズの小さな村2つに行き、散策しながら静かな田園風景を味わった。

  

      



 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(8)

2012年06月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《ストラトフォード・アポン・エイヴォン観光》
昨夜はコッツウォルズの端にある風光明媚な田園の町「ストラトフォード・アポン・エイヴォン」(エイヴォン川畔のストラトフォード町の意)のホテルに泊まった。
この町が有名なのは、戯曲作家「ウイリアム・シェイクスピア」の出身地だからだ。
観光5日目も朝から終日小雨だった。
シェイクスピアはこの田舎町で1564年に裕福な皮手袋商人の家の8人兄弟姉妹の3番目の子として生まれた。父は数年後、この町の町長に選出されるが、父に闇取引疑惑が発覚して辞任し、家は没落する。
彼はロンドンに出て『オセロ』『ロミオとジュリエット』『ハムレット』『マクベス』『ベニスの商人』『リチャード三世』『リア王』などの多くの名作を書く。晩年はこの生家に戻ったが、49歳で亡くなったのだった。

町の中心の賑やかな通りに面して建っている大きなシェイクスピアの生家はすでにかなり古びていたが、周辺に残っている中世の町並みと調和しながら、「シェイクスピア、バースプレイス、トラスト」の保護管理の下で公開されていた。
内部は撮影禁止だったが、彼が生まれた2階の広い寝室では、ゆりかごに人形の赤ちゃんが入っていてそれらしく公開されていた。また、家の裏には結構広い庭があり、良く整備されていた。

  

もうひとつの観光場所は、「アン・ハサウエイ」の実家だ。彼女はシェイクスピアが18歳で結婚した8歳年上の女性で、その実家と庭が保存されていた。屋根の形が独特で、18世紀までは農家が使用していたというが、良く保存されていた。

  

ガイドと町を散策してから自由時間が少しあったので、町外れの「シェイクスピア劇場」まで行ってみた。
写真左は、「ホテル・シェイクスピア」。こんな木組みの古い家が沢山保存されていた。

  

昼食は16世紀に建てられた元荘園領主の屋敷「マナーハウス」だったというホテルのレストランの『アフターヌーンティー』だった。写真は4人分だが、お変わり自由な紅茶とサンドイッチ、ケーキだけだ。サンドイッチが絶妙の味だった。
建物の外観は本当に古いが、無機質な石の壁に生きている木や花が添えられるとたちまち雰囲気が和らぎ、眺める人の気持ちも安らぐ。また、それを狙った住人の気持ちも伝わる感じがした。

  

                

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。





 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(7)

2012年06月22日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《世界遺産、リバプール観光》
観光4日目も雨の中、湖水地方のホテルを出たバスはほぼ160kmを南下して、マージーサイド州の州都であるリバプールに着いた。
この町は18世紀の産業革命時には25km南のチェスター港が泥に埋まってしまったため、代わりに海上交易の中心地となって栄えた港町だ。
特に西アフリカ、西インド、香港、オーストラリア、新大陸アメリカ、ヨーロッパを結ぶ大型商船を使った太平洋の独占的な貿易の拠点港として発展した。貨物としては西アフリカから新大陸への黒人奴隷の搬送も行ったため、負の歴史も残している。

写真①アルバートドッグ (昔の倉庫群後を再開発し、今は博物館、美術館、飲食店、ショップなどが入る大型複合施設になっている。マージー川沿いに建つ) ②ドッグから町を望む

 ① ②

しかし、第二次世界大戦ではドイツ軍の激しい爆撃を受けた。1940年代には綿貿易、繊維産業が衰退し、1950年代になると町は衰退したが、1961年、この町から「ビートルズ」がデビューして有名になった。
現在はイギリスの主な港湾商業都市として、また「ビートルズ」誕生の町として観光客を呼び、発展しているという。

写真③ドッグ傍の「ビートルズストア」 ④ストア内の一角 ⑤ビートルズが活動した「マシュー通り」の飾りつけ (このビートルズショップの2階の壁には、4人のメンバー一人ひとりの大きな彫刻が飾られていた)

 ③ ④

      ⑤

写真⑥狭いマシュー通りの『キャバーン・クラブ』入り口 (ビートルズがライブをしデビューした当時の店そっくりに作られている。現在ここで毎週6回のライブが行われているという) ⑦地下のステージ (階段を25段降りて行くと、太い柱が何本もあり、天井が低い地下室があった。この様な狭いステージで彼らが演奏していたのだと想像した)

 ⑥ ⑦

次に1940年から40年の歳月をかけて建設されたイギリス第一の大きさを誇るネオ・ゴシック様式の「リバプール大聖堂」に行った。入り口に近い場所では、ボランティアの女性たちが手作り作品の展示販売をしていた。また、子どもに絵を画かせている所だった。

  

リバプールの中華街にあるレストランで昼食を取った後、「アイアンブリッジ峡谷」に向かった。
この村はセバーン川沿いにある静かな村だったが、1986年、『コールブルックデール橋』が世界初の鋼鉄製の橋として世界遺産に指定されてから観光地になった。
18世紀、この村で製鉄業をしていたエイブラハム・ダービーは、コークスを用いて鉄を精錬する技術を完成させた。その技術で1781年、今も残る立派な鋼鉄製の橋が作られたのだ。雨が降りしきる中、橋まで往復20分程歩いたが、産業革命時代を表す貴重な美しいデザインの橋だった。
その途中、道路傍の巣の中で抱卵していた白鳥がいたので驚いた。

 ⑧ 

         ⑨

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(6)

2012年06月21日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《湖水地方の風景と庭ー②》
観光3日目は朝から雨。雨で霞む湖水地方の景色の中を、終日、観光した。
まず向かったのは、湖水地方最大の湖『ウィンダミア湖の遊覧船』乗り場だ。遊覧船に乗って、湖から周辺の景色を見た。白鳥、鴨などの鳥が羽を休めていた。ひょっとして我が家の上空を渡る鳥も居るのではないかと思った。

  

その次に観光用の蒸気機関車が走っている蒸気鉄道駅に行き、終点までの2駅を乗った。終点の駅のホーム横斜面に、紫色のジギタリスと白い石楠花が沢山咲いていた。
   

   

次に向かったのは「ニア・ソーリー村」にある『ピーターラビット』の作者、「ビアトリス・ポター」が住んでいた家、『ヒルトップ』の観光だった。
今はナショナルトラストが管理していると言うが、庭にはジギタリス、エニシダ、アキレギア、アルケミラ・モリスなどの宿根草でボーダーガーデンが作ってあり、藤の木が植えてあった。
かなり古い2階建ての家の室内は、ポターが好んだ絵や食器、小物などで飾られていた。
家の横にちょっとした面積の畑もあり男性が作業をしていたが、見ると土壌は石だらけなので、こんなところで上手く収穫ができるのだろうか、ジャガイモも植えてあるがどれ程の収穫があるのだろうかと気がかりだった。
(かっては食糧調達さえままならなかったこの国が、植民地を求めて大航海をした理由が少し分かった気がした。しかしそのために今は、旧植民地の人たちの移住を認めざるを得ず、多民族国家になって様々な問題も抱えているのである)
前にも書いたが、私が調べたところ、イギリスは岩が多い土地のためにGDP の中に占める農産物の生産量は2%を下回っているという。
(日本は1%を切ったとも言われる反面で、国連食糧農業機構FAOの統計では日本の農業生産高は世界5位だという。~1位中国、2位アメリカ、3位インド、4位ブラジル、6位フランス、7位ドイツ…19位イギリス)
イギリスでは、野菜や果物はフランスやイタリアなどから輸入するために高価なので、(といっても、ロンドンのスーパーで見たところ、それらの現在の価格は日本とほぼ同じだった) 今はどうか分からないが、少し前まではイギリス人は毎日、総合ビタミン剤を飲んでいると聞いていた。
一方、そんな不利な土地の改良を進めた結果、現在はイギリスの畑を耕地面積順に多い方から並べると、小麦、大麦、その他、菜種、芋、甜菜となっているが、今でも畑として利用している土地と牧草地、羊、牛、豚、馬の放牧地は、ほぼ1/3ずつの面積になるらしい。

入り口にみやげ物店があったので、私はそこでピーターラビットのガラス用シートとイングリッシュガーデンの写真が美しい来年用のカレンダーを求めた。

  

     

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(5)

2012年06月20日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《湖水地方の風景と庭ー①》
バスはさらに南下し、湖水地方と呼ばれる「カンブリア州」に入ると、車窓に羊が草を食む光景が続き、眺めて楽しんだ。
この州には16もの大きい湖と無数の小さな湖があるので『湖水地方』と呼ばれ、全体が国立公園に指定されている。多くの湖は氷河の侵食によってできたものである。
ガイドによると、イギリスでは標高330~977mの低山が多いが、900m以上の5山全てがカンブリア州にあるので、この州は起伏に富んだ美しい光景を作っていて、画家「ターナー」が画いた風景画で広く知られるようになったという。
また絵本作家「ビアトリクス・ポター」は1902年に『ピーターラビット』を出版して、湖水地方の自然を世界中に紹介した。
この地方は自然保護運動により長距離の鉄道網が敷かれていない。昔ながらの木々の中の細い道を、大型バスが木の枝を引っ掛けながらやっと通り抜ける感じで進んでいった。

途中でグラスミアという村で、自然派詩人「ワーズワース」が1799~1808年に暮らしたという家と彼が手掛けたという起伏に富んだ広大な『ライダルマウントの庭園』に行き、庭を散策した。
生い茂る草の中に濃い赤紫色のジギタリスや紫色のデルフィニュームが咲いていた。大木に育ったピンク色の石楠花がシンボルツリーとなっていた。まさに自然庭園の様相だった。今はナショナルトラストの団体が管理しているという。

  

さらにワーズワースが愛したという小川が流れる「グラスミア」村に立ち寄った。ここでもつつじや石楠花、宿根草が多く植えられ、それらの草花が石作りの家を魅力的に引き立てていた。

  

  

その日のホテルは、湖畔に達する広い庭園があり、高い巨木に囲まれた古風な佇まいのホテルだった。翌朝湖まで散策すると、そこには薔薇、石楠花が美しく咲き、リス、孔雀、野鳥が遊び、羊が放牧されている大自然があった。

   

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(4)

2012年06月19日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《ローマ軍が1890年前に築城した長城》
翌朝はホテルを出てエジンバラから南下し、イングランドとの国境線近くの町、カーライルにあるローマ帝国の国境線・世界遺産『ハドリアヌスの長城』を観光した。
西暦122~126年頃イングランドまで支配を広げていたハドリアヌス帝のローマ軍が、北方からの侵略を防ぐために築いた石の長城である。当時は高さ5m、幅3mの長城が築かれ、1.5km毎に砦、兵舎、穀物倉庫が作られていたという。病院も20箇所あったそうだ。
その一部に登って来たが、今は高さがかなり低くなっていた。ガイドブックによると近隣の家作りに長城の石が使われたためだという。
直ぐ横に散策路が設けられていた。ガイドは、「イギリス人は歩くのがとても好きな人たちで、雨の日でも多くの人が何キロメートルも歩くのですよ。」と話していた。
また真っ直ぐな道路が続く所でガイドが、「この道路はローマ軍が作ったものです。」と話していた。私は1890年前のローマの北限の支配に思いを馳せた。

   

     

※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(3)

2012年06月17日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《エジンバラ市内観光》
1995年に世界遺産に指定されたエジンバラを象徴する建造物は、岩山に建つ「エジンバラ城」である。都市名の『エジンバラ』とは、「斜面に建つ要塞」という意味だそうだ。
その名の通り6世紀に生まれたスコットランドの要塞都市だが、1707年にイングランドに統合される迄は何度もイングランドとの抗争に明け暮れ、その度に城の麓の町は破壊と再建を繰り返したという。この地域の『オールドタウン』と18世紀以降に整然と作られた『ニュータウン』の対比、歴史的価値が世界遺産になった理由である。

2日目朝ホテルを出て、最初にバスでイギリス王室のスコットランドの公邸『ホリールード宮殿』に向かった。
元々この建物は、1128年スコットランド王デビット一世が建てた寺院だったが、15世紀からスコットランド国王夫妻の住居として使われるようになり、現在はエリザベス女王が夏に滞在する宮殿となっている。16世紀のスコットランド女王メアリーが諸侯の反発を買い、幽閉された宮殿でもある。
女王滞在中以外は一般に公開されているが、私たちは門の外から宮殿を見て写真を撮り、みやげ物の売り場を見ただけだった。
エジンバラ城からこの城までの石畳の道が『ロイヤルマイル』だが、その終点の写真も撮った。

  

次にバスで『エジンバラ城』に向かった。
駐車場でバスを下り古い石畳の道を登って行くと広場があり、そこで現在『ミリタリー・タトゥー』(スコットランド軍の音楽隊の行進から始まったものだが、現在は世界中のパホーマーが集まって毎日日替わりのパフォーマンスが3週間楽しめるという)の大観客席を作っている最中だった。
広場の向こうに立派な城門があった。城内に入ると右手眼下に北海につながるフォース湾が見え、その方向に向いた砲台に大砲が備えられていた。

   

石畳の道はかなり傾斜しているところもあり、上り下りに注意を要した。
城内に現在残る幾つかの建物の内、最古の物はスコットランド王が母親を称えて12世紀に建てた『聖マーガレット礼拝堂』だった。ステンドグラスが象徴的だった。
他の建物の大半は19世紀に再建されたというが、現在は『スコッチウイスキー・ヘリテージセンター』『戦争記念館』として使われている建物もあり、城内は各国の観光客でごった返していた。

  

次に向かったのはエジンバラ最大の『聖ジャイルズ大聖堂』の近くに行った。854年に建てられ、12世紀に再建された聖堂で、王冠の様な尖塔が特徴的だった。

 

2時間の自由時間があったので、ホテルから程近い『国立スコットランド美術館』に行った。
レンブラントの『自画像』、レオナルド・ダ・ビンチの宗教画、ラファエロの『母子像』、地元出身画家ターナーの風景画など初めて見た作品に感動した。この地方出身画家の作品も多く展示されていて見ごたえがあった。
その後、石段を登って坂の上の旧市街に出、『スコットランド博物館』を見学した。大きなジェームズ・ワトソンの石膏像が展示されていたが、スコットランドは科学技術国として知られた所だったのだ。石段の途中から見た公園では満開のつつじが美しかった。

 

エジンバラ市内観光は、スコットランドの歴史と文化に触れた有意義な一日になった。

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。再度クリックするとさらに拡大する場合もあります。   

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(2)

2012年06月16日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

《エジンバラ到着雑感》
3日、成田空港を10;55発のブリティッシュ・エアラインで出発してから12時間15分かけてロンドンのヒースロー国際空港に着いたが、ロンドンはまだ15;10だった。時差がー8時間(本当はー9時間だが、3月最終日曜から10月最終日曜まではサマータイムを取り入れていて時刻を1時間早めている)あるのでこうなるのだ。
私たちはそのままロンドンから18;25発の国内線に乗り継ぎ、北のエジンバラ空港には1時間後の19;25に着いた

エジンバラは北緯56度に位置し、樺太の中部と同じ位置なので6月のこの時期は日没時刻が遅いのだ。20;30頃はまだ青空、21;10過ぎてようやく薄暗くなり、地球の北側に来たという実感が湧いた。
因みに1年で昼の時間が最も長くなる夏至(6月21日)には、場所にもよるがイギリスでは4;40過ぎに日の出を迎え、21;15過ぎにならないと日没にならないのだ。多分22時近くになっても、夜空はまだうっすらと明るいのだろう。ほぼ球形で、若干地軸が傾いている地球の妙技なのだ。
しかし、いつまでも明るいと、人々は働き過ぎたり遊びすぎたりして疲れてしまう。そうならないように緯度の高い国に住む人々は、各自で生活管理をする必要があるのだと思う。
反対に12月の冬至では、日の出は8時過ぎで、日没は15時半前後となるようだ。

21時過ぎに通ったエジンバラ郊外では所々で広い菜の花畑が真黄色に輝いていた。
街に着くと、歴史を感じさせる重厚な石作りの建物が出向かえてくれた。
バスの中で現地ガイドから、「屋内は全て禁煙なので注意して欲しい。違反すると高額な罰金を科せられる。」と注意された。またイギリスの通貨パウンドについて、特に種類が多いコインの見分け方を習った。

  


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国周遊(1)

2012年06月15日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅠ」ポルトガル・英国

12日に無事イギリス10日間の旅から帰宅した。
翌朝からは庭の草取り、水やり、野菜の間引きなどに精を出し、ようやく気持ちも落ち着いたので、これから少しずつ旅行記を書きたい。

《観光の印象》
英国の正式な国名は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国であり、イングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドの4つのエリアが連合した王国なのだ。
今回の10日間の周遊では、旧スコットランドの首都だったエジンバラを振り出しに、イングランド北部から中部、南部へとバスで移動し、世界遺産を観光してロンドンから帰国した。時差は夏時間で、日本のー8時間だった。

 

6~10月の英国の降水量は東京の3倍(9月は4倍)なので、8日間いた内の6日間もが小雨模様で、北海道の5月の様に気温も低く寒かった。
しかし、暖流のメキシコ湾流の影響を受けるため北緯50~60度にあるにもかかわらず気温が零下になることは無いらしく、すでに石楠花や薔薇などの花が咲き誇っていた。
また年間の最高気温は、北のエジンバラでは18度、南のロンドンでは20度ちょっとであるという。

地質では、車窓から見た所、表土が薄く、スレート様の岩石が多い地質のため、農業に適す土地は限られているようだった。そのためか牧草地が多く、石を積み上げて境界を作り、その中で、羊、牛、豚を放牧する牧歌的な光景が何処までも続き、まるでニュージーランドを思わせる景観に驚いた。
さらに地震がほとんどない国という事で、古い民家や建造物の大半は土中から産出するこの石を積み上げて作ったものだった。

  

              

今年はエリザベス女王が1952年に即位してから60周年に当たる。丁度、ダイヤモンドジュビリーの4日間の祝賀行事とぶつかり、どこに行っても祝賀ムードがあふれていた。学校は休日だったらしい。
また、ロンドンが今年の第30回夏季オリンピック(7月27日~8月12日)の開催地でもあるため、全体として明るい雰囲気に包まれた様子だった。


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国「武陵源」の旅(6)

2012年06月13日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

《観光3日目の午後ー世界最長のロープウエイと『天門山』観光》
観光の最後は、『天門山国家森林公園』の観光だった。
この山は世界遺産にはなっていないが、張家界市の南方10kmにある標高1500mの山である。
この山の上部は、紀元263年の大地震の後、頂上に大きな洞窟ができたことで有名な山で、古くは嵩梁山(コウリョウサン)と呼ばれていたが、呉の景帝が洞窟ができたことを吉祥の兆しと考え、山名を『天門山』と改めたのだった。
洞は高さ131.5m、幅37m、奥行30mあり、1999年末にはロシア、イギリス、アメリカ、日本など15カ国のパイロットが集まって飛行機で洞を通り抜ける演技飛行に成功し、世界的に有名になった。

この山の観光ポイントは3つある。
1つ目は、市街地から7455mの世界最長ロープウエイで天門山の標高1279mの所まで20~30分で行ける事、2つ目はロープウエイの終点駅からの断崖絶壁に張り出して作られている遊歩道の散策、3つ目は天門山の洞まで登ることができる999段の急な石段登山だ。そのためには一度ロープウエイの中間駅に戻り、そこから専用のバスでピンキング道路を上り、石段のある場所迄行かねばならない。
今回私は、この3つの観光ポイントを全て達成することができ、本当に大感激したのだった。

生憎この日も天気が悪く、濃霧が立ち込めている中で写真を撮影した。またロープウエイから写したものはアクリルガラスを通しているのでさらにはっきりしないが、ポイント毎に私の記念写真を掲載する。いかがだろうか。

1つ目ー世界最長ロープウエイで天門山へ

   

2つ目ー濃霧の遊歩道を30分間散策

  
 
3つ目ー洞までの999段の石段登り

  

              

これで今回の中国武陵源の旅日記を完了する。
私が体験上言えることは、多くの方々に勧めたい僅か5日間で行ける素晴らしい観光地の一つだったということである。

 ※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。   

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国「武陵源」の旅(5)

2012年06月02日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

《観光3日目の午前中ー『普光禅寺』『土家風情園』》
旅行4日目(観光3日目)の朝、1人で早めに食堂に行くと、昨日テーブルで会話した韓国の方達がいつの間にか右の隣席に来ていた。すっかり旅友気分で食事した。
すると見知らぬ韓国人の若夫婦が左側に来た。夫君は日本語を少し勉強しているらしく私に話しかけて来た。
「このホテルには韓国人が沢山いますが、日本人は少ないです。ここは韓国では有名ですが、日本では知られていないのですか。」というのだ。私は「まだ余り知られていない事もありますが、何より去年の津波災害で、まだ立ち直っていない人が沢山います。」と答えると、「日本の放射能は、まだ危険なのでしょう?」と聞いて来たので、「危険箇所は今ではもう福島県の一部だけです。他は大丈夫ですから、是非美しい日本にも来て下さい。私は北海道ですが、大勢の中国人が来ていますよ。」と言った。
短時間だったが、隣国の旅行者と触れ合えて良かったと思った。

食後、またホテル近辺を散策した。漢方薬局、日用品店を覗いて見た。交通量が多い道路の両側には、街路樹としてタイサンボクの木が植えられ、大きい白い花が沢山咲いていて北国の私には珍しかった。

8時半に観光3日目の出発をした。午前中は張家界の市内観光だった。
最初に向かったのは張家界市の中心部にある『普光禅寺』だった。
ここは300年前の1413年に清朝時代の皇帝が建てた寺だ。ガイドの説明では、いつかは滅ぼされるという夢を見た皇帝が、自分の敵になる土地を探し当てた所、ここに寺を建て、自分よりも強い者が出ないように祈ったのだそうだ。張家界の寺の始まりはそんなものだったと言っていた。
隆盛時には寺80箇所、僧侶200人が居たらしい。良く見ると300年の年月を経た威厳が感じられる寺だった。

   

   

次は『土家(トゥチャ)風情園』だった。
そこは土家族の王が建てた木造の城『土司城』で、土家族の祭祀、行政、祈祷、祝賀行事を行って来た民族の聖地らしい。
私たちが入り口に向かうと門の横の高床式の建物からラッパと太鼓が鳴らされ、民族衣装を着た娘たちの歓迎の歌と酒で迎えられた。
『土司(ツシ)城』内に入ると城には白龍が配してあった。屋根から落ちる雨水を金色の亀と蛙の造形物が受け止めていた。水を大切にすると金持ちになるという言い伝えを表すそうだ。
内部には当時の手の込んだ木彫細工の額や生活用品などが展示されていた。
また、土家族の娘が結婚する時に、寝室で家族との別れを悲しんで3日間泣き暮らす習慣を劇風に見せてくれた。それには泣き屋も雇われたそうだ。
女性が身につける銀製品が有名だが、最上階には銀製品店もあった。
 
   

  

            

現在、中国の最大の民族は漢族である。しかし、かっては多数の少数民族が全土に住んでいた。彼らは戦いを好まず、軍事的にも弱小だったため、次第に国の南部や西部の険しい山岳地帯に追いやられて行ったのだ。今統計上は国内に55の少数民族がいて、それぞれ伝統を受け継ぎ、ある民族は今でも自給自足に近い生活をして暮らしているのである。
こうした事実に触れると、電気、ガソリン、多くの機械や近代産業の恩恵を受けて暮らしている私は、いつも驚きと疑問を抱く。しかし、そこに人間の原点を見る思いがして尊敬してしまうのである。彼らの民族的な生活は、いつまで守り続けて行けるのだろうか。 

※枠で囲まれている写真をクリックすると拡大します。

もう1回分の最後の報告は、イギリスから帰国後に掲載します。sonata

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする