花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

「バルト三国の旅」(11)

2014年03月31日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《「エストニア」という国》 

今回行った「バルト三国」で最も北に位置する国が「エストニア共和国」で、北は約300kmもバルト海の「フィンランド湾」に面している国だ。
北海道のおよそ60%の面積に130万人の国民が住み、首都は「フインランド湾」に開いた北部の「タリン」である。
民族構成はエストニア人が70%弱、ロシア人25%で、その他はウクライナ人、ベラルーシ人である。
地理的には、「フィンランド湾」を挟んだ北70kmに「フィンランド」の首都「ヘルシンキ」がある。

今回の旅行では、南の「リトアニア」から中部「ラトビア」を旅行している間中晴天に恵まれ、朝の気温は低かったが午後は快適な春の気候だった。
しかし、「エストニア」に着いた日の夜から冬型の気候に変わり、夜中から雪が降った。翌日は一日中断続的に吹雪きに近い天候で、道路に5cm程積もった雪が暖気でぐちゃぐちゃになったところを歩いた。また石畳の傾斜地は、雪のため滑りやすくなっていて、転ばないように細心の注意を払って歩かなければならなかった。

ガイドブックを参考に「エストニア」の歴史を概観する。

紀元前30年頃、エストニア人の祖先が、エストニアに住む。
12世紀末、エストニアの「バイキング」がスエーデンの首都を略奪。
1219年、デンマーク王、タリンと北部エストニアを占領。
1227年、キリスト教布教と異教徒の排除を目指す「帯剣騎士団」タリンを占領。

1238年、デンマークがタリンを支配。
1285年、タリン、「ハンザ同盟」都市になる。
1343年、デンマークに対して大反乱が起きる。デンマークは北部エストニアをローマ・カトリック教会が公認したドイツ人の聖母マリア騎士修道会「チュートン騎士団」に売却する。
16~17世紀、エストニア人、ドイツ貴族の農奴になる。

1524年、宗教改革。
1558年、ロシアの「イワン雷帝」バルト地方に侵攻。
その後、次々とスエーデン、ポーランド、ロシアの支配を受ける。

1905年、ロシア革命始まる。
1915年、第一次世界大戦勃発。

1918年、エストニア共和国「独立宣言」。直ぐにドイツ軍に占領される。11月、ドイツ敗北。ソビエト・ロシアのバルト地域侵攻開始。
1920年、ソ連・ロシアと「平和条約」締結。
1934年、独裁政権誕生。

1939年、ソ連「相互援助協定」の締結を強要。ソ連軍、エストニアに駐留。
1940年、条約違反を理由にソ連軍、バルト三国に侵攻。ソ連、エストニアを「併合」。
1941年、数万人のエストニア人、シベリア流刑。
1942年、ドイツ軍、バルト三国侵攻。ソ連軍撤退。
1944年、ソ連軍、エストニア占領。
1949年、数万人の市民、シベリア流刑。

1991年、エストニア「独立」

この国も他のバルトの国と同じく、周辺大国の侵略、支配に限りなく翻弄され苦しめられた歴史があった。三国共、地理的に山が無く、どこまでも平野が続く恵まれた国土と、西ヨーロッパ、ロシア、北欧にとっては、三国が重要な中継地にある。そしてまたカトリック教会の支配範囲を拡大しようとしたためかと思われる。





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「バルト三国の旅」(10)

2014年03月31日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《世界遺産「リーガ旧市街」の観光》(3)

⑤「猫の家」
高い屋根の両端で背伸びをする猫が2匹乗せられている建物があった。「猫の家」だ。
かってこの家には裕福なラトビア人の商人が住んでいて、大ギルドへの加入を希望していたが、ドイツ人が支配的だったギルドに加入を拒否された。その仕打ちに怒ったラトビア商人は、屋根に大ギルド会館に尻を向けた猫を取り付けたのだという。
今、猫は向きを変えている。昔の商人の意地を見た猫だった。



⑥「城壁」と「スエーデン門」
「リーガ」の旧市街は13世紀から18世紀まで「城壁」で囲まれていた。かっては28の門があり、日没時に閉められ、夜明けに開けられたという。
その門の1つが「スエーデン門」と言われている。名前の由来は、近くの兵舎に住んでいたスエーデン兵が良く利用したかららしい。当時はリーガの娘は外国人と会うのを禁じられていたという。

  

⑦グリム童話「ブレーメンの音楽隊」の銅像
姉妹都市の「ブレーメン」から贈られた銅像が「聖ペテロ教会」前に設置されていた。像の足や鼻にさわると幸福が訪れると信じる多くの人たちが手で撫でるので、ピカピカに光っていた。

 

「リーガ」の観光は楽しかった。昼食を摂ってから、バスは最後の訪問国「エストニア」の首都「タリン」に向けて309kmの道のりを北に向かって6時間走った。
途中で石油を運ぶ長い貨物列車に出会った。

 

国境が近づいたが、バスはノンストップで通り抜けた。EU加盟前に入出国の事務手続きをしていた建物とゲートが、国境を挟んだ両側に残されていた。

 
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「バルト三国の旅」(9)

2014年03月30日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《世界遺産「リーガ旧市街」の観光》(2)

リーガの町には大きな「ダウカヴァ川」が流れるが、その川辺の景色を眺め、継いで「リーガ城」に行ったが、現在修復中で見ることができなかった。
②「ブラックヘッドのギルド会館」
真新しく見えたが、実2000年に再建されたものだそうだ。
この会館は未婚の貿易商人の友愛会員によって建てられたもので、月、日、時間、月齢を刻む大時計が掲げられ、彫金細工と彫刻で出来た個性的な建物だ。コンサートホールやダンスパーテーなどができた大ホールも再建されているらしいが、内部の見学はしなかった。

(下の写真は「ギルド会館」前の市庁舎広場。広場の中央には、リーガの守護神「聖ローランド」の像が立つ。後方の123mの尖塔は「聖ペトロ教会」)

 

右側の建物が「ブラックヘッドのギルド会館」である。

 

③「聖リーガ大聖堂」
「ギルド会館」の前は「市庁舎前広場」となっているが、その広場を挟んで建つのが「聖リーが大聖堂」だ。
1211年に僧正アルベルトが建築を初め、その後幾度も増改築を繰り返して来た。帯剣騎士団の根拠地だったらしい。
建て直された現在の塔の高さは90mだが、元は140mの高さだったという。
中に入ったが、ステンドグラスが美しく、1883年に造られたパイプオルガンのパイプは6718本もある。
リーガの人口の1/3がコレラとチフスで亡くなったといわれる1709年の大洪水の時の水位が、壁に記されていた。

  

  

 
④「火薬塔」
14世紀に建てられて火薬の保管に使われた塔で、高さ25.5m、外壁の厚さは3mあり、ロシア軍が打ち込んだ砲弾数発が残るという。現在は「戦争博物館」として使われている。絡み付いていたツタは春に新芽を出し、夏に緑の葉を付け、秋には紅葉するのだろう。

 
 
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「バルト三国の旅」(8)

2014年03月30日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《世界遺産「リーガ旧市街」の観光》(1)

「リトアニア」の「十字架の丘」観光後、バスはノンストップで国境を越えて、隣国「ラトビア」に入った。
そのままバスは首都「リーガ」を目指し、国境を越えてホテルに向かった。

先ずガイドブックを参考に「ラトビアの歴史」を概観する。

「リーガ」は、人口70万人を越えるバルト三国の中心的な町だ。この町が歴史に登場するのは、1201年に「ブレーメン」の僧正「アルベルト」が要塞を築いた事からだが、その際住民達には羊の皮1枚で囲める土地を要求し、同意を得ると、羊の皮を細長く切り、結局広大な土地を奪ったと伝えられているらしい。
その後、「帯剣騎士団」が作られ、リガはドイツのバルト三国覇権の本拠地になって行ったのだ。

そして13世紀は「ハンザ同盟」に加盟し、町は大きく発展を遂げた。13世紀末には、ラトビア全域が「ラトビア騎士団」に支配された。
16世紀に宗教改革が起きると、騎士団は弱体化し、ラトビアをポーランド・リトアニア連合国に譲渡してしまう。

1629年には、スエーデンが支配する様になったが、1710年には「ロシア」のピョートル大帝の支配下に入り、ロシアにとっての「ヨーロッパの窓」になって発展した。

1915年第一次世界大戦が始まると、1917年にはドイツ軍が侵攻し、全土を制服。翌年の11月、ドイツが敗北して、ソ連・ロシア軍が侵攻した。
1919年、全土をソ連から開放し、翌年、ソ連との平和条約を結んだ。

1920年には、農地改革、民主的憲法導入、国際連盟に加入した。
1934年、「ウルマニス」首相が独裁政権を敷く。

1939年、ソ連との間に「相互援助条約」を締結し、ソ連軍、ラトビアに駐留する。
1940年、ソ連軍、条約違反を理由にしてラトビアに侵攻し、傀儡政権を樹立後、ラトビアを併合する。その後、大量流刑が始まる。

1941年、ドイツ軍がバルト三国に侵攻し、ソ連軍撤退。
ドイツの占領下、9万人以上のユダヤ人が逮捕されて、強制収容所に送られる。
1944年、再びソ連軍ラトビアを占領する。1944年、「人民の敵」とされた数万人がシベリアに流刑される。

1991年、ラトビア「独立」。

この国も大国に挟まれた国として、大国の利益のために翻弄され続けた歴史があった。

4日目は、「リーガ旧市街」の観光だ。整備された町並みは、リトアニアの「ヴィリュニス」の雰囲気とは違って、経済的な力を感じた。
通りをバスで走りながら、写真を撮った。面白いデザインの像があった。
また、神戸市と姉妹都市という事で、神戸市が1993年5月に寄贈した時計塔があった。「リーガ」と「神戸」の二つの時刻を示す2つの時計がセットされている。



 



バスが旧市街の中心に行った所で、バスから降りた。

①「ユーゲントシュティール様式の建築群」

これらの建築群は、旧市街の一角、「アルベルタ通り」と「エルザベテス通り」の両側に建っていた。
サンクト・ペテルブルグの土木工科大学を卒業した「ミハイル・エイゼンシュテイン」(1867~1921年)が、19世紀後半から20世紀初めにかけてリーガで建てた建築群で、1997年に世界遺産に指定された。今は高級アパートやホテル、学校などとして使われている。それらをゆっくりと歩いて見学したが、そこだけ独特な雰囲気が漂っていた。




















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「バルト三国の旅」(7)

2014年03月29日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《カウナスの「大聖堂」と「十字架の丘」観光》

3日目、カウナスの「聖ペトロ・パウロ大聖堂」に行った。
15世紀に建てられた赤レンガの大聖堂で、現在はリトアニアのカトリックの枢機卿が本拠地にしている教会だ。

 



午後、「カウナス」から「ラトビア」の首都「リーガ」に向かう途中で、「ユルガイチャイ」の町の郊外にある「十字架の丘」に寄った。
バルト三国には高い丘や山がほとんど無いのだが、農業地帯の真ん中にあるこの丘が、カトリック教信者が建てた十字架で埋め尽くされているのだ。
何時頃から十字架が立てられる様になったのかははっきりしないらしいが、1831年後、ソ連軍が3~4度、ブルトウザーで破壊した事があるというが、また直ぐにいつの間にか十字架が立ったという。添乗員は、権力に反対する非暴力の運動なのかも知れないと言っていた。

バスを降りて土産物屋の前を通り、何も無い平地を丘まで200mほど歩いた。
傍に行ってみたら、僅か2~3m程の高さがある狭い場所に、本当に大中小の十字架が所狭しと立てられていた。今も増え続けているという。

 

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伯母の「手提げ袋」を作る

2014年03月28日 | 日記
一昨日、伯母に頼まれたことがある。
かって大事にしていた絹(大島)の和服の端布があるが、それで「手提げ袋」を作って欲しいというのである。

今朝、早速、預かった2枚の絹端布を全て使い切るデザインを考え、幅34cm、高さ25cmの大きさに仕上げた。
総裏つき、ポケットは内外に1個ずつ、マチも少し付けた。
その中央上部と外ポケットにマジックテープを張って、中に入れた物が落ち難く工夫して見た。

両サイドの裏側に幅広ゴムを張って少し縮め、デザインのポイントにした
生地が絹なので凄く軽くて、高齢の伯母に優しい袋ができ上がった。
来週にでも届けに行こうと思う。
愛着がある思い出の和服地でできたこの「手提げ袋」を、気に入って使ってくれると嬉しいのだけれどどうだろうか。

             
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「バルト三国の旅」(6)

2014年03月28日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《「トラカイ城」観光》
「ヴィルニュス」の西方28kmの所にある町「トラカイ」には、多くの湖と森があり、かってリトアニアの首都が置かれていた事もある町だ。その一つのルコス湖の小さな島に建てられたのが「トラカイ城」だ。
バスを下り、湖にかかる木製の桟橋を渡って城を目指した。
この城は、14世紀後半にチュートン騎士団の侵入を防ぐために建てられた要塞だったが、権力がポーランドに移ると荒れ果ててしまった。1961年から復元され、博物館になっている。

 

 

 

またこの町は、15世紀初めに「クリミア」から傭兵として連れて来られたトルコ語系の少数民族「カライメ」の里でもあるという。現在は200人程が暮らしているそうだ。

観光後、また「ビリュニュス」に戻った。その途中、火力発電所があった。
ホテルの近くのアパートと隣にあるスーパーマーケットを写した。



 
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「バルト三国の旅」(5)

2014年03月28日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《「ヴィリュニュス」観光》

2日目、ホテルを出て市内観光に向かった。

①「聖ペテロ・パウロ教会」
1668~75年に建造された教会。イタリアから招いた彫刻家達が30年の歳月をかけて作った2000以上の白い漆喰の彫刻群が有名だ。
この教会は、抵抗運動の本拠地だったという。

 



②「大聖堂」
17世紀に建造されたバロック様式のカトリック教会。

ソ連併合を認めた「独ソ不可侵条約秘密議定書」締結50周年に当たる1989年8月23日にバルト三国の220万人が参加して、この大聖堂前の広場から手を繋いで三国を結ぶ「人間の鎖」を作り、独立運動のための平和的デモをした基点が記されていた。
地元の共産党当局も容認して、鎖が切れないように無料バスを出すなどしたという。
この1週間前に、ソ連は「秘密議定書」の存在を認めたらしいが、あくまでも三国が自主的に併合を望んだと主張したという。

「聖イジミールの部屋」には、ポーランドのシンボル「鷹」の上に大きな聖杯が乗って飾られていた。

 

 

③「聖アンナ教会」
16世紀に建設された教会で、33種類のレンガを積んで建てられているという。



さらに「ビリュニュス」には「KGB博物館」もあり、1944~91年にソ連の国家警察・秘密情報機関だったところだ。そこでは1000人以上の人々が銃殺されたという。







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93才の伯母を慰問

2014年03月27日 | 高齢期の生活全般
昨日は、朝から3月末を思わせる晴天。私の都合と伯母の週2回のディサービスの都合を照らし合わせて、岩見沢の高齢者専用賃貸住宅にいる伯母の所にやっと行くことができた。
車で50分走る途中、遥かな高みに真雁だと思う渡り鳥の100羽程の群れ2団が、南から北に向かって飛ぶのに出会い胸が高鳴った。日本で越冬した渡り鳥たちが、シベリアに帰る時期が来たのだ。

伯母は朝食だけは施設の食堂で食べているが、昼、夕食は自炊しているので、いつも通り食材を買って持参した。
今回一番喜ばれたのは、いつも食べている「レトルトのご飯」だった。
消費税が安い内にと行われているバーゲンセールで見つけ、3個パックを5個買って持って行ったのだ。伯母は「重いので、いつも1個しか買えないから有難い。」と喜んでくれた。
またキャベツ1個、小さいじゃが芋4kg程度、ピーマン1袋と伊予柑、バナナだ。

また伯母から頼まれていた下着類数枚、私が着なくなった春物の衣類2枚と、今回の「バルト三国」旅行で「エストニア」から買ったお土産、それに数年間育てて来た「アザレア」1鉢だ。
衣類は着せてみたらサイズがピッタリで、伯母は「明るい春の色なので嬉しい。」と喜び、お土産は、手づくりの「バターキャンディ」1袋と「オレンジクリーム入りチョコレート」1箱を、伯母が世話になっている友人のも用意した。この「キャンディ」の製造元は、先日のTV「世界遺産の町、タリン」で紹介された有名な店だった。
また、100円ショップで買っておいた「世界地図」では、今回旅行した「バルト三国」の場所を教えて、その国の様子を話した。

数年前から施設の庭で野菜を植えて来た伯母と、5月の畑仕事の打ち合わせや野菜栽培のクイズなどをしていた所に、丁度友人が来た。

その人から、「消費税が4月から上がるけれど、何でも買っておいた方がいいの?」と聞かれた。
私は、「4~5月に使う消費物なら少し買っておいても良いと思うけれど、僅かな消費税のために重たい思いをしたりする必要はないし、電気製品の様に製品開発がどんどん進むものなどは、暫く待って多少高くても良い新製品を買った方が良いのでは…」と答えておいた。

ゆっくり4時間、話をしたり、伯母の冬物の服の手洗いを手伝ったりした。
帰りには、2ヶ月前に持参して花が終った椿とアザレアの鉢を貰って来た。2人して車のところまで送りに出てくれた。

変化が無い生活をしている伯母にはちょっとした事でも嬉しいらしいので、春を迎えてやっと道路の雪も溶けたので、せいぜい家族がいない伯母を今年もサポートしたいと思っている。


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通院日

2014年03月24日 | 医療・健康・食生活・衣生活
今日は3ヶ月に一度の内科循環器科の診察日
血液検査もあるので、予約時刻の1時間前に行ったが、連休明けの月曜日のためか混んでいて採血の順番を待っていたら1時間も経ってしまった。それから結果が出るのを待ち、主治医に呼ばれたのがさらに1時間後。

主治医の診断は、「薬が効いているらしく、中性脂肪も悪玉コレステロールも大きく下がりました。でも血糖値が上がったので、気をつけて下さい。」とのこと。点数をつけたら60点という感じ。
この所、菓子パンや駄菓子、チョコレートを毎日食べていたと反省した。

午後、眼科の病院に行ったら、私よりも若い女性から「糖尿病が原因で、片方の視力が凄く落ち、今はぼやっとしか見えません。」と聞いた。糖尿病って恐ろしい病気なんだね。ならないように菓子パンには気をつけようと思った。

ところで眼科では、「視力検査の結果、左右とも裸眼で0.7、眼鏡をかけたら1.2。眼圧は正常値。白内障、緑内障の心配は無い。」と言われた。
最後に「眼球乾燥症」の点眼薬を2種類10本出してもらい、次の通院は8月になった。

検査のために瞳孔が開いていて凄く眩しかったけれど、目を細めて何とか車を運転し帰宅した。
そういう訳で今の目の健康度は、60点と付けておきたい。

           
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goo blog を始めます

2014年03月22日 | 日記
そろそろ「Broachブログ」が終了するので、今回、Plalaが推薦する「gooブログ」を開設しました。

「Broachブログ」は、ブログで同病者だった彼女のブログを通して、病気についてほとんど知らなくて大きな不安を抱えていた当時の私自身が、情報を得、治療の見通しを持ち、勇気を与えられた事がきっかけとなり、自分も治療中、外に出たり、人に会ったりすることが出来なかった時期に、自分の思いを形にし、社会との僅かなつながりを求めて始めたブログでした。

それから7年が経ちました。
このブログに立ち寄っていただき、励まして下さった皆さんに、心からお礼を申し上げます。皆さんとのブログを通しての交流は、本当にかけがいのないものでした。

また、この間、私に情報と勇気を与えてくれた彼女は、3年前に亡くなりました。病院で仲良くなった同病の友人、私のブログにコメントを書いてくれた何人かの同病のブログ友も次々に亡くなりました。なので今日まで、私が元気でいられた事が不思議です。

どうぞ、またお付き合いいただきますようお願いいたします。訪問を待っています。
                                           
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昨日は野菜栽培講習会

2014年03月22日 | 家庭菜園・市民農園・借り上げ農園

こんにちは。「goo」で初記事を書きます。宜しくお願いします。

先週、雪崩しに汗を流していたら、「その内、溶けるから大丈夫だ!!」とご近所さんに言われてしまったが、今朝は-4.5℃。午後には庭にまだ1mほど残っている積雪の雪解けが進みそうで嬉しい。

昨日は「野菜栽培講習会」に行った。3月に入って以来、日曜日毎に開かれている。
昨日は「じゃが芋、トウモロコシ、枝豆の植え方」だった。

最近ではじゃが芋の品種も多く、それぞれ食味や催芽時期などが異なるので、凄く参考になった。
じゃが芋もトウモロコシも、素人ながら今まで数年植えて来たが、昨日は今まで抱いて来た栽培法の疑問、じゃが芋の花を取るべきか、じゃが芋の茎は2~3本にするべきか、トウモロコシの脇芽や雄花の管理などを晴らすことができた。


当地の本格的な野菜類の植え付けはゴールデンウイーク明けになるが、講習会の後ホームセンターに寄って消費税が5%の内にと思い、トウモロコシや枝豆、ほうれん草などの種を買った。
北国にもやっと待ち望んだ良い季節が訪れそうで、嬉しい。

                         
 

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「バルト三国の旅」(4)

2014年03月20日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《「ヴィリニス」の歴史》
今回訪れたバルト三国は、似たような歴史を有する国だが、最も南に位置する「リトアニア」の首都「ヴィリニス」から観光が始まったので、先ずはその歴史をガイドブックを参考に概観したい。

13世紀の中頃、「ミンダスガウ大公」がリトアニア初の王位に就く。
1385年、「ヨガイラ大公」ポーランド皇女「ヤドヴィカ」と結婚し、連合国になる。
16世紀後半、貴族のポーランド化が進み、事実上ポーランドに吸収される。

1795年、「第三次ポーランド分割」でリトアニアは「ロシア領」になる。
1830年、反ロシアの蜂起が多数起きる。これに対してロシアは激しく報復、カトリック教を弾圧し、リトアニア語の使用を禁じる。
1904年、日露戦争でロシア敗北。

1915年、第一次世界大戦始まり、リトアニアにドイツ軍が侵攻する。
1918年、「国民議会」はドイツからの独立を宣言する。
1920年、「ポーランド軍」、「ヴィリニス」占領。首都を「カウナス」にする。

1939年8月、「ソ連外相モロトフ、ドイツ外相リッペンドロップ秘密条約締結」
      (表向きは「独ソ不可侵条約」。しかし、秘密裏に相互の利益を擁護し、バルト三国とフィンランドの相互分割を約束していた)
      第二次世界大戦勃発(9) 「相互援助協定」により、「ソ連軍」、リトアニアに駐留する。

1940年、条約違反を理由にして、「ソ連軍」、リトアニアに侵攻(6.15)し、その後「併合」する。(8.3)
1941年、数万人が逮捕(6.14)され、大量流刑始まる。

      「ドイツ軍」、バルト三国に侵攻(6月)し、占領する。
1941~1944年、20万人以上の「ユダヤ人」が「強制収容所」に送られる。

1944年、「ソ連軍」、リトアニア占領。
1949年、数十万人が「人民の敵」として、シベリアに流刑される。
1990年、リトアニア「独立宣言」
2004年、EU加盟を果たす。

苦難の歴史を乗り越え、「独立」を果たしてから僅か24年の若い国なのだ。




《「杉原千畝氏」ゆかりの「旧日本領事館」》

旅行3日目に、バスで「リトアニア」から北の隣国「ラトビア」に向かう途中の町「カウナス」で、「日本のシンドラー」と称えられる「杉原千畝氏」ゆかりの「旧日本領事館」に立ち寄った。
今は「杉原記念館」として保存されている閑静な住宅地の中のその建物は、普通の住宅と間違えそうなものだった。
中には執務室、ビデオが鑑賞できる視聴覚室、資料展示室、事務室があり、まず15分間、ビデオを見た。それから彼の執務室、資料室を見学して、記念品を買った。

資料に拠ると、1939年9月、第二次世界大戦が始まり、「ポーランド」がドイツ軍に占領されると、12000人のユダヤ人がまだ独立国だった隣国「リトアニア」に避難した。
その2ヵ月後、杉原領事代理は「カウナス」のこの地に「日本領事館」を開設した。

リトアニアにいたユダヤ人亡命者は、戦争の危険が及ばない国への亡命を求めて、外国のヴィザを得ようとした。
1940年、ソ連がリトアニアを「併合」すると、彼らはソ連を通過して日本に逃れ、そこからアメリカなどへの渡航を望んだのだった。
何百人もの亡命者達が、「日本ヴィザ」の発給を求めて「日本領事館」を訪れた。

杉原氏は、日本政府に報告してヴィザ発給の承認を待ったが、2度ともドイツと協定を結んでいた日本政府の応えは「ノー」だった。
ソ連が「カウナス」にある全ての外国の大使館の閉鎖を命じる中、彼はベテランのオランダ外務省員「D.L.デ・デッケル」の助言を得て、正規でない「キュラソーヴィザ」を発給して「人道上の役割」を果たす事を決意した。

1940年7~8月に、毎日18時間働き、彼らの求めに応じて2193通の手書きのヴィザを発給した。
いよいよ領事館を閉鎖してドイツの「ベルリン」に向かう列車に迄、救いを求めるユダヤ人が押し寄せた。彼は車内で書いたヴィザを走り出した列車の窓から投げて渡したという。
こうして6000人の人たちが亡命を果たし、世界中に散らばった。

杉原氏は、その後、日本の外務省を辞職し、商社マンとしての人生を送り、1986年86歳で永眠した。
今彼の名は、リトアニアで最も有名な日本人として知られ、彼の名前をつけた通りもある。
この記念館は、2000年にオランダとベルギーの人々の基金と努力によって、かっての「旧日本領事館」に開館し、維持されている。

 
 (「希望の門・命のヴィザ」と書かれた入り口)      (彼の執務室)                

 
 (視聴覚室の出窓にあった国旗)          (キュラソー・ヴィザの提案者)

私達は2日目に「ヴィリニュス」の郊外、ネリス川の河畔に建てられている「杉原千畝記念碑」を訪れた。
この碑は、1919年に早稲田大学在学中に外務省の留学試験に合格し、その後外交官になって果たした彼の功績を称えて、早稲田大学が2001年10月に建てたものだ。
その碑には彼が発給した1通のヴィザも掲げてあった。


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「バルト三国の旅」(3)

2014年03月20日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《「ヘルシンキ国際空港」で乗り継ぎ、リトアニアの首都「ヴィリニュス」へ》

成田空港を11;30に飛び立ったJAL機は、時差-7時間の国「フィンランド」の最南端にある首都「ヘルシンキ国際空港」に現地時間15時に到着した。つまり10時間半飛行した事になる。私は飛行機に乗ると、いつも直ぐに時計を到着する国の時刻に合わせる様にしている。今回は7時間針を戻した。

一旦入国してから、売店が幾つかある待合室を通って、16;20発「ヴィリニュス」行きのフィンランド航空機のゲートに向かった。
ゲートの傍の売店を覗いて驚いた。500mlのミネラルウオーターが4.3€もしたからだ。1€が交換手数料込みで146円としたら628円という事になる。サンドイッチも1個で400~700円だ。グループの誰もが目を丸くしていた。

帰国時にも立ち寄ったので、今度は地下のスーパーに行って価格調べをし、記録のために写真を撮った。それが次の写真だ。単位は「€」

   
 (1.5L入り2.3~2.6€。ビタミンC添加のは+0.5€)   (全て果汁100%280cc程のが4.9?)

   
 (醤油もコーラ、ジュースの大瓶も4.5€)  (ケーキ1個の価格が4.3€と5.9€)

1時間15分の飛行で「ヴィリニュス」に着き、スーツケースを受け取ってから空港内の両替所で両替を済ませた。
リトアニアはEUに加盟しているが、通貨はまだ「リタス」なのだった。レートは1リタス=50円だった。

バスで郊外のホテルに着いたら、隣にスーパーマーケットがあった。
部屋に荷物を置くなり、薬を飲むのに絶対必要なので、ミネラルウオーターを買いに走った。リトアニア語が分からないので、ガスが入っていないナチュラルな水がどれなのか散々迷い、やっと店員に聞いて買った。1.5Lで約1.89リタス(95円)だったので安心した。レシートを見ると21%の消費税が含まれていた。

時差7時間を足すと1日が31時間の日だったが、機内で少し寝たのでなかなか寝付けそうにない。明日からの観光のためにはしっかりとこの国の時刻に合わせて寝て置く必要があるので、私は医師に処方してもらった催眠薬を飲んで寝た。
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「バルト三国の旅」(2)

2014年03月18日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅣ」バルト三国
《無事に帰国した》

「バルト三国」の内、先に観光した南部の「リトアニア」「ラトビア」は晴天に恵まれて、朝の気温は2~3℃と低かったが、陽射しが温かく早春の雰囲気だった。
しかし、最後の国「エストニア」の首都「タリン」を観光する日だけは、夜中から吹雪いて道路に雪が2~3cm積もり、観光中も冷たい雪が降りつづき、石畳の坂道では足元がぐちゃぐちゃで滑りやすく、おぼつかなかった。

「バルト三国」は他国に代わる代わる支配されたという似たような歴史の国だけに、暗いイメージを持っていたが、行って見ると真っ青な青空のためか、そんな様子はあまり感じられ無かった。

石造りの建築文化の国なので、戦争で破壊されたものもあったが、歴史的な価値のある遺産が多く残されていて、見応えがあった。

今回はK旅行社のツアーだったので、日程的にゆったりしていて、近くのスーパーマーケットに各自で買い物にも行くことができ、品物を見て土地の人たちの生活を想像でき、良かった。

往復、直行便がないので、「フィンランド」の「ヘルシンキ国際空港」で乗り継ぎをした。
空港内のスーパーや店を見て歩いたが、余りの価格の高さに驚いた。ミネラルウオーターが「バルト三国」の値段の3~4倍、パンなども2~3倍だった。
「エストニア」の「タリン」から「ヘルシンキ」まで乗ったフェリーには、「タリン」までビールや酒類、食料品や衣類などの買出しに行って来た「フィンランド」の人たちで溢れていて驚いた。
北欧は「高福祉・高負担」の国だと言われるが、その一面を見ることができた。

また三カ国ともだが、独立後も「残留ロシア人」が多くいて、中には国籍を持たないロシア人も多いのだと聞いた。
先日の「ウクライナ」の「クリミア自治区」で行われた住民投票で90%以上がロシアへの帰属に賛成した結果を受けて、今日、ロシアのプーチン大統領とクリミア自治区の代表が編入条約に調印したというニュースがある。
旧ロシア領だった「バルト三国」にもロシア語を話す残留ロシア人の問題が、表面に出ない形でくすぶっているのかも知れないと思った。

  

(「タリン」の旧市街で見た店の看板)  (リトアニアの「ヴィリニス」にある「杉原千畝氏」の記念碑)



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