花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

暴風雪

2011年12月26日 | 日記
今朝起きてカーテンを開けてびっくり。昨日まで全く雪が無かった玄関前に結構な雪が積もっていた。
水だけ飲んで身支度をし、玄関のドアを開けた。
玄関先にも階段にも結構な雪がある。除雪開始。
全体の積雪量は25cm程だったが、除雪している後からまたどんどん降り続くし、面積がまあまあ広いので1時間かかった。
家に入って濡れた手袋などを干した。
ふっと外を見ると、バードテーブルに雀が来ていた。細かくちぎった食パンも雪で覆われていたのに、掘り出して食べているのだ。
こんな荒れた天気の中では、餌を見つけられないのだろうな。凍りついたようなパンだけれど、ないよりマシと思ってついばんでいるのかも。
折角除雪したのに、また写真の様に積もった。後でまた除雪作業だ。
今日は北海道だけでなく、本州の日本海側、特に新潟県の降雪量が凄いらしい。まだまだ降り続きそうなので、何回かに体力を分散しながら除雪するとしよう。

 
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再度、登別温泉へ

2011年12月18日 | 「北海道内旅行」登別・定山渓・洞爺・函館・道東・三笠・旭川・道北・奥尻島他
農園を共同でしている友人達2人と今年も忘年会をする事になり、私が世話役になった。
20日前に妹夫婦と行った登別温泉が良かったので、今回もその温泉にした。しかし友人達は結構食事などに厳しいので、ホテルはランクが高いDにした。
最低気温がー8℃だったという寒い札幌の駅で待ち合わせ、14時発のホテルの送迎バス(往復1000円)に乗って出発した。
自由席だと聞いていたので私達は乗車口に早めに行って並び、最前列の席に座り、おしゃべりをしながら過ごした。
バスは高速道路を走ったが、途中新千歳空港にも寄って客を乗せた。苫小牧を越した頃、右手に樽前山が見えて来たが、中心ドームはガスに包まれてはっきりとは見えず、降雪で真っ白い西山ピークと東山ピークは見えていた。一昨年、3人で樽前に登ったので、友人は「私の樽前山だ。」と言っていた。

ホテルには4時半に着いた。広いロビーの一角にクリスマスツリーの飾り付けがあり、サンタの人形がそれぞれ違う動きをしていて見ていて楽しい。
             

案内係りに案内されたのは、ゆったりと広い温かな和室だった。聞くと「今日は金曜日だが、宴会がいくつか入っているので600人位の客が宿泊することになっている。」と答えてくれた。
早速温泉に行った。
脱衣室は結構混んでいて、言葉から東南アジアの国の人だと分かる人達も大勢いた。さすがDホテルだ。
浴室の入口には「水着は使用しないで下さい」と書いた看板が立っていた。外国の温泉はほとんど水着で入るので、外国人向けなのだと思った。
湯を溢れる様に満たしているすごく大きい湯船が幾つもあるので、浴室内では全く人数の多さを感じなかった。
それぞれ泉質、温度が異なっていたので、私が先日仕入れた登別温泉の特徴(9種類もの異なる泉質の温泉が湧くので、温泉のデパートと言われている事など)の知識を友人達に披露した。

夕食はバイキングだったが、食材も良く、何人もの調理師が調理しながら提供する料理が多いため、美味しかった。十分に食べてから部屋に戻り、また冷やして置いたワインを飲みながら、夜中まで和気あいあいとおしゃべりをした。
並んでいた3つの布団のどれにするかは、じゃんけんで決めた。いつも私は負けて真ん中になるのだ。

朝起きて直ぐに温泉に行った。大きい窓から見える雪景色が美しく、夜とは全く違う趣があって凄く良かった。
朝食を美味しく食べた後、フロントが混まない内にと会計を済ませ、バスが出るまでの時間、2人を近くの地獄谷見学に誘った。地獄谷の硫黄臭気や水蒸気煙は20日前と同じだったが、雪に覆われた姿はまた格別の光景だった。高台にある神社に登りたかったが、急な階段が凍って危険みたいなので止めた。入口の赤鬼、青鬼も裸なので雪の下では寒そうだった。

 

  



10時発の帰りのバスも最前列に座れた。札幌に戻ったら12時を越えていた。
晴天で前日よりは暖かく感じられたが、最高気温はー2.4℃だったらしい。
駅で友人達と別れた後、13時に駅で待ち合わせた従姉のために隣接するデパートの地下の酒屋に行った。そこで見つけたドイツ製のフルーツワインを1本とパン屋で数個のパンを見繕った。彼女とはピザを食べ、おしゃべりをしてからJRで帰宅した。

家は1晩空けただけで居間が13℃まで冷え切っていたので、電気を入れた後、温まるのにしばらくかかった。
夜はTVのNHKスペシャル「日本新生・激論/税」を見て寝た。スエーデンやフランスの試みが興味深かった。

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韓国の従軍慰安婦像

2011年12月15日 | 社会・事件・ニュース
ニュースによると、韓国ソウルの日本大使館前で1992年以来毎週水曜日に行って来た従軍慰安婦に対する日本政府の「謝罪と賠償」を求める集会が、この14日に1000回目を迎えた記念に、元従軍慰安婦たちが記念の少女像を設置したという。日本政府は撤去を求めているが、難しそうだという。
今朝の新聞に掲載されていた余りにも若いその像の写真を見て、私はとてもショックだった。1人の人の当時の姿だと言う。
そこで今回は、再度、私なりに把握しているこの問題の経過を書きたい。

                         

私が従軍慰安婦の存在を知ったのは30年以上前になる。
日本の軍隊だけがそうした慰安婦を連れ歩いていたこと、その慰安婦たちの毎日の生活がどの様なむごいものだったかを書いた本を数冊読み、驚きと悲しみで胸が塞がり、夜も眠られなくなったのを思い出す。(一夜に30人の相手をした後、急死した慰安婦もいたという)
かなりたってから、札幌の教会で名乗り出た一人の韓国人従軍慰安婦の証言を聞く会が開かれた時には、大学生の娘を連れて行き、本で知った事が本当だったと確認した。

一般的に加害者は、加害の事実を過小評価し、しかも簡単に忘れる。しかし、人権を踏みにじられた被害者は、そのことを絶対に忘れない。ましてや脅迫されて繰り返し集団で行われた性被害の被害者は、なおの事なのだ。
しかもさらに悲惨な事は、「賄い婦」とか「洗濯婦」にすると言ってだまされて戦線に連れて行かれた彼女たちは、儒教道徳を強く教え込まれている韓国社会に生まれ育ったがゆえに、終戦後、幸いに生き抜いて部隊から解放されても、自分がどんな生活をしていたかを語ることができず、故郷へ、親兄弟の元へは帰れなかったのだ。だから彼女たちの戦後の生活はほとんどが困窮を極め、社会の底辺で息を潜めて生きて来た。そしてその多くは既に亡くなった。

韓国の民主化の流れの中で、実名で隠し続けて来た過去を告白し、日本政府に「謝罪と賠償」を訴えたが、日本政府は「国として慰安婦を雇った事は無い。民間がやった事だ」の一点張りを通し続けた。
しかし、1993年、公文書が見つかった事によって国がした女性に対する重大な人権侵害だったと認めたのだった。
その後、「アジア女性基金」を予算化して、韓国、台湾、フィリピンの元従軍慰安婦に対し、政府機関を通して彼女たちに「償い金」を配布した。またオランダ、インドネシアに対しては、個人を特定できない事から政府機関を通して「償い金」を支払った。
しかし、当の女性たちの多くからは、誠意を持った「謝罪」が無いと受け取られ、「償い金」の受け取りを拒否されたため、未だにこの問題が解決していない国があるのだ。

今朝の新聞によると、玄葉外相は昨日の記者会見で「我が国の立場は一貫している。元慰安婦の補償問題は1965年の日韓の基本条約で解決済みだ」と繰り返している。
しかし、この時、韓国に払われた賠償金は元慰安婦の個々人には支払われていないのである。
日本国内でも幾つもの女性団体がソウルの集会に呼応する集会を開いている。私も加害国の女性の一人だが、彼女たちの訴えに強く共感している。
同時に、先に解任された元沖縄防衛局長の不適切発言に現れているような日本人男性の多くがまだ持つ前近代的な女性観を、女性の人権を尊重し、対等のパートナーだと見るように変えて行く事が、今強く求められているとも思っているのだ。

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心に残った兵士の証言

2011年12月09日 | TV・映画・音楽・美術
この所TVで太平洋戦争に因んだ番組を放送しているが、先日NHKTVで放送した兵士の証言を編集した番組が心に残っている。
数人の元日本兵が話した内容は、戦争の現実を知らない私にはどれも衝撃的だった。
しかし、ある部隊の指揮官だったと言う男性の人生は、私の心を強く揺さぶった。
彼の部下は200人近くいたが、生き残ったのは僅か4人だったそうだ。
彼は、突撃を命じた自分の責任を強く感じ、自分は楽しむことを一切してはならないと部下の魂に誓ったのだ。
結婚はしたが、娘の結婚や親類の法事、村の祭りや集会などは勿論、個人的な小旅行なども一切せず、ひっそりと家に籠る生活を課して、過日死んで行ったのだ。

彼をそこまで追い込んだ戦争の悲惨さを、その番組から私は強く感じたのである。
自分を振り返って見ると、定年まで続けた仕事や家庭生活で、思い起こせば小さな後悔は幾つかあるが、他人の命を奪ったり、または人間としてあってはならない事をしてしまったという悔いを全く残さなかった事に、平和な時代に生きられた幸せと安堵を心から感じたのだった。

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従姉の年賀状作り

2011年12月07日 | 日記
昨日、パークゴルフ友達でもある従姉(73歳)に年賀状を作って上げた。
これで3回目になるが、従姉の年齢でパソコンをする人は少ないので、私でも良ければと手伝って来たのだ。
予め大まかなデザインは作っておいたので、昼近くに彼女が来てからは、持って来た文章の原稿を二人で話し合いながら直し、デザインも彼女が気に入るイラストや色に差し替え直して印刷した。
途中、インクの1つが切れて交換したりもしたが、裏面に差出人の住所、名、電話番号も入れて、ほぼ順調に完成した。宛名だけは自分で書くと言う。

それから家にある食材で簡単に昼ご飯を作った。
圧力鍋で赤飯を作り、かき揚げ(材料は、エビ、玉葱、椎茸、人参、牛蒡、ピーマン)を揚げ、長いもと収穫したさつま芋の天ぷらを作った。タラの子があったので甘辛く煮つけた。
数時間おしゃべりをし、来年はもっとパークゴルフをしようと約束して帰って行った。重いとは思ったが、多めに買って置いた蜜柑を10個、帰りに渡した。

これで1つの年賀状作りが済んだ。これからはまだデザインで迷っている自分のを決めて、完成させたい。
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100均のカレンダー

2011年12月02日 | 暮らしと経済・経済生活
バブルが弾けてからすっかり年末のカレンダーが集まらなくなった。
札幌に居た頃は、年明けに市の福祉協議会が行うカレンダー市に行き、大型の世界遺産の写真が入ったカレンダーなどを1点につき寄付200~300円で買っていたが、当地に引っ越してからはわざわざ行かず、旅先の国で記念に求めたカレンダーと、後はもっぱら100均に行って、気に入ったのがあれば買って来て使っている。
先日、100均に行って見ると、猫や犬などのペットカレンダーが1番多かったが、中に花や日本や世界の風景を題材にしたカレンダーもあった。

見ると日付だけしかない数種類のカレンダーの中に、月を逆さにしてあるのがあり気に入った。
これだと例えば1月が終わったらミシン目で切り取ると下から3月が出て来るので、常に今月と来月の2か月分を表示できるのだ。写真や絵は無いが、電話の傍につって置いてスケジュールを書き込むのに重宝しそうだ。
今回は、結局写真の3つを買って来た。

来年の家計簿も買ったし、後は年賀はがきを買って来て印刷する事にしよう。デザインは90%できたので。

     
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