花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

伯母と生活し始めて

2017年02月27日 | 高齢期の生活全般

我が家に伯母を迎えてから1ヶ月になった。
自分だけの都合を考えて暮らしていた生活が変った、と言うよりも変らざるを得なかった。

先ず、朝、伯母は早起きだ。何故なら夜は8時に寝てしまうからだ。
ある朝、二階で寝ている私の部屋まで上って来て、ドアを開けたのには驚いた。階段を下りる際に危ないので、飛び起きて見守ったら、風呂に入る時の要領で手すりを両手で掴み、横向きに降りたのには感心した。
「危ないから二階には来ないでね。」と言い聞かせた。それ以来、私もなるべく早く起きるようにしている。
伯母が来てから暫くは、緊張やストレスのせいか、催眠薬無しには寝付かれなかったが、最近ようやく薬無しでも寝られるようになった。私がこの生活に慣れて来たのだろう。

伯母の食事だが、ご飯はお粥を作る。
野菜は全て細かく刻んで、柔らかく茹でたり煮たりする。
肉はひき肉を使う。魚は柔らかい身ならそのまま食べられる。
イモ類は茹でてから潰してサラダにしたりコロッケにする。
卵はどのように調理しても美味しいといって食べてくれる。特に炒めたひき肉、みじん切り玉葱と溶けるチーズも入れたオムレツが気に入っているようだ。
先日、焼き豆腐を作り、供したが、美味しいと言っていた。豆腐も柔らかいので良く使うようにしている。
施設では決して出なかった「刺身」をとても喜ぶので、1日置きには食べさせている。
しかし、蛸や烏賊は伯母には食べられないので、私だけ食べているが、どうしても伯母の食事を中心とした献立になりがちなので、私が少し痩せるかも知れない。

また、伯母は砂糖が手に入らなかった戦争中、戦後を生きたので、甘いものが大好物だ。
そこで小振りの和菓子や餡餅をできるだけおやつに食べさせている。
コーヒーは私が落す時についでに伯母にも入れるが、ブラックだと苦くてまずいと言うので砂糖を入れるのだ。

柑橘類は実を食べられるが、林檎は摩り下ろさねば駄目だ。

そんな訳で、食事の用意は手がかかるようになったが、ホウレン草や小松菜をゆでたら、葉の部分を細かく刻んでタッパーに入れ、何時でも使えるように冷蔵庫で保存して、少しでも用意が楽なようにしている。

風呂は、手すりに助けられながら、何とか入れるようになった。
家を建てた時から付いていた手すりを一度も使った事がなかったが、今になってこの手すりにはあり難いと思っている。

また、伯母を一人にして私が家を空けるのは、せいぜい2~3時間が限界なので、今までの様にのんびりと買い物を楽しむなどはできなくなった。先日、友人に会った時も、時間を気にしながらのランチをして来た。
しかし、これも仕方が無いと思うようにしている。
その内また「ショートステイ」で施設に預かってもらい、ゆっくりと旅行をしたいと思っている。
                              


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我が家に来てからの伯母の様子

2017年02月22日 | 高齢期の生活全般

先月の末に我が家に来たが、その頃は「歩行器」に掴らなければ歩けなかった。しかし、伯母の寝室とトイレは隣接しているものの、施設にはなかったドア、それも幅が広いドアが付いているので、出入りする際に開けたり締めたりするのが大変だった。
そこで4個の「足付き杖」を社会福祉協議会から借りて来た。
その杖を最初は恐ろしがったが、やがて慣れて、ドアの出入りが簡単になり、今では歩行器に頼らずとも歩けるようになった。

また夜、急にトイレに行きたくなったら困るので、初め「コンパクトトイレ」をベッドの傍に置き、それを使ってもらっていたが、「足つき杖」を使えるようになってからは夜もトイレに行けるようになった。そのため、私の朝の仕事の一つが軽減された。
その内また自分で行けなくなる時が来るとは思うが、とりあえず今の所は良かったと思っている。

さらに伯母は、自分の足の歩行機能がすっかり落ちていることに気づき、図書館から借りたストレッチの本を見て、自分でリハビリをするようになった。
97歳になっても向上心を失わずに努力する伯母には本当に感心させられている。

施設で塗り絵をしていたことを思い出し、100円ショップから買って来た。
施設ではただ自由に塗らせていただけだったらしいが、私のちょっとしたアドバイスを聞いて絵が立体的に見えるように塗る事ができるようになった。
幾つになっても努力しようとする伯母には、本当に頭が下がる。



写真は、伯母の部屋の窓辺に置いてある「シクラメン」と「アザレア」だ。
僅かずつ明るさを増して来た窓越しの陽光を受けて、綺麗に咲いている。

                 

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「中部ベトナムの旅」(8)

2017年02月21日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「ホイアン」の観光≫(2)

④「福建会館」
この会館は、旧市街の中程を東西に続く「チャンプー通り」に面していて、中国福建省出身の人達の集会所である。
中には大きな植木鉢が並べられ、安産の女神を祭る寺が作られていて、信者が寄進した大きい渦巻き型線香が沢山吊るしてあった。この線香は火を点けると3週間燃え続けるのだそうだ。
中国出身者達は世界中に「中国人街」を作り、そこが見知らぬ外国であっても互いに助け合って生きている。日本人もかって南米ペルーやブラジルに移民した時、「在住日本人会」を作り、協力して苦難に立ち向かい、小学校を作り、生きて来たと聞く。
日本では今、居住地域ですらどんな人が住んでいるのかも良くは知らなくなってしまった。人が人とのつながりを弱めれば、自分を守ることもできなくなるのだが…



 

⑤「シクロ」乗車体験
「ホイアン」の旧市街には車は入れない。その代わり観光客用に自転車式の人力車「シクロ」がある。
私達は1人1台の「シクロ」に乗り、旧市街をぐるぐると回ってもらった。
「シクロ」から色々な店やランタン飾りを見た。約20分走って元の場所に戻った時、チップとして1ドルを渡した。時間の割りに安過ぎるように思ったが、これが彼らの生活費になるのだ。

 

           



⑥「伝統音楽コンサート」
数人でベトナムの伝統楽器を演奏した。優しい音楽だった。
伝統舞踊も2つ披露された。庶民の水汲みや魚取りなど、日常生活をテーマにしたものだった。
コンサートは30分程だったが、良かった。この間、スコールの様な雨が降ったが、終る頃には上がった。

 

 

⑦「ホイアン市場」散策
最終日の午後は自由時間だった。ツアーで主要な場所の見学をしてしまったし疲れたので、改めて6ドル払って総合チケットを買い、5ケ所の見学をする気持ちになれず、旧市街の東部にある「ホイアン市場」に行った。
路上にも露店が出ていたので、沢山の小型店をぶらついた。「川魚」らしきものや「海老」を売っている女性もいた。
また、現地ガイドから「米が原料の「ホー」の麺はダナンに行かないと売っていない。」と言われたが、市場の奥に入って行くと問屋みたいな店があったので聞いたら奥から持って来てくれた。また、時期的に無理らしい「ドライマンゴー」も言うと持って来てくれた。
いずれも定価がないので、一々交渉して買った。
林檎ジャムを作る時に必要な「シナモン」も買った。最後にTシャツ店でTシャツを1枚、土産用に買った。青酸カリで熟成させていない青い「バナナ」も売られていた。この地域の果物は、珍しいものが多かった。
それからぶらぶらしながらホテルまで15分程歩いて、早めに帰った。





         



          

 
 
これで「中部ベトナム」の観光が終った。
観光は僅か正味3日間だったが、幾つもの変化に富んだ特徴ある場所を見る事ができて満足だった。
ベトナムの人達は、フランス、日本、アメリカと次々と他国に支配されながら、最後はあの過酷なアメリカによる「ベトナム戦争」で全土を攻撃された歴史の中で生きて来た粘り強い勇敢な人たちだが、私達観光客に優しかった。店の価格交渉も楽しかった。
多分、4回目のこのベトナム旅行で、ベトナム行きは最後となるだろうが、今思い出すといずれも良い旅だった。
                           (完)

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「中部ベトナムの旅」(7)

2017年02月20日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「ホイアン」の観光≫(1)

①「トゥボン川クルーズ」
「ミーソン遺跡」の後は「ホイアン」に戻り、旧市街の南側を流れる「トゥボン川」でクルーズをした。
旧市街には車の乗り入れが禁止されているので、北側の大きい通りで車を降りて5分程賑やかな旧市街で珍しいパンを無造作に並べている店や色々な果物を売っている店の前を通り抜け、川岸のボートが停泊している船着場に行った。

5艘ほどのボートが停泊していたが、その一つの15人程が乗る事ができる中型のエンジン付きボートに乗り、15分程、川を東から西へ向った。初めの内は川幅も狭く流れが緩やかだったが、やがて川幅が広がるにつれ次第に波が大きくなって行ったので少し驚いた。
この川の豊かな水に支えられて、地域の稲作や農業、そして小規模ながら水産業が営まれているのだと実感できた。



          



       

②ホイアンの「焼き物づくり」見学
ボートを降りた所に古い町並みがあった。「タンハー陶器村」だ。そこの一軒の家に入ると、手でまわすロクロで粘土から器を作る高齢女性がいて、ロクロ回しを見せてくれた。
完成した食器などを展示販売している小部屋もあったが、見るだけにした。釉薬に浸けたり、焼く釜は、どこかに共同で所有しているのかなと思った。



          

車でホテルに戻る途中、柵に囲われた小学校があった。放課後の校庭で子供が遊んでいた。



4日目の午前中は「ホイアン」観光だった。
先ず旧市街に行き、「来遠橋」「福建会館」「海のシルクロード博物館」「フーンフンの家」を見学後、自転車式人力車「シクロ」に乗って旧市街を20分回った。最後に「伝統音楽コンサート」を聞き、「絹織物と刺繍の手工業場」を見た。

③「来遠(ライオン)橋(日本橋)」
旧市街の西にある屋根つきのこの橋は、1593年に「ホイアン」に住む日本人によって架けられたらしい。橋の両サイドの入り口には石像の猿が2匹と犬が2匹置かれている。中には海運を祈って作られた小さな寺がある。
地震に見舞われても400年以上崩れずに現在まであり、「ホイアン」の観光名所になっている。橋がかかる水路は奥が行き止まりなので、水が汚く淀んでいた。
(最後の写真は、傍の建物の二階ベランダから橋の入り口を写した。三角のベトナム帽の女性たちは、「果物が要らないか」と声をかけて、写真を写そうとするとモデル料を請求してくる)



  

 

 

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「中部ベトナムの旅」(6)

2017年02月19日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「ミーソン遺跡」観光≫

3日目は「ミーソン遺跡」観光の日だった。この遺跡は、「ホイアン」の西南西40km、車で1時間半の所にある。地図で見ると隣国の「ラオス」の国境まで80kmほどの場所だ。
ベトナム中部に2世紀末から17世紀まで「チャンパ王国」が栄えていた。特に9世紀以降は、東南アジアの海上交易の中心的な担い手だったという。
ガイドブックによると、この王国は高地から取れる栴檀(せんだん)や伽羅(きゃら)などの香木や香辛料の交易でオリエントと中国の中継地点として栄えたという。
この頃、日本人が多く住んでいた「ホイアン」には「日本人町」があり、今も残る「日本橋」は町の観光名所となっている。

「ヒンズー教のシヴァ神」を祀ったこの主要な遺跡は、ベトナム全土に現在十数か所残されているというが、その一つの「ミーソン遺跡」は4世紀から13世紀までの900年間「チャンパ王国」の聖地だった。
しかし、ベトナム戦争時、「民族解放戦線」の基地が置かれていたため、その大部分が米軍に攻撃破壊されてしまっていた。

この日の気温は28度位あったらしく、凄く暑かった。
駐車場から入り口の門を抜け、少し歩いたところから小さなトロッコ風の車に乗ってジャングルの奥地に入った。下りてから更に少し歩くと「チャンパ王国舞踊」が見られるちょっとした小劇場があった。舞踊を15分程見てから遺跡の観光をした。
舞踊も遺跡も「カンボジア」の「アンコールワット」を微小型にした雰囲気のものだった。



 

遺跡は、A群からK群まで多数あったが、私達は看板に標示されていた比較的保存状態が良い「BCD群」を主に見学した。

 

         

「男根崇拝」を示す遺跡が2箇所に残っていた。踊る女性像や神の頭部が破壊された石像などもあった。  
 

 

少し離れた場所にあった「G群」の遺跡は壮大だった。階段などが修復されていた。

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「中部ベトナムの旅」(5)

2017年02月18日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪ベトナム最後の「グエン王朝」の首都だった「フエ」≫観光(3)

④「ティエンムー寺」

この寺は1601年に創建された。

 

        

高さ21mの八角形七層の「慈悲塔」があり、各層に仏像が安置されている。
寺の裏側には、ベトナム戦争時に政府に抗議した住職が自家用車でサイゴンに行って焼身自殺をした記念の車と彼の写真が展示されていた。


             
寺の南には「フォーン川」が流れていて、遊覧船が停泊していた。



「フエ」の観光終了後、また「ダナン」に戻り、夕食を食べてから「ホイアン」のホテルに戻ったが、その途中、1月末に植え付けをしたばかりの稲が青々と育っていた。この辺りは二期作で米を作っていて、5月末には収穫し、二回目は7月に植え、10月に収穫するいう。



また、5.3kmというベトナム一の長いトンネルを抜けたが、日本がODAで資金協力をしたもので、入り口に日本の日の丸が掲示されていた。(車がトンネルから出るのを待って後部ガラス越しに写真を撮った)



夕方の「ダナン」では仕事帰りの人達のオートバイが溢れていた。
食事をしたレストランの裏は海岸で、波が荒かったが砂浜の砂はキメが細かかった。

 

          

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今朝の伯母の食事

2017年02月17日 | 高齢期の生活全般

伯母が同居して半月になるが、やはり一番大変なのは食事づくりだ。
歯がない伯母には、柔らかいお粥と消化の良いおかずを用意しなければならないからだ。
今朝は伯母が好きな「汁粉」を主食とした。

①まだある小豆を昨夜から水に漬けて置いた。今朝一度湯がきし、圧力鍋で25分煮て柔らかくなった所でザラメと塩で味付けした。餅は喉を詰まらせないように1個を10位に小さく切り、フライパンで弱火で加熱後、器に盛って汁粉餡をかけた。
②「シチュー」は昨夜の残り物を電子レンジで加熱し直した。豚のひき肉と小さく切ったホタテの貝柱、じゃが芋、人参、玉葱を煮て、牛乳、シチューの素で仕上げたものだ。
③「ホウレン草のシタシ」は、柔らかい葉の部分を細かく刻んで、酢醤油を掛けた。
④自家製の「聖護院大根の漬物」は、みじん切りにしたら美味しいと言って食べてくれる。
伯母は完食した。食後は、みかんをデザートとした。

毎食、こんな風に工夫して、食べさせている所だ。

  

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「中部ベトナムの旅」(4)

2017年02月15日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
≪ベトナム最後の「グエン王朝」の首都だった「フエ」≫観光(2)

③「グエン朝の王宮」

ベトナムの「グエン朝」は、1802年から1945年まで13代に渡って続いた。その王宮が残っていた。
広大な庭の2箇所に1803年から作られた9つの大砲が置いてあった。中国の五行思想(火・水・木・金・土に霊力があるという)に基づいて納められたという。実際に使われた事はない。



立派な堀にかかる橋を渡ると王宮門だ。高さ17mの中国式の二層門だった。入り口が3つあり、中央を皇帝が使った。



門を入ると、その向こうに「太和殿」が見えた。北京の「紫禁城」を模倣した平屋の建物だ。
ベトナム戦争中に破壊されたが、1970年に再建されたものだ。さすがに莫大な財を使って作った王宮だった。入り口の柱には、王の象徴である龍の彫刻がされていた。

 

奥に行くと「閲是堂」があった。皇族だけが楽しんだ宮廷舞踊劇場だという。立派だった。
現在はその宮廷舞踊がユネスコの「世界無形遺産」に登録され、日に4回、有料で公開されているらしい。私達は残念ながら見られなかった。


     
広大な庭園の南東部に「フラッグタワー」があった。1809年にザーロン帝が建設したという。
木製の旗台は三層になっていて、高さは17.4mあったが、現在のは1969年に鉄筋コンクリートで作り直したもの。

        


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「中部ベトナムの旅」(3)

2017年02月15日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
≪ベトナム最後の「グエン王朝」の首都だった「フエ」≫観光(1)

2日目、この日の天候は晴れ。
最高気温は27度位という予報だったので、私は夏服姿をしてバスに乗った。
バスは朝8時半に「ホイアン」のホテルを出て3時間半走り、「ダナン」を越え、更に北の「フエ」に向った。
この辺りは、ベトナム戦争当時までは「南ベトナム」だった土地だ。
途中、川で牡蠣貝を養殖している光景や「フエ」の町の様子が見えた。養殖はオートバイのタイヤを半分に切って使っているようだった。
また、道路沿いにキリスト教の墓があった。フランスに支配されていた時代やベトナム戦争時代の影響なのかも知れないと思った。
「フエ」はベトナム最後の王朝が置かれていた歴史的な町で、「グエン王朝」の栄華を残す建造物群は世界遺産になっている。



           



         

①「カイディン帝廟」
先ず最初に向ったのは「カイディン帝廟」だ。
「フエ」はくの字型に流れるフォン川の北西に旧市街があるが、「カイディン帝廟」は南の小高い丘の上にあり、帝廟の上部から町を一望できた。
帝廟を造営したのは、12代目のカイディン帝その人で、西洋趣味を持っていたらしくあちこちに西洋式の建築様式が取り入れられたという。階段は北京の紫禁城を模しているように思えた。
ガイドによると、「統治していた時は悪い皇帝と言われていたが、今は良い皇帝と言われるようになった」そうである。確かに珍しい雰囲気のその廟には、世界中から観光客が沢山来ていた。
石段を登る毎に新たな建造物が現れ、頂上に作られた「帝廟」には「カイディン帝」の坐像が置かれていた。
二階部分には、豪壮な石碑を入れた建物が中央にあり、両側に象や馬、武官達の立像が作られ、廟を守っていた。
「帝廟」の壁は四季の花や鳥を立体的に描いた内部装飾がされていて、それに多くの瀬戸物やガラスがリサイクルされていた。
竹の部分には日本のビール瓶を砕いて埋め込んで作られていた。特別な場所なのにリサイクルしたもので作ったのを見たのは初めてだった。興味深かった。





     



 

②昼食は「宮廷料理」
先ずメニューが用意されていて、その順番に料理が出た。
人参を鳳凰鳥に細工して飾り羽の様に料理を盛り付けたのや、果物を台にして肉団子を飾ったりした装飾的な料理が多かった。味は薄味で美味しかったが、今ひとつお腹は一杯にはならなかった。



  

 
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「中部ベトナムの旅」(2)

2017年02月14日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「ダナン」国際空港でガイドに迎えられた≫

今回の旅は、成田空港発着の「ベトナム航空機」で往復した。
「ベトナム航空」は「ANA」と提携しているため、マイルのカードにポイントが入った。
行きは「成田」発15;25で、「ダナン」着は30分遅れの20;18だった。飛行時間は6時間半。日本との時差は-2時間の国だ。
1回出た機内の夕食は「ウエスタンスタイル」を頼んだが、機内食にしてはとても美味しかった。
スーツケースを受け取って出口を出た所で、現地のガイド氏が出迎えてくれた。彼には3日間世話になった。

今回の参加者は少なかったので、バスではなくて11人乗りの大型の新しいトヨタ車だった。
約1時間南下して、30km離れた「ホイアン」の町のレストランに行き、海老が入った「生春まき」などの夕食を食べてからホテルに向った。レストランの入り口には、名物の「ランタン」が飾ってあった。
 

そのホテルは、世界遺産「ホイアンの旧市街」から徒歩で10分の距離にある「ロイヤル・リバーサイド・ホテル」で、滞在する間4泊した。
ツインの部屋の面積に比べて大きいセミダブルベッドを2つ置いてあるので、ベッド間の距離が12cm程しかなく、ベッドも固定されているので壁側のベッドの人はとても使い難かった。
しかし、洗面所は広く、浴槽の他にシャワールームもあった。毎朝食べた朝食は、オムレツと「ホウ」などの麺類を作ってくれた。果物もあり、まあまあの内容だった。


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「中部ベトナムの旅」(1)

2017年02月12日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ

≪「中部ベトナム」に行って来た≫

6日に成田を出発して10日に帰国し、成田のホテルに後泊して昨日の午後帰宅した。
今回「ベトナム」の旅としては4回目となった「中部ベトナム」行きは、ブログ友の伊豆の花さんの言葉に押されて決めたものだった。
北海道に住む私にとっては気候も今月位が丁度良いのではと思っての事だったが、実際には「ホイアン」の最高気温は28度で、-10度の中出発した私にとっては40度近い差があった。

参加人数が少なかったので、和気藹々の旅だったし、食事は前回と同じく口に合った。
今回行った都市は「中部ベトナム」の「ダナン」「ホイアン」「フエ」で、ホテルは4泊とも「ホイアン」だった。
下の写真は、「ホイアン」のレストランのアンドン飾りと出された食事の一部で、ご飯、筍の煮物、魚の煮物…、そして有名な「ホイアン」の「日本橋」前(中央奥)の風景である。
この写真は近くの家の2階から下を写したが、天秤棒を担ぎ、ベトナムの竹製すげがさで果物を売る女性は、カメラを向けるとお金を求めて来る人達だと言う。


     
          

   

往復の飛行機では、隣席になったベトナム人、オーストラリア人、日本人達とも交流ができ、楽しい思い出となった。
時差が-2時間だったし、短期間だったので疲れは少ない。近い国ならではの利点だ。

この間、伯母は「ショートステイ」の制度を利用して、先月まで居た施設で過してもらった。今日、午後から迎えに行く事になっている。

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伯母の我が家での生活始る

2017年02月01日 | 高齢期の生活全般
昨日午後、最後の荷物と共に、伯母を我が家に連れ帰った。
伯母の介護生活が始ったばかりだが、記録を兼ねて報告したい。

昨日は伯母が帰宅すると、先ずベッドを用意した。
スノコベッドに三つ折マットレスを重ね、厚い敷き布団の上に、薄い敷き布団を重ねた。
上の布団は薄ければしょっちゅう干す事ができるし、例え寝ていて伯母が粗相をしても、洗い易く干しやすいからだ。
枕の方と足の方に座布団を入れて、背骨が曲がっている伯母が寝やすいようにした。
施設の気温は昼夜とも26度あったが、我が家は夜10時まで20度にしてある。
夜10時から朝5時までは、タイマーでガス暖房を切るので、慣れるまで寒いだろうと思い、寝る時は「湯たんぽ」を用意して寝てもらった。

室内は「手押し車」に掴ってなら歩けるが、一々ドアを開けたり閉めたりしながら移動するのが難しい。
一番大変なのはトイレに入ることだ。
そこで、先日借りて来た「ポータブルトイレ」を夜用としてベッドの傍に置いた。
朝聞くと、「昨夜は3回トイレに起きたが、とても使い易く良かった。」と言っていた。

今朝、浴室で上手く浴槽に入れるかを体験させて見た。「体位移乗台」のお陰で何とかなりそうな事が分かった。後は慣れて貰う事だ。
それにしても伯母の足腰の筋肉がすっかりと無くなっているのには驚いた。
少しずつリハビリをし、筋肉がつくものを食べさせたいと思った。

昨夜の夕食は、歯がないので主食は大根と人参をみじん切りにしてお粥に炊き込んだ雑炊だ。米が施設と違うのか、「美味しい」という。
それにサバ缶水煮に大根おろしとホウレン草のしたし添え。ホウレン草は柔らかい葉の部分を細かく切った。それに湯豆腐が3切れだった。
大根の粕漬けをみじん切りにしたのも食べて貰った。

今朝は圧力鍋で小豆を煮てお汁粉を作った。実は伯母の嫁ぎ先では正月三が日の朝は餡の入った丸餅の汁粉だったので、伯母が食べたがっていた料理だ。
餅はのどに詰まらせたら大変なので、一切れを8つに切り、フライパンで焼いて入れた。
それにみじん切りのナマス、赤魚の煮付けを供した。デザートは蜜柑だ。

伯母は施設でお粥とミキサーに掛けられた形のないおかずを少量食べていたので、「何を食べているか分かるし、それに味が美味しい。」と言って喜んで食べてくれた。
今夜はひき肉料理か卵料理を用意する積もりだ。

伯母には時間がたっぷりあるので、自分で持ち帰った荷物の整理を少しずつしてもらっている。
今日はこれから担当病院に行って薬などの相談をして来る。
また午後からは、社会福祉協議会の担当者と専属のケアマネージャーが来宅する予定だ。色々と相談しようと思う。

        

                 
  
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