花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

伯母の農作業を手伝う

2013年04月25日 | 高齢期の生活全般
何度も私の記事に登場する93歳の伯母は、入居して以来続けて来た「高齢者専用賃貸住宅」の庭を借りた農園で今年も野菜を育てたいというので、今日はその手伝いに行って来た。
伯母が借りている農園の広さは6畳程度だが、そこで私が着くのを待っていてくれた。

私は早速スコップで耕し始めた。一気に起こそうとしても息が上がるので、休み休み耕した。
伯母は風向きなどお構いなしに消石灰を撒くので参った。その後、伯母は鶏糞と化成肥料を全体に撒いていた。

最初に私が持参した「二種類の種芋」が少し大きかったので、適当な大きさに切り分けてから15cmほどの深さに掘った溝の底に植えた。丁度2列に収まった。
次に種芋の両側に化成肥料を一握り置き、土を掛けた。
それから左右の土をすくって土盛りした。この方法では発芽が少し遅れるが、病気になり難いらしいのだ。
これで芋の植え付けは完成した。

残った畑に私が持って行った「小蕪」「小松菜」「春菊」「スナックエンドウ」の種を、次々と蒔いて行った。
聞くと、ホーレン草や人参、トウモロコシは、土が悪いので作らないと言う。入居者達に注目されているので、失敗しそうなものは作りたくないのだろう。

「5月下旬、郭公が鳴いたら豆の種を蒔きたい。」というので、余っていた隠元豆「モロッコ」の種を渡した。
カボチャの種もあったので、「できたら儲けものだ位の気持ちで作ったら?」と言って数粒渡した。

伯母は室内で2月からトマトの苗を育てて来ていて、「もう直、花が咲くので、畑に移植したい。」と話していた。さすが60年間、農家の嫁を務め上げただけある。

最後に農園をバックに記念撮影をしてから帰宅した。
伯母にすごく感謝されたが、私にとっては伯母が今年も好きな農作業を楽しみながら元気で暮らして行けそうな事が嬉しいのだ。
伯母さん、今年も頑張れ!!

           
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初夏の様な温かさだった

2013年04月23日 | 家庭菜園・市民農園・借り上げ農園
今日は朝から晴天で、陽射しが強く、最高気温は16度と初夏の様な気温になった。
伯母から電話が来て、「施設の庭の雪が溶けて土が乾いたのでじゃが芋の種芋を買って来て欲しい。また余っている野菜の種があったら持って来て蒔いて欲しい。」というので、早速農協に行き、「キタアカリ」と「メークイーン」の種芋を1kgずつ買った。価格は1kg250円だった。もし余ったら、私の畑に植えればいいのだ。

知っている人が多いと思うが、「キタアカリ」は肉質が黄色味を帯び、電子レンジでも簡単に調理できて食味が良いので人気がある芋だが、煮崩れしやすく、早く発芽する性質があるので保存性に難点がある。
「メークイーン」は肉質が白色、味が淡白で煮崩れし難い。だからカレーなどの煮物料理に向いている。
それでこの二種類の種芋を選んだのだ。

ところで日本政府は、芋の品種改良や種芋の生産を国家の管理の下で行っている。
芋は前年収穫した芋が種(栄養体)となって今年の芋がクローンのようにできるのだが、もしも種の芋が病気だったり、疫病になるウイルスに感染していたら、たちまち他の畑にもウイルスが感染してしまい、地域全体の芋の収穫が全く望めなくなる場合もある。
それで政府が管理して、無菌の芋を種芋として認定しているのだ。
買って来た食用芋や、自分が収穫した前年の芋が芽を出したのを植える人がいるが、大変危険な事なので止めた方がいい。

ついでにホーレン草の種も買った。
戻ってからホーレン草を植える場所に大目の消石灰と堆肥、化成肥料を施して置いた。数日後に種を蒔きたい。
野菜の中でホーレン草の栽培は、その難しさから5本の指に入るだろう。
今回求めた種は、トウ立ちが遅いと書かれている種にした。

明後日、伯母の所に行く予定なので、雨にならなければ良いが…
                             
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室内の花

2013年04月13日 | ガーデニング・家庭菜園
まだ外は氷点下の気温に下がる日が多いので、室内で冬越しした寒さに弱い花が窓辺や玄関に沢山ある。
その中から最近咲き出したのが「君子ラン」だ。5年前に伯母が家を売って、高齢者専用賃貸住宅に引っ越した時に譲られたものだ。
今年は花数が少ないが、咲いてくれたので良かった。今は涼しい玄関に置いてある。
花が済んだら、花殻を取り、秋まで半日陰の室内に置く。



幾つもの「アザレア」があるが、早いのでは新春早々に開花し出した。しかしこの2つは、晩生の品種なのだろう。右のは最近やっと咲き出した。
「アザレア」は花が終わると剪定して、5月になるのを待って庭に下ろす予定だ。



幾つかある「ゼラニウム」だが、今はこれが一番元気だ。 
また冬中ずっと咲き続けた「マーガレット」も、5月には庭に下ろす。


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庭の雪が溶けた

2013年04月12日 | ガーデニング・家庭菜園
あんなに残っていた庭の雪も4月9日に完全に溶け去った。
3月まで積雪量は多く、気温は低かったので、薔薇の冬囲いを解いて見ると例年よりも枝の枯死や傷みが激しい。つつじの枝も結構折れた。
この3日間は、傷んだ枝を剪定し、昨日は数十本ある木々を石灰硫黄合剤で殺菌消毒した。これで先ずは一安心だ。

枯れ葉が沢山落ちている地面に、球根類の新芽が顔を出し始めた。
「また今年も会えて嬉しいよ!すくすく生育して綺麗な花を咲かせてね!」と心の中で言いながら写真に収めた。

①チューリップ ②ヒヤシンス  


③クロッカス ④ケマンソウ(タイツリソウ)
 

             ⑤アリウム・ギガンテウム(花葱)?        
             ⑤ 

今日から天気が良い時を見計らって、少しずつスコップで菜園を耕そうと思っている。
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「スリランカ」旅行(13)

2013年04月11日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
最後に、今回の旅行で土産や記念に買って来た物について書く。
「スリランカ」と言えば、代表的な物として「宝石」、「天然ゴム」、イギリスの植民地だった影響で「美味しい紅茶」の三つを上げることができる。
その他として、料理に使う多くの「スパイス」の産出国でもある。

そこで私は、行きの航空機内で飲んだ紅茶が美味しかったので、アテンダントにその銘柄を聞いて置いた。また、泊まったホテルの部屋にあった紅茶も同じだった。
ところがツアーで連れて行かれた紅茶の店は、他の銘柄だったので、最後の日に行く予定になっていた「スーパーマーケット」まで買わないで、そこで自家用、土産用として沢山買った。
棚には普通の紅茶以外に色々な種類の紅茶があったので、「レモン紅茶」「桃紅茶」「生姜紅茶」も買った。
帰宅後飲んでみたがどれも優しいすっきりした味で美味しい。

 

「スパイス」は、「ターメリック」「チリパウダー」カレー用の「ガランマサラ」を買った。いつも世話になっている近所にも少しずつお裾分けした。
カレーを作る時に少量加えると、スパイシーな美味しいカレーが出来上がる。

また、日本で売られている「十穀米」にも入っている「赤米」があったので、500g25円で買って来て、これも近所にお裾分けした。いつもの白米に少量混ぜて炊くと、美味しいのだ。
(スリランカは今回のTPP交渉国には入っていないが、もしこの先TPPで日本が輸入米に掛けている778%の関税を撤廃すると、こうした日本の1/8位の価格のまま、参加している東南アジア諸国から米が入って来る事になるのだ)

         

さらにツアーで連れて行かれた宝石店では気に入った宝石は無かったが、たまたま寄ったスーパー横の専門店でデザインが素敵な「ルビーのペンダントヘッド」があったので、価格を値切って娘に買った。それをツアーの女性達に見せたら、彼女達もその店に行き、買い求めた様だった。

他に「ナッツ入りチョコレート」の小さいのを買って見たが、熱い国のためか日本のよりも砂糖が少なく甘みが弱かった。
私の買い物は、どこの国に行ってもせいぜいこの程度だが、今回の場合は「宝石」が特別だった。




今回の短期間の旅で、内戦が終わってまだ4年しか経っていない国「スリランカ」を、少しだけ見ることができた。
政府の手でこれから国内のインフラ整備や子ども達の教育が少しずつ進められて行くと、もっともっと世界中から多くの観光客が訪れるだろう。
その時、仏教を基盤として生活している人々の素朴で穏やかな暮らし方が、経済競争に疲れた先進国の人々にとっては、魅力的に見えるのではと思った。
反面、経済的な豊かさを手に入れる過程で、人々の宗教観が変化して行くかもしれないとも感じた。

また、気候がいいし、貯水池や運河の整備はなされているので、農業の近代化が進めば農業生産力は格段に向上するとも思った。
ただ、象を始めとした貴重な野生動物の保護と、農業や観光業の近代化とをどのように折り合いをつけるかが課題だろうけど。
私は、これからの「スリランカ」の進歩、発展を、見守りたい気持ちになった。

長い旅日記になったが、この日記から「スリランカ」という小国の歴史と今を、皆さんにはどのように感じて貰えただろうか。
(完)




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「スリランカ」旅行(12)

2013年04月10日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
≪コロンボ≫
象の孤児院見学後「ピンナワラ」から100km西方の「コロンボ」までバスは3時間かけて走った。
(スリランカの首都は「コロンボ」の西10km程離れた「スリー・ジャヤワルダナプラ」だ)

ガイドブックで「コロンボ」の歴史を見ると、「コロンボ」は15世紀までは「宝石」や「香料」が取れることが知られた小さい漁村だったそうだが、16世紀にポルトガル人が来て砦を築き、地名を「コロンボ」と付けた
やがて17世紀にオランダ人たちが入植し出すと、シナモン交易の主導権を巡った争いが起き、ポルトガル人が去って、オランダ人がスリランカを植民地化した。
ところが1796年にイギリスがオランダに勝って植民地政策を進めた
その頃、コーヒー栽培が上手く行かなくなっていた畑を、イギリスは紅茶畑に変える事に成功し、「コロンボ」は発展していった。

第二次世界大戦後の1948年、スリランカは「イギリス連邦内自治国」の「セイロン」として独立し、首都を「コロンボ」とした。その後、1984年にジャヤワルダナ大統領が首都を「スリー・ジャヤワルダナプラ」に移したという。

(1956年には、シンハラ語を公用語にした事に反発してタミル族が自治を要求。1972年に仏教を準国教的宗教に制定すると、タミル族は分離独立を要求し、若者達が武装闘争に入った。一方で東部のムスリムはこれに反発して来た。
そして遂に2009年5月に「スリランカ政府」と過激派組織「タミル・イーラム解放の虎」は内戦終結を宣言したのだ)


「コロンボ」市内に入ると、都市に特有の沢山の店、人、車が醸し出す賑やかな雰囲気が強くなった。
郊外は経済的には下町地域で、中心部に行くに連れて上流地域になるのは大体世界中そうだが、「コロンボ」はそれがはっきりしていた。

人々の足は、市内を走る飾り立てられた路線バスとオート三輪車の乗り合いタクシーが担っている様だった。バスは溢れるばかりの人を乗せて、ドアも閉めずに走っていた。
オート三輪車の大半は、中国製の車だそうだ。
大型バスもインド製が日本製のバスの1/3と価格が安いので、故障は多いが一番沢山走っているそうだ。









市内を一回りした後、インド洋に面した緑地「ゴール・フェイス・グリーン」でバスから降りた。傍に高級ホテルや政府観光局があった。
小学生の一団、ジョギングをしている警察官の一団に会った。
片手の先が無い障害者の男性乞食が、私達に近づいて来た。現地ガイドに聞くと、「内戦の地雷などで障害に陥った人には申請があれば国が手当てを給付するが、その他の手当ては無い。」と答えてくれた。
夕日がインド洋の地平線に沈んで行くのを見守った。この海の向こうは、最短距離で230km程しか離れていない「インド」なのだと思った。







日が沈んだ後、スーパーマーケットに寄り、買い物をした後、最後の夕食を中華料理店で食べた。頼んだパイナップルジュースに氷が入っていたので、ミネラルウオーターで作ったものかどうかを尋ねたらそうだったので安心して飲んだ。

           

飛行場に向かい、コロンボ発23;59のスリランカ航空で8時間20分飛んで、成田には時間通り6日目11;50に着陸した。

成田からはネットで調べておいた「京成成田スカイアクセス線」の直行便を初めて利用したが、1時間35分で羽田空港国内線ターミナルに着いた。これなら3000円かかるリムジンバスに頼らなくても良いと思った。
羽田空港から北海道新千歳空港に戻り、今回も無事18時に帰宅できた。居なかった間に、大分雪が少なくなっていた。


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「スリランカ」旅行(11)

2013年04月09日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
最後に泊まったキャンディのホテルは、100年程前に英国の軍人が所有していた建物をスイス人女性が買い取ってホテルを開業したという所で、古いが庭が美しく、今ではキャンディの大きい国際ホテルの一つとして世界中から来たグループで溢れていた。
夕食も朝食もバイキングだったが、ステーキやパスタを客の注文のたびに作ってくれた。デザートの果物やケーキも豊富で美味しかった。
朝はオムレツだけでなく、果物を言うと生ジュースも目の前で作ってくれるので、私はパインアップルジュースを頼んだ。美味しくて満足できる朝食だった。

(所でグループの一人が、2日目の朝食で、「卵の黄身が白くて変だ。」と言い出した。私は「黄身の色は餌の色素でどんな色を付けることもできる。日本ではベーターカロチンやトウモロコシを餌に混ぜて、かなり黄色い色を付け、わざと新鮮そうに見せているんだよ。」と教えた。
スリランカの鶏卵の黄身は本当に白っぽい自然色だった)




≪象の孤児院≫

5日目は9時にホテルを出て、50km南の「ピナウェラ」に向かった。
ここは「象の孤児院」がある事で有名な所だ。
ジャングルで親を見失った子象や怪我をしてしまった100頭程の象が連れて来られて、保護されているのだ。
子象が成長すると、象使いや寺院に引き取られるという。

バスを降りて「マハオヤ川」が見える場所に着くと、川の上流で沢山の象が水浴びをしたり体を洗ってもらったりしていた。
やがて水の中を下流に進み、次々と川から上がって傾斜した道路を孤児院まで登って行った。
私は昔「タイ」で象の芸を見たり、象クルーズをした事があったが、こんなに沢山の象を見るのは初めてだったので、気持ちが高揚した。

 


 
その後、「孤児院」に行って象がミルクを飲むのを観察した。眼前で見る象は大きく、優しい目をしていた。
外国人に混じって、スリランカの小中学生達が大勢見学に訪れていた。
実にスリランカらしい光景だった。






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「スリランカ」旅行(10)

2013年04月08日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
≪キャンディアン・ダンス鑑賞と仏歯寺≫

午後は、3時間かけて「ダンブッラ」の南100kmの地「キャンディ」に向かった。
「キャンディ」は標高300mの盆地で、シンハラ王朝がインドのタミール族に追われて最後に辿り着いた土地である。周囲の山が天然の要塞になり、300余年に渡ってここでシンハラ王朝の仏教文化は発展したという。
見晴らしの良い丘の上から見ると、最後の王が12年かけて造成したという「キャンディ湖」の傍に、レンガ色の屋根の「仏歯寺」が見えた。その向かいに「王女の沐浴場」もあった。狭いが美しい町だった。

 

丘を下りて「キャンディアン・ダンス」が行われる会場に行き、太鼓のリズムだけで踊るダンスを1時間鑑賞した。最後に披露された「火渡り」は、畳半枚ほどの広さに炭火が敷き詰められている上を裸足の男性が渡って行くというものだった。私は見ていて気分が悪くなった。
会場は蒸し暑く、各国からの観光客で一杯だった。今まで日本人ツアーにあまり会ったことが無かったが、ここではもう二つのグループもいた。
私は2階席に行ったが、両隣はデンマークとフランスからの観光客だった。彼らは2~3人で来て、現地ガイドを雇っている様子だった。
持参した扇子を使っていたら、隣のフランス女性からあり難がられた。


 

ダンスが終わってから直ぐ近くにある「仏歯寺」に行った。
キャンディにある仏歯は、ガイドブックに寄ると紀元前543年にインドで仏陀を火葬した時に手に入れた歯を、4世紀にインドの王子が頭髪に隠してセイロンに持ち込み、「アヌラダープラ」に奉納したもの。
その後、シンハラ王朝の権威を現す物として大切に守られて来た。仏歯がキャンディに運ばれたのは1590年だという。

その日は丁度3月の「満月の日」だったため、寺は手にジャスミンの花や寄進する僧服、托鉢の容器などを持って参拝する人達でごった返していた。
毎日3回行われる金品の寄進時間には、僧達が打楽器を打ち鳴らす大きい音と、前になかなか進めない程の大勢の人達の熱気で溢れる。
私達は1人1000Rs札(日本円で800円)を握り締め、30分以上かかって二階奥の仏歯が入れてあるという金ぴかの仏塔前まで入り、そこのボールにお布施を入れた。



一階に下りて釈迦の生涯を画いた沢山の絵が飾られている部屋に入った。そこには世界中の仏教寺院から寄進された仏像が並べられていた。日本の東本願寺が寄進した仏像(左側の背が高い仏像である)もあった。
廊下の天井を見ると、独特な木造建築様式の建物だった。



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「スリランカ」旅行(9)

2013年04月07日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
4日目は、「ポロンナルワ」の西南西80kmに位置する「ダンブッラ」に行き、世界遺産「洞窟寺院」を見学する事になっていた。
ホテルから出たバスは、およそ1500年前に造られた灌漑用の「ギリタレ貯水湖」を左脇に見ながら暫く走った。
途中で象に乗っている観光客に出会った。象使いは2人共裸足だ。その方が象を使うのに良いのかも知れない。実にのどかな光景が続いた。

 

 

≪世界遺産「ダンブッラ」の「洞窟寺院」≫

「ダンブッラ」の町に入り、バスを降りて「黄金寺院」がある平地から丘に向かってバスで少し登り、そこから傾斜路を歩いて10分弱登って行った。
高さ180mの中腹に、目指す「洞窟寺院」があった。入り口で睡蓮の花を売っている女性がいたので、3本100Rs(日本円で80円)で買い、仲間にも分けた。



この「洞窟寺院」は紀元前1世紀に「ワッターガーマニー・アバヤ王」が建立したもの。この王は、首都「アヌラーダプラ」からインドから攻め込んだタミール軍によって追われ、この僧院で15年間隠遁生活をしたが、再び首都に戻ることができたお礼に建設したと言われている。
その後、歴代のシンハラ王朝の王が寺院の規模を次第に大きくして行った。
現在、1~5窟まであり全部で153体の仏像とそれを壁画、天井画が取り囲んでいた。

手前の靴脱ぎ場で靴を預け、最初の第1窟寺院に入った。壁の岩と同じ自然石でできた全長14mの涅槃像が金色に輝いていた。壁や天井のフレスコ画は15~18世紀に描かれたものだという。



 

第2窟寺院は天井が高く、とても広かった。(ガイドブックには、間口52m×奥行き23m×高さ7mと書かれていた)
50体以上の仏像が並んでいて、仏陀の生涯やスリランカの歴史などが詳しく画かれていた。
第3窟からも同様に造られていて、どこも信徒や観光客で溢れ、仏教徒の聖地ということが分る場所だった。





 






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「スリランカ」旅行(8)

2013年04月06日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
≪いにしえの都「ポロンナルワ」②≫

「ポロンナルワ」観光の最後は、「ガル・ヴィハーラ」だった。
そこには立像、坐像、涅槃像が14mもの美しい一枚岩に彫刻されていて、芸術的にも素晴らしく、じっと向き合っていると信者でなくても何か清新な気持ちが湧いて来るのだった。

 

 




4日目の朝、体調が大分回復し朝食も少し食べることができたので、ホテルの周辺を散策した。
面白いアヒルがいたので写真を撮りたいと思い、カメラを取りに部屋に戻った。再度外に出た時には何処に行ったのかいない。前庭を掃いていた青年に聞くと、あちこち探して見つけてくれた。
写真を撮ってから彼に「ここで待ってて下さい。直ぐに戻ります。」と言って再度部屋に戻り、スーツケースから念のために持って来たカップめんを取り出して急いで庭に行き、「ジャパニーズ インスタントヌードル。サンキュウ」と言って手渡した。

 


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「スリランカ」旅行(7)

2013年04月05日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
≪いにしえの都「ポロンナルワ」①≫

「シーギリヤ」から下山後、再度75kmの道のりを「ポロンナルワ」に戻り、世界遺産の古都の寺院や石仏を夕方まで観光した。

ガイドブックによると「ポロンナルワ」は10世紀末から11世紀に、インドのチョーラ王朝が大軍を送り込み、シンハラ王朝の首都「アヌラーダプラ」を征服したため、シンハラ王朝は首都を「ポロンナルワ」に移し、灌漑設備の修復、仏教の普及に力を注いだという。
その結果、「ポロンナルワ」は仏教の聖域となり、タイヤビルマから訪れる僧が多くいたそうだ。

しかしインドのチョーラ王朝は、「ポロンナルワ」にも攻め込んだため、13世紀にはシンハラ王朝は島の中心部に後退した。
「ポロンナルワ」は次第に衰退してジャングルの中に埋もれて行く事になったという。

英国の植民地になっていた1900年以降発掘されてようやく様々な遺跡が日の目を見ることになったらしい。

私達は遺跡群がある「クワドラングル」(四辺形の意)を見学した。

①遺跡「ワタダーゲ」 
遺跡の入り口には「ムーンストーン」と呼ばれる象が彫られた半円形の石が置かれていた。この石の前で靴を脱ぎ、裸足で中に入るのだ。中心の坐像は「ダーガバ」だという。

   

 

②遺跡「ハタダーゲ」
12世紀に建てられた仏歯寺院である。中に碑文が残されているという。

 

③遺跡「トゥーパーラーマ」
天井が高く、小さな天窓しかない真っ暗な寺院だった。中に置かれている数体の仏像は砂金で造られているため、ろうそくの明かりや朝夕天窓から差し込む僅かな光で、キラキラと輝きを放つ様になっていた。



④「ガルポタ」
9m×1.5mの本の形をした遺跡だ。インドの侵略者の事、周囲の小国との関係、これを造らせた王への賛辞が刻まれている。

⑤寺院「ランカティラカ」
高さ17.5m、奥行き52m、幅18mもある大きな建物で、13世紀に建てられた。奥中央に頭のない巨大な仏像があり、シマリスが駆けずり回っていた。



他にも長い間ジャングルに埋もれていたといういくつかの遺跡があったが、割愛する。
ここには猿が沢山いて、私達を和ませてくれた。下の写真は、小猿を抱いたメスの所に近くにいた雄猿がにじり寄って来て、メスにアタックし出した所だ。

また、道路の修復工事をしている人たちの大半がスカートを穿いた中高年の女性だったことにも驚いた。現地ガイドに聞くと、日給制で700~800円位だと言っていた。



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「スリランカ」旅行(6)

2013年04月03日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
≪フレスコ画の美女に出迎えられた「シーギリヤ・ロック」≫

仏教の聖地「アヌラダプーラ」で三大寺院を観光した後、南東方向110kmにある町「ポロンナルワ」までバスで3時間かけて、ホテルに着いたのは17時半だった。
ホテルは、大きな「ギリタレ貯水湖」(5世紀の中頃支配していたダートゥセーナ王が貯水湖を造った)の東岸に面して建てられた古いホテルで、フロントがある広いロビーの貯水湖側は大きく開けられていて壁がなかった。
風景がまるで額縁に入っている様に見える建て方がされていた。
キーを受け取り、部屋に入って見ると、部屋の窓も同じように大きく、風景が素晴らしかった。
このホテルに連泊した。

 

3日目はスリランカ旅行の最大のハイライトであり、難関でもある「シーギリヤ・ロック登山」だった。

所が運悪く私は、2日目の朝食で食べた何が悪かったのかは分らないが、昼前から気持ちが悪くなり、軽い腹痛を起こし、その後、寺院の観光中に数回、下痢をした。
それで2日目の昼食、夕食、3日目の朝食を抜き、その間、日本で事前に病院から処方された抗生物質を服用していたのだ。
だから体力はガタ落ち状態、しかも気温が33度位で湿度が高いと来ていた。
しかし、スリランカに来て、ここに登らない訳には行かなかった。
何人もの男性ヘルパー(頼むと15ドル程らしかったが)が声をかけてくれたが、「ノーサンキュー」と全て断り、持って行った登山用の杖を片手に頑張った。

 

  

観光客で混み合っていたのでゆっくりと25分程登った所の岩肌に辿りつくと、そこに有名な美女のフレスコ画「シーギリヤ・レディ」が現れた。
カーシャパ王が、無念の死を遂げた父の霊を慰めるために描かせたと言われているが、別に美女は天国の妖精たちで、王自身を守らせるために描かせたという説もある。
1500年前には500人の美女が描かれていたらしいが、今は損傷が激しく、18人の絵だけがその美しさを保っていた。フラッシュ撮影は禁止されていた。私は混み合う大勢の人の背後から何とか撮影した。

 

  

ガイドブックによると、この「シーギリヤ・ロック」は、昔から仏教僧たちの修練場だったという。
所が「ギリダレ貯水湖」を造った王の長男カーシャパは、母親が平民の女性だったため、王族の血筋の母親から生まれた腹違いの弟に王位の継承権を奪われるのを恐れていた。
ある日カーシャパは、父王を監禁して王位を奪った。弟はインドに亡命した。
その後、カーシャパは「全ての財産を出せ。」と父に迫ったが、父は貯水湖を指差して「これが私の財産の全てだ。」と答えたという。
怒ったカーシャパは、家臣に命じて父を殺させた

その後カーシャパは、狂った様にシーギリヤ・ロックの頂上に宮殿を建造し始め、ついに7年後、頂上に王座を置き、岩山の周りには堀を造り、ワニを放し飼いにした。
11年後、弟がインドから攻めて来た時、カーシャパは岩山の中腹で自ら死を選んだという。

弟は首都を「アヌラーダプラ」に戻し、「シーギリヤ」の王宮を仏教僧に寄進したという。
そしてこの宮殿が発見されたのは、カーシャパ王の死後1400年後の事だった。

「シーギリヤ・ロック」は、こんな伝説とも史実ともされる物語があり、復讐される恐怖に震えた孤独な王の宮殿なのだった。
中腹から少し登った所に狭いが平坦な場所があり、「ライオンの両足」の間から登る階段が造られていた。造られた当時は、ライオンの頭部もあって、その口を通って階段が造られていたらしい。
さらに頂上までは、岩肌に造られた狭い急階段が続くのだった。

  

15年ほど前に「虚血性心疾患」だと診断され、肺活量が一般の人の70%程しかない上に、絶食でエネルギーを無くしていた私は、噴き出す汗を拭き拭きやっとの思いで頂上を目指した。
最後尾だった私も1200段の階段を登り切り、標高370m(岩山そのものの高さは195m)、1.6haある頂上に着いて、皆に拍手で迎えられた。バスを降りてから50分が経っていた。

そこには、王宮跡、王の沐浴場(プール)があった。ここに孤独な王は、1000人の侍女と住んでいたのだという。
周囲360度見渡せる熱帯の森林の景色は美しかった。
かって、カーシャパという奇異な王がいたお陰で、スリランカの国には今、世界中から大勢の観光客が来ていると思うと不思議な気がした。(南ドイツにある「ノイシュバンシュタイン城」も同じだが…)

 

             
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「スリランカ」旅行(5)

2013年04月02日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
≪最初に仏教が伝来した町「アヌラダープラ」②≫

②「スリー・マハー菩提樹」
ここの菩提樹は、紀元前3世紀にインドのアショーカ王の王女が、仏陀が悟りを開いたとされる「ブッダガヤの菩提樹の分け木」を運んで来て植え付けたものだという。

時々雨が降っていたが、次々と参詣する人が訪れていた。また入り口に座り、長い間じっと頭を垂れて身動きしないお年寄り達もいた。
そこには、私が日本の寺で目にする雰囲気とは違うものがあった。
ガイドが参道の花売りから買った睡蓮の花を私達に1本ずつ渡してくれた。花だけ摘んで大仏の前の献花台に供えた。
裏に回って菩提樹の傍に行った。樹齢2300年の幹から幾つもの枝が出ていた。

  

 

③「ルワンウェリ・サーヤ大塔」
菩提樹の寺院からこの寺院までは1km程の街路樹が並ぶ石畳の歩道が続いていた。その両側は草地になっていたが、牛やヤギが放牧されていた。その傍に白鷺が沢山舞い降りていた。

 

 

間も無く見えて来た大きな塔は、紀元前2世紀に当時のドゥッタガーマニー王が建設したという高さ55mもの水泡状の塔だ。この王は侵略して来た「タミル軍」を追い返した事でも有名だ。
綺麗な白色だが、ガイドに聞くと「毎年、塗装している。」と言っていた。
白いブラウスとスカートを着た女性達のグループが、参詣していた。

  

 
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私とした事が!!

2013年04月02日 | 日記
昨日はとてもショックな事があった。
車で大型スーパーに行った帰りにガソリンスタンドに寄ったのだが、財布がない。それどころか、車の何処を見ても財布が入ったショルダーバッグ自体がないのだ。
ハッと気がついた。ついさっき、スーパーの食品売り場レジ傍の台に置いて来たかも知れないことを。
売り出しの卵や肉などを買った荷物の袋が3個になり、それを両手で持ったらバッグを忘れてしまったのだ。

慌ててスタンドの店員に話してスーパーに電話をした。聞くと届いていた。あり難い!!

急いでスーパーに引き返した。
保安係りの部屋に通された。
担当者に「15分程前に食品のレジ付近に忘れました。色は黒で、中に入っている財布は茶色。財布の中には私名義の貯金通帳、クレジットカード、免許証、健康健康保健証などが入っています。」と並べ立てた。

すると私のバッグを出して来て、「免許証があったので、本人確認ができます。中を確かめて下さい。」と言われた。
無くなった物は何もなし。やっと気持ちが落ち着いたが、すごく恥ずかしかった。

「届けてくれた方は、分りますか。お礼がしたいので。」というと、「店員なので心配はいりません。」との事。
現金の他に貯金通帳が入っていたので、数ヶ月間の生活費に当たる金額が無くなるところだったのだ。何て平和な町で親切な店員なのかと感激した。

それにしてもハンドバッグを忘れてしまうなんて初めてだ…。ショックで自分に自信が無くなった。
今後は気を引き締めて、忘れ物が無いようにしたい。    
                    
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「スリランカ」旅行(4)

2013年04月01日 | 海外旅行「南アジアⅡ」スリランカ・ネパール
≪最初に仏教が伝来した町「アヌラダープラ」①≫

首都「コロンボ」は、スリランカの南西の海に面した町だが、そこから北北東180kmの内陸に、紀元前500年から1400年間栄えたスリランカ最古の町「アヌラダープラ」があり、そこまでバスで5時間かけて行った。
今回のバスは中型だが日本製で、座席は1人2席とゆったりしていて、冷房を効かせてくれて快適だった。

この町をかって統治していたのは「シンハラ族」の王「ウィジャヤ」で、既に高度な文明を持ち、大きな人工貯水池を造る灌漑工事を積極的に行って、上下水道、農業用水を確保した結果、農業が発展した。
この貯水池は現在まで使われていて、米の二期作や野菜栽培などを支えていた。

ガイドブックによると、この町には紀元前3世紀に仏教がインドから伝えられた。
仏教は、やがてこの地からスリランカ全土へ、またミャンマー、タイ、カンボジャ、そして世界中に伝えられて行ったという。
紀元前161年以降になると、南インドからの「タミール人」の侵略が始まり、王位を脅かされる事態が続く。
4世紀初めに釈迦の左の犬歯がインドから運ばれて王権の象徴となるも、10世紀にタミール軍の攻撃の前にシンハラ王朝はこの町を捨てたという。

町の遺跡地区には大小の寺院が残されていて、敬虔な仏教徒達が大勢参詣に訪れていた。

①「イスルムニヤ精舎」
岩肌を掘るようにして造られている寺院で、本堂に大きな涅槃仏(横たわる仏像)が置かれ、周囲を多数の僧の絵が取り囲んでいた。
東京の浅草寺が塗り替えの援助をしているそうだ。
仏像を背にして写真を撮ることは、仏像を汚す行為として禁じられているので、体を斜めにして撮る工夫をした。



  

寺院の裏に回り、岩山を登った。確かに何処までも続く立派な貯水池が巡らされていて、かっての王の見識の高さと強大な権力が今まで続く水の豊かさ、農業の発展を支えたのだと実感できた。



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