花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

八重山諸島の旅 (7)

2009年01月30日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
[八重山ミンサー織と婚姻制度]
石垣島の「ミンサー工芸館」に行った。
調べたら、ミンサー織りは竹島にもあったが、材料、染料に違いがあり、出来上がった製品の材質が微妙に異なるらしい。
昔、この地域では、伝統的に「通い婚」が行われていて、17世紀になって綿花が栽培されるようになってから、女性が木綿糸を藍で染めて織った細帯を、婚約の印に男性に送った事が、ミンサー織りの始まりだと言う。
必ず五つ目と四つ目の絣の柄を織り込んで、「いつ(五)の世(四)までも末永く」と愛を誓い、「足しげく通って欲しい」という願いを込めたらしい。

ちなみに私の知る日本の婚姻史を簡単に振り返ると、源氏物語に見られるように、日本の各地で昔は母系制の「妻問い婚」(結婚後も同居せずに男性が女性の家に夜通う「通い婚」の事)が行われていたと言われている。
初めは別居婚だった夫婦も、やがてその内、妻の元に同居する「婿取り婚」になって行ったという。

しかし鎌倉時代(1185~1333年)になると、「婿取り婚」をした男性がその内財力、権力を持つようになるに連れ、自分の家を構えて結婚と同時に女性を夫方に居住させる「嫁入り婚」に移行して行く。それと同時に徐々に「父権」が絶対になり、女性の権威は弱まり、女性は物扱いされるようになって行った。

やがて室町時代(1336~1573年)になると、最初から女性が生まれた家を出て男性の家に入る「嫁入り婚」の形が一般的になって行ったと言われている。その結婚で嫁に期待された事は、「家の跡継ぎ」としての「男子」を産むことだった。

「父権制家族」が完成した江戸時代になると、武家に生まれた女性には、「家」のために政略結婚させられる事も当たり前になって行った。
やがてこの家族制度は明治民法に取り入れられ、日本中の家族の規範として第2次大戦終了まで引き継がれた。

1945年の敗戦、1946年新憲法成立によってそれまでの「家の制度」は廃止され、男女が対等な立場で結婚し、協力して家庭を維持するという理念に基づく「法律婚」家族に移行したが、実態は半世紀が経っても、まだ多くの問題を抱えていると言えるのではないだろうか。
DVの問題や離婚後の母子・父子家庭の問題、核家族の育児・養育の困難や放棄、家庭教育力低下の問題などがある。
中でも最近は、不定期雇用の若者に、経済的に自立できず、結婚したくてもできないという切実な問題も出て来ている。
反面では高齢者夫婦家庭の老々介護、一人暮らしの高齢者の生活と介護の問題など、地域から孤立しがちな現代家族の問題は深刻である。

私には八重山地方の詳しいことはまだ分からないが、どうやらここでは、1600年代でも「通い婚」が続いていたらしい。
(歴史では、1609年に薩摩藩が圧倒的な軍事力で当時の琉球国を制圧して付庸国にした後、1879年、明治維新で日本の沖縄県に組み入れられた。)

ということは、ここでは生まれた家で一生を送る「母系制家族」が続いていて、女性の地位も認められ、生活は現代の女性よりずっと安定していたようだ。お互いに嫌になった時は離婚しやすく、子どもは妻の家で家族みんなの手で育てられたのだろう。
小さな島が多い八重山地方では、そんな南国的で大らかな男女関係がずっと長く続いていたことを知った。(亜熱帯の気候も、「通い婚」に有利だったのではと私は思う)
それにしても、女性が細帯1本織り上げるのには、大変な時間と労力を要しただろうなと思った。

今回は3泊4日という短期間の滞在だったが、八重山諸島の気候と風土に私は日本のハワイを感じた。
しかし、最南端の場所だけに、琉球国時代の事、明治時代初めに日本の国の一部に編入されてからの事など、知らないことが余りにも多い事も分かった。
何故、江戸末期に、南方に位置する薩摩藩があれだけの軍事力と徳川幕府に対する権力を発揮できたのか、それを知るためにも明治期に沖縄の一部になった八重山諸島をもっと知る必要があると、気づいた旅にもなった。(終わり)

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八重山諸島の旅 (6)

2009年01月29日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
[八重山の郷土料理]
毎回、郷土料理が出たが、さすが南国らしく、パイナップルやスイカ、瓜などの果物が美味しかった。
島の豆腐を使った炒め物料理・チャンプルーが必ず出された。豆腐は海水中の天然にがりで固めるというが、ソフトで美味しい。
その豆腐を泡盛と麹で発酵させて作る豆腐ようは、チーズに似た濃厚な味のもので癖になりそうだった。
豚のばら肉をじっくり煮込んだ角煮のラフテイは、柔らかで薄味に仕上げてあった。
豚の耳を材料にしたミミガーは、こりこりした食感だったし、今はほとんど養殖されているという海葡萄も面白い味だ。
二杯酢味のもずくは、酸っぱいが美味しかった。
断面が丸い八重山そば(小麦粉で作ったもの)は、さっぱり味だった。
年中気温が高い土地柄、いたみにくい調理法が工夫され、味付けはさっぱりとした薄味になっているのではと思った。

石垣島の「船倉の里」で食べた夕食の会席料理には郷土料理が並んだが、どれもおいしく食べられた。
写真の小魚の唐揚は、3枚下ろしに似た切り方だが、頭の部分は切り離さない状態の魚をしっかり2度揚げ(3度かも知れない)してあって、骨もパリパリと食べられる様に調理されていた。
(写真の料理に吸い物が加わった)
                            


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八重山諸島の旅 (5)

2009年01月28日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
[小浜島観光]
3日目、石垣島観光を終えてから高速船で小浜島に向った。
数年前、NHK朝の連続ドラマで放送された『ちゅらさん』の舞台として有名になった島だ。
島に着くと小型マイクロバスが待っていた。運転手兼ガイドの70歳位に見えるおじさんが慣れた口調で説明を始めた。

①ちゅらさんの島
今も記憶にあるガイドの言葉は、「島民はNHKに心から感謝しています。」「この道で3時間撮影したのは、30秒放映されました。」だ。
そしてえりいが暮らした家として撮影された「こはぐら荘」を見ようとした丁度その時、雨が降り出し、その結果、バスから下りたのは3~4人だけだった。
ガイドは、家の看板を挟んで私と友人を並べ、自分は雨に濡れながら記念写真を写してくれた。
その家も伝統的な形をしていた。撮影当時は住人がいない家だったが、今はいるので、中を見ることができないと言われた。

 

ガイドはしきりと島が小さい事を強調し、「次に渡る橋は島で2番目に大きな橋で、長さが2mあります。」と笑わせていた。
また、サトウキビ畑を指しながら、「国の補助金があるので今は何とかやっているけれど、無くなったらどうなるか分かりません。」とか、「最近は遠くへ出稼ぎに行く人や移住する人が多くて、人口が少なくなりました。」と寂しそうに話してくれた。

②ホテル「ヴィラハピラパナ」
このホテルは、ゴルフ場を有し、目を見張る程立派なリゾートホテルだった。
数室毎に作られた2階建ての建物が、沢山、点在していて、1階の室はベランダから庭に出られるようになっていて、ハワイ等のリゾートホテルに似た作りになっていた。

私たちが部屋に入ると間もなく、ベランダの方で鳥の鳴き声がした。
見ると綺麗な雄の孔雀がいた。野生だと思うが人に慣れているように見えた。暫く声かけをして遊んだ。
翌朝、また鳴き声が聞こえた。友人がスナック菓子を見せるとかなり近くに寄って来た。
この孔雀は、こうしていつも客から食べ物を貰っているのだろう。
ホテルの人に聞くと、近隣に数羽、生息しているらしいと話していた。
 
  

食事はセンター棟に行って食べるので、私たちはゴルフ場脇のアップダウンのある小道を往復した。
バイキング様式の夕食だったので私は柔らかい料理を選んで食べた。
バライテイ豊かな上、どれもとても美味しくて、思いがけない場所で腕の良い料理人の料理を食べられた事に感動させられた。


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八重山諸島の旅 (4)

2009年01月27日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
[西表島観光]
①水牛車で由布島へ
船は西表島の南部に位置する大原港に着いた。そこからバスで西側の美原に行き、水深10cm程の浅瀬の400m向こうに浮かぶ小島、由布島に水牛車でのんびりと渡った。時間も行路も牛次第。
ここでも御者が三線の調べに乗せて披露する島歌に、客も合わせて歌った。
何と牛車の天井には幾つかの歌の歌詞が貼り付けてあって、客も歌えるようにしてあった。(写真の背景は西表島)

 

由布島のレストランで民族色豊かな昼食を採った。その後、小さな島を散策した。
島には、照りつける日差しで体温が上がっても汗腺が無い水牛のために、水中に入って休ませ体温を下げる池が作られていて、仕事を終えた牛が入れられていた。

帰りは、少し潮が満ちて来て水深15cm程になっていた。潮が最高の時は、海水が膝位の高さになるのだという。
私たちが乗った牛車の水牛は、まだ小さい牛らしく(3歳から車を退くのだという)なかなか真っ直ぐには歩けないし、ゆっくりなので一番遅れて向こう岸に着いたが、その内経験を積んで立派な引き手となって行くことだろう。その牛車でも島歌を聞くことができた。

②由布島植物園

 

昼食後、レストランの裏手に広がる植物園を散策したのだが、小さな由布島全体がまるで植物園のようになっていた。
西表山猫の実物には会えなかったが、散策の途中、木彫りの山猫が出迎えてくれた。(写真上)
また西表島では、あちこちの道路で、「西表山猫に注意!」という絵入りの立て札が立ててあるのを見た。

③仲間川クルーズ
西表島は、沖縄県で唯一、国立公園に指定された島で、奥深い密林には天然記念物の動物が色々生息しているという。
川船に乗って仲間川上流へ向った。
広い川幅の両岸に、独特の鬱蒼としたマングローブ林が続いている。
上流で船を下りて、川岸のジャングルに少し入った所に見たことも無い植物が生えていた。
「サキシマスオウ」の木だという。
発達した大きな板根が本当に素晴らしい。亜熱帯、熱帯地方に見られる木だと言う。
入り口の看板には、この木が樹齢400年、樹高18m、幹周り345cmとあり、昔、板根は船の櫂などに利用されたと説明されていた。

  

クルーズの帰りに、川で遊ぶ黒い数羽の鵜を見かけた。北海道では見かけない鳥なので、野生の鵜は珍しかった。
 
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八重山諸島の旅 (3)

2009年01月26日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
[竹富島観光]
石垣島の西隣にある東西2km余り、南北3km余りの小さな竹富島には、小型高速船に乗って行った。
私は下の船室には下りず、後部甲板席に座り、ジェットエンジン音とスクリューが巻き上げる水しぶきの音が混じった轟音、それと体に当たる強風をたっぷり楽しんでいる内に竹富港に着いた。

  

   

①水牛車観光
25℃の強い日差しの下を、守り神シーサーが乗った赤瓦の家と石垣でできた狭い通路を、のんびりと水牛車に乗って見て回った。
家々に赤いハイビスカスや濃いピンク色のブーゲンビリヤが咲き誇っていて、南国を感じた。
良く見ると屋根のシーサーが多様な表情をしていて面白い。
御者のおじさんが、若者が少なくなった島の現状や玄関がなく、縁側から出入りし、室内が見えないように塀で隠す八重山独特の建築様式を説明した後、良く響く三線を弾きながら島歌を情緒たっぷりと歌ってくれた。(写真上)

②カイジ浜
星の砂があることで有名な海岸の一つで、多くの人がしゃがんで探している。私も探して見たが、人が出入りする場所の近くではほとんど見つからなかった。もっと遠くに行くとあるのかも知れない。
お土産やでは、小瓶1つ100円位で売っていた。

 

③なごみの塔
島を360度見渡せる塔だが、1~2人がやっと登れる急勾配の細い塔だ。
順番を待って登ると、赤瓦の集落とその向こうに青い海が見えた。
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八重山諸島の旅 (2)

2009年01月25日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
[石垣島観光]
②川平(カビラ)湾
南国の太陽に照らされた川平湾には小型のグラスボートが数隻浮かんでいて、波も静かだった。
早速私達は、2艘の海底を見ることができるグラスボートに分かれて乗り込んだ。
ボートが静かに湾に出ると、間もなく船底に見たことの無い色々な形をしたさんご礁、泳ぐ可愛いくまのみや鯛、海草が次々と見えて来た。30分間は、あっという間に楽しく過ぎた。

   

③唐人墓
バスを降りようとしたら急に大粒の雨が降って来たので、傘を差して中国様式の墓の前に行った。
墓には建立された経緯が克明に刻まれていた。
それによると、1852年2月、中国福建省からアメリカのカリフォルニアへ中国人苦力400余人を運んでいたアメリカ船内で、虐待に耐えかねた中国人が暴動を起こし、米国人を殺害後、石垣島沖で座礁して、380人が島に辿り着いた。
八重山政庁は小屋を建てて収容したが、その後3回に渡ってやって来た米英兵船の攻撃などで128人が死亡。島民は一人々々に石積みの墓を建てて手厚く葬ったという。
また生存者には密かに食料を与えて人道的な援助をした。
その後事件は解決を見、翌年9月、生存者は福州に送還された。
この墓は1971年に、石垣市が中華民国、在琉華橋に寄付を募って建てたのだと言う。
私は、この地で初めて当時の凄惨な事件と島民の温情を知った。急な雨に、128人の涙を思った。

 

最後に誰もいなくなった唐人墓の後ろへ回って見た。
建立に尽力した当時の琉球政府行政主席、屋良朝苗氏の追悼文が石碑に刻まれて埋め込まれていた。
それには、『人間が人間を差別し、憎悪と殺戮が繰り返される事の無い人類社会の平和を希い、この地に眠る異国の人々の霊に敬虔な祈りを捧げる』と、書かれていた。
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八重山諸島の旅 (1)

2009年01月24日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
暫く振りで、3泊4日の旅行と歯痛からの復帰である。
旅行直前からいよいよ奥歯が痛み出し、鎮痛剤を飲みながらの少し辛い旅だった。

帰宅した翌日(昨日)、歯医者に駆け込み、その親知らずを抜歯した。
(痛んでいる歯は麻酔が効きにくいそうで、30分かけて7~8回麻酔薬を注射され、やっと抜いて貰った。
歯の生え際がぐるりと虫歯になっていた。
直ぐに鎮痛剤を飲んだが、それから1時間余り、待合室の椅子に目を開けることができずにうずくまっていた。)
今日は、やっとパソコンに向う気が出てきたので、良かった。

では、今回の旅を報告したい。
飛行機は千歳空港発10時45分で発ったが、乗り次ぎ時間は羽田で1時間、那覇で20分と順調で、石垣島空港には予定通り17時35分に着いた。疲れはほとんど感じなかった。
八重山諸島は4日間とも24~25℃の気温だったので、真冬の北海道から行った私達にとっては、瞬時に初夏が来たような感じだった。

[石垣島観光]
①石垣島鍾乳洞
石垣島に着くと、真っ直ぐさんご礁からできた石垣島鍾乳洞に向った。
山口県秋吉台に比べれば規模は小さいが、石筍の緻密さ、美しさに目を見張った。

 

たっぷりその素晴らしさを堪能し、夕食をとってホテルに向った。
ホテルは規模が大きいN八重山ホテルだった。このホテルには2泊したが、大浴場もあったので、そこで旅の疲れを癒す事ができた。

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明日から4日間、八重山諸島に行く

2009年01月18日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
先月、共に四国一周をして来た友人の一人と、今度は沖縄の南に位置する石垣島、・西表島・竹富島・小浜島の島巡りツアーに出かけることにした。

色々調べて見ると、それら八重山諸島は、北緯23.4度を通っている北回帰線の直ぐ北に接している。
北回帰線上は、太陽が赤道に来た時、春分と秋分には赤道上の太陽光線を垂直に受ける場所で、北回帰線から南回帰線(南緯23.4度)の間が熱帯と言われている。
今回は、真冬の北海道を飛び出して、日本の最南端に行って見ようと計画した。

所が実は、2月下旬には中国雲南省の旅も申し込んであり、3月には台湾周遊を予定している。
考えて見たら、北回帰線は台湾の中央を通っているし、雲南省も然りである。
それぞれの旅先をバラバラに考えたのに、結果として国は違うが、月を変えて、北回帰線近辺の気候や自然、文化を続けて見に行くことになったのだ。これは面白い。

ついでに地図で確認したら、私が行った事のある所では、モロッコの南部、インド、タイ、ハワイ諸島,ボツワナ、ザンビアが熱帯に入っていた。

明日は新千歳空港から東京国際空港に飛び、それから那覇で乗り接いでから石垣島空港に行く予定だ。乗り継ぎ時間も入れて、行くのに約7時間かかる。日本も南北に長いな~。
おまけに気温差は20度以上だから、出かける時の服装と現地の服装の差にどう対処するか、工夫が必要だ。
そこで明日朝は、着ていく薄いコートの下を暖かくすることにして、カーデガンを重ね着することにした。飛行機に乗ったらカーデガンは脱げば良いだろう。

観光は中2日半だけだが、友人と思う存分楽しんで来たい。
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四国4日間の旅 (3)

2008年12月19日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
4日目 ホテル→→内子町→→フルーツ・海産物の店→→伊予かすり会館→→ケーキ屋→→松山空港 16;15→東京国際空港 18;05→新千歳空港 19;40

ホテルを出て、遠くに松山城を見ながら内子に向った。
内子ではガイドの説明を聞きながら、1時間、江戸・明治に栄え、保存されている商家を見て歩いた。
大森蝋燭店、白壁に鬼瓦、和風庭園が素晴らしい本芳我家などを見学した。さらにもう1時間あれば、内子座や資料館まで足を伸ばしたかったが、強行軍のツアーなので残念だった。
内子中学校から出てきた先生らしい方に聞くと、現在は7学級との事。平屋建てで独特なデザインの学校は、珍しかった。
果物屋で採り立てのきんかんを見つけたので買った。

伊予のかすり会館では、入り口で法被を着ての団体写真撮影があったが、皆が並んでいる間に、私は法被姿の仲間の写真を写した。
藍染で作られた多様な製品が売られていたが、良く見ると中には中国製の商品もあった。

最後に「タルトケーキ」の店に立ち寄った。ガラス越しに製造している所が見られたが、中央にあんと栗を入れて巻いて作る和風ロールケーキだった。
帰ってから「tart」を辞書で調べたら、「果物入りの小型パイ」と書いてあった。また、面白いことに俗語で「浮気女」の意味もあった。何でだろうか。
ふと見るとツアーの人たちがある場所で群がる様に買っていた。覗くとそれは栗入りタルトの切れ端だった。私も最後に並んで買った。210円と安く、栗が一杯入っていて、ほんのりとゆずの香りがして美味しかった。

松山空港に着いてから、途中で買った讃岐うどんや果物をスーツケースに詰めたら10kg以上になったが、それを「千歳まで」と言って預けて身軽になった。
飛行機は途中かなり揺れたが、疲れたせいか不思議と気にならなかった。

東京国際空港での乗り継ぎ時間は30分も無かったが、皆、復路なので慣れた感じで新千歳行きに乗り継いだ。
機内で紅茶や熱々のスープを飲んでいる内に時間通り新千歳空港に着いた。

今回は四国の魅力を発見できたし、また、友人3人が互いに新たな面を見つけ、更に友情を深めた良い旅になった。
いつかまた四国を訪れる事があれば、今回とは違うコースを巡りたいと思う。

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四国4日間の旅 (2)

2008年12月18日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
3日目 ホテル→→高知市市内車窓観光→→桂浜・坂本龍馬像→→かつお加工食品販売店→→四万十川→→宇和島→→味楽蜜柑選果場→→道後温泉(泊)

高知市に「はりまや橋」が幾つもある事を知り、驚いた。

桂浜では、龍馬像が青空の下ですっくと立っていたが、余りにも大き過ぎて人物写真のバックに入れるのに難しかった。
また桂浜は、「日本の渚100選」に選ばれている浜だけに、波が静かで清潔だった。しかしガイドから、ここは砂浜が急に切れて深い海になるので遊泳が禁じられていると聞き、清潔な訳がわかった。
何隻もの大型船、小型船が眼前の土佐湾に浮かんでいたが、昔からここに住む人は、遥かな海の彼方を想像した事だろうと思った。
浜の中央に「大町桂月記念碑」を見つけたが、明治2年に高知に生まれ、東京帝国大学国文科を出たと言う桂月は、北海道層雲峡の名付け親としても有名で、北海道の各地を旅行して紀行文を書いたようだ。大雪山系の黒岳の傍に「桂月岳」という名の山もある。余程足腰が丈夫で旅好きであり、紀行文を多く残した人だったのだろう。
赤い竜王宮がある展望台に上がった後、浜で綺麗な石を幾つか拾ってバスに戻った。

鰹加工食品販売店では、かなり前に獲って冷凍した鰹を、毎日、少しずつ解凍して、色々な食品に加工していた。鰹の大きさは想像以上で、扱っていた女性には大変な力仕事に見えた。
店で売っていたゆずが珍しかったので買った。

「清流日本一」で有名な四万十川は水量が少なかったが、川岸に下りると水が綺麗で底まで見えていた。古い屋台船が繋がれていて風情があった。

宇和島は、波の穏やかな湾を生かし、真珠の養殖いかだが沢山あった。真珠生産量は日本一だと説明されたが、伊勢志摩程有名でないのはどうしてだろうか。
ある真珠の店に立ち寄ったが、価格は20%引きとか50%引きとか表示されていた。適正価格は幾らなのかすごく不審に思った。

隣の吉田町農協の大規模な蜜柑選果場を見学した。
幾つものラインで選別された蜜柑が転がるように運ばれて行って、最後には大きさ別に箱詰めされていた。そこで働いていた女性は、僅かだった。そうして出来上がった箱詰め蜜柑は新鮮そうだが、結構、良い価格で売られていた。試食の後で宅配を頼んだ人も数人いた。

日没後、最後の宿泊地、道後温泉に着いた。
その日は「道後温泉本館」は休日だった。私達のホテルがそのすぐ傍だったので、部屋に荷物を置いて急いで行き、写真を撮ったが、暗くて良い写真にはならなかった。
坊ちゃんは小説の登場人物に過ぎないのに、多くの日本人にあたかも実際にいたように親しまれている事が、私には少なからず驚きだった。しかし、明治27年に建てられ、国の重要文化財に指定されている建物だけに、その場所は、確かに私達を夏目漱石が生きた明治時代にタイムスリップさせてくれるように感じた。

その日のホテルのトリプルルームも、なかなか良かった。食事では日本酒で乾杯して疲れを癒し、「本館」と同じホテルの湯に浸かって寝た。

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四国4日間の旅 (1)

2008年12月18日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
12月14日から17日まで、札幌に支店があるH旅行社主催のツアーに参加して、農作業仲間3人で四国を旅して来た。
新千歳空港から四国往復で飛行機には4回も乗る団体旅行だったのにもかかわらず、信じられない様な格安料金だった。
それで、ひょっとして飛行機の座席が落下するのではないかとか、3人部屋はツインの部屋に簡易ベッドが入れられて窮屈な思いをするに違いないとか想像して、覚悟をして出かけた。
しかし、心配は当たらず、寧ろトリプルの部屋の方が広くゆったりとしていたし、バスの座席も4人分与えられたので、私達は交互に1人でゆったりと座る事ができたのだった。
おまけにガイドさんが大ベテランで、長距離を走っても決して退屈することがなかった。
ツアーの参加者は40人だったので、旅行社はそれで何とか採算が取れたのかも知れないと心配した位の内容だった。
多分、丁度オフシーズンで、綺麗な花は少ないし、日没も早い分、得な格安旅行ができたのかも知れないと思った。

1日目 新千歳空港11;30→東京国際空港→徳島空港15;25→→高松(泊)

徳島から脇町経由で高松へバスで行く途中、車窓から見た険しい山並みには驚いた。
その日の夕食は自由食だったので、高松で讃岐うどんを食べにホテルで紹介された「川福本店」へ行った。私はなめこうどんを食べたが、うどんの腰の強さと大根おろしとしょうががたっぷり入った甘辛い独特の味が初体験で絶妙だった。

中心街にあるホテルではトリプルの部屋が用意してあったが、ベット3つがゆったりと並ぶ寝室の隣に、大型TVを囲んで3人がけソファーが2個置いてある別室があって驚いた。その部屋で旅の初日をドラマを見ながら楽しんだ。

2日目 ホテル→→瀬戸大橋記念公園→→金毘羅宮→→小歩危・大歩危→→かずら橋→→高知(泊)

晴天で良い観光日和だった。
金毘羅宮では、土産物屋の82歳の案内人について785段の階段を本殿まで登った。店で竹の杖を貸していたが、私はいつも使っている登山用の杖をスーツケースに入れていったので、降りる時、姿勢が安定して良かった。
私達より年齢が大分高いと思われる人たちも頑張って登れたのは、集団の力にもよると思った。友人も「一人なら登れなかったかも知れない。」と言っていたから。
無信仰の私だが、来た記念に売店で黄色いお守りを買った。

次に行って実際に見た「かずら橋」は、ガイドブックなどの写真で想像していたよりも隙間だらけで歩きにくかった。しかし実にスリルに富んでいて面白く、もう1度渡りたかった。「琵琶の滝」も良かった。

高知では龍馬の宿「南水」に泊まったが、ロビーから室内まで坂本龍馬に因んだ物で溢れていた。

  ※ この日は、カメラの電気が切れて写せなかった。




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明日から4日間、四国に行って来ます。

2008年12月13日 | 「国内旅行」八重山諸島・四国周遊
今回は、一緒に畑仕事をしている2人の友人と行くことになった。
こちらの今朝の気温は-6度で、路面は雪と氷が凍結し、車の運転も徒歩も危ないような状態だが、四国はまだまだ暖かいんだろうな。
明日は昼前に千歳空港から羽田に行き、そこで乗り換えて徳島空港まで飛ぶ。宿泊地は高松だ。
いにしえの町並みと美味しい郷土料理が待っているだろうし、友人達との会話もたっぷり楽しめそうである。


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