花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

雪景色の庭

2015年12月27日 | 日記
一昨日の朝からの寒気到来で、北海道は寒波や強風、大雪に見舞われた地域が多い。
でも私の所はお陰さまで、今の所、積雪は5~6cmと写真程度で済んでいる。(室内から庭を写した)
今朝は断続的に雪が降っているが、大雪にならず、このまま除雪の必要が無く年を越せればいいのだが、どうなるだろうか。

  
(窓辺で咲く岩見沢農高の生徒が育てた「シクラメン」。娘が持参してくれた)
                   

年末が近づいて来たので、今日は、昨年貰ったまま残っていた小豆を煮て「餡」を作って置こうと思い、今うるかしている所だ。「餡」にして置けば保存性が高まるし、それから「汁粉」や「ドラ焼き」を作れそうだから。時間があれば「あんぱん」にしても良いかな。
     
翌日、餡が出来上がった。
            
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私のクリスマスイヴ

2015年12月25日 | 日記
先ず、前夜宅急便で届いた伯母への贈り物「果物詰め合わせ」を伯母に届けに行った。
個室に冷蔵庫があるが小さいので、大半は我が家に持って行って食べて欲しいと言われた。
帰りに事務室前を通った。お世話になっている職員さん達へお裾分けする事にして声を掛けた所、快く受け取って貰った。

次いでJRで札幌に向い、友人とランチしながら話し合った。
その友人にも、先日貯金のくじで当たったJAの特産品の残りを差し上げた。
干ししいたけ、スパゲティ、蕎麦だ。それに秋に菜園で収穫した小豆も持参したら、「お汁粉を作りたい。」と、とても喜んでくれた。
色気が全く無いプレゼントだったが、小額の年金収入だけで暮らしている彼女には喜んで貰えたのではないかと思う。
和食の店だったが、中年の女性客で混んでいたので、席を喫茶店に移して1時間ほど旧交を温めた。

彼女と別れてから、デパート内の家庭用品売り場をうろついた。
お正月らしい食器が売られている所に外国人の男性と日本人の女性が来た。若い女性は乳飲み子を抱いていた。
男性が次々と華やかな絵付けがしてある有田焼の大皿と中鉢を手に取り品定めをしていたが、数個買い物籠に入れて女性に渡した。ほとんど女性は見ていただけだったので少し驚いた。
多分、家庭経済を男性一人で担っているのだと思ったが、そうだとしても日本人なら、食器の購入には普通、女性が意見を言うに違いないのにと思った。

私も1年間の自分への褒美に、「ナルミヤ」の磁器の絵柄つき小鉢5個セットを買った。
駅で若い外国人の男女に出会ったので、何処の国から来たかと聞くと「オーストラリアからだ。」という。新千歳空港から中国に行き、オーストラリア行きに乗り継ぐのだそうだ。きっと成田経由で北海道に来るよりも格安なのだろうと思った。

帰宅後、前日に買って置いたケーキと果物で夕食を済ませ、TVの録画を見て寝た。
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骨密度を測定した

2015年12月22日 | 医療・健康・食生活・衣生活
年末なので、今日は病院2箇所をはしごした。
先ずは「アレルギー鼻炎」で以前からかかっている「耳鼻咽喉科」だった。
今までは1か月分の薬を処方してもらっていたが、今日は正月を挟むので2か月分出してもらった。
寒さと凍結路面を毎月遠くまで走るのは大変なので助かった。
この薬を就寝前に飲むと、1日鼻水が軽減するのだ。

次に行ったのは近所の「内科医院」だ。
先週は朝方、ベッドで寝ている最中に3~4回足が吊り、痛くて痛くて大変だったので、1年振りに行ったのだ。
以前は「吊ったら直ぐに飲めるよう枕元に薬と水を置いておくと良いです。」と医師から言われていた。
しかし、吊ったら痛みで薬どころではないのだ。
医師に言うと、「それなら就寝前に飲んでください。」と言って、漢方薬を出してくれた。
果たして効果があるのかどうか、今夜から飲むことにする。

ところでその「内科医院」の待合室に「あなたの骨量を計って見ませんか。」というタイトルの広告が貼ってあった。
受付で聞くと、服を着たままで、時間もそれ程掛からずに計測ができると言うのだ。
早速、やることにした。

というのは、この数年間、牛乳やヨーグルトを食べると下痢をするようになり、カルシュームの摂取に良いと言われているのにほとんど食べていない。辛うじてチーズを少し食べるようにしている。
また植物性のカルシューム源となっている大豆製品であるが、私の場合は納豆は嫌いだが、豆腐は好きだから時々食べている。
また普段から胃腸が弱く、どうしてか原因が分からない下痢を時々するのだ。

こんな状態だから、私の骨密度が心配だったのだ。
いよいよCTスキャナーより簡単な機械の上に上がって、寝てジッとしていた。ものの5~6分程で計測は終了した。

医師に呼ばれて結果を聞いた。
何と「全く異常はありませんでした。骨密度は立派です。」と言いながら、私の計測値のプリントを見せてくれた。

今回計ったのは一番骨折し易い「両足の付け根」と「腰椎」だった。
「両足の付け根」の骨密度は「若年成人の94%」で、また「腰椎」の骨密度は「若年成人の86%だった」という。
「若年成人の70%未満」の人は「骨粗しょう症」なのだそうだ。
(下の表は、「足の付け根」のプリントである)

 

全く予想外の測定結果なので、驚いたが、反面、嬉しくなった。
骨粗しょう症を予防するには、カルシウムとリンを食品から採り、太陽に適度に当たり、骨に不可をかける運動や労働が良いと言われている。
私もこの先、例え太めな体型であっても、骨折はしたくないので、極端なダイエットに走らずに今の生活を続けようと思った。
貰った2枚のプリントは、どこかに貼って置こうと思う。
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定期検診異常なし

2015年12月19日 | 医療・健康・食生活・衣生活
昨日は1年振りの乳癌手術後検診日だった。
午後1時の予約だったので、10時半に友人と待ち合わせる約束をしていたが、JRの駅に行くと札幌周辺が前日からの雪のために電車を間引き運転しているという。
私が乗ろうとしていた電車も運休したので、早速メールで友人に知らせ、30分遅れて札幌駅に着いた。

友人とは6ヶ月ぶりの再会だったが、レストランで「モーニングセット」を食べながら1時間半弱談笑した。
一緒に外国旅行をした「ネパール」や「中国雲南省」の事、現在のISの問題、自分達の老化の兆しなど、次々と話題が巡る。
学生時代からの友人なのでもう50年になるが、暫く会わないとお互いに急な老け込みで驚いたらいけないから、時々こうして会って置きたいと思う。

友人と別れて地下鉄で「国立がんセンター」に行った。
いつもながら「マンモグラフィー撮影」は痛くて大変だった。
1時間半待って主治医の診察だ。今回は手術後11年になったので、超音波検診はされず、「マンモグラフィー撮影」と医師の「触診」だけで「OK」だった。
前回までは血液検査もあったが、今回からは希望だと言われたので、即座に「受けません。」と告げた。
良かった、良かった。また1年間、明るい気持で生活ができる。
私の次回の検診は、来年の12月20日だ。

待合室にいる間に、隣に座っていた若い女性と話をした。
何と私のがん細胞と同じ性質の再発・転移しやすい乳癌で、私の時は再発しなければ使えなかった分子標的薬「ハーセプチン」が初発でも使えるようになったので、彼女は18回投与したという。自己負担額は1回5万円だったので、この薬だけで90万円かかったという。
まだ幼い子どもがいるらしいので、彼女には健康状態をできるだけ長く維持して欲しいと心から願った。

夕方、従姉と札幌駅で待ち合わせをしていた。依頼されていた年賀状ができたので持参したのだ。
うどんを食べながら、色々な話をした。
今年は私が近くの施設に伯母を引き取ったので、従姉とパークゴルフをする回数が減ってしまった事、他のいとこ達の健康問題や「ノーベル平和賞」を受けた「チュニジア」の「国民対話カルテット」の事など、多岐に及んだ。

JRで帰宅したら18時半だったが、有意義な一日だった。
                               
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伯母が96歳に

2015年12月18日 | 高齢期の生活全般

  (外は雪が降り、風も強く荒れ模様だが、南の窓辺で椿が咲き出した)

12日、「老健施設」の伯母が満96歳になった。大正8年生まれだ。
本当におめでたい事だ。

頭は「高齢者専用賃貸住宅」の個室で暮らしていた時よりも、ここへ来てしっかりして来た。
身体は骨粗しょう症で腰が曲がっているため、最近は次第に歩行が危うくなって来たし、耳がかなり遠くなり、目も緑内障で視野が狭くなって来た。
しかしそれを除けば、高血圧症の薬を飲んでいる他は元気だ。

ただ、下の入れ歯が取れ易いことに腹を立てて入れ歯を捨ててしまったから、秋ごろからはお粥とお菜もミキサーを掛けた状態で食べているのだ。食事介助を受けなくても自分で食べられるし、トイレも自分で行く。
栄養はしっかりと取れているので、栄養不足の心配はないようだ。

私が顔の近くで大きい声で話せば、大体の事は通じるし、話も返してくれるから、違和感なくコミュニケーションが成立して楽しい。
「年賀状を出すなら、作って上げるよ。」と言って見たが、「出したい所が少ないからいい。」という。
それで私の年賀状に伯母のことも書くので、共通の親戚に出すのには差出人の私の名に伯母も付け加える事にした。

我が家は施設の様に全ての場所が暖かくは無いので、「正月に伯母さんを連れて来たいが、風邪を引かせるなどしたら心配だ。」と言うと、「ほとんどの人達が施設にいるし、お正月らしい料理も出ると思うから施設にいるよ。」と言う。それで私が娘を連れて行く事にした。
(この施設は、食事をしないことがあっても、その費用は減額にならない)

誕生日に個室の鉢花の前に立ってもらって写真を撮った。
花が満開になると、我が家の別の花に取り替えている。
コンクリートの施設に生花があると、花好きの伯母は癒やされるし、暖房が入ってからは空気が酷く乾燥しているので、毎日やる水が放湿もしてくれると考えての事だ。

伯母には次の誕生日を迎えるまでまた1年、大きく体調を崩す事無く、できるだけ明るい気持で生活して欲しい。私は、そのための援助を惜しまずにしようと思っている。

       


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ううっ!ボタンが止まらない!

2015年12月17日 | 医療・健康・食生活・衣生活
止まらないボタンは、Gパンの前のボタンだ。
一昨日、数年振りにはこうとしたGパンが、この始末だ。そういえばこの間、体重が数kg増えたことに思い至った。
そこで息を大きく吸い込み、腹部を細めてもう一度…。止まった!
それで1日過ごして見た。トイレに行く度に息を詰め、腹部を細めて止める事を繰り返した。

腹部の贅肉を取る以外は方法がない事を十二分に承知しているのだが、いざとなってもその事を真剣に受け止められない自分がいる。
正直、一昨日も、夕食を終えた後でTVを見ながら、つい駄菓子をポリポリ食べてしまった。
だから昨朝も息を止めてやっとだった。

冬になって庭仕事、畑仕事がなくなり、道路が凍結してからは全く歩かなくなったし、身体も動かさなくなった。それなのに今までと同じ様に食べているのだから仕方が無いのだ。
やはり冬でも、どうにかして身体を動かすことが大事だろう。
旅行に行けば思いがけない場所がある。「バスはここまでしか入れません。あの上まで頑張って歩きましょう。」などと言われることが多いからだ。
私のこの先の旅行計画は、今の所1月下旬になる。
しかしその前には、正月がある。
つい家族と一緒に食事をぱくついてしまうのを今年は程々にしたいが、できるだろうか。
見かけよりも、ずっと意志が弱い私の現在の悩みである。
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「2015 ノーベル平和賞」に思う

2015年12月15日 | 社会・事件・ニュース
今年のノーベル賞の授賞式が終った。
今年も大村氏と梶田氏の日本人2人が受賞したことで、マスコミは盛り上がったし、私もとても素晴らしいと拍手を送った。
特に「亡き妻の支えがあったからだ」と常に写真を内ポケットに偲ばせ、言葉にも出す年配の大村氏に、新しい日本人男性を見る思いがして心が温まった。

しかしである。昨年「ノーベル平和賞」を受賞したパキスタンの「マララさん」とインドの児童労働活動家「カイラシュ・サティヤルティさん」は日本でも大きく取り上げられ、「マララさん」の演説はその全文が新聞にも掲載されたのに、今年受賞した「チュニジア」の「国民対話カルテット」は見逃してしまう程の記事にしかならないのは何故なのだろうか。不思議に思える。

チュニジアでは、「アラブの春」が起きて大統領を退陣させ、民主化を果たして以来、他のアラブ諸国と同様にそれまで軍に押さえられていた人々や団体が自己主張をし始めた。
対立していた「世俗派」と「イスラム派」を和解させたのは、労組、人権組織、弁護士組織、一般市民など4つの組織の連合体である「国民対話カルテット」だったのだ。
これでアラブ世界に波及した「アラブの春」を成功させ民主化を実現した国は、現在の所チュニジアだけなのだ。

一昨日の「BS世界のドキュメンタリー」で、チュニジアの受賞とその背景が1時間に渡って放映された。
「国民対話カルテット」は、選挙で勝利し力を誇る「イスラム派」大統領に「憲法を制定したら退陣する」という約束を取り付ける事に成功したのだという。
チュニジアを訪れ、「アラブの春」のきっかけとなった内陸の小さな町を見て来た私は、この賞の選考委員会が「多元的な民主主義の構築に寄与した」という理由でチュニジアのこの組織を選んだことが本当に嬉しい。
昨日終了した「コップ21」も、利害関係の対立する多くの国々が1つの合意に到達した事で歴史的にも素晴らしい会議だったと思う。しかし、先進国は「原子力発電」を含めた数値を考えている事が問題に思えるが…

今も多くの場所で鮮烈な対決が続いているが、この「国民対話カルテット」や「コップ21」がとった対話による解決を目指す手法が、多いに今後の世界の方向を模索する上で参考になるのではと私は思う。
その意味で、今年の「ノーベル平和賞」はもっともっと報道され、評価され、語り継がれて行くべきなのではないだろうか。勿論チュニジアの「国民対話カルテット」の活動は、今後とも世界中から見守られ続けて行くに違いないが。



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「キプロス」「マルタ」の旅(15)

2015年12月14日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「キプロス紛争」は今≫

「キプロス紛争」を記憶している人も多いに違いないが、この国はトルコの南90km程の距離にある。そのため古くからトルコ人も住んでいた。
しかし歴史的には、紀元前700~紀元395年には「ビザンチン帝国」の一州だったし、1191年には「イングランド」のリチャード一世が占領したが、翌年には「フランク人王朝」に取って代わった。
1489年には「ヴェネチア」の支配下に入ったが、1571~1878年には「トルコ」が支配した。
1898年には「イギリス」の支配に変わる中で、1955年から独立運動が起こった。
遂に1960年8月16日、「キプロス」は独立を果たした。

しかし1963年には「ギリシャ系」住民と「トルコ系」住民の対立が起こり、国連軍が派遣された。
1974年「トルコ軍」が島の北側を占拠し、翌年、一方的に北部を「トルコ人」の独立国家にすると宣言したのだった。今も国連は認めていない。

私達は2日目にその境界地域を訪れた。
6~7mの高さの土塁が城壁の様に築かれ、「トルコ」の国旗がたなびいていた。
土塁の下には鉄条網が張り巡らされていて、南側のキプロスの人は立ち入れないようになっていた。
曲がり角に紛争の傷跡が生々しい家が、そのまま残っていた。境界に家が建ち並び、道路を車は普通に走っていた。
土塁の上から南側を見下ろしているトルコ人が数人いた。男性グループに下から大声で「写真を撮っていいか。」と聞くと「OK」だという。1枚撮らせてもらった。
正に「旧ベルリンの壁」と同じだった。武力で一方的に領土を占拠してしまう事が現在でも続いていた。
私達は15分程でその場所を離れた。

 
 
 

 

これで長く綴った「キプロス」「マルタ」の旅を終了する。
二つとも地中海の小さな島国だったが、温暖な気候と歴史の古さ、交雑した異文化の混ざり合い、そして戦争と紛争の影が今も色濃く残る印象深い国だった。      (完成)
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「キプロス」「マルタ」の旅(14)

2015年12月13日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪首都「バレッタ」観光後、帰国の途に≫

いよいよ3泊したこのホテルとも、分かれる日が来た。
スーツケースを整理し、早めの朝食を済ませようと、まだ明け切らない6時45分頃部屋を出た。

最後にロビー前のベランダに写真を撮ろうと出たら、大声で呼ぶ人がいる。
見ると3階のベランダの男性が私に向かって叫んでいた。
私も大声でどうしたのか聞くと、「自分はパキスタン人(多分そう言ったと思った)だが、ベランダに出て戸を閉めたら室内に戻れなくなった。フロントに伝えて欲しい。」と言うのだ。パジャマ1枚で寒そうにしていた。

 

直ぐにフロントに伝えたら、係りの人が笑っていた。彼に伝えたことを言ってからレストランに行った。
部屋に戻ってから確かめると、ベランダのガラス戸の室内側に「締めたら外側からは空けられません」と小さな張り紙がしてあった。彼はそれに気づかなかったのだろう。可笑しかった。

9時に出発となっていたので、朝食後、8時から開くと言うスーパーに出かけた。結構大きな店だったので、「ワインチョコレート」「ナイヤガラの干し葡萄」「チーズ」などを仕入れた。「キプロス」で買った「オリーブ油」「蜂蜜」と合わせると、今回はスーツケースが重くなった。(エミレーツ航空はスーツケースは30kgまで許容される)

ホテル前やフロントは、一層警備が強くなっていた。その中で全ての人のスーツケースをバスに積み込み、ホテルを後にして「バレッタ」に向かった。
前日ガイドが話した通り、徐々に天候が悪くなって来て冷たい風が吹き出し、とうとう雨が降って来た。初めての雨の中、「マルタ島」の最後の2時間程を観光した。

①「アッパーバラッカ ガーデン」奥からの展望

バスを降りて公園を横切り、奥の展望台に行って写真を撮った。
「バレッタ」が1565年にトルコ軍の「大包囲戦」に勝って以来、「聖ヨハネ騎士団長ジャン・パリソ・ドゥ・ラ・ヴァレット」により攻撃から身を守る要塞の町に造り変えられたことが良く分かった。
東西1km南北800m程の首都の中に、「マルタストーン」という蜜色をした石灰岩の建物が300もあるという。その内の多くは公共施設として使われている。
この大砲を使った空砲の実演は、毎日2回行われるそうだ。



          

②結婚式場ともなる「市庁舎」

市庁舎前の大広場では、道路を整備したり、植栽のプランターを置いたり、清掃する大勢の人達がいた。プランターに不審物を隠されないのかなと心配だった。
黒い車が来た。ガイドは「市長さんです。」と言った。
この市庁舎では、申請すれば誰でも結婚式ができるのだそうだ。

       

③「聖ヨハネ大聖堂」

ここは「マルタ騎士団」の「守護聖人ヨハネ」を祀る協会で、1577年に建立された豪華なものだが、丁度工事中だった。
長さ57m、高さ19mあり、床は縁の人達の墓になっていて、墓碑には色大理石が敷き詰められていた。400以上あるというが、中には骸骨を模様にした墓もあった。



 
 

続く建物に「大聖堂美術館」が併設されていた。「カラヴァッジョ」の描いた「聖ヒエロニムス」と「聖ヨハネの斬首」が有名だそうだ。

近くの「騎士団長の宮殿」だったと思うが、2階展示室に入ると1565年の「トルコ大包囲戦」が大型スクリーンに映し出され、「ヴァレッタ」の歴史の一端を伝えていた。(しかしその後、フランスに敗北したり、イギリスの植民地になった事には触れていなかった)

 

その後、大通を散策してヴァレッタ観光は終り、バスで飛行場に向かって、帰国便の塔乗受付に並んだ。
帰りの飛行機は1時間も遅れたが、何の理由も知らされなかった。お陰で「ドバイ」で「成田行き」に乗り継ぐ時間がぎりぎりだった。
疲れたのか「ドバイ」から日本までの8時間は半分以上寝ていた。
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「キプロス」「マルタ」の旅(13)

2015年12月11日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「ゴゾ島」観光≫(2)

②「アズールウインドとインランドシー」

ゴゾ島の西に数万年の波と風雨の侵食でできた景勝地がある。それが「アズールウインド」だ。



        

私達はその内海からボートに乗った。一艘に9人、私は左側に乗って狭い岩の割れ目から外海に出た。
波が大きくうねり、ボートから弾き出されるのではないかと思う瞬間も何度かあった。
しかし、浸食でできた洞窟に入って光線の加減で真っ青に見える海面や、海と岩の境目にできた紫珊瑚、まるで鰐が寝そべっているように見える鰐岩を見たりした。
私は片手で必死で写真を撮ったが、ボートが木の葉の様に大きく揺れ続けるのでボケたものもあった。イタリア「カプリ島」の「青の洞窟」よりも興奮し、楽しめた。



 
 


 

            

③「ゴゾ大聖堂」

「大聖堂」を見学に行ったら坂の上に登る道路が工事中だった。ガイドは自由時間25分と言ったので、私は工事車両の横を通って行ける所まで行く事にいた。遂に「大聖堂」の階段の下に着いた。
この聖堂は、1697~1711年に建立され、バロック様式のファサードがあるという。
時間が限られていて入場料も必要だったので、中に入らず、脇の階段を登って見た。
広い展望台があり、教会は堅牢な城壁で防護されていた。古い大砲も備えられていた。遠くを見下ろすと、ゴゾ島の町と海が見えた。

 

         



「ゴゾ島」に別れを告げ、17時過ぎのフェリーで「マルタ島」に戻った。
ホテルに着くと入り口やフロント前の警備が厳しくなっていた。ガイドの話では、「イギリスからエリザベス女王も会議に参加する事になった。いつも使えるホテルの駐車場が、今日は立ち入り禁止だと言われた。」という。
多分、「英国連邦会議」に参加する各国の要人がここにも宿泊するのかも知れないと思った。
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「キプロス」「マルタ」の旅(12)

2015年12月10日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「ラバト」観光≫

「聖パウロ教会」

「イムディーナ」の城壁の外に「ラバト」の旧市街が広がっている。
一番の観光箇所は「聖パウロ教会」だ。この教会には「地下墓地」があるそうだが、時間が無かったので諦めた。
バスに乗ってから、周囲の景色を車窓から写した。

 



      

≪「ゴゾ島」観光≫(1)

7日目は簡単に朝食を済まし、9時半にホテルを出て、もう一つの小島「ゴゾ島」にフェリーで渡った。晴天に恵まれたので、約1時間の船旅を楽しめた。
島に着いた時、甲板から見えた景色を撮った。
また耕作地が多かったが、ガイドは「石灰岩の層の上に粘土層があるので、ゴゾ島の土は保水性がある土だ。」と話した。岩だらけの本島には少ないホッとする景観だった。

 

        



        

①「ジュガンディーヤ神殿」

初めに島のほぼ中央部にある紀元前4000年頃から建造が始ったと言う「ジュガンディーヤ神殿」を訪れた。
先ず傍の「博物館」に入って、写真や発掘品を見ながら説明を受けた。

この神殿は鳥が飛ぶ形に造られていて、豊満な女性像が沢山出土していることから豊穣、多産を祈ってたらしいという。
また残された人骨から、当時の人は写真の様な顔をしていたと考えられるそうだ。
祭壇らしき場所、家畜を紐で繋いだ穴がある石があった。また、通路の両側の壁に横棒を通す穴が開いていた。神聖な奥に行けない様に通行止めをするのに使われた穴だと言う。
石の大きさを組み合わせてしっかりと積み重ねられている遺跡を見て、遥か古代の人類が知恵を使って建造したのだと感動した。

 

 



         

 

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当選品が届く

2015年12月09日 | 日記
11月14日の記事に書いたが、私は年金の受け取りをJAバンクでしている。今回、一定期間に50万円以上の定期預金をしたら、くじを申し込めるのだが、先日2回目のが当選した。そして先ほど、希望の「JA全国名産品詰め合わせ」が宅急便で届いた。
受け取ったダンボール箱がずっしりと重たい事に先ず驚いたが、中を開けて見て、また驚いた。
並べて見たら21品もあり、「卵スープ」と「静岡茶」は20個ずつ入っているのだ。
こんなにあるので、仲間や従姉、娘に早速お裾分けしようと思う。
「飴」や「塩羊羹」は、歯がない伯母に良いかも知れない。これから配る楽しみができた。

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「キプロス」「マルタ」の旅(11)

2015年12月09日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ

≪「マルタ観光」一日目≫(2)

②「スリーシティズ」ー「日本軍人墓地」他

現地ガイドの提案で観光予定になかった「旧日本海軍戦没者墓地」に立ち寄った。
その墓地は、「マルタ」のカルカラにある「イギリス人共同墓地」の奥の一角に立っていた。
第一次世界大戦の時、マルタはドイツ帝国に海上封鎖され、物資が不足する事態になった。当時マルタを支配していたイギリスは、1917年、日英同盟によってチャーチルが日本に援軍を要請した。日本は巡洋艦「明石」他8隻の艦隊を出動させて戦ったが、1917年6月、駆逐艦「榊」が敵の魚雷を受け、59名が戦死したという。
墓には「大日本帝国特務艦隊戦死者の墓」と大きく刻まれていた。
当時の国民は、この事を知らされたのだろうかと疑問に思った。

 

昼は最大の漁村だという「マルサシュロック」のレストランに行った。「黒マグロ」がメインディッシュで、ぶつ切りの焼いたマグロが出て来たが、マグロはそもそも油が少ないから焼いたらますますパサついて、今ひとつ美味しいとは言えなかった。バターでソテイにしたら美味しいのかも知れないのに。
「マルサシュロック」の湾には、小さなボートの様な小船が沢山停泊していた。その船の舳先に安全祈願だという目が小さく描いてあった。対岸には葡萄の段々畑が広がっていた。

 

③古都「イムディーナ」観光

遅い昼食を終えてから「マルタ島」のほぼ中央部の丘の上にある16世紀の首都だった「イムディーナ」に向かった。
ここも堅牢な城壁に囲まれた町で、「メインゲート」から中に入ると狭い路地の両側にマルタストーンの石灰岩で建てられた家々が建ち並び、大聖堂や古い貴族の館などがあった。観光客用の馬車が数台、客を運んでいた。



 

 

      





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「キプロス」「マルタ」の旅(10)

2015年12月09日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「マルタ観光」一日目≫(1)

①「スリーシティーズ」ー「セングレア」「ヴィットリオーザ」観光

「マルタ」の観光は「スリーシティーズ」から始った。
3つの町とは「ヴァレッタ」と入り江を挟んだ対岸にある「セングレア」「ヴィットリオーザ」「コスピークワ」の町だ。
初めの2つの町は、小さな湾に突き出た場所の町で、「コスピークワ」はその付け根にある町だ。
1530年にこの島にやって来た「聖ヨハネ騎士団」が、最初に居所を築き上げた場所だという。午前中は前の2つの町を歩いて見た。

町は城壁に囲まれていて数個の入り口があり、海から見ると巨大な戦艦の様に見える。湾には帆船が沢山停泊していたが、ガイドからは「他のヨーロッパ諸国よりも停泊料金が安いからだろう。」と聞いた。
湾内の帆船の帆に大勢の女性が次々と登り、一斉に作業をするところを見た。珍しかった。



          

 

          



城壁の中に入ると、狭い路地の両側にぎっしりと建物が並び、建材にしている石「マルタストーン」の蜂蜜色が明るい雰囲気を出していた。中には曲がっていて見通しが効かない路地もあり、敵の侵入を防いでいた。「張り出し窓」からは、通行状態を上から監視したという。

 

今は博物館になっている古い教会には、騎士団団長の剣と帽子が展示されていた。

 

 

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「キプロス」「マルタ」の旅(9)

2015年12月08日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「マルタ」という国≫ 

6日目は「マルタ」の主な3つの町(スリーシティーズ)の観光だったが、その前に「マルタ共和国」について触れたい。(ガイドブックを参照した)

4つの島からなり、総面積は316k㎡(淡路島の約2/3)人口は41万人の国だ。
「マルタ共和国」はイタリアの「シチリア島」の南80kmに位置し、西には「チュニジア」南には「リビア」がある。
首都はマルタ本島の北北東に位置する「ヴァレッタ」だ。
民族は「北アフリカ系」「中近東系」「ヨーロッパ系」の「マルタ人」で、宗教は「カトリック」だ。
気候は温暖で雨が少なく乾燥していて、夏の最高気温は30度、冬の最低気温は10度程度と過し易い。面白い事に川が無い国なのだ。

「マルタ」には、紀元前8000~5000年という「エジプト」よりも古い歴史があり、「地中海文明の源」の地だと考えられている。
各地に巨大な巨石を積み上げた神殿が残されているが、高度な文明を築き上げたその人達は姿を消してしまったのだ。

  (「ゴゾ島」の「ジュガンティヤ遺跡」)

その後、周辺の国々から海を越えて多くの民族が「マルタ島」にやって来た。
近代では1113年にキリスト教徒の巡礼者の救済と異教徒との戦いを目的に「パレスチナ」に創設された「聖ヨハネ騎士団」が、1291年に激戦の結果イスラム教徒に滅ぼされると、ギリシャの島々に移りながらも復活していたが、1522年にオスマン帝国によって滅ぼされると、地中海の島々を転々と移住しながら、最終的に「マルタ島」に拠点を見出し、「神聖ローマ帝国」から島を貰い受けたのだった。

1565年巨大な船団を率いてトルコ軍がやって来て3ヶ月にも及ぶ戦いが続いたが、マルタの騎士団はシチリアの援助を得ながら攻撃に耐え勝利した。
この時の騎士団長「ヴァレット」は、岬に「要塞都市」の建設を実行し、町の名を「バレッタ」と名づけた。
その後、再び攻撃に備えた都市づくりを続行し、経済的にも発展した。

       
         (今の「バレッタ」) 

しかし、1798年、総勢6万人弱の艦隊を率いた「ナポレオン軍」がやって来て、「食糧と水の補給」を口実に寄航した際、「マルタ騎士団」は無抵抗に降伏した。それによって「マルタ」はフランスの属領となった。

1800年、イギリス総督に援助を要請し、「マルタ」はイギリスの植民地となった。
1964年にイギリスから独立1974年に「共和国憲法」を発布して「マルタ共和国」となった。今から41年前の事である。
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