花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「ウズベキスタンの旅」(12)

2014年06月06日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪「シルクロード・エクスプレス」に乗車≫

旅の7日目は「サマルカンド」駅から「シルクロード・エクスプレス」の2等車に乗って「タシケント」迄4時間の列車の旅をした。
私が乗った客室は6人が向かい合って座るようになっていた。天井から冷気が降りて来て寒過ぎる位だった。





 

「タシケント」に着くと、バスで「スーパーマーケット」に行き、残っている通貨スムを使い切った。私は店員にスムの所持額を伝えて、数種類のキャンデーを計ってもらい、使い切った。



 

レストランで夕食を食べてから「タシケント空港」に向かい、21;05発成田空港行きの「ウズベキスタン航空」で帰国の途に着いた。途中、気流が悪く、機体が結構左右に揺れて怖かったが、疲れてぐっすり寝てしまった。

予定通り8日目朝8;55に成田に着いた。私はその後、京成スカイアクセス線で羽田空港まで移動し、新千歳までJALで帰って来た。

「ウズベキスタン」では、途中、経験したことが無い暑さに体調を崩したが、何とか回復して良かった。
帰宅後数日、寒くて仕方が無かったが、翌日からは庭の草取りと薔薇などの手入れ、畑に行って大豆などの種を蒔いたり、苗を植えたりして毎日働いた。

この3日間ほど、北海道はフエーン現象とかで急に30℃を越す日が続いているが、私には余り暑いと思えないのは「ウズベキスタン」に行って来たからだと思う。

これでやっと「ウズベキスタン」の旅行記を書き終えることができ、ホッとしている。
中央アジアの国へ行ったのは初めてだったが、砂漠の国、シルクロードの中継地の様子が分かった事が収穫だった。
また、イスラム教の信者が大半を占める国ながら、他のイスラム圏と違って宗教の規制が極めて緩い国である事を知った。黒いベールやコートを着ている女性はほとんど見かけなかったし、一夫一婦制だというのも、イスラム圏では最も女性が自由で幸せな国だろうと思った。

長い旅行記を読んでくれた方々に、感謝したい。 (完)
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「ウズベキスタンの旅」(11)

2014年06月05日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪「サマルカンド」の観光≫

朝起きて外に出て見ると凄く涼しい。15℃程度しかないように感じた。
予報では最高気温も28℃だという。昨日までより10℃近くも低い訳で、ホッとした。

「サマルカンド」は「青の都」「イスラム世界の宝石」「東方の真珠」などと呼ばれ、古くからシルクロードの中心的な都だった街だ。この街の発展を古くから支えて来たのは「ソグド人」で、商才と工芸技術を得意としていたという。
1220年にモンゴル軍の攻撃を受けた際は、全人口の3/4が殺害され、街は廃墟同然になった。その街を蘇らせ、イスラム世界の有名な地にしたのが「ティムール」だったという。

①「ビビハニム・モスク」
サッカー場程の敷地に大モスクと2つの小モスクがある。1399年、インド遠征から帰った「ティムール」が着工し、1404年に完成した。

 

 



②「ショブ・バザール」自由散策

 

 



③「レギスタン広場」
13世紀初めに来襲したモンゴルのチンギス・ハーンが町を破壊したことで、新たに「サマルカンド」の商業の中心地となった場所だ。主要な道路の交差点にあるため、公共の広場ともなり、謁見式や罪人の公開処刑場にもなったという。
やがてコの字状に3つのメドレセが建てられた。道路の側の展望台から3つのメドレセを見ることができた。
東に立つ1636年にできた「シェルドル・メドレセ」は、向かい側に立つ「ウルグベク・メドレセ」を模倣したといわれ、イスラム教の偶像崇拝否定に反して、門の上部に小鹿を追うライオンが描かれていた。

 

休憩していた夫人達や見学に来ていた女性の写真を写させて貰った。高齢のグループの女性達の容貌は、日本の高齢女性ととても似ていた。私達日本人のルーツと関係するのではと思った。

 

④「グリ・アミール廟」
「支配者の墓」の意味が名前のこの廟には、「ティムール」とその息子達が眠っていた。
内部の装飾には金が張られているなど、豪華な感じだった。

 
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「ウズベキスタンの旅」(10)

2014年06月03日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪「シャフリサーブス」観光≫

5日目の朝、ホテルを出てからバスで4時間走り、「タシケント」の南西に位置する「シャフリサーブス」に着いた。
この街は、シルクロードの十字路になっていて、玄奘僧正もかって中国からインドに行く途中、立ち寄ったという記録がある。

世界遺産「シャフリサーブス歴史地区」で3箇所の観光をした。

①「アク・サライ宮殿跡」
1336年、この街の豪族の家に生まれた「ティムール」は、やがて支配者としての頭角を現し、豊かな都市を建設。1380年にこの宮殿の建設にも着手した。現存する建物の高さは38mで、屋上にはプールがあったといわれている。
16世紀後半に「ブハラ」の「アブドゥール・ハン」によって、「ティムール」の遺跡の大半は破壊されたらしい。

 

遺跡の日陰で女性達がお土産を売っていた。また近くの炎天下の路上で、肉屋が屋台を出していた。

 

②「ドルッサオ・ダット建築群」
この廃墟のような建物は、「ティムール」の葬廟になるはずだったが、実際は長男と次男の石棺が収められている。
いよいよ気温が上がって来て、くらくらするような日差しだったが、庭の大きな古樹の木陰で涼むことができた。

 

③「ドルティロバット建築群」
1400年代に建てられた建築群で、一つは青いドームが光る「コク・グンパス・モスク」だ。「ティムール」の父親が眠る廟もある。

 

「シャフリサーブス」を出て、バスで3時間かけ、「サマルカンド」を目指した。
その途中、広大な砂漠と原野が見えていたが、やがて遠くに石灰岩の山脈が連なり、牛や山羊を放牧する光景が見えた。
ガイドが「「ウズベキスタン」の大地は60%が砂漠で20%が山、平地は残りの20%だけです。」「平地では古くから綿花と大麦、野菜を栽培して来た。綿花の収穫は9~10月で、学生がアルバイトで作業することが多い。」と言っていた。
また、農民は畑の土地を国から借り、税金を納めているそうだ。

 

 

「サマルカンド」には夕方到着し、焼肉レストランで食事をした。
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「ウズベキスタンの旅」(9)

2014年06月03日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン

≪「ブハラ」観光≫

旅の4日目は「ブハラ」での観光だった。
ガイドブックによると、「ブハラ」とは、サンスクリット語で「僧院」を意味するそうだ。ここは中央アジアだけではなく、イスラム世界全体の中心街だったという。この街の黄金期は9世紀に始まり、イスラム王朝の庇護を受けて、多くの優秀な人たちが育ったり、交易の十字路としても栄えた。
しかし1220年に「チンギス・ハーン」が来襲すると勢いを失ったが、16世紀になると多くのモスクやメドレセが造られるて、再び活気を取り戻したという。

①「イスマール・サーマニー廟」
892年から建造された霊廟で、イスラム建築としては中央アジア最古の建造物だという。
「ブハラ」を占領して都にした「サーマニー朝」三代の王族の霊廟で、土に埋もれていたため発見が遅れ、1925年に発見された。
レンガを積み上げて模様を作り上げたこじんまりとした構造になっている。

 

②「チャシュマ・アイユブ」(預言者ヨブの泉)
ここは12世紀に泉が湧き出て以来、今も水が湧いていた。

③「アルク城」
大きな広場の中心に「アルク城」が建っていた。
この当たりが古代「ブハラ」の中心だったらしい。蒙古が来襲した時には、大勢の市民が虐殺された場所でもある。
城は幾度も破壊と修復を繰り返し、現存するのは18世紀のものだが、1920年にソ連に支配されるまでは、歴代の「ブハラ・ハン」の居城だったという。中に入らなかったが、色々な施設がある小さな町を作っているところの様だった。堅固な城壁には圧倒された。

 

④「カラーン・ミナレット」「カラーン・モスク」
「カラーン・ミナレット」は高さ46mある大きいミナレットだ。1127年に建てられた。10mの土台部分は地下に埋まっていて、上部にはアーチ状の16個の灯火窓がある。
大地震にも耐え、チンギス・ハーンも破壊しなかった。

「カラーン・モスク」は、1514年にシャイパニ朝時代に建てられたもので、広さは1ヘクタールあり、1万人が礼拝できた。
ソ連時代には倉庫として使われたが、独立後、モスクとして復活した。

 



この後、自由散策で「タキの土産品市場」を散策した。
「ウズベキスタン」の工芸品である「スザニ」刺繍で作られたマットやクッションカバーなどが沢山あり、人気だった。

 

また、露天商のお爺さんが売っていた「ナン」に模様をつける道具が珍しかった。特に男女の乳児の下腹部にとりつける木製の採尿器には、こんなものがあるのかと驚いた。

 

⑤「ナディール・ディヴァンベキ・メドレセ」
大臣「ナディール・ディヴァンベキ」が1622年に建てた神学校である。
正面入り口の色タイルの模様が目を引く。2羽の鳳凰が白い鹿をつかんで、太陽に向かって飛ぶ姿だ。偶像崇拝を否定するイスラムの教義に反する絵が、珍しい。
中庭に入ると回りにある学生用の部屋は、現在はみやげ物店になっていて、夜は食事つきのショウやコンサートが行われている。
私達は夕方、再び訪れて、ここで食事をしながら民族衣装のファッションショウを見た。

 

 




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「ウズベキスタンの旅」(8)

2014年06月02日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪西部都市ヒヴァの観光≫(3)

②「ジュマ(金曜日)・モスク」
このモスクは10世紀に建てられた後、修復工事を重ねた「多柱式」モスクである。約3m間隔で213本の木の柱が並んでいる。
柱には一本々々細かい異なる彫刻が施されていて見事だ。脂を塗って水をはじいていた。人の形をデザイン化したものもあった。
天窓から入る光だけが明かり取りなので、独特な雰囲気がある。
42mの高さのミナレットがあった。

 

  

③「奴隷市場」
「ヒヴァ」には、中央アジア最大の奴隷市場があった。
ガイドブックによると、19世紀の初めにロシアは、ロシア人奴隷の解放を口実にして「ヒヴァ」に軍隊を送り込んでいたが、1873年「ヒヴァ」を全面降伏させて3000人のロシア人奴隷を解放したという。健康で強靭なロシア人奴隷は、ラクダ4頭で売られていたらしい。
この時、それ以外の奴隷も3万人いたというが、ロシアは解放した。

かっての「奴隷市場」は今はアーケード街になっていて、大勢の人々が行き交っていた。壁側の小部屋は、みやげ物店や家内工業の場所として使われていた。

 

④「タシュ・ハウリ宮殿」
こ宮殿は1830年代に建てられた豪華な宮殿で、中庭を囲む二階建ての建物が「アラクリ・ハン」の「ハーレム」だった。
中庭南面の大きな5つの部屋は、それぞれハンと4人の正妻が住んでいた。(イスラム教では、4人の妻まで持つことが認められている)中庭北面の中小163もの部屋には、その他の女性が住んでいたという。
入り口にあるハンの暗い部屋の奥には、ハンが使ったベッドが置かれていた。



 

⑤木彫り工芸品・「ナン」を焼く若い女性
伝統的な木彫りの工芸品が色々売られていたが、職人達がドアを彫っている所を見た。中学を卒業したばかりの様な少年も混じって、日陰で一所懸命にノミを使っていた。

昼食のレストランの側で、土製のかまどに綿花の枯れ枝を押し込んで燃やし、「ナン」を焼いている女性を見かけた。
その日の気温は38℃はあったと思うが、炎天下、煙が立ちこめる熱いかまどに「ナン」を出し入れしている姿には感嘆した。
「ナン」は「ウズベキスタン」の主食のパンで、塩だけの味だが美味しかった。





旧市街見学後少し休んでから、夕方、飛行場がある「ウルゲンチ」にバスで向かった。
途中、かって「ヒヴァ」王朝の夏の宮殿だった所で夕食を食べた。庭が広く、ワイン用のブドウ畑があった。各部屋の装飾が素晴らしかった。
  


「ウルゲンチ」発21;10の飛行機でおよそ330kmの「ブハラ」迄飛んだ。「ブハラ」のホテルに着いたら深夜だった。
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「ウズベキスタンの旅」(7)

2014年06月01日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪西部都市ヒヴァの観光≫(2)

①「キョフナ・アルク」

「ヒヴァ」の旧市街は限られた面積の中に所狭しと建物が立ち並んでいた。
先ず行ったのが17世紀に建てられたハンの宮殿跡「キョフナ・アルク」だ。公邸、執務室、モスク、ハーレム、兵器庫、火薬工場、造幣局があった。

クリヌス・ハンが建てた「アイヴァン(テラス)」は、17世紀に建てたものがペルシャに破壊されたので、19世紀に改築したものだという。2本の柱で支えられ、壁は青色の七宝タイルで覆ってある。
天井は、カラフルで細かい模様で飾られていて玉座の間になっている。
中庭には円形に盛り土をした場所があり、客が来た時に移動式の住まいを建てた場所で、排水溝も造られていた。





 

このテラスから、今は展望台になっている「見張り台」が望めた。
別料金4,000スム(184円)を払って、急な階段を登り、展望台に登った。眼下には、強固に造られた城壁が一望でき、良く保存された中世の町を見渡せた。

 
            (入って来た西門前には、相変わらず人が多い)

 


(ヒヴァの最後のハンに使えた大臣「ホジャ」が建てた45mのミナレットがある「イスラーム・ホジャ・メドレセ」)

狭い「見張り台」で仲良くなって写真を撮らせてもらった地元の子ども達と親子?

 

椅子が置かれた王の部屋がある一方で、入り口には、監獄があった。

 
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「ウズベキスタンの旅」(6)

2014年05月31日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪西部都市ヒヴァの観光≫(1)

「タシケント」を1日観光した後、タシケント空港に行き、18;40発の国内線で「タシケント」から750km西の「ウルゲンチ」迄2時間半飛んだ。さらにそこからバスで南西に35kmの距離を1時間半走り、隣国「トルクメニスタン」との国境に近い「ヒヴァ」のホテルに夜の22時過ぎに入った。

「ヒヴァ」は、古代ペルシャ時代からカラクム砂漠の出入り口として、また周囲が砂漠なのに、肥沃な川のデルタ地帯にあったため、4000~5000年以上も前から近郊には人が住み、農業を行っていたことが知られている。
そして17世紀に「ヒヴァ」は、年間300日が晴れるという太陽の州「ホラムズ州」の中心地となり、街をぐるりと「城壁」で囲ったのだ。
イスラム教の中心地ともなった「ヒヴァ」には、城壁内に20のモスク、20のメドレセ、6基のミナレットなどが残されている。

1990年に『ヒヴァ旧市街』は世界遺産に指定された。
旧市街を取り囲む「城壁」の高さは8m、厚さ6m、長さ2.3kmあり、東西南北に4つの門がある。泊まったホテルは、その内の「西門(オタ・ダルヴァザ門)」の前方にあった。

朝食を早めに済ませ、旅友と一緒に西門周辺を30分程散策した。気温がまだ高くないので気持の良い散歩ができた。
西門の横に「0」を発見した数学者「ムハンマド・アル・ホレズミ」の大きな像があった。彼の偉業は、この国の誇りなのだろう。
城壁に沿って南に回ると、未完成のままになっている「カルタ・ミナル」が見えた。このミナルは青い彩釉で焼かれたタイルで覆われた美しいもので、1852年に工事が始まったが、ハンが1855年にペルシャとの戦争で死亡したために中断されたままになっている。現在は26mの高さだがmもしも完成すれば70m以上の高さになっていたと推察されている。
早朝なのに既に高齢の女性が、竹箒で掃除をしていた。

   

その日は、ホテルから徒歩で「旧市街」観光に出かけた。
西門の前には、観光客や子ども達が沢山いた。中に入ると、初めにガイドがモザイクタイルでできた「案内図」を見ながら旧市街の説明があった。













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「ウズベキスタンの旅」(5)

2014年05月29日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪タシケント観光≫(2)

②「独立(ムスタキリク)広場」
私たちはバスから降りて地下鉄に乗り換え、4駅乗って「ムタキリク・マイダニ駅」で下車した。地下鉄の深さや建築の芸術性は、以前経験したモスクワのものとは比較にならないが、ここのホームも天井が高く、美的にも駅ごとに力を入れて造ってあった。
それにガイドからこの国の若者は皆、高齢者に席を譲ると聞いていたが、その通りだった。私は席を譲ってくれた女性に、いつも持ち歩いている半完成の折ズルを目の前で完成させて渡したら喜んでくれた。
それを見ていたグループの女性が、「今度は私も真似させてもらうね。」と言っていた。

駅を出ると、もうそこが市の中心の「独立広場」だった。広い公園にコウノトリを飾ったモニュメントが造ってあった。

また奥に進むと噴水の向こうに「母子像」のモニュメントがあった。ガイドの説明では、ソ連時代にはレーニン像が建てられていたが、今は国を産み出した大地を現す母と、生まれて間もない若い国を現す子どもの像に変わったという。
この日の気温は37℃あって、雲ひとつ無い青空から射す光が目に痛い位だった。

  

③「ナヴォイ・オペラ・バレー劇場」
「独立広場」から8分程歩き、「ナヴォイ・オペラ・バレー劇場」が建つ「ナヴォイ公園」に行った。
1947年に完成したこの劇場は収容人数1500人、レーニン廟の設計者シューセフが設計を手がけた劇場だが、日本人捕虜達が強制労働によって建設したものだ。1966年の大地震で街の建物の大半が壊滅した時にもこの劇場の被害は少なく、人々は「日本人の優秀さと勤勉さによって建てられた結果だ」と評価したという。

(5月30日付けの朝日新聞「世界発」に「名劇場の陰 抑留の歴史」が掲載された。それに寄れば、このレンガ造りの劇場建設には約400人の日本人抑留者が携わったらしい。現在東京に住む帰還した元抑留者の話では、日本人の働きぶりは評判になり、魚の干物、ウオッカなどの差し入れや結婚の申し出まであったという)



④「ウズベキスタン歴史博物館」
また歩いて直ぐの所にある「歴史博物館」に行った。館内は撮影禁止だった。
ここには石器時代から現代までの歴史が展示されていて、小学生の団体も教師に引率されて見学に来ていた。
2階はガイドが説明してくれたが、3階の帝政ロシアが征服してから現代までの歴史展示は、自由参観だった。ロシアが行った政府に反対する人々の粛清の写真(並んで絞首刑されていたり、大勢が土中に埋められた写真)には身震いした。

 

④「バラク・ハン・メドレセ」
「メドレセ」は、イスラム教の神学校である。
ここは16世紀にバラク・ハンが建て、中央アジアのイスラームの本庁だった所だが、2007年から学生用の部屋には土産物屋が入っている。
モザイクタイルが美しい部屋で、土産物屋の店員が陶器の絵付けをし、色々な土産物が売られていた。
屋外の草原で、子どもを遊ばせている女性を見かけた。

 

 

⑤「クカルダシュ・メドレセ」
16世紀にタシケントを支配していた大臣が、街の中心部に建てた神学校だ。モスクと神学校は6~7m高くなった場所に建てられていた。
ロシア帝国が支配する前は、罪人や不貞を犯したとされた女性がミナレットから投げ落とされたらしい。

 

 

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「ウズベキスタンの旅」(4)

2014年05月28日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン

≪タシケント観光≫(1)

「タシケント」のホテルで1泊後、翌朝食事を早めに済ませて友人とホテルの近くを散歩した。
ホテルの前は樹木が生い茂る広い公園になっていて、公園を抜けると、幅が広い幹線道路があり、一角に銀行が立ち並んでいた。
道路を渡るとスーパーマーケットや洋品店があり、「KAPAOKE」(カラオケ)店もあった。(キリル文字では、Pは英語のR、Yは英語のUと同じである)
カラオケ店の裏には、ソ連時代に建てられたと思われる7階建て程の古いアパートがあった。

 

 

ホテルに戻ると、バスが来ていて、運転手がスーツケースを積んでいた。バスは40人乗りで運転席が1階、客席が2階と分かれている珍しいバスだった。窓ガラスも綺麗に拭かれていて気持ち良かった。



いよいよ首都「タシケント」市内の観光に出発した。
この町の人口は250万人。この日の気温は予想より高い37℃だったが、「大陸性気候」なので7月には45~48℃にもなり、冬は-25℃に下がるという厳しい土地だ。
古くからシルクロードのオアシスとして色々な民族が行き交ったために、現在も多民族国家である。

1865年から帝政ロシアに支配され、ロシア人の入植が続いた。
1966年に起きた大地震で古い城壁やロシア人街とウズベク人街との境界も崩れ去った。
その後、ソ連から3万人以上の労働者が送り込まれて、町の復興に当たった。1977年には地下鉄を建設している。

①「日本人墓地」
バスで先ず向かったのは「日本人墓地」だった。
ソ連の領土だった第二次世界大戦後、ソ連の捕虜となり、タシケントに送られて強制労働させられ亡くなった日本人79名が、ムスリムの墓地の奥に眠っていた。
亡くなった人は福島県の出身者が多かったのか、墓地内に1990年5月に建てられた慰霊碑があり、その表には「永遠の平和と友好 不戦の誓いの碑」「碑建立実効委員会、日ソ親善協会福島県支部」、その裏側にはここに眠っている人たちの名前が刻まれていた。

(5月30日付けの朝日新聞「世界発」の記事によると、厚生労働省の資料では旧ソ連での抑留者は約561,000人。その内約23, 000人がウズベキスタンに連行され、運河やダム、水力発電所、劇場建設の他、炭鉱や農業にも従事したという。約900人が死亡した。ウズベキスタン国内には13の日本人墓地があると書いてあった)



  (小さい画像は、クリックすると拡大します)

現在墓地を管理してくれている「Xyppam」(フラム)さんの祖父が、日本人墓地の造成に尽力し、できてからは家族で代々管理しているという。私たちは手を合わせてからそれぞれ感謝の印に彼に寸志を渡した。私は握手後、一緒に写真を撮り、サインをしてもらった。
私にとっては、26年前に「ハバロフスク日本人墓地」を訪れて以来の旧ソ連領にある日本人墓地参拝だった。



現地ガイドの説明では、この国の墓は個人々々に造られ、墓石に生前の写真を参考に肖像を刻む習慣があるそうだ。隣の墓地には亡くなった人の顔や全身を刻んだ墓石が多かった。


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「ウズベキスタンの旅」(3)

2014年05月27日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪出国時の税関の指紋認証制度≫ 

成田空港では、今回も出国時はとても混雑していた。
先ず「安全検査」を受けた。ここでは幾つもの列ができていたが、混んでいて15分程かかった。
「安全検査」が終ると、下の階に下りて税関の出国審査がある。搭乗券とパスポートを提示して、出国の許可印を押してもらうのだ。10列ほどの列ができていたが、どれも長い。並ぶと15分以上はかかるだろう。

そこで今回、思い切ってTVで知った「指紋認証制度」の登録申請をすることにした。
右端の奥に申請場所があり、申請用紙を貰って、氏名、パスポートNO、住所、電話番号などを書き込んだ。書いて出すと、両手の人差し指を機械に置くように言われた。指紋の写真を撮られたようだ。

これで全て終了し、パスポートの最終ページにNO入りの許可印が押され、渡された。
許可までにかかった時間は5~6分だった。

ほとんど誰もいない指紋を登録している人用の通路に入り、パスポートの写真欄を真ん中に伏せ、登録した人差し指を支持された場所に置いて待つこと10秒程。通路の扉が開いた。すっと通り抜けてそれで終りだった。

もう登録してあるので、今のパスポートの有効期限が切れる前日まで有効で、今後は並ばずに税関を通過できることになったのだ。
もしパスポートに出国印を押印したければ、通過後に申し入れることができるらしい。次回からは押印してもらうことにしよう。

 
  (今年の「さらさどうだんツツジ」の花は、数が多く大きい)
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「ウズベキスタンの旅」(2)

2014年05月25日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
「ウズベキスタン」から23日、予定通り帰国した。
航空機は、今年4月から日本の成田空港と「ウズベキスタン」の首都「タシケント」間に「ウズベキスタン航空」の直行便が飛んだので、今回はその飛行機で往復した。
行きも帰りも300人乗りの機内に乗客は2/5程度で、このままだと直行便は無くなるのではと心配した程だった。お陰で私は、往復共両側が空席で、しっかり休むことができた。
行きは「タシケント」迄9時間半、帰りは「成田」迄7時間50分と、ヨーロッパに行くよりも近かった。

成田を10;26に発った行きの飛行機は、「韓国」と「中国」の上空を横切る様に飛んで、中国の遥か西域にある「ウズベキスタン」を目指すルートを飛んだ。
(写真は、座席前のTV画面を写したもの)



手前の隣国「キリギス」上空から下を見ると、広大な砂漠とまだ雪を抱いている山脈、そして大きな湖(イシク湖?)が見えた。それは、私が今まで余り見た事が無い光景だった。







機内食は美味しかった。



15;55に「タシケント」に着いたが、気温は32℃で、13度程度の北海道から行った私には、「ウズベキスタン」はやはり真夏の国だった。

しかし、翌日移動して行った西部の「ウルゲンチ」「ヒヴァ」では、最高気温が37~38度と暑く、さらに私の体には応えた。ミネラルウオーターを結構飲んだが、体の渇きは最高潮に達した。
6日目朝から腸を壊し、ほぼ2日間絶食して主治医が処方してくれた下痢止め薬を飲んだ。
最後の日にようやく回復し、元気で帰国することができた。ひょっとして熱中症だったのかも知れない。

ホテルに向かう貸切バス内でスルーガイドの女性が「ドル」を現地通貨「スム」に両替してくれた。換算すると、1000スム=45.6円になった。

夕食を食べにレストランに寄った。初めて食べた「ウズベキスタン料理」はまあまあの味だった。
私はアルコールは飲まないが、このレストランのビールは7000スム(320円)、ワインは6000スム(274円)だった様だ。



「ウズベキスタン」は国土の60%が砂漠の国なので、移動は国内線の飛行機で2回、高速鉄道で1回半日、長距離バスで1日という具合だった。

新千歳空港に帰って見ると13度しかない。帰宅後、寒いのでストーブを点けた。
聞くと、留守中、ずっと天候が悪かったらしく、チューリップがまだ咲いていたので驚いた。
昨日は、朝10度の外に出て3時間、庭の草取りをした。

今朝、ようやく少し温かくなったので、半日掛かりで「隠元豆」の種蒔きをしたり、薔薇に支えをしたりした。
旅行前に庭の畑を手伝った近所の家に行き、草取りと発芽していた野菜を間引いたりもして来た。
早く温かな日が続いて欲しい。「ウズベキスタン」との気温差に、また体が慣れない。

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「ウズベキスタンの旅」(1)

2014年05月14日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
一昨日、昨日と農園に出かけ、「ミニ牛蒡」「小蕪」の種を蒔き、じゃが芋「ノーザンルビー」を植えた。これで今の時期に予定していた農園の植え付けはほぼ済んだ。(豆類は帰国後に種を蒔くつもりだ)
半年間室内で寒さを凌ぎながら花を楽しませてくれた幾つもの「アザレア」や「椿」を、長期の留守でも乾燥しないように鉢から出して、東側の窓下に植え終った。(花が済んだものから順番に剪定して、この状態でいつも10月になるまで置いて置くのだが)



種から育てていた「ミニトマト」などの苗はまだ小さいが、乾燥しないように今日、庭に仮植えするつもりだ。

それで5月16日(金)から8日間の予定で「ウズベキスタン」に旅行して来る。
成田空港のツアーの集合時間が早いので、今回も家を15日の午後に出て、成田のホテルで前泊する。
もう大雪の心配が無くなったので、新千歳空港での航空機の遅れや休止を心配しなくても良くなり、気分的には大分軽い。

「ウズベキスタン」は、かって「ローマ」や「カイロ」と「中国」「日本」を結んで交易をする「シルクロード」の中継地として2000年以上前から栄えた歴史のある国だ。位置は北を「カザフスタン」、南西を「トルクメニスタン」に挟まれ、南部の国境の一部分が「アフガニスタン」の北と接している。



1867年にロシアの一部になったが、1991年に独立を果たした。
日本の1.2倍の面積を有し、人口は2780万人、首都は「タシケント」である。
宗教は、大半がイスラム教スンニ派だという。
入国にはビザが必要だったが、旅行社が団体旅行としてまとめて取ってくれた。

一応、3~6月は春の旅行のベストシーズンらしいが、最高気温は30度近くになるという。2月にインドに行った時と似た様な気候なので、服装は夏服。紫外線が強いので帽子、サングラス、日焼け止めクリームなどの対策を怠らないつもりである。

今回は4つの世界遺産を中心とした観光になるが、イスラム様式の素晴らしい建築を沢山見られると思う。
何分にも体調管理を第一に、迷子になどならないように気をつけて楽しんで来たい。


   (旅行社のパンフレットから転載)

帰国は23日(金)、成田から羽田に行き、羽田発新千歳空港行きに搭乗して、帰宅すると夕刻になる予定。

今日庭で咲いている「三寸あやめ」と「金子玄海つつじ」だ。帰宅して見る変化した庭が楽しみだ。

 
コメント (2)
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