韓国は4回目だが、今回はまだ行っていない仁川、水原、扶余、鎮安、全州、光州、南原など、韓国と中国を挟む海・黄海沿いの西側を巡る旅になる。
百済時代や高句麗時代などの古い遺跡がどの位残っているのか、そして、古代から中世、近現代まで、戦争と植民地時代を含め、日本との様々な交流の跡を見て来たいなと思っている。
丁度、紅葉のシーズンでもあるらしいので、韓国の歴史スポットを美しい自然の中で発見してくる積りだ。
帰国は11月2日。
それまでブログを休みます。
前に「ボスニアヘルツェゴビナ」が「クロアチア」の領土内に一部入り込んでいる話をしたが、この日は朝「ドブロヴニク」を出発して海岸線の道から内陸へと進路を変え、別の国境から「ボスニアヘルツェゴビナ」の古都「モスタル」に向った。
「ディナルアルプス」を越えると緑豊かな平野が表れて、広い葡萄畑も見られ、それまでの光景と変わった。
約2時間半走って「モスタル」に着いた。
「ボスニアヘルツェゴビナ」は、面積51,100k㎡で「クロアチア」より少し狭い。首都は「サラエボ」。
人口も438万人と少しだけ少ないが、ボスニア語、セルビア語、クロアチア語が公用語であり、イスラム教徒45%、セルビア正教徒30%、カトリック教徒20%と複雑である。
今までの3つの国と違うのは、オスマントルコに支配された時に正教徒とカトリック教徒以外の多くの人がイスラム教に改宗し、1878年にはオーストリア・ハンガリー領、第1次世界大戦後はユーゴスラビア王国領となったのだが、その後もずっとトルコ風の生活をし続けていることだという。
2005年に世界遺産に指定された古都「モスタル」は、町の真ん中を「ネレトヴァ川」が流れる渓谷にあった。
駐車場から歩く途中の教会や家の壁、古都内部にも、沢山生々しい銃弾の跡があった。①
①
オールドバザールの真ん中に作られていたオスマン・トルコ時代の石橋は、1993年からの「ボツニア」内戦時にクロアチア人達に破壊された。
この時、長さ40mの橋の両側に分かれて住んでいる西側のクロアチア人と東側のムスリム(ボスニア)人が血みどろの戦いを繰り広げたのだ。
1995年、NATOが仲介して戦争が終結した後、ユネスコ、世界銀行、民間の寄付によって1200万ユーロという巨費により2004年に修復された。復元記念式典にはチャールズ皇太子他の来賓が多数出席して行なわれたという。
今、橋を西側から東側に渡ると、急に軒先が低いトルコ風のみやげ物屋が立ち並ぶ。
そしてその手前に真新しい木造の歴史資料館があった。覗くと内戦時の悲惨な写真や石橋の復元記念式典の写真が展示されていた。
石橋の中央の欄干では、水泳パンツ姿の男性が2人立っていて、下の川に飛び込むパフォーマンスをしようとしていた。1人がポケットから袋を出して群がる観光客からチップを集めだした。私は通り過ぎたが、振り向くと1人が飛び込んだところだった。
調べたら水面まで24m以上あるこの飛び込みは橋ができた当時からの伝統で、毎年夏には大会も開かれているという。しかし水が冷たいため、危険であるらしい。
②は西側の川岸に下りて写した石橋。イスラム寺院の祈りの集まりを報せる尖塔が見える。③は東側に渡ってから人が群がる橋を写す。
② ③
④⑤は橋の東側、観光客が溢れている旧市街の光景。⑥は橋を再建する時に先ず作って見たという小さな仮橋と西側の町の光景。
⑦は昼食に出たひき肉のトルコ風ボスニア料理チェバブチッチ。少し油っぽく、胸焼けした。
④ ⑤
⑥⑦
「ボスニアヘルツェゴビナ」を訪れたことで、私は宗教、民族による対立がもたらす悲惨な結果と、互いに違いを認め合い共生して暮らす新しい可能性を見る事ができた。それゆえにこの地は、後世の人々に残すべき世界遺産として認められたのだろう。
最後になるが、「クロアチア」中部の自然遺産・プリトビツェ国立公園の記事は割愛し、これで(1)~(8)までと続いたバルカン地方の旅を終わりたい。
実は最初、今回の報告記事は凄く簡単なものにしたいと思ったのだが、書いている内に、時間をかけて見て来たものの内容が、自分にとって良く判るものにしておきたいと考え直した。そのため、少ししつこい文になってしまった。
まとめた結果、陸続きで他国と国境を接し、「アドリア海」に面するこの地域は、古くから覇権争いが絶えず、どの国にも複雑な歴史がある事がわかった。
それだけにその歴史が残した多くの遺産は、世界中の未来に向う人々にとって極めて貴重なのだと思った。
拙文を飽きずに読んでくださった皆さんが何を感じたのか気になるが、最後までのお付き合い、ありがとうございました。
クロアチアの最南端の町、ドブロヴニクの観光を昼で終え、食事をしてからバスに乗って南の隣国モンテネグロに足を伸ばした。世界遺産コトルを観光するためだ。
1時に出発したバスは40分で国境に着いた。出国と入国の手続きに20分かかった。
実は入国の際、運転手はミネラルウオーターを1本、管理員に渡していた。賄ろだという。渡さなければいじ悪されて、なかなか通してくれないらしい。こんな光景は初めて見た。
入国後間もなく、運転手の休憩と私たちのトイレタイムのために小さな店に入った。
そこには女性のトイレと洗面所は1つしかなかったが、先に使っていたスカーフを被った数人の女性達がなかなか洗面所から出て来ないのだ。私たちは仕方なく15分くらいも待った。
彼女達が出て行った後の洗面所やトイレは、水だらけだった。
後で知ったのだが、彼女達はイスラム教の信者で、お祈りをするに当たって口、耳、鼻など穴を全て清めていたらしいのだ。
外で敷物を敷いて祈っていたと言う。ある人が「何処の人か。」と聞いたら、マケドニアから来たと言っていたらしい。
こんな場面に出会ったも初めてだった。
モンテネグロの正式名はモンテネグロ、ガイドの説明によると国名は「黒い山」という意味なのだとか。
首都はボドゴリツァ、面積は福島県とほぼ同じ13,812㎡と小さいが、海岸線が長く、アドリア海の自然港として重要な位置を占め、工芸と商業が盛んで、古くから造船業も盛んであった。
14世紀に作られた造船所では、今でも世界中の船を安く修理したり、海運業を請け負ったりしているという。
人口は僅か62万人であり、モンテネグロ語、セルビア語、ボスニア語が公用語だ。
モンテネグロは第1次世界大戦でオーストリア、ハンガリー帝国に占領されたが、1918年にはセルビア、クロアチア、スロヴェニア王国に取り込まれた。後にユーゴスラビア王国の一部となったが、1997年頃から分離独立の動きが強まった。
2006年に行なわれた国民投票では欧州連合の要求通り、投票率86.5%、賛成55.5%という高結果でEUへの加盟を果たし、同時にセルビアから独立し、国連にも192番目の国として加盟、通貨をユーロとした。
しかし、ガイドによれば、現在、失業率が30%もあり、平均月収は270ユーロ(日本円では36000円程度)と貧しい国のようだ。
相変わらず石灰岩の山脈が海にせり出すように続いたが、やがてバスは深く入り込んだ入り江の3/4に当たる距離をぐるりと40分も回ってコトルに着いた。
コトルは昔ローマの属州だったが、535年ユスティニアヌス1世の時に要塞都市として建築されたらしい。
その後、サラセン人の略奪にあったり、ブルガリアに占領されたりしたが、1003年セルビアに併合された。その後もモンテネグロの一部として宗主国が次々と変わった。
1979年の地震により、町は大きく損傷したが、ユネスコの援助で復旧した町である。
城壁に囲まれた小さい古都・コトルは、高く険しい山の中腹にも城壁を巡らせているという特徴があり、規模は比べようも無いが、それは中国の万里の長城に似ていた。① (写真を拡大したら、山の城壁がわかるかも知れない)
他国の支配を受けながらも自由都市として認められて来た町で、門から城内に入る人は税金を払わなければならなかったそうである。②
広場に山を背負って古い教会があった。③
① ② ③
城内の小さなスーパーでビールとミネラルウオーターを買ったが、クロアチアより1~2割ほど物価が安いと感じた。
帰りは入り江を来た方向と反対方向に1/4の距離を走り、入り江を挟んだ南北の岸が最も接近しているレペタニからバスごとフェリーに乗って対岸のカメナリに渡った。7~8分しかかからなかった。
しかし、また国境の2つの事務所で手続きをしてドブロヴニクのホテルに着いたら8時になっていた。
今思えば、この半日のオプショナルツアーは、モンテネグロが他国に翻弄させられた長い歴史と、現在の姿に少しだけ触れることができた胸に残る旅となった。
昼食後、スプリットから200km南にあるクロアチア最南端の町、ドブロヴニクまではバスで4時間かかった。
左手にずっと続いている石灰岩のディナルアルプスは、いよいよ海岸近くに迫って来て、クロアチアが先細りした地形になっている事が良くわかった。
実は行って見て初めて知ったことだったが、海岸線の道路をバスで南下している途中、突如ボスニア・ヘルツェゴビナの国境が現れたのだ。入国手続き後、僅か10分走るとまた国境が現れて、再びクロアチアの国になったのである。
ガイドの説明では、海岸線を持たないボスニアがネウムという町がある9kmの海岸線を領土として買い取ったというのである。
調べたらかってドブロヴニクの領土だったネウムがオスマントルコに占領されていた17世紀、オーストリアが奪い返した時に、ヴェネチアと対立していたドブロヴニクはオスマントルコに返還を要求しなかったという歴史的な因縁があるらしいのだ。
しかし、現実にはクロアチアはネウムのために飛び地になっているわけで、私には初めての体験だった。
ともかくやっとドブロヴニクに着き、ホテルに入ったら、日が暮れていた。
翌日も良く晴れていた。
朝食後早速、「アドリア海の真珠」とたたえられて来た世界遺産・ドブロヴニクの観光に向った。
まず展望台から旧市街の全体像を見た。遠くに海に突き出している白い城壁に囲まれたあかねいろの町が見えた。①
来た道をバスで戻り、駐車場から歩いて城壁内に入った。
門に入り城壁を見ると圧倒させられた。②
昔、ローマの植民地だった近くの町にクロアチア人(スラヴ人)が入ってきたため、追い出されたローマ人達が小島の岩礁に住み着いたのが町の始まりだと言う。
やがて海峡を挟んだスルジ山の麓にクロアチア人が住み着いたので、島のローマ人はクロアチア人達にお金を払って土地の耕作権などを得ていたという。
やがて両者の融和が深まり、小島を隔てていた狭い海峡を埋め立てて1つの町を作ったというのだ。それがドブロヴニクなのである。
その後ここは、東西文化・交易の中継地として大いに発展して行ったのだ。
この町の人たちは、ヴェネチア、ハンガリー、オスマン・トルコなど、その時々の脅威から自由な交易を守るために、貢物をしたり上納金を納めたりし続け、実質的な自治権を決して離さなかったのだという。私はこの町がたどった歴史を、多くの国が改めて学ぶべきではないかと感じた。
この町には長い間水源が無かったので、雨水を溜めたりして暮らしていたが、15世紀、議会が上水道建設を決議し、10km遠くのスルジ山の水源から水を引く工事をした。これによってオノフリオの泉が作られ、市民に無料で使用させる事としたのだ。今も16のレリーフから常に湧き出るその水が使われていた。私も飲んだが美味しかった。③
① ②
③
2つの民族が仲良くなって埋め立てた海峡は、プラッツア通りとなり、町のメインストリートになっている。④
歴史的な建物や遺跡も良く保存されていた。
1時間余りの自由時間に私は町を2kmにわたってぐるりと囲む城壁の上の遊歩道を歩いた。30℃近い晩夏の太陽に照らされた城壁巡りで汗だくになったが、多くの観光客が歩く毎に変わる景色を楽しみながら散策していた。⑤⑥
この城壁は、9世紀にはすでに基礎が作られていたらしいが、本格的には13世紀に30年の歳月をかけて最高高さ25m、厚さ3~6mの城壁を強固に造ったのだと言う。そして14世紀には堅固な要塞も加えられた。
1時、ナポレオンの侵攻により破壊され、また1991年の内戦で大きな傷を負った町だったが、今また逞しく蘇えっているように感じた。
最後の写真は今も賑わう旧港である。⑦
④ ⑤
⑥ ⑦