花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

ミキサーの「保証書」があって良かった

2008年01月31日 | 暮らしと経済・経済生活

 昨年の1月3日の初売りで買ったミキサーが、暮れに調子が悪くなって動かなくなった。このミキサーは、容器がガラス製なので清潔だし、コーヒーやお茶なども挽くことができる部品が付いているので、気に入って買った物なのだ。
 早速保証書を探したら、名刺サイズより小さな保証書が家計簿に貼り付けてあった。
 見たら、保証期間は1年間となっていたので、保証期間の残りは数日後に迫っていた。
 新年の3日迄に隣の市の店まで行くことができないかも知れないと思ったので、年末の内に電話を掛けて置いた。
 今年になってから、天気が良く、道路事情も良かった日に、ミキサーを取ってあった箱に入れて店に向かった。担当者は、メーカーに送ると言ってくれた。
 
 3週間したら担当者から電話が来た。「メーカーでは新品に交換すると言っているので、数日後、取りに来るように。」と言われた。

 一昨日、隣町まで取りに行った。新品の製品が入った箱と、また1年間の保証書を改めて発行してくれた。嬉しかった。
 カメラの電源が入らなくなった時と同様に、また、保証書の効力が発揮された出来事だった。
 
 

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今年、新しくやりたい事

2008年01月27日 | 日記

 今年は昨年と同様に、畑仕事や庭仕事、旅行、パークゴルフ、山登りを継続してするつもりだが、その他に二つの事を新しく加える事にした。

 まず一つは、昨年勉強させて貰って有り難かった「市民農園栽培講習会」の賛助役員を引き受けた事である。資料配り位しかできないかも知れないが、おんぶにだっこだけでは申し訳ないと思ったからである。
 今年もまた、友人達と楽しく野菜栽培をしたいし、一人でも多くの市民に私のような利益を得て欲しいのだ。

 もう一つは、町の「庶民史研究会」の会員になった事だ。
 その会は、町の歴史を刻んで来た先人達の足跡を調査し、それを文章にし、やがて一冊の本にまとめる事を目標にしている。
 私自身、一人一人の庶民が重ねた労苦が、現在の地域社会を作る土台となり、大きな影響を与えて来たと思っているので、市民としてはまだ新参者だが参加する事にしたのだ。
 具体的な役割分担はこれからだそうだが、現在の心境は、不安でもあり楽しみでもあるといった所である。

 先日図書館に行って、その会が十年前に出版した一冊目の分厚い本を借りて来た。明治時代から様々な場所で活躍して来た100人を越える人達の庶民史が町の歴史を作って来た事が分かり、読んでいて面白い。

 そんなわけで今年も健康に注意しながら、自分でやれそうな事を何とかやって見ようと思っているところなのである。

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病院通い

2008年01月26日 | 医療・健康・食生活・衣生活
 先週、2ヶ月に一度、高血圧で総合病院に行った折り、急にトイレが近くなって困った事を泌尿器科で診て貰った。
 驚いたことに膀胱炎になっていた。医者に「トイレを我慢したり、身体を冷やしたりしたことはないですか。」と聞かれたが、心当たりを思い出せない。
 帰宅して思い出した。妹の家に迎えに行った時、マイナス18度の中で15分近く玄関先に震えて立っていた事を。
 5日分の抗生物質が処方されたが、きちんと飲んだら治った様だ。

 昨日は眼科に行ってきた。
 飛蚊症なのだが、蚊が大きくなっている様に感じたからだ。こちらは心配ないと言われた。
 また最近、目が乾き気味で痛く感じることもあると言うと、涙の出方を調べられた。両目に細長い紙を挟まれ、5分間ジッと目を開けているように言われたが、この検査は痛くて痛くて辛かった。涙が一杯出たので、涙腺は問題ないと言われた。変な検査だ。
 医者は「パソコンをする時、瞬き回数が減るので、意識して瞬きして下さい。」と言いながら、ヒアルロン酸ナトリウム入りの点眼薬を処方してくれた。
 検査で瞳孔を開けられたので、雪道を運転して帰るのに光線が雪に反射して眩しくて辛かった。
 看護婦の言うとおり、瞳孔が元に戻るのに3時間かかった。
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今冬初めての大雪

2008年01月24日 | 日記
 今日は予報通り朝から雪が降り出していたが、パソコンを習いに行く日だったので支度をした。
 いつものように8時半に車で出掛けたのだが、走っている内に降り方が凄くなって来た。
 幹線道路なのだが除雪がされていないため、タイヤが雪に取られて真っ直ぐに走られない。その内、ワイパーを回しても前方が見えなくなってきて焦った。何とか講習場所に辿り着き、今日の[メールの仕方]の講習を受けた。
 私がメールをし出してから3年になるが、今日は知らないことも幾つか習ったので、大雪でも行って良かったと思った。

 帰宅したら30cm以上雪が積もっていたので、大股で漕ぐようにして玄関に入った。
 それから取り敢えず玄関から道路までの通路を除雪した。40分程かかった。
 写真①は除雪後の庭の状態、②は除雪していない住宅街の道路の状態だ。

 ① ②

 夕方、ガソリンスタンドに行ったが、店員さんは「もう50cm位降ったね。」といいながら、除雪で濡れた軍手を沢山ストーブの傍で干していた。
 先程、除雪車が通り、道路は平になったが、入り口に沢山雪を置いて行かれた。後でその雪を始末するのは各家の仕事なのだ。この雪は硬くて重いので、いつもその除雪に難儀している。

 私の町の雪は今は止んでいるが、ニュースによると道東は今夜にかけてまだまだ大荒れの様だ。冬の降雪は当たり前なのだが、一度にどっと降られると空港も鉄道も道路も影響を受けざるを得ない。大学受験や就職試験、海外旅行などに行けなくなった人も居ることを思うと、大荒れの冬将軍は罪作りである。
 でも私は、庭の花木を寒さから守ってくれると思って、庭を雪捨て場にしているのである。おまけにこの雪のお陰で、北海道の夏は水不足になることが少ないのだから、物は考えようかも知れない。
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訪ねて来たAさん

2008年01月21日 | 高齢期の生活全般

 数日前のマイナス18度だった寒い朝、8時半頃玄関のチャイムが鳴った。見るとAさんだ。急いで玄関を開けて招き入れた。
 Aさんは私の家に来たかったのだが、名前を思い出すことができず、住所や電話番号を書いた紙も無くしてしまい、仕方がないので我が家の方角に来てから、数件の家に私の人となりを説明して、家を探して回ったのだという。
 住所も名前も分からない人の家を聞かれた方達も困っただろう。でも数件向こうの方が、そのような人ならあの家かも知れないと言って送ってくれたのだという。
 私は驚いて居間に通し、暖かいお茶を出した。

 長いこと一人暮らしをしてきたAさんとは、1年前に知り合って以来、私が去年中、庭の草むしりや伸び放題の草木の手入れの手伝いをするため何度かお邪魔した友人だ。(家の中で蠅が沢山飛び交っているので、台所を見たら生ゴミが溜まっていた。聞くと何時ゴミに出せばよいか分からないから、と言った事もあった。私にカビが生えたお菓子を出した事もあったので、それ以来時々、私は様子を見に行っていたのだ。)

 1時間半程、お喋りをした。
 Aさん自身、物忘れが激しくなったと感じていた所、最近、札幌にいる娘さんがやって来て、大学病院の神経内科に認知症の検査を受けに連れて行ってくれたのだそうだ。結果は数日後に出るのだという。
 余り顔を見せないと言っていた娘さんも、いよいよ一人暮らしの母親の事が心配になって来たのだろうと思った。はっきり診断が出れば、娘さんに今後の事も考えて貰えるはずなので良かったと思った。

 それにしても何の目的で迷いながら私を訪ねて来たのだろうと思ったら、小さな紙切れをポケットから出して「名前と電話番号を書いて欲しい。」といわれた。また、無くしてしまうかもと思ったが、書いて上げた。
 やがて何度も「突然来て済みませんでした。」と頭を下げて帰って行った。私は自分の家までちゃんと帰る事ができるだろうかと心配したが、「大丈夫だよ。」というので見送った。

 昨日、ある会の新年会でAさんに会った。迎えに来てくれたので出てきたのだと言う。外見では余り違和感は感じなかった。
 懇談の時間に私がAさんの傍に行ったら、隣の席の女性が「今度、ボランティアをするための講演会があるのだけれど、参加しませんか。」と言って私を誘った。
 するとすかさずAさんが、「ボランティアならもう立派にしているよね。お陰で私は凄く助けられているの。今では私の娘だもの。」と言った。私は娘だと言われて気恥ずかしくなり、苦笑しながらその場を離れた。
 
 認知症の現れ方には波があると聞くが、昨日のAさんは先日とは違って随分しっかりしていた。今年も雪が溶けたらまたAさんの庭を見に行きたいと思う。それまでAさんはその家に居てくれるだろうか。

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映画「そうかもしれない」を観て

2008年01月19日 | TV・映画・音楽・美術
 先日夜、BSで放映された映画「そうかもしれない」を観た方がいるだろうか。
 子どもの居ない高齢者夫婦の老いをテーマにした映画だった。

 専業主婦の妻が次第に認知症を深めて行き、買い物ができなくなる。料理中に火を出す。風呂に入りたがらなくなる。徘徊する。
 そしてある時、失禁してしまう。その時、後始末をしてくれている夫に向かって、「どんなご縁で世話になっているのか?」と聞くのだ。
 私小説を書く夫は、そんな妻との日常を書いて出版する。
 妻の症状を医者に相談すると、アルツハイマー病と診断され、やむなく特別養護老人ホームへ妻を入所させるのだ。

 やっと自分の事を考えられるようになった夫は、それまで我慢していた口の中の痛みを医者に見て貰う。即刻入院を指示され、放射線治療が始まる。がんだったのだ。

 ある日、妻が施設の職員に付き添われて病院へ見舞いに来る。夫は無表情の妻の手を取り、優しくさする。看護婦や職員から「旦那さんですよ。旦那さんに会えて良かったね。」と何度も言われた妻は、「そうかも知れない」とつぶやくのだ。
 それからしばらくして夫の死亡が妻の施設に伝えられる。

 こんなストーリーだった。
 私はこの映画で、夫婦の別れは片方が死ぬ時だけではなく、施設に入る時、退院が無理な状態の入院も別れなのだとしみじみ思った。そうであれば二人が元気でいられる時間こそ、もっと大切にするべきなのだろうと思ったのだ。
 暗くなりがちなテーマだが、心に残る良い映画だった。
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映画「老親」から考えた事

2008年01月17日 | TV・映画・音楽・美術

 一昨日夜、BS映画「老親」を見ただろうか。
 老親の介護を誰がどうするのかがテーマの映画だったが、子ども夫婦のそれぞれの生活の自立も絡めていて興味深かった。
 
 あらすじはこうだ。
 奈良で両親と同居していた長男夫婦だったが、夫が東京に単身赴任して7年間、嫁はひたすら夫の老親二人の介護と子育てに明け暮れた。やがて姑が死去したが、葬儀の後で親戚中から長男の嫁としての介護の仕方や態度が悪かったと非難された。
 夫が大阪に転勤になったのを幸いに、仕事に逃げて子育ても介護も妻にまかせっぱなしを決め込んできた夫に、妻は離婚を請求する。これからは嫁として期待される生活ではなく、自分の人生を生きたいという理由だった。従って財産分与はしてもらわなくて良いと言うのだ。

 夫婦が離婚後、妻に先立たれた舅は長男である夫が同居して面倒を見る事となったが、その舅が家出をして息子と離婚した彼女と子どもが暮らす家へ転がり込んだのだ。
 彼女は生活のために仕事をしているため、舅に自分のことはできるだけ自分でやってくれるなら同居しても良いという。今までやったことのない炊事をすることになった舅は、失敗しながらも一生懸命頑張ってやろうと努力するのだ。

 とまあこんな具合に、一人の人間として老親も息子も嫁(離婚後の彼女)もそれぞれが自立した人間としての生き方を模索し、かつ老親の介護のあり方を考えさせられる映画だった。

 今日、私は病院の待合室で映画と似た夫婦に会った。
 認知症の父親に付き添った息子とその妻が診察を待っていたのだが、車椅子に座って、休み無くお喋りしている90才に近い父親の傍で細やかに世話をしているのは妻、少し離れた場所の椅子に座って、まるで他人のような顔をして新聞を読んでいるのが長男らしい息子だ。
 父親が「息子は帰ったのか」と聞くと、妻が「すぐ傍に居るよ」と教えて安心させていた。私はどうして息子が傍に居てやらないのか不思議だった。自分の親の介護を嫁としての妻に丸投げしている様に見え、自分の親なのに責任感が薄弱のように感じた。(後で分かったのだが、息子は会社を休んで車で病院に送迎する役割をした様だった)

 すでに三十年も前から、老親の介護の仕方は変わった。介護を含めた全生活を施設にお任せする事が一般化したのだ。それも悪いことではないと思うが、心のケアーは家族や兄弟姉妹などの近親者が担う必要があると私は思う。

 現代は少子化で、一人息子と一人娘が増えているのだから、夫婦で4人の老親を看取らねばならないのだ。もう男だから、女だから、嫁だからと言って居られないだろうと思う。それぞれができることを精一杯するのが一番ではないかと思うのだが、どうだろうか。

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娘とランチ

2008年01月15日 | 日記
 昨日は朝から時々雪が降っていたが、車で1時間の町の高齢者向け賃貸住宅にいる伯母の所へ一週間振りで出掛けた。
 伯母は88才だが頭は実にしっかりしているので、話していて楽しいのだ。

 2時間経った頃、ランチに行かないかと誘ったけれど、「お腹が空いていない。」と言うので、私だけその町で働いている娘にメールをして待ち合わせた。成人の日なので娘の職場は休みなのだ。
 前回来た時に訪問看護婦さんに教えて貰った新しい回転寿司屋に行った。娘と1時間ほどお喋りしながら食べた。結構新鮮なネタの寿司は美味しかった。

 食べ終わった時、娘に「会計はどうする?」と聞かれたので、私は「年末年始のお礼に今日は奢ってよ。」と要求したら、あっさりと「いいよ。」といわれた。去年から給料が1割カットされている娘だが、珠には良いかなと思ったのだ。
 (北海道知事の公式見解によると、次年度もまた職員の給料を1割カットにするようだ。地方財政の赤字を、文句が言えない身内に負担させようと言うのだ。そのやり方はやっぱりおかしいと私は思うのだが、娘は仕方がないと言う。)

 寿司屋を出てから娘と別れ、また、伯母の所に戻った。
 何と伯母は食堂で入居者数人とオセロゲームをしていた。私は「続けて」と言ったのだが、「部屋に戻ろう。」と伯母が言うので、また部屋で1時間位お喋りをし、日没が迫ってきたので別れた。

 帰りの道路では、濃いガスがたなびいていた所が続き、前方15m位しか見えなくて運転が恐ろしかった。でも何とか帰宅できてホットした。
 昨日は伯母と娘と話し合えて、良い一日だった。
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老健施設の叔母を慰問

2008年01月12日 | 高齢期の生活全般

 今日はもの凄く寒い一日だった。最高気温でも、多分マイナス7~8度だっただろう。
 一緒に叔母のところへ行かないかと、朝、メールで妹を誘ってあったので、40分走った所でマンションに迎えに寄った。
 所が何度、部屋の呼び出しベルを鳴らしても反応がない。約束時間丁度に行ったのにどうしたのだろうと底冷えのする玄関で10分以上待ち続けた。思いついて携帯でメールを送ったら、5分後にやっとエレベーターで下りて来た。
 聞くと、自分の寝室に居たので居間のインターホンは聞こえなかったのだそうだ。灯油が高騰しているので、広い居間を温めるのは止めて、自分の部屋にストーブを焚き、そこに居たのだという。理由を聞いたら怒れなかったが、私はすっかり身体が冷え切ってしまった。

 それから車でさらに1時間走り、叔母の施設に行った。丁度、昼ご飯のために全員食堂に集まっていたので、しばらくホールの隅で待った。
 叔母が食事を終えて来た。いつもなら外へ連れ出すのだけれど、特別に気温が低い今日は、風邪を引かせても困るので止めた。
 土産に家から持参した和菓子数個と蜜柑数個を出してみんなが引き上げた食堂の片隅で談話した。
 叔母は食事の直後なのに、まず和菓子に手を出した。一つ食べ終わると二つ目に手を伸ばした。私は驚いてその和菓子を預かった。「残りは置いていくから後で食べなさい。」と言って、蜜柑を勧めた。その蜜柑は本州の知人が送ってくれたものだが、叔母も妹も「凄く美味しい蜜柑だね。」と言いながら食べた。

 叔母に「年末はどうしていたの。」と聞いたら、意味不明の説明をした。私達は理解できないので、しばらくしてから妹がまた同じ質問をした。叔母の答えは前と同じだ。やっぱり話が分からない。
 更に20分程経った頃、今度は私が又同じ質問をした。叔母はすっかり混乱した様子だった。叔母には悪いと思ったけれど、認知症が進んでいるのかも知れないと思った。

 3時間程お喋りをしたので帰ることにした。叔母は「部屋まで送って欲しい。」と言ったのだが、握手をして、エレベーターに乗せて別れた。
 叔母の所には私達以外、ほとんど誰も面会に来ないので、普段、寂しがっているのだろうと思っていたが、今日は私も去りがたかった。
 「また来るから、元気でね。」と言って帰って来た。車の中で「今日は行って良かったね。」と妹と話した。

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薬害肝炎感染被害者救済法案が可決した

2008年01月11日 | 医療・健康・食生活・衣生活

 全国5訴訟原告団が中心になって提訴し、5年の歳月を掛けて戦った薬害肝炎救済法案が、今日、参議院で全会一致で可決成立した。これに先だった衆議院でも全会一致で可決したのに継いだものだ。

 本当に全国訴訟原告団を中心にして戦った患者と遺族の皆さんのご苦労には、私も心から拍手をしたい。
 大阪原告団等に出された和解案は、感染時期や症状によって救済する人を線引きするものだったが、原告団は一致団結して、「自分達は全国300万人の感染被害者の代表として戦っているのだから、線引きは許されない。それは被害者に更に被害を上塗りする行為だ」として、敢然とその和解案を蹴ったのだった。
 これで決裂するかも知れないと考えられた矢先、急遽、原告団と福田総理との会見が実現し、昨年末に福田総理がした救済法案提出表明によって、特別議員立法として、国の責任を認め、被害者全員を救済するという法案が作られたのだ。
 そして今日、可決した。

 自民党が民意を無視しては政権を守れないという状況が一方にあり、もう一方には全国訴訟原告団の高潔、人道的な目標を掲げた粘り強い戦いがあって、今日のこの成果を手にする事ができたのだと私は思う。
 この法律ができたお陰で、これから新たに資料を作って提訴する人達がいることと思う。それらの人達に対して、関係者は好意的な対応をして欲しいと希望したい。

 訴訟原告団の皆さん、本当にお疲れ様でした。そして薬害被害根絶への道を開いてくれて有り難うございました。これからはどうぞお体を大切にして下さい。

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