花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「中部ベトナムの旅」(8)

2017年02月21日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「ホイアン」の観光≫(2)

④「福建会館」
この会館は、旧市街の中程を東西に続く「チャンプー通り」に面していて、中国福建省出身の人達の集会所である。
中には大きな植木鉢が並べられ、安産の女神を祭る寺が作られていて、信者が寄進した大きい渦巻き型線香が沢山吊るしてあった。この線香は火を点けると3週間燃え続けるのだそうだ。
中国出身者達は世界中に「中国人街」を作り、そこが見知らぬ外国であっても互いに助け合って生きている。日本人もかって南米ペルーやブラジルに移民した時、「在住日本人会」を作り、協力して苦難に立ち向かい、小学校を作り、生きて来たと聞く。
日本では今、居住地域ですらどんな人が住んでいるのかも良くは知らなくなってしまった。人が人とのつながりを弱めれば、自分を守ることもできなくなるのだが…



 

⑤「シクロ」乗車体験
「ホイアン」の旧市街には車は入れない。その代わり観光客用に自転車式の人力車「シクロ」がある。
私達は1人1台の「シクロ」に乗り、旧市街をぐるぐると回ってもらった。
「シクロ」から色々な店やランタン飾りを見た。約20分走って元の場所に戻った時、チップとして1ドルを渡した。時間の割りに安過ぎるように思ったが、これが彼らの生活費になるのだ。

 

           



⑥「伝統音楽コンサート」
数人でベトナムの伝統楽器を演奏した。優しい音楽だった。
伝統舞踊も2つ披露された。庶民の水汲みや魚取りなど、日常生活をテーマにしたものだった。
コンサートは30分程だったが、良かった。この間、スコールの様な雨が降ったが、終る頃には上がった。

 

 

⑦「ホイアン市場」散策
最終日の午後は自由時間だった。ツアーで主要な場所の見学をしてしまったし疲れたので、改めて6ドル払って総合チケットを買い、5ケ所の見学をする気持ちになれず、旧市街の東部にある「ホイアン市場」に行った。
路上にも露店が出ていたので、沢山の小型店をぶらついた。「川魚」らしきものや「海老」を売っている女性もいた。
また、現地ガイドから「米が原料の「ホー」の麺はダナンに行かないと売っていない。」と言われたが、市場の奥に入って行くと問屋みたいな店があったので聞いたら奥から持って来てくれた。また、時期的に無理らしい「ドライマンゴー」も言うと持って来てくれた。
いずれも定価がないので、一々交渉して買った。
林檎ジャムを作る時に必要な「シナモン」も買った。最後にTシャツ店でTシャツを1枚、土産用に買った。青酸カリで熟成させていない青い「バナナ」も売られていた。この地域の果物は、珍しいものが多かった。
それからぶらぶらしながらホテルまで15分程歩いて、早めに帰った。





         



          

 
 
これで「中部ベトナム」の観光が終った。
観光は僅か正味3日間だったが、幾つもの変化に富んだ特徴ある場所を見る事ができて満足だった。
ベトナムの人達は、フランス、日本、アメリカと次々と他国に支配されながら、最後はあの過酷なアメリカによる「ベトナム戦争」で全土を攻撃された歴史の中で生きて来た粘り強い勇敢な人たちだが、私達観光客に優しかった。店の価格交渉も楽しかった。
多分、4回目のこのベトナム旅行で、ベトナム行きは最後となるだろうが、今思い出すといずれも良い旅だった。
                           (完)

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「中部ベトナムの旅」(7)

2017年02月20日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「ホイアン」の観光≫(1)

①「トゥボン川クルーズ」
「ミーソン遺跡」の後は「ホイアン」に戻り、旧市街の南側を流れる「トゥボン川」でクルーズをした。
旧市街には車の乗り入れが禁止されているので、北側の大きい通りで車を降りて5分程賑やかな旧市街で珍しいパンを無造作に並べている店や色々な果物を売っている店の前を通り抜け、川岸のボートが停泊している船着場に行った。

5艘ほどのボートが停泊していたが、その一つの15人程が乗る事ができる中型のエンジン付きボートに乗り、15分程、川を東から西へ向った。初めの内は川幅も狭く流れが緩やかだったが、やがて川幅が広がるにつれ次第に波が大きくなって行ったので少し驚いた。
この川の豊かな水に支えられて、地域の稲作や農業、そして小規模ながら水産業が営まれているのだと実感できた。



          



       

②ホイアンの「焼き物づくり」見学
ボートを降りた所に古い町並みがあった。「タンハー陶器村」だ。そこの一軒の家に入ると、手でまわすロクロで粘土から器を作る高齢女性がいて、ロクロ回しを見せてくれた。
完成した食器などを展示販売している小部屋もあったが、見るだけにした。釉薬に浸けたり、焼く釜は、どこかに共同で所有しているのかなと思った。



          

車でホテルに戻る途中、柵に囲われた小学校があった。放課後の校庭で子供が遊んでいた。



4日目の午前中は「ホイアン」観光だった。
先ず旧市街に行き、「来遠橋」「福建会館」「海のシルクロード博物館」「フーンフンの家」を見学後、自転車式人力車「シクロ」に乗って旧市街を20分回った。最後に「伝統音楽コンサート」を聞き、「絹織物と刺繍の手工業場」を見た。

③「来遠(ライオン)橋(日本橋)」
旧市街の西にある屋根つきのこの橋は、1593年に「ホイアン」に住む日本人によって架けられたらしい。橋の両サイドの入り口には石像の猿が2匹と犬が2匹置かれている。中には海運を祈って作られた小さな寺がある。
地震に見舞われても400年以上崩れずに現在まであり、「ホイアン」の観光名所になっている。橋がかかる水路は奥が行き止まりなので、水が汚く淀んでいた。
(最後の写真は、傍の建物の二階ベランダから橋の入り口を写した。三角のベトナム帽の女性たちは、「果物が要らないか」と声をかけて、写真を写そうとするとモデル料を請求してくる)



  

 

 

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「中部ベトナムの旅」(6)

2017年02月19日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「ミーソン遺跡」観光≫

3日目は「ミーソン遺跡」観光の日だった。この遺跡は、「ホイアン」の西南西40km、車で1時間半の所にある。地図で見ると隣国の「ラオス」の国境まで80kmほどの場所だ。
ベトナム中部に2世紀末から17世紀まで「チャンパ王国」が栄えていた。特に9世紀以降は、東南アジアの海上交易の中心的な担い手だったという。
ガイドブックによると、この王国は高地から取れる栴檀(せんだん)や伽羅(きゃら)などの香木や香辛料の交易でオリエントと中国の中継地点として栄えたという。
この頃、日本人が多く住んでいた「ホイアン」には「日本人町」があり、今も残る「日本橋」は町の観光名所となっている。

「ヒンズー教のシヴァ神」を祀ったこの主要な遺跡は、ベトナム全土に現在十数か所残されているというが、その一つの「ミーソン遺跡」は4世紀から13世紀までの900年間「チャンパ王国」の聖地だった。
しかし、ベトナム戦争時、「民族解放戦線」の基地が置かれていたため、その大部分が米軍に攻撃破壊されてしまっていた。

この日の気温は28度位あったらしく、凄く暑かった。
駐車場から入り口の門を抜け、少し歩いたところから小さなトロッコ風の車に乗ってジャングルの奥地に入った。下りてから更に少し歩くと「チャンパ王国舞踊」が見られるちょっとした小劇場があった。舞踊を15分程見てから遺跡の観光をした。
舞踊も遺跡も「カンボジア」の「アンコールワット」を微小型にした雰囲気のものだった。



 

遺跡は、A群からK群まで多数あったが、私達は看板に標示されていた比較的保存状態が良い「BCD群」を主に見学した。

 

         

「男根崇拝」を示す遺跡が2箇所に残っていた。踊る女性像や神の頭部が破壊された石像などもあった。  
 

 

少し離れた場所にあった「G群」の遺跡は壮大だった。階段などが修復されていた。

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「中部ベトナムの旅」(5)

2017年02月18日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪ベトナム最後の「グエン王朝」の首都だった「フエ」≫観光(3)

④「ティエンムー寺」

この寺は1601年に創建された。

 

        

高さ21mの八角形七層の「慈悲塔」があり、各層に仏像が安置されている。
寺の裏側には、ベトナム戦争時に政府に抗議した住職が自家用車でサイゴンに行って焼身自殺をした記念の車と彼の写真が展示されていた。


             
寺の南には「フォーン川」が流れていて、遊覧船が停泊していた。



「フエ」の観光終了後、また「ダナン」に戻り、夕食を食べてから「ホイアン」のホテルに戻ったが、その途中、1月末に植え付けをしたばかりの稲が青々と育っていた。この辺りは二期作で米を作っていて、5月末には収穫し、二回目は7月に植え、10月に収穫するいう。



また、5.3kmというベトナム一の長いトンネルを抜けたが、日本がODAで資金協力をしたもので、入り口に日本の日の丸が掲示されていた。(車がトンネルから出るのを待って後部ガラス越しに写真を撮った)



夕方の「ダナン」では仕事帰りの人達のオートバイが溢れていた。
食事をしたレストランの裏は海岸で、波が荒かったが砂浜の砂はキメが細かかった。

 

          

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「中部ベトナムの旅」(4)

2017年02月15日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
≪ベトナム最後の「グエン王朝」の首都だった「フエ」≫観光(2)

③「グエン朝の王宮」

ベトナムの「グエン朝」は、1802年から1945年まで13代に渡って続いた。その王宮が残っていた。
広大な庭の2箇所に1803年から作られた9つの大砲が置いてあった。中国の五行思想(火・水・木・金・土に霊力があるという)に基づいて納められたという。実際に使われた事はない。



立派な堀にかかる橋を渡ると王宮門だ。高さ17mの中国式の二層門だった。入り口が3つあり、中央を皇帝が使った。



門を入ると、その向こうに「太和殿」が見えた。北京の「紫禁城」を模倣した平屋の建物だ。
ベトナム戦争中に破壊されたが、1970年に再建されたものだ。さすがに莫大な財を使って作った王宮だった。入り口の柱には、王の象徴である龍の彫刻がされていた。

 

奥に行くと「閲是堂」があった。皇族だけが楽しんだ宮廷舞踊劇場だという。立派だった。
現在はその宮廷舞踊がユネスコの「世界無形遺産」に登録され、日に4回、有料で公開されているらしい。私達は残念ながら見られなかった。


     
広大な庭園の南東部に「フラッグタワー」があった。1809年にザーロン帝が建設したという。
木製の旗台は三層になっていて、高さは17.4mあったが、現在のは1969年に鉄筋コンクリートで作り直したもの。

        


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「中部ベトナムの旅」(3)

2017年02月15日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
≪ベトナム最後の「グエン王朝」の首都だった「フエ」≫観光(1)

2日目、この日の天候は晴れ。
最高気温は27度位という予報だったので、私は夏服姿をしてバスに乗った。
バスは朝8時半に「ホイアン」のホテルを出て3時間半走り、「ダナン」を越え、更に北の「フエ」に向った。
この辺りは、ベトナム戦争当時までは「南ベトナム」だった土地だ。
途中、川で牡蠣貝を養殖している光景や「フエ」の町の様子が見えた。養殖はオートバイのタイヤを半分に切って使っているようだった。
また、道路沿いにキリスト教の墓があった。フランスに支配されていた時代やベトナム戦争時代の影響なのかも知れないと思った。
「フエ」はベトナム最後の王朝が置かれていた歴史的な町で、「グエン王朝」の栄華を残す建造物群は世界遺産になっている。



           



         

①「カイディン帝廟」
先ず最初に向ったのは「カイディン帝廟」だ。
「フエ」はくの字型に流れるフォン川の北西に旧市街があるが、「カイディン帝廟」は南の小高い丘の上にあり、帝廟の上部から町を一望できた。
帝廟を造営したのは、12代目のカイディン帝その人で、西洋趣味を持っていたらしくあちこちに西洋式の建築様式が取り入れられたという。階段は北京の紫禁城を模しているように思えた。
ガイドによると、「統治していた時は悪い皇帝と言われていたが、今は良い皇帝と言われるようになった」そうである。確かに珍しい雰囲気のその廟には、世界中から観光客が沢山来ていた。
石段を登る毎に新たな建造物が現れ、頂上に作られた「帝廟」には「カイディン帝」の坐像が置かれていた。
二階部分には、豪壮な石碑を入れた建物が中央にあり、両側に象や馬、武官達の立像が作られ、廟を守っていた。
「帝廟」の壁は四季の花や鳥を立体的に描いた内部装飾がされていて、それに多くの瀬戸物やガラスがリサイクルされていた。
竹の部分には日本のビール瓶を砕いて埋め込んで作られていた。特別な場所なのにリサイクルしたもので作ったのを見たのは初めてだった。興味深かった。





     



 

②昼食は「宮廷料理」
先ずメニューが用意されていて、その順番に料理が出た。
人参を鳳凰鳥に細工して飾り羽の様に料理を盛り付けたのや、果物を台にして肉団子を飾ったりした装飾的な料理が多かった。味は薄味で美味しかったが、今ひとつお腹は一杯にはならなかった。



  

 
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「中部ベトナムの旅」(2)

2017年02月14日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「ダナン」国際空港でガイドに迎えられた≫

今回の旅は、成田空港発着の「ベトナム航空機」で往復した。
「ベトナム航空」は「ANA」と提携しているため、マイルのカードにポイントが入った。
行きは「成田」発15;25で、「ダナン」着は30分遅れの20;18だった。飛行時間は6時間半。日本との時差は-2時間の国だ。
1回出た機内の夕食は「ウエスタンスタイル」を頼んだが、機内食にしてはとても美味しかった。
スーツケースを受け取って出口を出た所で、現地のガイド氏が出迎えてくれた。彼には3日間世話になった。

今回の参加者は少なかったので、バスではなくて11人乗りの大型の新しいトヨタ車だった。
約1時間南下して、30km離れた「ホイアン」の町のレストランに行き、海老が入った「生春まき」などの夕食を食べてからホテルに向った。レストランの入り口には、名物の「ランタン」が飾ってあった。
 

そのホテルは、世界遺産「ホイアンの旧市街」から徒歩で10分の距離にある「ロイヤル・リバーサイド・ホテル」で、滞在する間4泊した。
ツインの部屋の面積に比べて大きいセミダブルベッドを2つ置いてあるので、ベッド間の距離が12cm程しかなく、ベッドも固定されているので壁側のベッドの人はとても使い難かった。
しかし、洗面所は広く、浴槽の他にシャワールームもあった。毎朝食べた朝食は、オムレツと「ホウ」などの麺類を作ってくれた。果物もあり、まあまあの内容だった。


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「中部ベトナムの旅」(1)

2017年02月12日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「中部ベトナム」に行って来た≫

6日に成田を出発して10日に帰国し、成田のホテルに後泊して昨日の午後帰宅した。
今回「ベトナム」の旅としては4回目となった「中部ベトナム」行きは、ブログ友の伊豆の花さんの言葉に押されて決めたものだった。
北海道に住む私にとっては気候も今月位が丁度良いのではと思っての事だったが、実際には「ホイアン」の最高気温は28度で、-10度の中出発した私にとっては40度近い差があった。

参加人数が少なかったので、和気藹々の旅だったし、食事は前回と同じく口に合った。
今回行った都市は「中部ベトナム」の「ダナン」「ホイアン」「フエ」で、ホテルは4泊とも「ホイアン」だった。
下の写真は、「ホイアン」のレストランのアンドン飾りと出された食事の一部で、ご飯、筍の煮物、魚の煮物…、そして有名な「ホイアン」の「日本橋」前(中央奥)の風景である。
この写真は近くの家の2階から下を写したが、天秤棒を担ぎ、ベトナムの竹製すげがさで果物を売る女性は、カメラを向けるとお金を求めて来る人達だと言う。


     
          

   

往復の飛行機では、隣席になったベトナム人、オーストラリア人、日本人達とも交流ができ、楽しい思い出となった。
時差が-2時間だったし、短期間だったので疲れは少ない。近い国ならではの利点だ。

この間、伯母は「ショートステイ」の制度を利用して、先月まで居た施設で過してもらった。今日、午後から迎えに行く事になっている。

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「北部ベトナムの旅」(8)

2016年12月11日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「チャンアン」でのボートクルーズ≫

「チャンアン」周辺には、「ハロン湾」と同様に2億4000万年前に形成された石灰岩の「カルスト台地」が広がっている。
ここには48の鍾乳洞と6つの洞窟がある。2014年に「チャンアン景観複合体」として世界遺産に指定された。
私達はその6つの洞窟巡りのために小型ボートに乗り込んだ。

ボートの漕ぎ手は中年の女性達だ。私が乗ったボートも前部に客4人が乗り、後部で担当の女性が手で漕いでくれた。
洞窟は大半が石灰岩の山の下を流れる川の水が、長い間に石灰岩を浸食してできたもので、その長さは入り口から出口まで100m以下のものから最長320mのものまで色々だった。所々に薄暗い電灯が点いている。
天井の岩が低い場所では、屈まなければ頭を怪我してしまうから、気を抜けなかった。私達は何度も屈んだ。
流れている水の透明度は高く、かって酒造りに使われていたという。
予備の櫂が2本あったので、私達も交互に漕ぐのを手伝った。

幻想的な光景の中で幽玄な気分に浸った2時間のクルーズはあっという間に終り、最後に各自1ドルまたは2万ドンのチップを女性に渡した。
聞くと2日に1度の割合で仕事をしているという。満席にならないボートを漕ぐこともあるだろう。大変な労働だと思ったが、きっとこのあたりの女性の職場として人気があるのだろうと思った。
この「ボートクルーズ」をした「チャンアン」は、今回の旅で一番の思い出となった場所だった。











 

その後、また専用バスで2時間かけて「ハノイ」のホテルに帰った。

今回の「ベトナム」訪問は私には3回目だったので、前回までに行った「ホーチミン」「ダナン」で衝撃的な「ベトナム戦争」の痕跡を訪ねたり、「ハノイ」でクルーズしたのとは違う内容の旅となった。
南北に細長い「ベトナム」なので、まだ中部の都市「フエ」「ホイアン」「ミーソン」などには行っていない。機会があれば気温が少し低い11~2月に再度、訪れたいと思っている。

5日目の朝はハノイ発8時25分の「ベトナム航空」に乗り、4時間40分で羽田に着いた。
羽田で夕方の飛行機に乗り換え、北海道の自宅に着いたのは22時を過ぎていた。
5日間留守にした室内は冷え切り、12度しかなかった。早速暖房をつけ、落して行った水道を出して湯を沸かし、温かかったベトナムを思い出しながら茶を飲んだ。 
                         (完 了)     

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「北部ベトナムの旅」(7)

2016年12月09日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪4日目は「ベトナム統一鉄道」で「ホアルー」へ≫

8時にホテルを出て「ハノイ駅」を目指した。通りは朝のラッシュ中だった。



ガイドが買ってくれた切符を受け取り、ホームの乗車車輌へ。車輌の入り口では、駅員が検札する。
私達の車両は「クーラー付き・軟座席」だ。日本なら極普通の車輌の席だが、ベトナムでは安い「扇風機付き・硬座席」もある。隣の車輌が「硬座席」だったので見に行った。椅子が硬い木製で、そこには庶民が沢山乗っていた。
連結部に給湯器があった。車内でカップラーメンなどを食べる人へのサービスなのだろう。
時々飲み物や菓子などを売り歩く人が通るのに懐かしさを感じた。

 
(駅入り口の上に「ハノイ駅」の標示)
 
                           (軟席車輌)

 
  (硬席車輌)                       
私達は「ハノイ駅」から出発し、1時間の「フーリー駅」で降りた。
駅前で待っていた専用バスに乗って昼食を採る「ニンビン」を目指した。

「ニンビン」の西部にある「ホアルー」は、かって968年、丁朝が遷都して1010年まで都を置いた町だ。
10世紀の中頃、各地の「土豪」が覇権を争っていたが、「ディン・ティン・ホアン」が北部ベトナムを統一して、初めての独立王朝を「ホアルー」に建設した。現在のは一部を17世紀に再現したものだという。







 
                              (最初の皇帝「ディン・ティン・ホアン」の像)

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「北部ベトナムの旅」(6)

2016年12月08日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪ルンオン村で昼食に「ベトナム料理」≫

17世紀に建てられたという官僚のコの字型家で「ベトナム料理」の昼食を食べた。
入り口には植物のつるが暖簾の様に垂れていて、イチジクの木には実がなっていた。中庭には大きな味噌ダルが置いてあった。
写真右方の食堂に通されると、テーブルの上に徳利に似た壷が置いてあり、アルコール度数が35度もある食前酒が入っていた。私は酒は飲まないが、その壷に興味が湧き、どこかで売っているなら買いたいと思ったが、出会えなかった。

 



この日の昼食は、比較的美味しかった。縦切りにしてあるキューリには、甘酢っぱいタレをつけて食べた。

 

その後、「ソンタイ城」を見学した。
ここはフランス人「ソンタイ」が、フランス統治下の1802年に建てた軍事的な城だという。
高さ5mで一片が400mもある四方形の壁には、四方に門が造られている。壁は「ラテライト」という特殊な石で造られていた。
私達が行った門の前には、大砲が2つ置かれていた。中には入らなかった。



                

今度は高速道路に1時間半乗り、「ハノイ」に戻った。料金所のボックスで働いている人は女性が大半だった。夏場の高温の時期にここで料金を受け取る仕事は、かなりハードだろうと思った。
「ハノイ」は相変わらず車とバイクで混雑していた。
左右を見ると家の建て方に特徴があり、道路に面した家の間口が狭く、奥行きが長いのだ。聞くと、間口の長さで税金が違うので、こんな建て方が多いのだという。
建築中の高層ビル、道路もあり、ベトナムは今、経済成長しつつあるらしかった。

 

          



 

ガイドの話では、「次第に車が増えて来ているが、トヨタカローラは現地の製造で320万円、日本製なら460万円で、しかも車の消費税は60%もするので、普通の収入(昨年の平均年収は30万円だった)の人は買えない。ハノイのマンションは1000万円もする。貧富の差が大きい。」といって嘆いていた。

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「北部ベトナムの旅」(5)

2016年12月08日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪3日目は「朝市」見学後、「ホアビン」の町へ≫

3日目の朝、「マイチャウ」のホテルを出て町の朝市に行き、短時間散策した。
近郊の村で採れる野菜や山菜、豚肉、生きたニワトリなど多様な食品が、地べたに敷いた麻布やビニールの上に並べられて売られていた。
豚肉は爪がついたままの足や毛が生えたままの尻尾も売っていた。生姜は泥だらけだった。朝市から家庭の台所を覗く事ができた。
数軒、防寒着やトレーナーを売っている店もあった。
 



        


夕食に出た「竹の葉に包んだもち米」も売られていた。
              

その後「マイチャウ」から「ホアビン」に向けてバスで2時間走った。途中、石灰岩質の山が聳え、砂糖キビ、トウモロコシを植えてある田園風景は素敵だった。


          



「ホアビン」の郊外にあったのは、東南アジア最大規模の「ロシア式ダム」だった。
国境の向こうの中国の山間地を上流とする「ホン川」の55%の水量を利用するこのダムは、1994年に建造されたが、工事中198人が事故で犠牲になったという。犠牲者を悼む寺もあった。


            

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「北部ベトナムの旅」(4)

2016年12月06日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
≪「マイチャウ」の少数民族村を散策≫

ホテルを出たら、そこは「ターイ族」の田んぼ。
10月に二期作目の稲刈りを済ませ、茎を20cm程残し、水もある田んぼだ。
少し行くと、田んぼに鴨3羽が泳いでいた。その隅には赤い色の「タニシの卵」が沢山産み付けられていた。このあたりでは化学農薬を使わない有機農業をしているらしかった。



              

田んぼの中の細い道を数台のバイクと徒歩の人が通って行った。ガイドに聞くと「集会所に行くのだろう。」という。
間も無く道路の傍に「小学校」があった。入り口からは入れなかったが、小さな庭に滑り台などが置いてあった。



 

              

さらに進むと集落だ。大半が「高床式」で建てられていて、昔は1階で家畜を飼育したり、農作業や炊事をしていたらしい。しかし今は、ささやかな観光客向けに品物を陳列して商売をする場としても使われていた。

 



 


大きな家では、その一部を田舎料理の食堂にし、別に小さな簡易コテージ風の住まいを建てて、観光客に貸していた。スイスから来て3日も泊まっていると言う中年女性に会い、一緒に写真を写した。祖父が孫を連れているすがたも見た。撮影を頼むと、村民は皆観光客に好意的だった。

 

         
観光客を乗せる車もあった。夕食は村の奥の食堂で食べた。紫色の色素が出る植物の汁に浸してから大きな葉に包んで蒸したもち米が美味しかった。水牛の肉や豚肉が出た。



           

夕食後、素朴な民族舞踊を楽しんでからホテルに帰った。

 


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「北部ベトナムの旅」(3)

2016年12月06日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
≪「マイチャウ」の少数民族村に向う≫

「ハノイ」から「マイチャウ」までは、バスで4時間かかる距離だ。
走行中ガイドは、「ハノイ」の人口は650万人だが、人口の2/3の人はバイクに乗るので、バイクが混雑するのだと話す。
おまけにバイクの法律上の定員は大人2人だが、14歳以下の子どもは何人乗せても良いのだそうだ。
バスから見ていると、夫婦2人が乗っている前後に子どもを2~3人乗せて走るバイクも見かけた。中にはヘルメットを被らずに運転している人や乗せて貰っている人が沢山いるのに驚いた。
また、大気が排気ガスで汚染されているので、マスクを装着している人は多かった。マスクの大半は、色や柄が入っていておしゃれに見えた。
信号機が余り無いので、歩行者はどこでも道路を横断する事ができる。私には道路に一歩踏み出すのは自殺行為に思ったが、急がずゆっくりと歩けば車もバイクも停まってくれた。


途中の「ホアビン」で昼食を食べるために伝統的な田舎料理を出すレストランに入った。私が以前食べた南部ベトナムの料理より油分が少なく、食べ易かった。
  

またバスで「チャンアン」を目指した。
ガイドの話が続いた。
「ベトナム」は社会主義国家なので、土地は国が所有していて、国民は国にお金を払って借りているのである。この点は中国と同じだった。
借用期間は長いので、お金を払える間は使えるが、国が貸し出すことを止めて別の用途に使おうとする時は、文句を言わずに明け渡さなければならない。この点で色々な国と住民のトラブルが起きるのだという。
また、公務員は住民の要望があってもなかなか腰を上げない。そんな所に住民から公務員に金品を贈る賄賂の習慣がはびこり易いのだという。

そうこうしている内に、田んぼの中に大きな看板が見えて来た。「農業開発銀行」お看板だった。
やがてバスは小高い「マイチャウ」の展望台についた.バスから降りて下を見た。周囲を山に囲まれた箱庭の様な「マイチャウ」が眼下に見渡せた。



            

今夜のホテルは田んぼの隣にあった。「ターイ族」の若い女性2人がフロント係りをしていた。
エレベーターが無いので、2~3階の部屋のスーツケースは運んで貰った。
荷物を置いた後、べランダに出て写真を写してから、ガイドの案内で揃って傍の村の散策に出た。

 
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「北部ベトナムの旅」(2)

2016年12月01日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪1日目の旅と2日目の「民俗学博物館」見学≫

1日目は、羽田空港発16;35の「ベトナム航空」に搭乗し、6時間後の20;35に「ハノイ」国際空港に着いた。
日本との時差は-2時間なので、時計を現地時刻に合わせた。
今回は添乗員無しの旅で、その分、旅費が安かった。
スーツケースを受け取ってから出口を出たところで、初めて現地ガイドのHさんに会った。またそこで同じ飛行機で来た他のツアー参加者とも初顔合わせをした。参加人数が少なかったので、待機していたのは中型バス。それに乗って「ハノイ」の南方まで1時間走り、その日のホテルに着く。

ベトナムの水道水は飲めないが、ホテルの部屋に毎日無料のミネラルウオーターの小ペットボトルが1本置かれている。歯磨きにもそれを使った。

2日目は6時にモーニングコールが来て、着替え、洗面後、レストランに行く。
食事はバイキング方式だが、メニューが豊富だった。「オムレツ」と「フォー」(ベトナムの米麺。塩味の鶏肉スープ仕立て)「果物」などを食べた。「フォー」が美味しかった。



8時に中型バスで出発。最初に「ハノイ」市内の「民俗学博物館」を見学した。全部で15000点の展示品だという。


54の民族が生活しているという写真が掲示されていた。北部地域では「ターイ族」が最も多いらしい。
今でも民族の昔からの生活習慣を受け継いでいる民族も沢山居る。



南部の「高床式住居」や海辺のきつい傾斜の屋根を葺いた「舟形の住居」など、住居のモデルが置かれていた。

 

木材が豊富な山岳地域では、木彫りの技術が受け継がれているという。精緻に彫られた木彫りが、家の入り口の軒下や屋根、室内の中心部分に魔除けとして飾られた。日本の古い木造の寺社や城などにある木彫りにそっくりだった。

   

三人の女性「三婆」が神として家々に祭られている民族もあるという。その他沢山の展示品があった。

 

         









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