花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「アイルランドとスコットランドの旅」(10)

2017年05月15日 | 海外旅行「北ヨーロッパ」アイルランド、スコットランド

≪「スコットランド」観光≫(3)

③「スコッチウイスキー蒸留所」見学
「ピトロッホリー」という町でスコッチウイスキー蒸留所に立ちより、1時間工場を見学したり試飲したりした。売店で購入する機会もあった。



見学後2時間東南へ走り、「エジンバラ」の郊外のホテルに投宿した。

       
 

8日目は、1995年に世界遺産に指定された「エジンバラ」の市内観光だった。
私は5年前の6月に友人とイギリスツアーに参加した時、起点の「エジンバラ」で市内観光があったので、今回は2回目。そのためかとても懐かしい感じがした。
前回来た町を更に地図で確認して臨んだので、今回は一層地理的な様子が分かって良かった。

先ずイギリス王室のエジンバラの宮殿である「ホーリルード宮殿」に行った。
元々この建物は、1128年スコットランド王デビット一世が建てた寺院だったが、15世紀からスコットランド国王夫妻の住居として使われるようになり、現在はエリザベス女王が夏に滞在する宮殿となっている。
16世紀のスコットランド女王メアリーが、諸侯の反発を買い幽閉された宮殿でもある。女王滞在中以外は一般に公開されている。
門の外から写真を写したが、逆光で上手く行かなかった。

その後バスは、宮殿から伸びる「エジンバラ城」まで続く道路「ロイヤルマイル」を通り、「エジンバラ城」に行った。

④「エジンバラ城」
今回のガイドの説明は、あっさりとした説明だった。
「エジンバラ」とは、ゲール語で「斜面に建つ要塞」の意味で、6世紀に生まれた要塞都市だ。
しかし、13世紀の末からイングランドと戦い続けたが、ついに1707年イングランドに統一された「スコットランド」。「エジンバラ城」にはその歴史が刻まれている。



    



         





今回は、かって牢だった所の展示も見た。冷たい石の牢獄が想像できた。

 

                

午後は自由行動だった。私は「エジンバラ城」のすぐ下にある「美術館」(無料)に入った。ここも2回目だ。
残りの時間はツアーガイドに教えられた近くのスーパーで、お土産の紅茶や干し果物、チョコレートなどを買う時間に当てた。
残り時間は、少し疲れたので「美術館」前の公園のベンチで集合時間迄休憩した。

9日目は、「エジンバラ空港」を11;25に発って「ロンドン」に向かい、「ロンドン空港」発15;45のブリティッシュ航空で成田空港に帰国した。成田には予定通り10日目の4月28日午前11;25に到着した。ロンドンからの所用時間は、11時間40分だった。
午後の飛行機で成田から千歳空港に戻り、無事に帰宅した。

今回の旅は「アイルランド」「北アイルランド」「スコットランド」の歴史と大自然に触れる事ができた貴重な旅となった。    
                            (完  成)



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「アイルランドとスコットランドの旅」(9)

2017年05月14日 | 海外旅行「北ヨーロッパ」アイルランド、スコットランド

≪「スコットランド」観光≫(2)

②「スカイ島」の「ポートリー」観光



6日目は「インパネス」のホテルを出てから南西の小島「スカイ島」までバスとフェリーを乗り継ぎ、4時間掛けて向った。
「スカイ島」のレストランで昼食を採ってから、ポートリー散策をした。
天候が悪く、時折小雪が舞う寒空の下での散策だったが、少し小高い丘に登り、何も無い雄大な自然を心行くまで満喫した。



          

   



その日は「スカイ島」のホテルに泊まった。

翌朝は、ホテルから島の南の港「アーマデイル」からフェリーでスコットランド本島の「マイレグ」までバスで移動した。その後、列車の指定席に1時間20分乗り、景観を楽しみながら「フォートウイリアム」で下車した。
途中、列車は弧を描いた石橋を渡ったが、ハリーポッターの映画で撮影された橋だと言う。



        



  

昼食を食べた「フォートウイリアム」の町並みが、とても美しかった。
「スコットランド」らしく、主食に茹でたじゃが芋が出された。「ビーフシチュー」にはパンが入っていた。美味しかった。



     



          









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「アイルランドとスコットランドの旅」(8)

2017年05月14日 | 海外旅行「北ヨーロッパ」アイルランド、スコットランド

≪「スコットランド」観光≫(1)

①「アーカート城」
5日目は「ベルファスト空港」から7;55の小型プロペラ飛行機で「スコットランド」の「マンチェスター空港」に行き、3時間半の乗り継ぎ時間の後、12;00発の飛行機で「インパネス」に向った。1時間半後に「インパネス空港」に到着し、バスで「ネス湖」に走った。



「ネス湖」は「ネッシー伝説」で有名な湖だが、私達は小型の遊覧船に乗って45分行った所で陸に上がり、そこで中世に建てられ、今は廃墟となっている「アーカート城」を見学した。
建てられたのは13世紀。やがて王城となったが、1296年、イングランド王エドワード一世が占拠、その後断続的に1357年までに占拠と奪還が繰り返された。
やがてマクドナルド一族に何度も襲撃されて、17世紀には捨てられた。
20世紀に州が管理する事となり、市民に公開されるようになったという。



      

 





 
         

         

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「アイルランドとスコットランドの旅」(7)

2017年05月14日 | 海外旅行「北ヨーロッパ」アイルランド、スコットランド

≪「北アイルランド」観光≫(2)

③「ジャイアンツ・コーズウエイ」
「アイルランド」は7000年前まではヨーロッパと繋がっていたらしいが、氷河期が終って氷河が溶け、海水面が上がり、イギリス諸島は幾つもの島になった。
北部海岸地帯の「アントリム丘陵」は、断崖が海にそそり立つ地形になっている。
「ジャイアンツ・コーズウエイ」(巨人の道)は、6000年前の火山活動で流出したマグマが冷やされてできたものだ。
六角形をした列中群は、噴出したマグマが徐々に冷えて固まる時にできる。

ビジターセンターがある駐車場でバスから下り、下りの坂道を20分近く歩くと海岸に「ジャイアンツ・コーズウエイ」があった。
固い石柱の上は、私の運動靴をしてもとても歩きにくかった。
しかし、自分の一番期待していた場所だったので、存分に歩き回り楽しんだ。海は美しかった。



           







          



帰路は0.5€でピストンのバスがあったので、それに乗って駐車場に戻った。
ビジターセンター内では「巨人伝説」の大型画面のビデオ上映があったので、見た。
その後、1時間半程で「ベルファスト」のホテルに戻った。



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「アイルランドとスコットランドの旅」(6)

2017年05月13日 | 海外旅行「北ヨーロッパ」アイルランド、スコットランド

≪「北アイルランド」観光≫(2)

「アーマー」を発って国境を越え、1時間後に着いた「ベルファスト」は、イギリスのビクトリア女王の時代に工業都市として発展した町で、造船業が盛んだった。1912年4月15日に氷山に衝突して沈没した大型船「タイタニック号」が作られた所だ。
1906年に建てられた市庁舎(シティホール)にはイギリス国旗が掲げられ、正面玄関にはビクトリア女王の像があった。
倒れた人々に冠をかざす像は、「タイタニック号の遭難記念碑」だ。
市内はバスで通過しただけだったので、他の写真を写すこともできなかった。




      (タイタニック遭難記念碑)

②「キャリック・ア・リード吊り橋」
ここは「ベルファスト」から90km北の海岸にある長さ20m程のつり橋だった。
早朝にホテルを出発して「北アイルランド」の北端迄行った。駐車場から遊歩道を1km程歩くと、海岸に下りる急な階段があり、降り切ったところにつり橋が掛けてあった。9時半に門が開くらしく、私たちがその日の一番乗りで他の観光客がいなかった。
一人ずつ橋を渡った。ほとんど揺れなかったが、24m下を見るとやはり恐ろしかった。
渡りきった向こう側は、小さな「キャリック・ア・リード島」だが、直ぐに通行禁止になっていたので、対岸の景色などを写真に撮って戻った。
帰路、岩場へ巣を作っている鳥やプリムラの花を見た。



      

 

  

         


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「アイルランドとスコットランドの旅」(5)

2017年05月12日 | 海外旅行「北ヨーロッパ」アイルランド、スコットランド

≪「北アイルランド」観光≫(1)

「モナスターボイス」を後にして昼食のレストランに行った。
その後、バスで北に走ると、間も無く国境だった。
特別の検査も何も無く、バスはすんなりと「アイルランド」から「北アイルランド」の国境を越えた。

「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」という名が、イギリスの正式名称で、「グレートブリテン」とは「イングランド」「スコットランド」「ウエールズ」の3つの地域から成る。
「北アイルランド」は、「アイルランド島」の北端で、面積にして1/6を占めている。

1920年、「アイルランド政府法」によって「北アイルランド」の6州は、現在の「アイルランド」26州とは別の政府を持つ事になった。
1921年12月、「イギリス・アイルランド条約」により、6州はイギリス連邦に留まり、26州は「自治領アイルランド自由国」として自治権を持った。
この時、IRA(アイルランド共和国軍)とIRB(軍事組織アイルランド共和国兄弟団)の指導者が、条約に調印している。

アイルランドのカトリック教徒は分割を希望しなかったが、「アルスター地方」のプロテスタントは「アイルランド自由国」から別れてイギリス連合王国に留まることを望んだ。プロテスタントの政治家達は、カトリックが過半数を獲得できないように、地方選挙ではプロテスタントの貴族に6票を与えるという「選挙法」を作った。その結果、当選者の多数がプロテスタントとなり、カトリックを軽視する政治を行っていった。
1936年、「アイルランド自由国」は、イギリスからの完全独立を宣言して、1949年、「アイルランド共和国」と国名を改め、イギリス連合から離脱したのだった。


①「アーマー」の教会
「アーマー」は、「モナスターボイス」から北に80kmの「聖パトリック」が教会を建てた町だ。
「聖パトリック大聖堂」と言う名の教会が2つ対峙しているが、一つは「アイルランド教会」で、もう一つは「カトリック教会」だ。
私達は先ず「カトリック教会」に行った。

1840年に建設が始り、資金難から1904年に完成したというこの「聖パトリック大聖堂」は、尖塔が美しい佇まいを見せ、内部のステンドグラスも精巧で色鮮やかに作られていた。
また、キリストの一生を表した精緻な彫刻が幾つも掲げられていた。



 

       

北西の丘にあるため、敷地からは町を見下ろす事ができた。反対の丘に建つのは「アイルランド教会」だろう。



次にバスで「アイルランド教会」を訪れた。
こちらも「カトリック教会」と同じく丘の上にあった。
445年に「聖パトリック」が教会を建設した歴史的な場所だが、今の教会は13世紀に建設されたものだという。
内部には、キリスト教以前の神殿や「ハイクロス」もあり、1014年にはヴァイキングを撃退したアイルランド大王が敷地内に埋葬されたらしい。



教会の前がマーケットだったので、見学後に20分の買い物をした。

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「アイルランドとスコットランドの旅」(4)

2017年05月11日 | 海外旅行「北ヨーロッパ」アイルランド、スコットランド

≪アイルランド「ダブリン」と近郊の観光≫(3)

⑤「タラの丘」
3日目は9時にダブリンのホテルを出発し、北東56kmの町、世界遺産「ニューグレンジ」町へ向った。
約5000年以上前にこの地域に来た人々の巨石墳墓群があるそうだが、今回はそこには行かなかった。

バスは「タラの丘」の駐車場に入った。
ここは紀元前200年頃から「ケルト人」達が集まった地域で、その王「タラ」が築き上げた緩い連合王国があったという。
その連合王国もキリスト教が広まるに連れて衰退していったらしいが、今も「タラの丘」には当時の石(写真右側)が立っていて、アイルランド人の心の故郷になっている。
丘からは「ニューグレンジ」が一望できた。
バスが出発して間も無く牛の群れに出会った。耳にタグが付いていた。







⑥「モナスターボイス」
「タラの丘」を後にして37km北東の「モナスターボイス」に向った。途中の牧歌的な景色に心が和んだ。



そこには古い教会の跡が残されていた。教会は5世紀に建てられたもので、先端が壊された「ラウンドタワー」の傍に墓地があった。
その中に目立つ高い「ハイクロス」があった。10世紀に作られ、アイルランドで最も知られた「ハイクロス」らしい。
太陽神を表す円と十字架が組み合わされたデザインだ。
石にキリスト教の聖書の場面が掘られていて、文字を読めない人にも理解できる様にしてあった。

 

        

比較的新しい墓も幾つかあり、その一つは2006年に亡くなった12歳の少女の墓だった。家族に今も愛されている事が供物から分かった。

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「アイルランドとスコットランドの旅」(3)

2017年05月09日 | 海外旅行「北ヨーロッパ」アイルランド、スコットランド

≪アイルランド「ダブリン」と近郊の観光≫(2)

③「アイルランド国立美術館」
この美術館は1864年に設立され、1015年に改修された小規模な美術館だった。
主な国のオーデオガイドが用意されていて、私達は日本語の説明を聞きながら鑑賞した。



「カラバッチオ」「フラ・アンジェリコ」「モネ」「ドガ」「フェルメール」「ピカソ」など私が知っている西洋画家の作品がぽつぽつと展示されていた。

④「グレンダー・ロッホ」
ダブリンから55km南にある「グレンダー・ロッホ」に行く途中、アイルランド郊外の景色をバスから眺めた。早春の若葉が芽吹きだしたばかりの牧草地で、羊が草を食んでいた。





「グレンダー・ロッホ」はゲール語で「二つの湖の谷」の意味だそうだ。
広い地域に初期のキリスト教会が7つあったそうだが、私達が見たのは「石積みの門」「ラウンドタワー」「大聖堂」「聖ケヴィン教会」「墓地」だった。

ⅰ「石積みの門」は、平らな石を積み上げて作られていた。
ⅱ「ラウンドタワー」は、この地を捜し求めてくる修行者達に遠くからでも見えるよう高さ30mある円筒だった。地面から3mの高さに入り口が作られているのは、ヴァイキングなどの襲撃があった際、梯子をかけて登り、入り口を閉じて、内部に身を隠すためだったそうだ。



         

ⅲ「大聖堂」は屋根が無くなっていたが、簡素な祈りの場だった事が伺えた。



ⅳ「聖ケヴィン教会」は、煙突があるが窓は無いこじんまりとした石造りの建物だった。

     

ⅴ「墓地」では、アイルランドの特有な「ハイクロス」が建てられていた。これは十字と円を組み合わせたものだ。

帰り道、振り返ると黄色い満開の「ハリエニシダ」が生い茂るその向こうに「ラウンド・タワー」が小さく見えた。
「ハリエニシダ」は、あちこちに自生していた。



 

1973年以降、アイルランドでは信教の自由が憲法で保障されているが、現在、人口の95%がカトリックを信仰しているという。




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「アイルランドとスコットランドの旅」(2)

2017年05月09日 | 海外旅行「北ヨーロッパ」アイルランド、スコットランド

≪アイルランド「ダブリン」と近郊の観光≫(1)

アイルランド島は、20世紀に入った1921年に「イギリス連合王国」に所属する「北アイルランド」と、独立国「アイルランド」に別れた。
最初にこの島にやって来た「ケルト人」は、「ヴァイキング」や「ノルマン人」、イングランドから度重なる侵略をされた。
また、アイルランドは、1840年代に農産物、特に主食のじゃが芋が疫病に感染して収穫ができず、飢えたり病気になったりした人達が100万人も亡くなった。
そこで多くの人々がイギリスやアメリカ、カナダ、オーストリアに移住して行った。人口の急激な低下は、アイルランド経済に打撃を与え、農民達は苦しい生活に喘いだ。
1960年代以降、子供の出生率がヨーロッパ一となり、失業率が高まったが、1973年にECに加盟後、ヨーロッパ諸国との貿易が振興して経済的に大きく回復した。

アイルランドは日本よりも緯度が高いが、気候は大西洋を北上する暖流の「メキシコ湾流」の影響で、夏は涼しく冬は暖かい。また、1年中雨が多く、豊かな土壌が形成されている。
しかし、多雨の影響で湿地帯ができた所は、腐った植物の層が堆積して「ピート(泥炭地)」が形成された。この「ピート」を乾燥した物は、燃料として使われて来た。
(国土社「目で見る世界の国々」参照)

「ダブリン」は、アイルランドの首都である。
元はケルト人の小さな町だったが、8世紀に「ヴァイキング」に占領されて、城壁が作られ発展した。
12世紀になると、イングランド王「ヘンリー2世」がアイルランド支配の中心地にした。
18世紀後半には、大英帝国大英帝国第二の都市になった。
19世紀後半から独立運動の拠点となり、1922年、「アイルランド自由国」として独立以降、首都として発展した。
(「地球の歩き方・アイルランド」参照)

①「トリニティ・カレッジ」
1592年にイギリスの「エリザベス一世」が建てたアイルランドで最も古い大学だ。
1712年建てられたという「オールド・ライブラリー」前の内庭では、学生達や観光客がゆったりと過す姿が見られた。此処には500万冊の蔵書があるそうだ。





2階部分が「ロングルーム」と言われる古い図書館は2階建てで、長さが65mあり、一階には「ケルズの書」などの展示室がある。
「ロングルーム」の両側には、最古の蔵書20万冊が天井までぎっしりと納められていた。当初は平らな天井だったらしいが、全て蔵書で埋まったため、1860年に屋根を高くし、現在の逆船底型にしたと言う。
そのクラシックな図書館は、荘厳な雰囲気に満ちていた。

また、15世紀に樫や柳で作られた「アイルランド最古のハープ」が、ガラスケースに収められていた。このハープは、アイルランドが発行するユーロ硬貨のデザインとして使われている。



 

中央の通路の両側には、「彫刻家ピーター・シェーマーケルズ」等が1743年から製作を始めた大理石でできた世界の巨匠の胸像が置かれていた。
その中の二つの写真を掲載したが、右下は「ガリバー旅行記」などの社会風刺小説を書いた「ジョナサン・スイフト」だ。1667年にダブリンで生まれ、「トリニティ・カレッジ」を卒業後、アイルランド教会の牧師になったという。

    

②「ケルズの書」
ケルト芸術の最高峰と称えられる「ケルズの書」は、一階奥にその一部が展示されていた。
この書は、文字やページが装飾されて書かれたキリスト教の4つの福音書で、制作者は9世紀初めにヴァイキングに襲われたスコットランド西方の「アイオーナ島」から、「ダブリン」北西6.5kmの所にある「ケルズ」に逃れてきた修道僧だと言われている。
340枚の牛の皮で作られた書には、150頭の牛の皮が使われたと言う。

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「アイルランドとスコットランドの旅」(1)

2017年04月29日 | 海外旅行「北ヨーロッパ」アイルランド、スコットランド
≪出発した日≫

今回10日間の「アイルランドとスコットランドの旅」に出かけて来た。
今回私が一番行きたかった所は、「北アイルランド」の北部海岸にある世界自然遺産「ジャイアント・コーズウエイ」(写真)だった。



前日、伯母の着替えや洗面道具を持って、伯母を近くの特別養護老人ホームの「ショートステイ」に預けた。
庭の「プリムラ」が咲き出し、「水仙」の蕾が立ち上がって来ていたので、帰国するまでには景色が変るだろうと思いながら、急いで旅行の荷物を作った。

旅行は4月19日~28日とゴールデンウイークの直前だったので、乗り継ぎに立ち寄ったロンドンの「ヒースロー空港」以外では日本人にほとんど会わなかった。
「ヒースロー空港」では、私達のツアー一行と同便の「ブリティッシュ・エアウエイズ」に乗る高校生の研修旅行の一団に出会った。
聞くと長野県松本市のS私立高校だという。9日間の研修中、グループ別の自由研修もあり、楽しかったそうだ。
まだ、公立高校の海外研修旅行は認められてはいないと思うが、私立高校の生徒にとっては魅力的な行事に違いないと思う。
しかし、親の負担は大きくなるので、中には大変な家庭もあろうと気になった。

出発日の19日は、いつもの様に「新千歳空港」7時50分の朝一のANAで成田空港を目指し、到着した第一ターミナルから第二ターミナルに循環バスで移動してから、H社の受付に行った。
添乗員氏からEチケットを受け取り、「ブリティッシュ・エアウエイズ」のカウンターに行った。今回は「ロンドン空港」経由で「アイルランド」の首都「ダブリン空港」まで行くので、スーツケースもそこ迄預けた。

出発時刻は12時35分、機内はほぼ満席状態で到着するまで12時間35分を要した。食事は昼食と朝食の2回出たが美味しかった。
ただし、狭いエコノミーの座席で寝ていたら、お尻が痛くなったので、ひざ掛け毛布をたたんで敷いたら緩和した。

「ロンドン」から「ダブリン」までは1時間半で、小型の4列座席のプロペラ機だった。
「アイルランド」の「ダブリン」のホテルに着いた時刻は24時近かった。日本との時差は-8時間なので、その日は1日が32時間の日だった。
眠られずに疲れが残り、翌日からの行動に支障があると困るので、催眠薬を飲んでぐっすりと眠った。

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