花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

「キプロス」「マルタ」の旅(15)

2015年12月14日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「キプロス紛争」は今≫

「キプロス紛争」を記憶している人も多いに違いないが、この国はトルコの南90km程の距離にある。そのため古くからトルコ人も住んでいた。
しかし歴史的には、紀元前700~紀元395年には「ビザンチン帝国」の一州だったし、1191年には「イングランド」のリチャード一世が占領したが、翌年には「フランク人王朝」に取って代わった。
1489年には「ヴェネチア」の支配下に入ったが、1571~1878年には「トルコ」が支配した。
1898年には「イギリス」の支配に変わる中で、1955年から独立運動が起こった。
遂に1960年8月16日、「キプロス」は独立を果たした。

しかし1963年には「ギリシャ系」住民と「トルコ系」住民の対立が起こり、国連軍が派遣された。
1974年「トルコ軍」が島の北側を占拠し、翌年、一方的に北部を「トルコ人」の独立国家にすると宣言したのだった。今も国連は認めていない。

私達は2日目にその境界地域を訪れた。
6~7mの高さの土塁が城壁の様に築かれ、「トルコ」の国旗がたなびいていた。
土塁の下には鉄条網が張り巡らされていて、南側のキプロスの人は立ち入れないようになっていた。
曲がり角に紛争の傷跡が生々しい家が、そのまま残っていた。境界に家が建ち並び、道路を車は普通に走っていた。
土塁の上から南側を見下ろしているトルコ人が数人いた。男性グループに下から大声で「写真を撮っていいか。」と聞くと「OK」だという。1枚撮らせてもらった。
正に「旧ベルリンの壁」と同じだった。武力で一方的に領土を占拠してしまう事が現在でも続いていた。
私達は15分程でその場所を離れた。

 
 
 

 

これで長く綴った「キプロス」「マルタ」の旅を終了する。
二つとも地中海の小さな島国だったが、温暖な気候と歴史の古さ、交雑した異文化の混ざり合い、そして戦争と紛争の影が今も色濃く残る印象深い国だった。      (完成)
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「キプロス」「マルタ」の旅(14)

2015年12月13日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪首都「バレッタ」観光後、帰国の途に≫

いよいよ3泊したこのホテルとも、分かれる日が来た。
スーツケースを整理し、早めの朝食を済ませようと、まだ明け切らない6時45分頃部屋を出た。

最後にロビー前のベランダに写真を撮ろうと出たら、大声で呼ぶ人がいる。
見ると3階のベランダの男性が私に向かって叫んでいた。
私も大声でどうしたのか聞くと、「自分はパキスタン人(多分そう言ったと思った)だが、ベランダに出て戸を閉めたら室内に戻れなくなった。フロントに伝えて欲しい。」と言うのだ。パジャマ1枚で寒そうにしていた。

 

直ぐにフロントに伝えたら、係りの人が笑っていた。彼に伝えたことを言ってからレストランに行った。
部屋に戻ってから確かめると、ベランダのガラス戸の室内側に「締めたら外側からは空けられません」と小さな張り紙がしてあった。彼はそれに気づかなかったのだろう。可笑しかった。

9時に出発となっていたので、朝食後、8時から開くと言うスーパーに出かけた。結構大きな店だったので、「ワインチョコレート」「ナイヤガラの干し葡萄」「チーズ」などを仕入れた。「キプロス」で買った「オリーブ油」「蜂蜜」と合わせると、今回はスーツケースが重くなった。(エミレーツ航空はスーツケースは30kgまで許容される)

ホテル前やフロントは、一層警備が強くなっていた。その中で全ての人のスーツケースをバスに積み込み、ホテルを後にして「バレッタ」に向かった。
前日ガイドが話した通り、徐々に天候が悪くなって来て冷たい風が吹き出し、とうとう雨が降って来た。初めての雨の中、「マルタ島」の最後の2時間程を観光した。

①「アッパーバラッカ ガーデン」奥からの展望

バスを降りて公園を横切り、奥の展望台に行って写真を撮った。
「バレッタ」が1565年にトルコ軍の「大包囲戦」に勝って以来、「聖ヨハネ騎士団長ジャン・パリソ・ドゥ・ラ・ヴァレット」により攻撃から身を守る要塞の町に造り変えられたことが良く分かった。
東西1km南北800m程の首都の中に、「マルタストーン」という蜜色をした石灰岩の建物が300もあるという。その内の多くは公共施設として使われている。
この大砲を使った空砲の実演は、毎日2回行われるそうだ。



          

②結婚式場ともなる「市庁舎」

市庁舎前の大広場では、道路を整備したり、植栽のプランターを置いたり、清掃する大勢の人達がいた。プランターに不審物を隠されないのかなと心配だった。
黒い車が来た。ガイドは「市長さんです。」と言った。
この市庁舎では、申請すれば誰でも結婚式ができるのだそうだ。

       

③「聖ヨハネ大聖堂」

ここは「マルタ騎士団」の「守護聖人ヨハネ」を祀る協会で、1577年に建立された豪華なものだが、丁度工事中だった。
長さ57m、高さ19mあり、床は縁の人達の墓になっていて、墓碑には色大理石が敷き詰められていた。400以上あるというが、中には骸骨を模様にした墓もあった。



 
 

続く建物に「大聖堂美術館」が併設されていた。「カラヴァッジョ」の描いた「聖ヒエロニムス」と「聖ヨハネの斬首」が有名だそうだ。

近くの「騎士団長の宮殿」だったと思うが、2階展示室に入ると1565年の「トルコ大包囲戦」が大型スクリーンに映し出され、「ヴァレッタ」の歴史の一端を伝えていた。(しかしその後、フランスに敗北したり、イギリスの植民地になった事には触れていなかった)

 

その後、大通を散策してヴァレッタ観光は終り、バスで飛行場に向かって、帰国便の塔乗受付に並んだ。
帰りの飛行機は1時間も遅れたが、何の理由も知らされなかった。お陰で「ドバイ」で「成田行き」に乗り継ぐ時間がぎりぎりだった。
疲れたのか「ドバイ」から日本までの8時間は半分以上寝ていた。
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「キプロス」「マルタ」の旅(13)

2015年12月11日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「ゴゾ島」観光≫(2)

②「アズールウインドとインランドシー」

ゴゾ島の西に数万年の波と風雨の侵食でできた景勝地がある。それが「アズールウインド」だ。



        

私達はその内海からボートに乗った。一艘に9人、私は左側に乗って狭い岩の割れ目から外海に出た。
波が大きくうねり、ボートから弾き出されるのではないかと思う瞬間も何度かあった。
しかし、浸食でできた洞窟に入って光線の加減で真っ青に見える海面や、海と岩の境目にできた紫珊瑚、まるで鰐が寝そべっているように見える鰐岩を見たりした。
私は片手で必死で写真を撮ったが、ボートが木の葉の様に大きく揺れ続けるのでボケたものもあった。イタリア「カプリ島」の「青の洞窟」よりも興奮し、楽しめた。



 
 


 

            

③「ゴゾ大聖堂」

「大聖堂」を見学に行ったら坂の上に登る道路が工事中だった。ガイドは自由時間25分と言ったので、私は工事車両の横を通って行ける所まで行く事にいた。遂に「大聖堂」の階段の下に着いた。
この聖堂は、1697~1711年に建立され、バロック様式のファサードがあるという。
時間が限られていて入場料も必要だったので、中に入らず、脇の階段を登って見た。
広い展望台があり、教会は堅牢な城壁で防護されていた。古い大砲も備えられていた。遠くを見下ろすと、ゴゾ島の町と海が見えた。

 

         



「ゴゾ島」に別れを告げ、17時過ぎのフェリーで「マルタ島」に戻った。
ホテルに着くと入り口やフロント前の警備が厳しくなっていた。ガイドの話では、「イギリスからエリザベス女王も会議に参加する事になった。いつも使えるホテルの駐車場が、今日は立ち入り禁止だと言われた。」という。
多分、「英国連邦会議」に参加する各国の要人がここにも宿泊するのかも知れないと思った。
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「キプロス」「マルタ」の旅(12)

2015年12月10日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「ラバト」観光≫

「聖パウロ教会」

「イムディーナ」の城壁の外に「ラバト」の旧市街が広がっている。
一番の観光箇所は「聖パウロ教会」だ。この教会には「地下墓地」があるそうだが、時間が無かったので諦めた。
バスに乗ってから、周囲の景色を車窓から写した。

 



      

≪「ゴゾ島」観光≫(1)

7日目は簡単に朝食を済まし、9時半にホテルを出て、もう一つの小島「ゴゾ島」にフェリーで渡った。晴天に恵まれたので、約1時間の船旅を楽しめた。
島に着いた時、甲板から見えた景色を撮った。
また耕作地が多かったが、ガイドは「石灰岩の層の上に粘土層があるので、ゴゾ島の土は保水性がある土だ。」と話した。岩だらけの本島には少ないホッとする景観だった。

 

        



        

①「ジュガンディーヤ神殿」

初めに島のほぼ中央部にある紀元前4000年頃から建造が始ったと言う「ジュガンディーヤ神殿」を訪れた。
先ず傍の「博物館」に入って、写真や発掘品を見ながら説明を受けた。

この神殿は鳥が飛ぶ形に造られていて、豊満な女性像が沢山出土していることから豊穣、多産を祈ってたらしいという。
また残された人骨から、当時の人は写真の様な顔をしていたと考えられるそうだ。
祭壇らしき場所、家畜を紐で繋いだ穴がある石があった。また、通路の両側の壁に横棒を通す穴が開いていた。神聖な奥に行けない様に通行止めをするのに使われた穴だと言う。
石の大きさを組み合わせてしっかりと積み重ねられている遺跡を見て、遥か古代の人類が知恵を使って建造したのだと感動した。

 

 



         

 

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「キプロス」「マルタ」の旅(11)

2015年12月09日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ

≪「マルタ観光」一日目≫(2)

②「スリーシティズ」ー「日本軍人墓地」他

現地ガイドの提案で観光予定になかった「旧日本海軍戦没者墓地」に立ち寄った。
その墓地は、「マルタ」のカルカラにある「イギリス人共同墓地」の奥の一角に立っていた。
第一次世界大戦の時、マルタはドイツ帝国に海上封鎖され、物資が不足する事態になった。当時マルタを支配していたイギリスは、1917年、日英同盟によってチャーチルが日本に援軍を要請した。日本は巡洋艦「明石」他8隻の艦隊を出動させて戦ったが、1917年6月、駆逐艦「榊」が敵の魚雷を受け、59名が戦死したという。
墓には「大日本帝国特務艦隊戦死者の墓」と大きく刻まれていた。
当時の国民は、この事を知らされたのだろうかと疑問に思った。

 

昼は最大の漁村だという「マルサシュロック」のレストランに行った。「黒マグロ」がメインディッシュで、ぶつ切りの焼いたマグロが出て来たが、マグロはそもそも油が少ないから焼いたらますますパサついて、今ひとつ美味しいとは言えなかった。バターでソテイにしたら美味しいのかも知れないのに。
「マルサシュロック」の湾には、小さなボートの様な小船が沢山停泊していた。その船の舳先に安全祈願だという目が小さく描いてあった。対岸には葡萄の段々畑が広がっていた。

 

③古都「イムディーナ」観光

遅い昼食を終えてから「マルタ島」のほぼ中央部の丘の上にある16世紀の首都だった「イムディーナ」に向かった。
ここも堅牢な城壁に囲まれた町で、「メインゲート」から中に入ると狭い路地の両側にマルタストーンの石灰岩で建てられた家々が建ち並び、大聖堂や古い貴族の館などがあった。観光客用の馬車が数台、客を運んでいた。



 

 

      





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「キプロス」「マルタ」の旅(10)

2015年12月09日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「マルタ観光」一日目≫(1)

①「スリーシティーズ」ー「セングレア」「ヴィットリオーザ」観光

「マルタ」の観光は「スリーシティーズ」から始った。
3つの町とは「ヴァレッタ」と入り江を挟んだ対岸にある「セングレア」「ヴィットリオーザ」「コスピークワ」の町だ。
初めの2つの町は、小さな湾に突き出た場所の町で、「コスピークワ」はその付け根にある町だ。
1530年にこの島にやって来た「聖ヨハネ騎士団」が、最初に居所を築き上げた場所だという。午前中は前の2つの町を歩いて見た。

町は城壁に囲まれていて数個の入り口があり、海から見ると巨大な戦艦の様に見える。湾には帆船が沢山停泊していたが、ガイドからは「他のヨーロッパ諸国よりも停泊料金が安いからだろう。」と聞いた。
湾内の帆船の帆に大勢の女性が次々と登り、一斉に作業をするところを見た。珍しかった。



          

 

          



城壁の中に入ると、狭い路地の両側にぎっしりと建物が並び、建材にしている石「マルタストーン」の蜂蜜色が明るい雰囲気を出していた。中には曲がっていて見通しが効かない路地もあり、敵の侵入を防いでいた。「張り出し窓」からは、通行状態を上から監視したという。

 

今は博物館になっている古い教会には、騎士団団長の剣と帽子が展示されていた。

 

 

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「キプロス」「マルタ」の旅(9)

2015年12月08日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「マルタ」という国≫ 

6日目は「マルタ」の主な3つの町(スリーシティーズ)の観光だったが、その前に「マルタ共和国」について触れたい。(ガイドブックを参照した)

4つの島からなり、総面積は316k㎡(淡路島の約2/3)人口は41万人の国だ。
「マルタ共和国」はイタリアの「シチリア島」の南80kmに位置し、西には「チュニジア」南には「リビア」がある。
首都はマルタ本島の北北東に位置する「ヴァレッタ」だ。
民族は「北アフリカ系」「中近東系」「ヨーロッパ系」の「マルタ人」で、宗教は「カトリック」だ。
気候は温暖で雨が少なく乾燥していて、夏の最高気温は30度、冬の最低気温は10度程度と過し易い。面白い事に川が無い国なのだ。

「マルタ」には、紀元前8000~5000年という「エジプト」よりも古い歴史があり、「地中海文明の源」の地だと考えられている。
各地に巨大な巨石を積み上げた神殿が残されているが、高度な文明を築き上げたその人達は姿を消してしまったのだ。

  (「ゴゾ島」の「ジュガンティヤ遺跡」)

その後、周辺の国々から海を越えて多くの民族が「マルタ島」にやって来た。
近代では1113年にキリスト教徒の巡礼者の救済と異教徒との戦いを目的に「パレスチナ」に創設された「聖ヨハネ騎士団」が、1291年に激戦の結果イスラム教徒に滅ぼされると、ギリシャの島々に移りながらも復活していたが、1522年にオスマン帝国によって滅ぼされると、地中海の島々を転々と移住しながら、最終的に「マルタ島」に拠点を見出し、「神聖ローマ帝国」から島を貰い受けたのだった。

1565年巨大な船団を率いてトルコ軍がやって来て3ヶ月にも及ぶ戦いが続いたが、マルタの騎士団はシチリアの援助を得ながら攻撃に耐え勝利した。
この時の騎士団長「ヴァレット」は、岬に「要塞都市」の建設を実行し、町の名を「バレッタ」と名づけた。
その後、再び攻撃に備えた都市づくりを続行し、経済的にも発展した。

       
         (今の「バレッタ」) 

しかし、1798年、総勢6万人弱の艦隊を率いた「ナポレオン軍」がやって来て、「食糧と水の補給」を口実に寄航した際、「マルタ騎士団」は無抵抗に降伏した。それによって「マルタ」はフランスの属領となった。

1800年、イギリス総督に援助を要請し、「マルタ」はイギリスの植民地となった。
1964年にイギリスから独立1974年に「共和国憲法」を発布して「マルタ共和国」となった。今から41年前の事である。
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「キプロス」「マルタ」の旅(8)

2015年12月07日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪世界遺産「ヒロキティアの遺跡」観光を最後に「マルタ共和国」へ≫

「キプロス」最終日は、ホテルを出てから1934年に発見された新石器時代の「ヒロキティアの遺跡」に向かった。遺跡は、首都「ラルナカ」の西32km、海岸から少し入った丘の上にあった。
そこには紀元前7000~4000年頃の住居跡が残されていた。
今から9000年も前の人々は、温暖で水が得られ、天然の砦ともなるその地で農業を営み、安定した生活を築き上げていたらしい。
丘の斜面に川原の石を運び、粘土に藁を混ぜてレンガを作り、厚さ25cmの壁を周囲に巡らせ、窓がある円形の建物を沢山造って、内部には長いすや炉を作っていた。
鹿、羊、山羊、豚を家畜として飼い、イチジクやオリーブ、オレンジ、葡萄などの果実を採取し、穀物を栽培し、山から水を引いて生活していたようだ。死者は床下に「屈葬」していた。
しかし、理由は分からないが、どこかに行ってしまったのだという。伝染病か旱魃などの天災か、理由はまだ分からないらしい。麓に住居のレプリカが建てられていた。

 



           



           

 

「ラルナカ空港」に行き、「マルタ」行きエミレーツ航空の搭乗手続きをした。
25分も早く「ドバイ」から来た飛行機に乗った。機内には既に「ドバイ」で塔乗して最終目的地「マルタ」に行く人達が沢山乗っていた。
私の席は窓側のA席で、隣は「ナイジェリア」人の中年の黒人男性だった。片言の英語で会話した所、彼は政府の職員で「マルタ」で行われる「英国連邦会議」に出席するためメンバー5人で来たということが分かった。宗教はイスラム教だが、妻は1人で沢山で、子どもは3人いると言っていた。
彼はとても親切で、日本人のおばさんが座席のTV画面の操作で困っていると、さっと横から手助けしてくれた。しかも2回も…
(写真は機内で出た軽食。美味しかった)

         

2時間50分で「マルタ」に着いた。日本との時差は-8時間の国なので、早速時計を更に1時間遅らせた。
飛行機から降りるとリムジンバスが待っていたので乗った。最後に乗った私に、座席を詰めて座れるようにしてくれた黒人の女性にお礼のついでに国を聞いて見たら、彼女はアフリカの「マラウイー」から「英国連邦会議」に参加するために来たことが分かった。今回のマルタは国際会議と重なっているので、空港の警戒も厳しそうだった。

バスでホテルに向かった。「マルタ」で3泊するホテルは5つ星の「ウエスチン ドラゴナーラ リゾート」だった。部屋は広々、ベッドもキングサイズ、何よりも海側で眺めが素敵だった。





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「キプロス」「マルタ」の旅(7)

2015年12月06日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「リマソール」南部の海岸沿いの遺跡を観光≫(2)

④「ペトラトゥミロウ」の海岸
昼食のレストランへ行く途中、海岸線の道路を走った。
見晴らしの良い所でバスを降りると、海の中に突き出た立て型の岩と小さい岩が見えた。
ガイドの説明では、後方の小さい岩に寄せる波に発想を得てイタリアの「サンドロ・ボッティチェリ」は、名画「ヴィーナスの誕生」を描いたという。美しい海岸線だった。



レストランは、この岩が正面に見渡せる場所にあり、地中海で獲れる新鮮な魚介類をから揚げやグリルで焼いて出した。
いか、たこ、黒タイ、ムール貝などが出た。

⑤「アフロディーテ神殿」
「キプロス」の島の西南にある海沿いの町が「パフォス」だ。かっては首都だったこともある町だ。「アフロディーテ神殿」はその15km程手前にあった。この神殿は、紀元前12世紀頃建てられたらしい。
「パフォス」で信仰されていた豊穣と多産の神「ヴィーナス」が、やがて「アフロディーテ」になったと言われる。
海を臨める高台に遺構の一部が残っていた。石に穴があいているのは、運んできた時に木の棒を差し込んだ所だという。
傍に博物館があった。「キプロス」の別の場所で発見された紀元前11世紀頃造られたという「浴槽」やここの遺跡の床に張られていた「アフロディーテ」のモザイクタイル絵(およそ紀元後2~3世紀のもの)などが保存展示されていた。浴槽は現在の物と比べても決して劣らない出来栄えだったのには驚いた。
すでにこの地中海地域に優れた人類の文明があったのだ。



 

⑥「ディオニソスの館」
この遺跡は1962年に農作業中の農夫によって偶然に発見されたもので、紀元2~4世紀に建てられた館と言われていて、沢山の部屋の床にギリシャ神話を題材にしたり、当時の生活を描いた美しいモザイクタイルが残されていた。こうした館は、近辺に幾つも発見されている。

          

          



             

⑦「パフォス城」
最初、海を守るための砦だったが、13世紀に城として再建された物だ。
1570年にヴェネチアに壊されたが、16世紀にオスマントルコが支配した時に再建された。
夕闇が迫る時刻だったが、急な石段お屋上まで登り、写真を写した。「パフォス」の町と反対に広がる豊かな地中海が良く見渡せた。
日没はこの屋上で迎えた。何故か日本の事が思われた。(写真は16;12のもの)

 
     
     



              
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「キプロス」「マルタ」の旅(6)

2015年12月05日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
今朝も雪が散らついていたので、テンプレートを「雪降る町」に変えて見た。

≪「リマソール」南部の海岸沿いの遺跡を観光≫(1)

①「コロッシ城」
初めに「リマソール」郊外にある「コロッシ城」に寄った。ここは13世紀に建てられ、14世紀には十字軍の基地にもなり、15世紀に改修されたという3階建ての堅固な軍事用の城だった。入り口は二階にあり、跳ね橋が備え付けられていて、敵が階段を上ると屋上から熱した油や石が落されたという。

 


(屋上から下を写した)

②「クリオンの野外劇場」
この地は紀元前14~13世紀にギリシャの「ペロポネソス半島」からやって来た「アカイア人」の植民地として造られた遺跡だそうだ。
地中海を見下ろす高台に紀元前2世紀に造られ、3500人が観劇できる「ローマ式野外劇場」があった。
「野外劇場」の音響効果は素晴らしく、観客は青い空と海を背景に劇を楽しんだことだろう。観光客の中の中に真ん中で歌を唄った人がいたが、歌声が良く響いた。
下に穴があったが、一時期には動物を使ったものも行われたらしい。



          

「野外劇場」より100m程の高台に広大な「エウストリウスの家」の遺構が保存されていた。モザイクタイルを敷き詰めた装飾が素晴らしい。紀元4世紀に造られたという公衆浴場も残されていた。



 

③「アポロ神殿」
この神殿は、森林の神「アポロ」を祀ったものだ。紀元前8~紀元4世紀頃までこの土地の守護神だったという。
神殿の傍には広い「宿泊施設」と設備が整った「浴場」も残っていた。
木造と違って風雨に耐え続ける堅固な石の建造物の素晴らしさを、ここでも再確認できた。
2000年以上前にこの地に生きた人々が、高さがある神殿をどの様に石を削り、組んで建てたかなどを今の私達が目で見て、知る事ができるのだから。

 





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「キプロス」「マルタ」の旅(5)

2015年12月04日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪山岳地帯「トロードス」観光≫

3日目の朝は6時前に起きたので、ホテルから2分程の地中海に行き、浜辺を散策した。太陽が昇ったばかりで気温は18℃位だっただろうか。海水温は24℃程度と聞いたが、海で泳いでいる数人の男女がいて驚いた。また海辺の遊歩道をランニングする人たちを多く見かけた。世界中、健康志向者の努力は、同じ様だ。
沖合いにはタンカーや大型船が数隻停泊していた。



       

猫が多いと聞いていたが、海産物が豊富なためだろうか、確かに猫がいた。
「リマソール」の町は近代的な建物も多かった。近くのスーパーが閉っていたので「何時に開店するか」と近所の中年女性に聞いたら、左の手の指を1本ずつ数えてから今度は右手の指を中指まで数え、8本の指を示してくれた。こんな数え方を見たのは初めてだったので驚いた。
早朝、ゴミの回収が行われていた。

 

朝食後、島の中央に聳える「オリンポス山」(標高1951m)の周辺の村々まで、世界遺産の教会群を見学しに行った。
この国は色々な国から攻められた歴史を持つため、海辺から遠い山岳地域にひっそりと住む人々が多くいて、その人達が村に小さな教会を作り、守って来たのだそうだ。
曲がりくねった狭い山道を1時間以上もバスで揺られたら、すっかり具合が悪くなった。帰路はバスの中で吐いてしまい辛かった。

        

大半の教会は、中世の面影を残すかなり古い素朴なもので、内部の撮影は禁じられていた。
石灰岩質の山岳地帯なので、畑よりは「オリーブ」「葡萄」「イナゴ豆」などが栽培されていた。

①「アシヌ教会」

 

②「ポディトゥ教会」

 



③「聖ニコラウス教会」

この教会の横に聳える山の上に白い十字架が立っていた。聞くと1955年にあったイギリスとの戦争で亡くなった人たちを悼んで立てたものだという。遠過ぎて写真では不明確だが、見つけて欲しい。

 

④「キッコウ修道院」

最後に観光したこの修道院は、標高1140mの山中にあり、聖母マリアを祀っているが、火災により傷んだため19~20世紀に改修されたという。規模が大きく、門や回廊に描かれた宗教画が金色に輝き、異色の空間を感じた。
2階の回廊には修道僧の個室が並んでいた。



        



        



その日は夕食を抜いて翌朝まで寝続け、何とか元気を取り戻した。


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「キプロス」「マルタ」の旅(4)

2015年12月03日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪「キプロス」の首都「ニコシア」観光≫

改めて「キプロス」の国についての基本情報である。
面積は四国の半分に等しい925k㎡で、人口は86万2000人。
民族構成は「ギリシャ系」75.4%、「トルコ系」10%で宗教はギリシャ正教とイスラム教の国だ。
気候は地中海性気候で九州南部に近いが、冬はむしろ暖かい。
「ニコシア」には33万人以上が住んでいる。

私達は飛行場がある海沿いの「ラルナカ」に到着後、「ニコシア」のレストランに向った。
最初の食事として何が出されるか心配だったが、「小海老のリゾット」と「鮭のムニエル・飯と野菜添え」「ケーキ」が順に出て来た。味は違和感なく美味しかった。
しかもワイン、ビール、ソフトドリンクなどの飲み物が無料で清涼飲料水もテーブルに出ていた。私はオレンジジュースを飲んだが、男性達はそれぞれ赤ワインや白ワイン、ビールを飲んで饒舌だった。

 

その後バスに乗って市内観光に。

①「ファマグスタ門」
16世紀、ヴェネチア時代に造られた円形の城壁で、円周4.5km、11個の砦があるという。
最大の「ファマグスタ門」は幅が4.5あって、今でもカルチャーセンターなどに使われているという。覗いて見たら窓が無い部屋の奥に椅子が並んでいた。50℃以上にもなるという夏場は涼しいに違いない。



②「聖ヨハネ教会」
教会に向かう通りの民家の花壇が個性的だったので撮影した。赤い花は「ブーゲンビレア」だ。
1662年に建造されたという「聖ヨハネ教会」では、18世紀の壁画とイコンが見られた。
内部は撮影禁止だった。

 

③「ビザンチン美術館」
8~18世紀の「イコン」が集められていた。中には1度盗難に遭い、見つかって戻ったものもあった。
ここも撮影は禁止だった。多分フラッシュでイコンが傷むからだろうと思った。
前庭に置かれていた「母子像」は迫力があった。
また傍に9~14歳の子供の中等学校があって、音楽の時間らしく歌を唄う声が聞こえた。

 

バスに戻る途中に「ローマ時代の水道橋」が残されていた。この小さな島国の歴史を物語るように思えた。



④「キプロス考古学博物館」
ここには、紀元前7000年前の新石器時代の遺物から収集されていて驚いた。
遺物を見たら、ギリシャの「国立考古学博物館」にあったものと似た物も多かった。

 

 

 

 

半日の観光後、60km離れた南部の海岸に面した第二の都市「リマソール」のホテルに向かった。このホテルには3連泊した。



                                                                                          
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「キプロス」「マルタ」の旅(3)

2015年12月02日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪出発して「キプロス共和国」へ≫

11月18日、昼の気温6℃の中、新千歳空港を出発し、羽田空港経由で成田空港に向かった。
前夜余ったご飯とお菜で出発前に「おにぎらーず」を2個作って持参したので、成田空港での集合時刻18;50の少し前に2階の椅子席で食べてから受付に向かった。
行きの航空機は、21;20発「エミレーツ航空」の「ドバイ」行きだった。「ドバイ」は「アラブ首長国連邦」のペルシャ湾沿いにあるハブ空港だ。

受付では30分程並んだ。
「エミレーツ航空」は、預けるスーツケースの許容重量は30kgなのだが、機内に持ち込む手荷物は7kgまでだったので慌てた。しかし、今回持参したキャリーバッグ(中は、機内で履くサンダルや化粧品類、寒さ対策の上着、到着後の観光に要する帽子や手袋、そして本1冊だった)を計ると、5.2kg。安心した。

今回は満席に近かったが、私は運良く右1席が空いている通路側席に座れた。
所がである。右側の中年女性(ポルトガル人)がその空席を独占して、私の側に膝を開いた姿勢で寝ていたのだが、見ると股が濡れていてのだ。多分漏らしたのだろう。機内は空調が効いていたので臭うことはなかったが、私は唖然とするばかりだった。また、彼女は、1枚着ているぺらぺらのブラウスのボタンを2つ外して肩と胸を出すようにしているのだ。私の目には普通の生活をしている女性には見えなかった。

「ドバイ」には11時間30分後に到着した。日本との時差が-5時間なので、時計を遅くした。
大きな空港だった。幾つもエリアがあり、私達が行ったゲイトの下の免税店にはチョコレートや酒類、乳製品が一杯あった。



      

約4時間の待機時間には、洗面所に行って歯を磨き、顔を洗った。イスラム式トイレから出ると、女性清掃員達は1回1回アルコールを吹きかけて殺菌していた。
ショルダーバッグに機内で配布されたロールパンとオレンジジュース、ジャムがあったので、洗面所の掃除をしてくれた女性に手渡したら、笑顔を返してくれた。   

乗り継ぎの航空機は昼間飛ぶので、私は窓側の席を希望した。1時間以上遅れたが、機内でも遅延の理由は全く知らされなかった。日本では考えられない事だ。
8;32に「ドバイ」を離陸した航空機は、ほぼ直線距離で「アラビア半島」を斜めに横切る様に飛んだ。「エジプト」の「カイロ」に行くまで眼下に見えたのは、広大で不毛の砂漠ばかりだった。
航空機は「カイロ」上空で進路を北に変えて「地中海」に出た。

 

4時間30分で「キプロス共和国」の玄関口「ラルナカ空港」に着いた。時刻は午前11時に近かった。
乗客の大半は最終の「マルタ」に行くので、「ラルナカ空港」で降りたのは私達を含めた100人ちょっとだったが、今回のこの路線は、電車やバスの乗降に似ていた。
地図では海を挟んで北に「トルコ」、東に「シリア」がある地中海の東端にある国だが、上空から見た「キプロス共和国」は本当に小さな島国だった。

入国の税関検査では、「EU」の人達の窓口と「それ以外の国」の人達の窓口が分かれていた。
「キプロス」は日本との時差が-7時間なので、更に時計を2時間遅らせた。航空機だけで16時間という長い旅だった。
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「キプロス」「マルタ」の旅(2)

2015年11月28日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
≪帰国した日≫

一昨日の夜に「キプロス・マルタ9日間の旅」を終えて「成田空港」に帰国したが、すでに時間的に「新千歳空港」に飛ぶ飛行機が無いため、「成田ビューホテル」に一泊して昨日9時の飛行機で帰宅した。
私にとっては1日多い10日間の旅になった。

以前はずっと「日航成田ホテル」を前後泊に利用していたが、その内に朝食の質が下がった様に感じたので、この1年間ほどはこちらのホテルを利用している。
温泉があるので、ゆっくりと帰国した気分を味わえた。

昨日は11時前に「新千歳空港」に着くと、一面が銀世界で気温は1℃。太陽が出ていたが寒いこと!
何でもこの時期の60cm以上の降雪は62年ぶりとか…。
JRで我が町の駅に降り、家まで5分歩いたのだが、道路は除雪車が入っていないためにグサグサ状態。今回はリュックサックの代わりにキャリーバックを持って行ったのだが、小さい車輪が雪に埋まって回らないため、腕で引っ張って帰った。
雪道ではスーツケースも同様に重みで埋まって動かなくなるのだが、今回は「成田空港」で宅配便として預けて来たので良かった。(届くのは2日後だが)

家に着いて見ると玄関先は綺麗に除雪されていた。
隣家の方がしてくれたらしいので、早速手荷物で持ち帰った「ハーフワイン」と「ワイン入りチョコレート」を土産に挨拶に行った。冬場でもこうした近所の方たちのお陰で、私も旅行に出られるので感謝している。

14時頃、今夜の食材の買い出しに久し振りで車を運転した。
今冬初めての雪道の運転だったが、新品のスタッドレスタイヤなのでブレーキが良く効く。
あちこちで除雪車が除雪をしていた。
色々な野菜と数種類の刺身、伯母に「飲むヨーグルト」を買って、帰りしな伯母の施設に寄った。

伯母は「疲れているのにこんなに早く来てくれて有難う!」と私の手を握り締めた。
私の留守中、血圧が高めになったので薬を1つ増やしたという報告が看護婦からあった。伯母の体調は心配する程ではなかったので良かった。
10日分の多い洗濯物を預かって帰宅した。

早めの夕食には「生散らし寿司」と「ポテトサラダ」を作り、行く前に漬け込んだ「赤カブの甘酢漬け」などを食べ、正に帰国気分を味わった。

23時頃までVTRに録って置いた「韓国ドラマ」と「ニュース」を早送りで見てから寝た。
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「キプロス」「マルタ」の旅(1)

2015年11月17日 | 海外旅行「地中海地域」キプロス、マルタ
いよいよ明日18日、地中海に浮かぶ小さな共和国「キプロス」と「マルタ」に旅行に出かける。
一昨日のパリで「同時多発無差別テロ」が起きた事で、世界中、安全な場所はなくなってしまった様だ。本当に嘆かわしいし、犠牲となった多くの人達を思うと、旅行を楽しむ気分もなくなってしまう。
しかし、テロ加害者は、多くの人達が恐怖に駆られて家から出なくなることを期待していると思うので、予定通り、出かけて来たい。何かあれば、その時に対処したい。

地中海の要所にあって1500kmも離れている「キプロス」と「マルタ」には、紀元前からの歴史があり、ギリシャやトルコの影響を強く受けて来た国だ。
気候は最高気温が21度位らしいから、旅には快適だろう。
青い海と空、美味しい海産物を食べながら、5つの「世界遺産」を観光し、楽しんで来る積もりだ。

帰国は26日夜なので、私は成田のホテルに1泊して27日に帰宅する予定だ。
それまでブログを休むので、どうか宜しく。

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