花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

バルカン地方の旅(8) ボスニアヘルツェゴビナ

2009年10月04日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

前に「ボスニアヘルツェゴビナ」が「クロアチア」の領土内に一部入り込んでいる話をしたが、この日は朝「ドブロヴニク」を出発して海岸線の道から内陸へと進路を変え、別の国境から「ボスニアヘルツェゴビナ」の古都「モスタル」に向った。
「ディナルアルプス」を越えると緑豊かな平野が表れて、広い葡萄畑も見られ、それまでの光景と変わった。
約2時間半走って「モスタル」に着いた。

「ボスニアヘルツェゴビナ」は、面積51,100k㎡で「クロアチア」より少し狭い。首都は「サラエボ」。
人口も438万人と少しだけ少ないが、ボスニア語、セルビア語、クロアチア語が公用語であり、イスラム教徒45%、セルビア正教徒30%、カトリック教徒20%と複雑である。
今までの3つの国と違うのは、オスマントルコに支配された時に正教徒とカトリック教徒以外の多くの人がイスラム教に改宗し、1878年にはオーストリア・ハンガリー領、第1次世界大戦後はユーゴスラビア王国領となったのだが、その後もずっとトルコ風の生活をし続けていることだという。

2005年に世界遺産に指定された古都「モスタル」は、町の真ん中を「ネレトヴァ川」が流れる渓谷にあった。
駐車場から歩く途中の教会や家の壁、古都内部にも、沢山生々しい銃弾の跡があった。①

 ①

オールドバザールの真ん中に作られていたオスマン・トルコ時代の石橋は、1993年からの「ボツニア」内戦時にクロアチア人達に破壊された。
この時、長さ40mの橋の両側に分かれて住んでいる西側のクロアチア人と東側のムスリム(ボスニア)人が血みどろの戦いを繰り広げたのだ。
1995年、NATOが仲介して戦争が終結した後、ユネスコ、世界銀行、民間の寄付によって1200万ユーロという巨費により2004年に修復された。復元記念式典にはチャールズ皇太子他の来賓が多数出席して行なわれたという。
今、橋を西側から東側に渡ると、急に軒先が低いトルコ風のみやげ物屋が立ち並ぶ。
そしてその手前に真新しい木造の歴史資料館があった。覗くと内戦時の悲惨な写真や石橋の復元記念式典の写真が展示されていた。
石橋の中央の欄干では、水泳パンツ姿の男性が2人立っていて、下の川に飛び込むパフォーマンスをしようとしていた。1人がポケットから袋を出して群がる観光客からチップを集めだした。私は通り過ぎたが、振り向くと1人が飛び込んだところだった。
調べたら水面まで24m以上あるこの飛び込みは橋ができた当時からの伝統で、毎年夏には大会も開かれているという。しかし水が冷たいため、危険であるらしい。
②は西側の川岸に下りて写した石橋。イスラム寺院の祈りの集まりを報せる尖塔が見える。③は東側に渡ってから人が群がる橋を写す。

 ② ③

④⑤は橋の東側、観光客が溢れている旧市街の光景。⑥は橋を再建する時に先ず作って見たという小さな仮橋と西側の町の光景。
⑦は昼食に出たひき肉のトルコ風ボスニア料理チェバブチッチ。少し油っぽく、胸焼けした。

 ④ ⑤ 

  ⑥

「ボスニアヘルツェゴビナ」を訪れたことで、私は宗教、民族による対立がもたらす悲惨な結果と、互いに違いを認め合い共生して暮らす新しい可能性を見る事ができた。それゆえにこの地は、後世の人々に残すべき世界遺産として認められたのだろう。

最後になるが、「クロアチア」中部の自然遺産・プリトビツェ国立公園の記事は割愛し、これで(1)~(8)までと続いたバルカン地方の旅を終わりたい。

実は最初、今回の報告記事は凄く簡単なものにしたいと思ったのだが、書いている内に、時間をかけて見て来たものの内容が、自分にとって良く判るものにしておきたいと考え直した。そのため、少ししつこい文になってしまった。

まとめた結果、陸続きで他国と国境を接し、「アドリア海」に面するこの地域は、古くから覇権争いが絶えず、どの国にも複雑な歴史がある事がわかった。
それだけにその歴史が残した多くの遺産は、世界中の未来に向う人々にとって極めて貴重なのだと思った。

拙文を飽きずに読んでくださった皆さんが何を感じたのか気になるが、最後までのお付き合い、ありがとうございました。





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バルカン地方の旅(7) モンテネグロ

2009年10月03日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

クロアチアの最南端の町、ドブロヴニクの観光を昼で終え、食事をしてからバスに乗って南の隣国モンテネグロに足を伸ばした。世界遺産コトルを観光するためだ。

1時に出発したバスは40分で国境に着いた。出国と入国の手続きに20分かかった。
実は入国の際、運転手はミネラルウオーターを1本、管理員に渡していた。賄ろだという。渡さなければいじ悪されて、なかなか通してくれないらしい。こんな光景は初めて見た。

入国後間もなく、運転手の休憩と私たちのトイレタイムのために小さな店に入った。
そこには女性のトイレと洗面所は1つしかなかったが、先に使っていたスカーフを被った数人の女性達がなかなか洗面所から出て来ないのだ。私たちは仕方なく15分くらいも待った。
彼女達が出て行った後の洗面所やトイレは、水だらけだった。
後で知ったのだが、彼女達はイスラム教の信者で、お祈りをするに当たって口、耳、鼻など穴を全て清めていたらしいのだ。
外で敷物を敷いて祈っていたと言う。ある人が「何処の人か。」と聞いたら、マケドニアから来たと言っていたらしい。
こんな場面に出会ったも初めてだった。

モンテネグロの正式名はモンテネグロ、ガイドの説明によると国名は「黒い山」という意味なのだとか。
首都はボドゴリツァ、面積は福島県とほぼ同じ13,812㎡と小さいが、海岸線が長く、アドリア海の自然港として重要な位置を占め、工芸と商業が盛んで、古くから造船業も盛んであった。
14世紀に作られた造船所では、今でも世界中の船を安く修理したり、海運業を請け負ったりしているという。

人口は僅か62万人であり、モンテネグロ語、セルビア語、ボスニア語が公用語だ。
モンテネグロは第1次世界大戦でオーストリア、ハンガリー帝国に占領されたが、1918年にはセルビア、クロアチア、スロヴェニア王国に取り込まれた。後にユーゴスラビア王国の一部となったが、1997年頃から分離独立の動きが強まった。
2006年に行なわれた国民投票では欧州連合の要求通り、投票率86.5%、賛成55.5%という高結果でEUへの加盟を果たし、同時にセルビアから独立し、国連にも192番目の国として加盟、通貨をユーロとした。
しかし、ガイドによれば、現在、失業率が30%もあり、平均月収は270ユーロ(日本円では36000円程度)と貧しい国のようだ。

相変わらず石灰岩の山脈が海にせり出すように続いたが、やがてバスは深く入り込んだ入り江の3/4に当たる距離をぐるりと40分も回ってコトルに着いた。
コトルは昔ローマの属州だったが、535年ユスティニアヌス1世の時に要塞都市として建築されたらしい。
その後、サラセン人の略奪にあったり、ブルガリアに占領されたりしたが、1003年セルビアに併合された。その後もモンテネグロの一部として宗主国が次々と変わった。
1979年の地震により、町は大きく損傷したが、ユネスコの援助で復旧した町である。

城壁に囲まれた小さい古都・コトルは、高く険しい山の中腹にも城壁を巡らせているという特徴があり、規模は比べようも無いが、それは中国の万里の長城に似ていた。① (写真を拡大したら、山の城壁がわかるかも知れない)
他国の支配を受けながらも自由都市として認められて来た町で、門から城内に入る人は税金を払わなければならなかったそうである。②
広場に山を背負って古い教会があった。③

 ① ② ③

城内の小さなスーパーでビールとミネラルウオーターを買ったが、クロアチアより1~2割ほど物価が安いと感じた。
帰りは入り江を来た方向と反対方向に1/4の距離を走り、入り江を挟んだ南北の岸が最も接近しているレペタニからバスごとフェリーに乗って対岸のカメナリに渡った。7~8分しかかからなかった。
しかし、また国境の2つの事務所で手続きをしてドブロヴニクのホテルに着いたら8時になっていた。

今思えば、この半日のオプショナルツアーは、モンテネグロが他国に翻弄させられた長い歴史と、現在の姿に少しだけ触れることができた胸に残る旅となった。

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バルカン地方の旅(6) クロアチア④

2009年10月02日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

昼食後、スプリットから200km南にあるクロアチア最南端の町、ドブロヴニクまではバスで4時間かかった。
左手にずっと続いている石灰岩のディナルアルプスは、いよいよ海岸近くに迫って来て、クロアチアが先細りした地形になっている事が良くわかった。
実は行って見て初めて知ったことだったが、海岸線の道路をバスで南下している途中、突如ボスニア・ヘルツェゴビナの国境が現れたのだ。入国手続き後、僅か10分走るとまた国境が現れて、再びクロアチアの国になったのである。
ガイドの説明では、海岸線を持たないボスニアがネウムという町がある9kmの海岸線を領土として買い取ったというのである。
調べたらかってドブロヴニクの領土だったネウムがオスマントルコに占領されていた17世紀、オーストリアが奪い返した時に、ヴェネチアと対立していたドブロヴニクはオスマントルコに返還を要求しなかったという歴史的な因縁があるらしいのだ。
しかし、現実にはクロアチアはネウムのために飛び地になっているわけで、私には初めての体験だった。

ともかくやっとドブロヴニクに着き、ホテルに入ったら、日が暮れていた。

翌日も良く晴れていた。
朝食後早速、「アドリア海の真珠」とたたえられて来た世界遺産・ドブロヴニクの観光に向った。
まず展望台から旧市街の全体像を見た。遠くに海に突き出している白い城壁に囲まれたあかねいろの町が見えた。①
来た道をバスで戻り、駐車場から歩いて城壁内に入った。
門に入り城壁を見ると圧倒させられた。②

昔、ローマの植民地だった近くの町にクロアチア人(スラヴ人)が入ってきたため、追い出されたローマ人達が小島の岩礁に住み着いたのが町の始まりだと言う。
やがて海峡を挟んだスルジ山の麓にクロアチア人が住み着いたので、島のローマ人はクロアチア人達にお金を払って土地の耕作権などを得ていたという。
やがて両者の融和が深まり、小島を隔てていた狭い海峡を埋め立てて1つの町を作ったというのだ。それがドブロヴニクなのである。
その後ここは、東西文化・交易の中継地として大いに発展して行ったのだ。
この町の人たちは、ヴェネチア、ハンガリー、オスマン・トルコなど、その時々の脅威から自由な交易を守るために、貢物をしたり上納金を納めたりし続け、実質的な自治権を決して離さなかったのだという。私はこの町がたどった歴史を、多くの国が改めて学ぶべきではないかと感じた。

この町には長い間水源が無かったので、雨水を溜めたりして暮らしていたが、15世紀、議会が上水道建設を決議し、10km遠くのスルジ山の水源から水を引く工事をした。これによってオノフリオの泉が作られ、市民に無料で使用させる事としたのだ。今も16のレリーフから常に湧き出るその水が使われていた。私も飲んだが美味しかった。③

 ① ② 

 ③

2つの民族が仲良くなって埋め立てた海峡は、プラッツア通りとなり、町のメインストリートになっている。④
歴史的な建物や遺跡も良く保存されていた。

1時間余りの自由時間に私は町を2kmにわたってぐるりと囲む城壁の上の遊歩道を歩いた。30℃近い晩夏の太陽に照らされた城壁巡りで汗だくになったが、多くの観光客が歩く毎に変わる景色を楽しみながら散策していた。⑤⑥
この城壁は、9世紀にはすでに基礎が作られていたらしいが、本格的には13世紀に30年の歳月をかけて最高高さ25m、厚さ3~6mの城壁を強固に造ったのだと言う。そして14世紀には堅固な要塞も加えられた。
1時、ナポレオンの侵攻により破壊され、また1991年の内戦で大きな傷を負った町だったが、今また逞しく蘇えっているように感じた。
最後の写真は今も賑わう旧港である。⑦

 ④  ⑤ 

 ⑥ ⑦





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バルカン地方の旅(5) クロアチア③

2009年10月01日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

トロギールから30分かけて第2の都市、港町スプリットに向った。
ここでは世界遺産・ディオクレティアヌス宮殿を観光した。
この宮殿は、3世紀の半ばに広大な領土を持ったローマの大帝となったディオクレティアヌスが、やがて59歳で自ら引退した後に建て、人生の終わりを過ごした邸宅なのだった。
当時は約200m四方を高い城壁で囲み、城壁に4つの門(北門、南門、東門、西門)を作って出入りしていたらしい。
現在はアドリア海沿いに広い道路が1本あり、古い城壁を利用して町が作られている①が、当時南門は直接海と繋がっていたという。
廃墟となった場所に長い年月を越えて色々な人達が壁や柱を利用して住み着き、独特な今の町が形成されたのだそうだ。

城壁内は中庭を中心に4つの領域の建物に分かれていたらしい。
中庭から南方の大帝の居住区に入る玄関がローマ時代の彼の存在を今に伝えている。②
玄関を入ると広間があり、天井は円形の吹き抜けになっている。③
そこで男性グループが観光客に歌を披露してCDを売っていた。④
心地良く聞ける歌だったが誰も買わなかったので、私はチップを渡して来た。
中庭には大帝の陵墓だったという場所が、今はキリスト教教会が建っていて、60mある鐘楼も立派だった。⑤
(実は彼はキリスト教を迫害した最後のローマ皇帝だったという。ローマはその後、キリスト教に融和政策を取って行ったのだから、歴史は面白い)

 ①  ②

 ③

土台が沈下して今は半地下のようになっている邸宅の広い通路では、観光客相手のみやげ物屋が営業していた。
当時の宮殿の一部である穀物倉庫などを見学したが、石組みが地震でもずれない様に考えられていたり、⑥ 天井が高く、換気口も作られている事に感心させられた。⑦

 ⑥ ⑦ 



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バルカン地方の旅(4) クロアチア②

2009年09月30日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

昼食後、陽射しが強く、気温も28度の中を、現地ガイドに案内されて港町ザダールの旧市街と海岸を見学した。
ザダールは、紀元前9世紀にイリュリア人が住み着いていたが、200年もの戦いの末、ローマが紀元1世紀に支配権を握った町である。そのため海に突き出た半島の旧市街には、ローマ時代の広場フォロ、ローマ神殿跡、市場などが残っている。

①は珍しい円形状の「聖ドナット教会」。800年代にフォロの上に建てられたものだという。イタリアのローマにある「パンテオン」という古く素晴らしい教会もドーム状だ。
写真で見るように、ローマ時代、遺跡に使われていた大きい大理石が無造作に放置されていたのには驚いた。これらは後で建てられた教会などに使われること無く残されたローマの神殿や広場の基石なのだそうだ。
②は唯一残るローマ時代そのままに1本だけ立つ「恥の柱」である。当時、罪人が縛り付けられて晒された柱だ。
また当時、水は40km離れた湖から水道橋で引かれていたのだと言う。

現在、ザダール海峡を臨む海辺には大きな円形の太陽光発電装置が取り付けられて、市民の憩いの砂浜になっていた。③

 ① ② ③ 

ザダールを見学後、私たちはバスで3時間走って、さらに南の世界遺産・古都トロギールに行き、着くとその日はホテルに入った。

翌朝2時間が古都の観光だった。
トロギールの世界遺産は南北300m×東西500mしかない小島だが、北にある小さな橋と南にある大きい橋で町と繋がっていた。
この町には古くからイリュリア人が住んでいたが、紀元2~3世紀にギリシャの植民都市として発達し、その後はローマ人が住み着いたという。写真④は北門に通じる入り口の小橋を写した。
トロギールでまず目を引かれるのが、高さ47mの鐘楼がある聖ロブロ大聖堂だ。⑤
教会はロマネスク様式だが、鐘楼はヴェネチアが支配する14~15世紀に立てられたのでゴシック様式になっている。
特に正面入り口左右にあるライオン(ヴェネチアのシンボル)とその上のアダムとイヴの彫刻が有名らしい。また上にはキリストの生涯が彫刻されている。⑥
教会前の広場には15世紀に建てられた市庁舎(写真左)と時計塔がある。⑦
その横には柱と屋根だけの建物ロッジアがある。ここは裁判所として使われていたという。
北門を出た所にも同じようなロッジアがあるが、ここは税関だったらしい。⑧
私は一時、古代から中世にかけてここに住んだ人たちの生活と賑わいを想像した。

広場の奥にアイスクリーム屋さんがあったので買って、広場に張られたテントの下の共同飲食所(テラス?)で食べて見た。6kuna(120円)だったが美味しかった。
そこでは地元のサラリーマン風な人たちも数人、コーヒーとトーストを食べながら新聞を読んでいた。
気候が良いためか、一寸したスペースがあればすぐそこに椅子とテーブルをおいて外の客席を作ってしまうし、客も通りでの飲食を楽しんでいるのにはいつも驚かされる。

 ④ ⑤ 

 ⑥ ⑦ ⑧







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バルカン地方の旅(3) クロアチア①

2009年09月29日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

たった今、89歳の伯母から電話があった。「恐ろしい国に行ったので心配していた。無事に帰って来て良かったね。」と言われた。

ポストイナ鍾乳洞見学後、バスは一路、クロアチアの港町オパティアを目指した。
1時間程して国境が近づくと、添乗員から絶対にカメラを向けないようにと言う注意があった。
先ず日本の高速道路の料金所に似た作りになっているスロヴェニアの国境に着くと、バスの運転手と添乗員が降りて乗員の名簿とパスポートナンバーを書いた書類を出入国管理事務所に提出しに行った。
しばらくして男性管理員が1人、バス内に乗りこんで来た。私達1人々々にパスポートの提出を求め、確認後、出国の印を押した。
着いてから済むまで30分位かかった。
それから100m程バスが進むと、今度は同じ様なクロアチアの出入国管理事務所があって、また運転手と添乗員が名簿を出しに行った。今回は10分程で2人が戻り、バスはそのままクロアチアに入国して走り始めた。

間もなく行く手右側にアドリア海が見えて来た。海沿いの町オパティアがその日の宿泊地だ。
ホテルは海岸沿いにあったので、夕食後、添乗員が教えてくれたスーパーマーケット「konzumu」に行くことにした。
夕暮れとはいえ、気温はまだ25度くらいあり、多くの人が散策をしていた。
海辺でアコーディオンを弾きながら歌っている男性がいたが、前に置いてあるボールにはさっぱりお金が入っていないようだった。
5分も歩くとその店があった。クロアチアのお金クーナ(5000円=248.5kunaだから、1クーナは約20円)で、桃2個5、48クーナ、チョコレート1枚(200g)8クーナで買って戻った。

翌朝、食事を早めに済ませ、集合時間の前に娘と一緒にホテルから見える教会に行って見ることにした。
坂道を5分も歩くと着いた。
海沿いの高台に大きな聖マリア教会が聳えていた。①
7時半に教会の扉が開いたので入ってみると、内部は輝くようなあかね色のレンガを積み重ねた見たことの無い様な清楚な雰囲気に溢れた教会だった。
正面の祭壇上部には金属製のキリスト像②が下げてあり、横奥には可憐なマリア像③が置かれていた。
私達以外は誰も行かなかったが、私は何かすごく得をした気持ちになってバスに乗ったのだった。

 ① ② ③

バスは8時に一路ザダールに向って出発し、アドリア海沿いを南下した。私は海の向こうにイタリアを想像した。

クロアチアの正式名はクロアチア共和国、面積は57,000k㎡、人口470万人、首都ザグレブである。
添乗員の説明では、平均月収は7,500クーナ(約15万円)、失業率は12~15%だそうだが冬季は25%にもなるという。
海岸線が長いので古くから海運業、貿易業が盛んだったが、耕作できる平地は少ないという。
バスが進むに連れ、左側に海の近くにそそり立つ石灰岩が露出した山脈が見えて来た。④
ある所では深い入り江の傍まで接近しているのだ。ここには珍しく耕作地も見られた。⑤
この山脈がディナルアルプスである。
この高い山脈の稜線が隣国ボスニアヘルツェゴビナとの国境になっていると言う。
本当に平地が少なく、山には限られた植物しか生えていない。これでは農業はできないとつくづく同情させられたし、悲しくなった。
さらに南に行くと幾つか港町が続いた。⑥ 海を見て少しホットさせられた。
バスは4時間半かけてダルマチア地方の都市、ザダールに着いた。
(④~⑥は走っているバスの中から撮影したので、ぼけていたりガラスが反射したりしているが悪しからず)

 ④ ⑤ 

 ⑥


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バルカン地方の旅(2) スロヴェニア②

2009年09月28日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

改めてスロヴェニアの国を概観すると、正式国名スロヴェニア共和国、面積は2万k㎡で日本の四国よりも少し狭い、人口200万人、1991年独立、1992年国連加盟、人口の80%がスロバキア人で農業、漁業が盛ん、鉱物資源が多く、旧ユーゴの中では最も豊かな国である。

昼食後、ブレッドからバスで南西方向へ1時間半走り、ポストイナという町の鍾乳洞見学に向った。
この鍾乳洞は全長27kmもあり、ヨーロッパ最大の規模だという。
見学者は狭い地底を「インディジョーンズ」のように猛スピードで走るトロッコ列車に乗って移動しながら見学した後、2km位を歩いても見学し、又トロッコ列車で戻るというようになっていた。
そのスケールの大きさと鍾乳石が作り出す景観の素晴らしさは、今まで見た事がなく、言葉では言い表すことができない。
フラッシュ撮影が禁止されていたので、目に焼き付けるしかなかった。写真①
気温は年中8℃だそうで、1時間半いたら身体も冷えた。



最終日、スロヴェニアの首都リュブリャナで、オプショナルツアーに参加せずに、午後1時まで自由行動をした。
ホテルから町の中心街までバスに乗ったが、料金は片道1ユーロ、2輌が連結したような大型のバスは珍しかった。
この町は500年に渡り神聖ローマ帝国の支配下にあったが、その後、隣国オーストリア帝国に組み込まれた歴史を持つだけに、ルネッサンスやバロックなどの芸術の息吹が感じられた。
最も有名なリュブリャナ大聖堂には塔が2つある。9時に訪れた時はミサの最中だったので、後で再度行って見学して来た。聖堂の天井部分のつくりと絵は素晴らしかった。② 
また入り口の青銅?の扉には意味の有る彫刻がなされていた。③

 ②  ③

また3本の橋が放射状にかかっている「3本橋」も珍しい。中央が車道で両端が歩道だ。④ 広場の向こうにはモダンな外観のフランシスコ教会が佇む。
町の中心にある国会議事堂にも行ってみた。近代的な建築だが、入り口の多くの人が繋がっている彫刻に引き付けられた。⑤

 ④ ⑤

この他、往復3ユーロの近代的なフニクラに乗り、リュブリャナ城にも行ってみた。塔に登るには一般は3.5ユーロだが、私はシニア料金2ユーロで登った。上からの展望も良かった。
青空市を覗くと、新鮮な果物や野菜等が実に豊富なのに驚いた。⑥⑦
ちなみに青葡萄、桃ネクターは1kg1.4ユーロ(189円)、大粒の葡萄は3ユーロ(405円)、トマト、じゃが芋は1kg0.8ユーロ(108円)、ピーマン1kg1.5ユーロ(203円)だった。 
最後にデパートの食品売り場も覗いたが、やはり品物が豊富で清潔感に溢れていた。

 ⑥ ⑦


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バルカン地方の旅(1) スロヴェニア①

2009年09月27日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

この度9月17日から25日までの9日間、スロベニア・クロアチア・ボスニアヘルツェゴビナ・モンテネグロのバルカン地方4カ国を旅して来た。
25日、フランクフルトから11時間15分、狭いエコノミー席で過ごして成田に着いたのは15時10分だった。私はさらに4時間近く成田で待って、19時発で新千歳空港まで戻ったので、帰宅したら22時になっていた。
長旅でやはり疲れたし、体が7時間の時差に慣れた所だったので、夜中に目が覚めたりして昨日は1日ボーッとしていた。
これから各国で見て来た主なものを思い出しながら記事にしたい。

まず今回訪れたバルカン地方3カ国の簡単な地図(写真①)である。この地図にないモンテネグロは、クロアチア・ボスニアヘルツェゴビナの南に接して位置する国である。

  ①

 いずれもイタリア半島とはアドリア海を挟んで東に位置し、1990年代初めまではユーゴスラビア共和国の1部だったらしいが、ユーゴスラビアが崩壊後、1991年から94年辺りまでの内戦を経て独立した国々なのである。内戦により国境近くにはまだ地雷が残っていて、各国政府がいまだ除去に努めていると聞くが、今は落ち着いていた。
日本からの直行便はないので、この地方の情報は少ないが、クロアチアはサッカーワールドカップで日本に馴染みとなり徐々に知られるようになったのではないだろうか。
旅行中、私たちのグループは日本人グループ1つと出会ったが、他は皆ヨーロッパからの観光客だった。
なお外務省渡航情報によると、クロアチアへの日本からの渡航者は2003年16,000人だったが、2005年には33,000人と大幅に増えているそうだ。

私たちは17日、全日空機で成田から12時間20分飛んでまずパリに行き、そこでアドリアエアーウエイズに乗り換えて1時間45分飛び、スロベニアの首都リュブリャナに下りた。
さらにバスに乗り換えて1時間かけて地方都市ブレッドに着いたのは夜中の1時過ぎだった。(現地は夏時間で日本との時差は7時間)
翌朝、6時半起床。朝方雨が降ったが、食事を7時に取ってから30分ほどホテル周辺と湖畔を散策した。
オーストリアとの国境に近い町ブレッドの中心は、美しいブレッド湖だ。ここは古くからハプスブルグ家のリゾート地だったと言う。
湖に浮かぶ小さなブレッド島に建つ聖母マリア教会と向こう岸の断崖に聳えるブレッド城が、朝もやに浮かんで絵のような幻想的な美しさを見せていた。
②ホテルの部屋から見た美しい家並み ③朝もやに霞むブレッド城と聖母マリア教会

 ② ③ 

私たちはスーツケースをバスに積み込み、8時半に最初のブレッド観光に出発した。
湖と周辺の環境を保全するためにガソリンを使う船は認められていないため、湖畔からは手漕ぎボート④でブレッド島の教会に行った。湖畔から99段の石段を登ると小さな教会があった。その鐘楼の鐘⑤を鳴らすと幸せになるという言い伝えがあるそうで、皆交代で祭壇の前に下がっているロープを力一杯3回引いた。⑥ 


 ④  ⑤  ⑥ 

手漕ぎボートで島から戻り、バスでブレッド城に行った。
11世紀に建てられたという古城には、今、レストラン、ワインケラー、博物館、グーテンベルグが15世紀に発明した金属製の活版印刷機による印刷屋などが入っていた。印刷屋では、色付き厚紙に日付・名前入りで城の絵柄が入った見学記念カードなどを印刷作成して1000円程で売っていて、何人かが注文していた。
晴れた日に見える裏手からの展望が素晴らしいそうだが、丁度雨後のもやがかかっていて残念だった。⑦⑧

 ⑦  ⑧

  

  

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明日からは旅

2009年09月16日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅢ」スロベニア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロ

明日17日より25日まで9日間、旅行に行く事になった。
今回は5連休をはさむので、勤めている娘に誘われて仕方なく行くのだ。
実はこの期間を外すと、同じツアーが10万円も安くなるが、彼女にとってはこの日しか行けないので「子ども孝行」と思って同行する事にしたのである。

行き先も娘の希望で、「クロアチア・スロベニア・ボスニアヘルツェゴビナ」だ。
この地域は今、東京と同じ位の気温らしい。
ただ、ボスニアの一部は治安が心配な場所もあり、地雷が埋まっている危険もあるらしいので、気をつけて行って来たい。

暫く留守になるので、今朝は庭のトマトやほーれんそうを収穫してご近所に届けた。引き続き留守中の収穫もお願いした。
昨日はいつもの事ながら警察署に出向き、留守中の巡回をお願いした。

また、2月の八重山諸島の旅では、親知らずがうずき辛かったので、今回は事前に歯医者に行った。
少し気になっていた犬歯の1本が虫歯になっている事が分かり、一昨日、その神経を取った。私は麻酔が効きにくいそうで、3~4回注射して効いてくるのに25分くらいかかった。
今日はこれから、経過観察と治療で歯医者に行ってくる。
それと長時間の航空機や人ごみの中での新型インフルエンザ感染も心配なので、100円ショップからマスクを買い占めた。(と言っても、3枚入り100円のが3個しか残っていなかったのを全部買ったのである)

明日は1番電車に乗って新千歳空港に行き、7時50分発の成田行きに乗る。そして11時50分発の全日空機でパリに向かい、乗り継いでスロベニアのリュブリャナを目指す。到着は23時だ。時差8時間の筈なので、今回も乗り継ぎ時間を含めてかなりの長旅になりそうだ。
元気で帰って来たら、また報告する予定。それまでブログを休みますが、忘れないで又来てください。



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