花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

「ルーマニア・ブルガリア」旅行(16)

2013年06月10日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
観光最後の日の朝、
「アレクサンドル・ネフスキー寺院」
にもう一度行った。
すると たまたまその日は「キリル文字使用記念日」の「国民の祝日」で、大勢の人達が11時に行われるパレードのために町に出て来ていた。

「アレクサンドル・ネフスキー寺院」では、丁度10時からミサが行われる所だった。
市民が見守る中、儀礼服を着た大司教が聖書を朗詠した。TV局のカメラマンも何人も来ていたので、私達にも普段できない写真撮影が許された。
そして何と「イコノタス」の中央部が開いていたのだ。なかなか出会えない様な出来事だった。





その後、中心街をぶらぶらした。大通りで車の通行を遮断して、各種団体が行進しながらパフォーマンスを披露していた。民族衣装を着たグループも多かった。
広場で大統領が挨拶する場面もあったらしいが、私は人が溢れていて傍に行けなかった。友人はしっかり大統領の写真を撮っていた。
最後に「国立劇場」前の広場に行くと、小グループが歌を唄ったり楽器を演奏していた。現地ガイドが頼むと、子ども達は写真を撮らせてくれたり、楽器を演奏してくれた。
思いがけない祝日に遭遇できて本当に良かった。

  

  

これで全ての観光は終ったので、昼食後、バスでソフィア空港に向かい、帰国の途に着いた。
航空機はブカレストで一端着陸して乗客を乗降したが、私達は機内で待機して、再びドーハに向かった。
ドーハで乗り継ぎ、10時間かけて日本時間5月25日17時50分に成田に着いた。
私は成田のホテルに1泊後、翌朝10時20分のJALで新千歳空港に無事帰って来た。

私には11日間の旅行だったので疲れたが、今回も気が合う旅友と出会ったり、楽しい思い出が沢山できた良い旅行になった。
最後に、長い記事に付き合ってくれた皆さんに、お礼を言いたい。
そして、日本からは遠い地にある国「ルーマニア」と「ブルガリア」に、今までよりも親しみを感じてもらえたら幸いである。
                                       (完)

 

 



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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(15)

2013年06月10日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ブルガリア/ボヤナ教会・リラの僧院≫

旅も8日目となり、ブルガリアのハイライト、「リラの僧院」に行く日だった。
初めに、ソフィアのホテルを出て南西8kmの町「ボヤナ」にある世界遺産「ボヤナ教会」を訪れた。
この教会は標高2000m級の山が連なるビトシャ山の麓にあり、11世紀に建築されてから2度増築したというが、本当に小さな教会だった。
しかし、中のフレスコ画が価値があり、世界遺産になっているのだ。(内部の写真撮影は禁じられていた)
写真の左側が最古の建物で、中のフレスコ画も素晴らしかった。

  

それから110km南にある「リラの僧院」に行く途中で、「コウノトリ」が巣を作る村を通った。また昼食は、渓谷の傍に建つレストランで「マス料理」のランチを食べた。美味しかった。

  

「僧院」は「リラ山脈」の奥深く、曲がりくねった山道を登った先にあった。「リラ」とはトラキア語で「水の豊かな地」という意味だそうだ。
着いた時は雨が降り出していて、まだ午後を過ぎたばかりなのに薄暗かった。

  

ここは元々10世紀に『イヴァン・リルスキ』という僧侶が隠遁の地に選び、小さな寺院を建てたのが始まりという。14世紀に王に庇護されて今の様な形になり、「ブルガリア正教」の総本山となった。
500年間のオスマン朝の支配の時代には、税金を納めることでこの僧院の存在が黙認されたらしい。

周囲を取り囲む僧坊の中心に「聖母誕生教会」が建てられていて、三方のアーケードの壁と天井にぎっしりと描かれたフレスコ画ははっきりとした色彩の絵で圧倒された。
教会内部の撮影は禁止されていたが、幅10mもあるという木製の「イコノタス」(その奥は天国に通じると考えられている仕切り)には、非常に精巧な彫刻がされていて、それに金箔が張ってあり、輝いていた。

 

  

360もあった僧房は、1833年大火で「フレリョの塔」以外は消失してしまった。その後復旧再建され、1983年世界文化遺産に登録された。

 
 
僧房の一部が公開されていた。写真は上級僧侶の部屋であろう。また、裏側に回るとライラック(リラ)の花が植えてあり、花は終りかけていた。



「僧院」には「歴史博物館」が併設されていて、貴重な文物が展示されていた。そこも撮影は禁止されていた。
 
その夜、オプショナルに行かなかったので、友人と夕食をホテル傍のスーパーマーケットに買いに行った。ダンボールショップの様な形式の大型店で、何でも大量の品物がパックに詰められていて驚いた。すし屋があったので、注文して巻いてもらいホテルで食べた。まあまあ美味しかった。

 


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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(14)

2013年06月10日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ブルガリア/首都「ソフィア」観光≫

「プロブディフ」観光後、150km西北西にある首都「ソフィア」までバスは走った。
「ソフィア」は、ブルガリアの西部、ビトシャ山の麓にある町なので、標高が550mもある人口140万人の高原都市なのだ。私には何となく暑さが和らいだ様に感じられた。

ガイドブックに拠ると紀元前7世紀に「トラキア人」が町を造ったが、紀元後は「ローマ」の支配を受けた。そして1398年~19世紀の500年間は「オスマン朝」が支配した
19世紀末の露土戦争で独立したが、第二次大戦後は政治的に旧ソ連に組み込まれ、社会主義化が推し進められた。旧ソ連の民主化後は、ブルガリアも親西欧路線を推し進めている。

「ソフィア」に着くと直ぐ、バスを「アレクサンドル・ネフスキー寺院」傍の駐車場に止めて中心部の市内観光をした。

この寺院は、1878年、オスマントルコからの独立を果たした露土戦争で、ロシアから支援に来て戦死した20万人のロシア兵を慰霊するために、1882年から40年の歳月をかけて建造した寺院だ。
高さ60mの金色ドームと12のドームがあり、巨大なシャンゼリア、モザイク画で飾られている。
余りに大きいので、かなり離れないと写真に収められなかった。内部の撮影は禁止だった。

この寺院を見た時、突然、昔唄ったロシア民謡『バルカンの星の下に』を思い出した。『黒き瞳いずこ 我が故郷いずこ ここは遠きブルガリア ドナウの彼方…』という歌だ。(調べたら、第二次世界大戦末期の1944年頃、故郷を懐かしんだロシア兵たちに歌われた歌だという)

 

次に「聖ソフィア寺院」「聖ロシア正教会」「旧王室」「大統領官邸」「旧共産党本部」「聖ソフィア像」「バーニャ・バシ・ジャーミャモスク」「聖ゲオルギ教会」と順に見学した。支配者が変わる毎に建てられたそれぞれの時代の文化財が肩を並べていた。
 
①聖ロシア正教会(1913年建立) ②バーニャ・バシ・ジャーミャモスク


③大統領官邸と衛兵交代式


④聖ソフィア像           ⑤聖ゲオルギ教会(4世紀の温泉施設もあった教会)

  

⑥聖ペトカ地下教会(14世紀オスマン朝時代に遠慮がちに半地下で建てられた教会)

  

「アレクサンドル・ネフスキー寺院」傍の緑地に、日本とブルガリアの国交40周年を記念して1999年10月に日本が桜の苗木50本を贈ったという記念碑が立っていた。

 

 



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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(13)

2013年06月09日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ブルガリア/プロブディフ観光≫

旅行7日目は、前夜の宿泊地「プロブディフ」観光から始まった。
「プロブディフ」の歴史は古く、紀元前19世紀にはトラキア人が住んでいたらしい。
現在は人口38万人のブルガリア第二の都市だ。
旧市街の傍に「マリッツア川」が流れていて、両岸には街路樹が植えられ散策路が整備されていた。ホテルは旧市街の傍だったので、歩いて屋根のある橋を渡り、旧市街に向かった。橋に行って見たら両側が店になっていて、川は全く見えなかった。

 

先ず、「イマレット・ジャーミヤモスク」に行った。かっては救護院だったらしい。(写真は無い)
続いて「ジュマヤモスク」に行った。14世紀のオスマン朝皇帝「ムラト2世」の時代に建てられた中型のモスクだが、入り口に清めの場所があった。男性は1階、女性は2階で祈るのだ。
モスクには一切の偶像は置かれていない。一番奥の壁が凹んだ所が1番大切な場所でメッカの方角を現している。信者は1日5回、その方向に向かって祈りを捧げるのだ。

  

 

「ジュマヤモスク」の傍の地下に「ローマ時代の競技場跡」の一部が発掘保存されていた。かって戦車の戦いやレスリングなどが行われた競技場で、観客は3000人が入れたという。(全体像がわかる模型が飾られていた)
競技場から数メートル上にある現代の地面を見上げると、そこに現代の市民が暮らす建物と生活があり、不思議な感じがした。ローマが支配した地域には、まだ発見されていない似たような地下遺跡が多数あるのだと思う。

  

 


暫く東側に歩いて坂を登ると「聖処女教会」に着いた。その傍に丘の下の町を臨むことができる半円形の「ローマの円形劇場跡」が残っていた。
3000人が入れる立派な劇場跡で、今でも夏にはコンサートや野外劇が行われているという。傍にあった「つる薔薇のパーゴラ」が素敵だった。

  

その後、木造建築が保存されている「民族復興地域」に行った。ドイツの木造建築に似た「木組み様式」で建てられた建築が多かった。近くに1847年に建てられた「民族博物館」があった。私達はそこのトイレを借りた。

  

一つ、面白い事があった。写真を撮りたい店があったので、私は中にいた男性店員に撮っていいか聞いた。すると首を横に振ったので、駄目なんだと思って出て来た。添乗員に言うと、「首を横に振ったのはOKという意味です。駄目なら縦に振ります。」と言うので、また行って写真を撮って来た。
ブルガリア人のしぐさには、日本と反対のしぐさがあった。


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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(12)

2013年06月09日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
(6日目の記事が抜けていたので、ここに掲載する)

≪ブルガリア/野外博物館、薔薇博物館、トラキア人の墓≫

6日目はヴェリコ・タルノヴォを出て50km南西の「カブロヴォ」近郊にある「エタル野外博物館」に立ち寄った。
ここは1960年に造られ、職人町を再現した場所だった。「シベク川」の水を利用して水車を回し、穀物を搗いたり、糸をつむいだり、刃物を研いだりする動力に利用していた。木彫り細工、刃物、毛皮、パン、お菓子などを造って売る店があった。

  

さらに50km南に走り、「カザンラク」にある「薔薇の香油博物館」に行った。香油の採取法が展示されていた。
毎年6月の初めに開かれる「薔薇祭り」でその年の「ミス薔薇祭り」が選ばれるそうで、歴代の優勝者の写真も飾られていた。
「カザンラク」とは、薔薇の香油を作る時に使う「銅の釜」の意味。薔薇の谷で一番大きい薔薇栽培の中心地だった。
薔薇は早朝に花びらを摘み、直ぐに処理をするそうだ。
博物館の庭には、沢山の薔薇が咲いていたが、油虫にまみれた薔薇も多かった。

  

 

「香油博物館」を出た後、現地ガイドさんの好意で薔薇農園に立ち寄って、香りの強い「ダマスクス系の薔薇」を摘む体験をした。
農家の経営者が来ていたので、「油虫などの害虫対策はどうしているのか。」と質問したら、「化学薬品は使わず、自然素材の薬を毎日撒いている。」という答えが返って来たので、私は納得した。

 

その後、「カザンラク」で発見された「トラキア人の墓」(レプリカ)が展示されている場所に行った。
ここは1944年に防空壕を掘った時、偶然発見され、今はユネスコの世界遺産に指定されている。
墓に描かれているフレスコ画は、紀元前3~4世紀のもので、戦闘場面、葬送儀式が描かれていた。絵に拠ると、夫が妻の手首をつかんで別れをしている様子が克明に描かれていた。
左の写真は墓の場所。右は別の場所に作られているレプリカ。その内部は撮影禁止だった。
(レプリカの写真は、展示場の入り口にあった「ドーム型の天井に描かれているフレスコ画」。馬の絵も精巧で驚かされる)

 

  
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(11)

2013年06月09日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ブルガリア/ベリコ・タルノヴォ観光≫

「イワノボ岩窟教会」から南南西90kmのところの町「ベリコ・タルノヴォ」に向かった。
この町は、 「バルカン山脈」の東端にあって、幾つかの丘に囲まれた蛇行する「ヤントラ川」の渓谷に開けた町で、私達のホテルはその渓谷を背にして建てられたものだった。
また1187~1393年の200年間は、ブルガリア帝国の首都だった所でもある。

ホテルの5階にフロントや喫茶があり、そこから下の渓谷の中州を臨む景観が素晴らしかった。中州には「ベリコ・タルノヴォ美術館」があった。川の向こうに町が広がっていた。
 
  

  

ホテルは旧市街にあったので、そこから歩いて美しい旧市街を散策し、ブルガリア帝国時代の宮殿跡がある「ツァレベッツの丘」に行った。
1393年、オスマントルコ軍との3ヶ月の戦いで征服され、宮殿は破壊された。現在は頂上に「大主教教会」が建っていた。
その後500年間、ブルガリア全土はオスマン朝に支配された。

途中、夕立の強い雨と雹が降ったので小さなみやげ物屋に非難した。私はこの店で薔薇の香りがする「薔薇ハンドクリーム」を10個買った。雨が止んだので出て見たら綺麗な虹が掛かっていた。

  

 
 
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(10)

2013年06月08日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ブルガリア/世界遺産「イワノボ教会」≫

旅行5日目はブカレストのホテルを出て真っ直ぐブルガリアに向かった。
東西に流れる「ドナウ川」がルーマニアとブルガリアの国境になっていた。
国境ではガイド氏と別れ、添乗員が全員のパスポートを集めて、事務所に行き、見せただけだった。
その後僅か15分程で両国の間に掛かる「友好の橋」を通過できた。
写真①はルーマニア側国境検問所 ②は国境のドナウ川 ③はブルガリア側国境検問所





ブルガリアに入って最初の町が1世紀のローマ時代に始まる人口20万人、ブルガリア第4の都市「ルセ」だ。
14世紀からのオスマントルコ時代には商工業都市として栄え、19世紀にはブルガリア初の鉄道が開通した。現在では、ルーマニア、ハンガリー、ロシア方面に行く国際列車が出ているという。
そんな町なので、友人と「ルセは滞在費が安そうなので、1~2ヶ月滞在して、ヨーロッパ各国に旅行するのに良さそうな町だね。」と話し合った。
「ルセ」で昼食を取った。

  

その後、25km南の「イワノボ」に行き、山道を登って標高32mの中腹に岩を掘って造った世界遺産「イワノボ岩窟教会群」を見学した。
ここに1320年代から17世紀までブルガリア正教会の修道士達が岩を削っていくつもの洞窟を造り、住んでいたという。
この教会のフレスコ画は13~14世紀に画かれた貴重なものだという。写真撮影は禁止されていた。
写真①は、教会の展望室から下の道路を写した。②はバスの駐車場からその展望室を写した。



③は修道士達が掘って住んでいた洞窟が沢山あった。





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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(9)

2013年06月07日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/首都ブカレスト観光≫

シナイアから南に130km走って、夕刻ブカレストに着いた。
さすが首都、建物がぎっしりと建った大都市だ。

最初に「凱旋門」前でバスを降りた。この「凱旋門」は第1次世界大戦の勝利を記念して1919年に建てられたものだという。パリの凱旋門を思い出したが、僅かな彫刻が施された簡素なものだった。

次に降りた場所が「旧共産党本部」前だった。1989年12月22日に当時の「チャウシェスク大統領」がこのテラスで演説し、集まった大群衆からブーイングされて、屋上からヘリコプターで逃亡した建物だ。
現在は労働省として使われているという。
また、前庭には、革命の犠牲者の慰霊塔が立っていた。

 

次にチャウシェスクが日本円にして1500億円を使って建てた巨大な宮殿「国民の館」に行った。
部屋数3107あり、内部の天井、壁、窓枠などには純金が施してある豪華なものだそうだ。
現在は、政党の事務所が入り、国際会議、コンサートなどに使われているという。
余りの大きさに、建物全体を写真に取ることが難しかった。

その日のホテルの傍に大型スーパーがあったので行って見た。残念なことにユーロが使えなかったので買い物ができなかった。
意外にも入り口に日本の100円ショップ「ダイソー」が入っていた。品揃えを見たら、日本の店にあるものもあった。

 




翌日、ルーマニアからブルガリアに向かうバスの中で、現地ガイド氏はチャウシェスク独裁政権下の国情を話した。概要は次の通りだ。
『ニコラエ・チャウシェスクは貧しい農民出身で、靴屋で働いていた。旧ソ連のスターリン時代にソ連で学び、1965年共産党書記長になった。その後農業の集団化が推進された。そして1974年に大統領と国軍のトップになった
それからは貧しい人、理解力が低い人が昇進した。

食糧の配給制が始まり、券が配られた。しかし1Lの牛乳を買うのに、7時に開く店に3時から並ばなければ買えなかった。
反対した神父は獄死した。共産党に加担する神父も出た。神父がレポートを出した。調査時の話は録音されていた。

1989年にチャウシェスクに反対する牧師が演説をした。反対運動が盛り上がった「キミショアラ」で数百人が軍に撃たれた。マスコミも秘密警察に支配されていたので、ある市民が録音テープをドイツに持って行き、ドイツのラジオ放送で多くの人々がそのできごとを知った

チャウシェスクは1989年12月に夫妻で当時の共産党本部屋上からヘリコプターで逃亡後、捕らえられて殺され、軍人墓地に埋葬された。
3人の子の1人(養子)は彼に反対していた。今は核物理学者である。2人は死んだ。
(特に次男のニクは、レイプ事件を起こしたり、体操選手のコマネチを愛人にと迫ったりする放蕩息子だった)
国民の14%、320万人が共産党の党員だったが、現在は5000人だ。

チャウシェスクの支配下では、秘密警察は無料で住宅、食糧、衣服などが与えられていた。
革命時、銃を使った秘密警察は少なかった。革命後、秘密警察は良い職業についたり、利子なしで金を借りれた。

当時は離婚も人口妊娠中絶も禁止され、5人以上子どもを生むと公的に優遇された。』
(子どもを捨てる親が多数出て孤児が増えた。孤児院では子どもを死なせると職員が罰せられるので、大人の血液を輸血される子が多くいた。その子ども達はエイズを発症した。)

また現地ガイド氏は、現在のルーマニアについても、一部を話した。
『退職者は、年に1回国内旅行を半額負担ですることができる。また特定の店で買い物をしたら、価格の50%を政府が負担してくれる。年金は賃金の65%が支給される。
労働者には残業はなく、年間に休日は4~5週間ある。(ルーマニアの消費税は、現在24%だった)

学校は、小学校4年間-中学校4年間-高校4年間の12年間だが、その内、最後の2年間は義務教育ではない。
(10年間の義務教育が終った時に、その後高校生活を続けるか、専門学校に行くかを選択する。10年で就職した場合は非熟練労働者にならざるを得なく、普通の就職はできない)

小学校は、水曜、土曜、日曜が休みで、授業時間は2部制なので8時から午後1時までだ。給食はない。午後は、中学生が来る。
義務教育と公立大学は無償である。』 (教員は給料が安い)


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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(8)

2013年06月06日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/シナイア観光≫

「ブラン城」を見学後、南東に50km走って「シナイア」に行き、この町にある「シナイア僧院」を見学した。
この僧院には、17世紀に建てられた古い教会と19世紀にルーマニア王国の皇帝になったカルロ1世が建てた新しい教会の二つがあった。
古い教会は小さいが、入り口のフレスコ画は保存が良く見事だったが、いつもの事ながら無宗教の私には内容が良く分らなかった。



カルロ1世の新しい教会は、壁の彩色が独特だった。

  

「シナイア」はカルパチア山脈の中の1つ「プチジェ山」の山麓にある高原に17世紀に開発された町で、18世紀には王侯貴族たちの別荘地として繁栄したという。
朝から快晴だったので、私達数人は添乗員氏の許可を得て、この町の「ペレシュ城」と「ペリショール城」の見学をする変わりに標高2000mの「プチジェ山」にロープウエイで登ることになった
ロープウエイ乗り場から乗り、中腹で1度乗り換え、頂上には25分程で着いた。頂上には残雪があり、気温が低かったが、ルーマニアアルプスを臨む景観は素晴らしく、また下に見える「シナイア」が山峡にできた町だと言うことが良くわかった。



 



 

 
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(7)

2013年06月05日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/ブラン城観光≫

4日目は、ブラショフの南西30kmのブラン村にある「ブラン城」の見学から始まった。
車窓にはのどかな田園風景が続き、広々とした牧草地に牛や山羊、羊が放牧されているのだった。
次第に「カルパチヤ山脈」が迫って来て、山岳地帯の風景になった。

 

 

  

ブラン村に着いた。チケットを買って「ブラン城」の門をくぐった。
この城はもともとブラショフに攻めてくるオスマン朝軍を発見するために1377年にドイツ商人が建てたものだが、14世紀末に「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったワラキア公3世「ヴラド・ツェペシュ」の祖父が居城にしたのだった

「ヴラド・ツェペシュ」は、裏切り者やオスマン朝の兵士を串刺しにして処刑し、見せしめにしたと伝えられ、それがおぞましい「吸血鬼ドラキュラ」のイメージに重なったと言われる。現在では国の英雄として称えられている

「ブラン城」は、小さな中庭がある木造4階建ての建物で、王の執務室、居間、食堂、寝室など、部屋はどれも美しく整えられていた。
中庭の向こうに塔を見るベランダからの景色は、開放的で素敵だった。
甲冑や武器を飾った部屋と無数の針が付いた拷問用の椅子も展示されていた。

  

  

  

  
 
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(6)

2013年06月05日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/ビエルタンの世界遺産「要塞教会」≫

「ビエルタン」の町は、「シギショアラ」から南西に27km行った所だった。
オスマン朝の攻撃に備えて丘の上に三重に壁を巡らせた要塞の中に教会が建てられていた。町全体が見渡せる見張りの塔もあった。

  

 

教会の横に「離婚を望む夫婦の部屋」があった。鍵が掛かった4.5畳程の広さで冷たい土の上に半分だけ板が張ってあり、ベッド、寝具、食卓、食器、スプーンなどは1人分しか置いていない部屋だ。
夫婦が牧師に離婚を願い出ると、この部屋に入れられて2週間共同生活をしなければならない。食糧と水は届けられるそうだ。実際に離婚した夫婦はいなかったそうだが、私は離婚を望む女性側にとって、とても残酷な部屋に思えた。

  

城壁で囲まれた教会からバスが待っている駐車場まで5分程坂を下った。
駐車場の近辺に建っている家の屋根を見て驚いた。以前TVの旅番組で放映していた「目がある屋根」だった。
昔、屋根裏に穀物を保存していたため、換気を良くするためにこの様な窓を造ったのだというが、本当に屋根に見られているような錯覚を受けた。
この事にガイドは全く触れなかったが。

  
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(5)

2013年06月04日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/シギショアラ観光≫

歴史的な建物が多い美しい町であり、ルーマニア第二の都市である「ブラショフ」を後にして、120km南下し、「シギショアラ」に行った。

「シギショアラ」は人口3万人の中世の雰囲気が残る小さな町だが、1191年にハンガリー王の命でドイツのザクセン人が入植して繁栄し、15~16世紀には15ものギルドがある城壁で囲まれた城砦都市だったという。
「時計塔」は、町が商工ギルドの自治都市になったのを記念して14世紀に建てられた町のシンボルで、今でもその仕掛け時計は健在だった。

  

また、時計塔の傍に伝説「ドラキュラ」で有名な「ヴラド・ツェペシュ王」の生家があり、現在はレストランになっていた。
彼の父親「ヴラド・ドラクル」は、この家に1431年から4年間、ハンガリー王により幽閉されていたという。(右側奥の黄色い家)
私達はそのレストランで昼食を取ったが、『血のスープ』と名づけられたトマトスープは美味しかったし、続いて出たマッシュポテトと牛肉の煮込み料理の盛り合わせもなかなか美味しかった。

  

 

昼食後、写真奥に写っている入り口から、約700段ある屋根が付いた階段を登って、見晴らしが良い「山上教会」にも行った。

  

  

レストラン前の小さな広場では、風景画を描いて売る人や結婚式を前にしたカップルが色々なポーズをとって写真を写していた。楽しい雰囲気に溢れた町だった。

 


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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(4)

2013年06月03日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/ブラショフ観光②≫

旅行3日目は、ホテルから10分程歩いたところにある「ブラショフ旧市街」の観光から始まった。
噴水が吹き上がる広場の周りに時計塔がある「市庁舎」や教会があった。

  

広場の南側にトランシルバニア最大の後期ゴシック建築様式「黒の教会」があった。(写真左は入り口から写した。写真右は広場側から背部を写した)
この教会は14世紀後半から80年の月日をかけて建造されたが、1689年にハプスブルグ家の攻撃で火災になり、外観が黒く焦げてしまったのだった。
中に4000本のパイプで造られたパイプオルガンがある事で有名である。
内部の撮影は禁止だったので写真はないが、ここも非常に荘厳な空間になっていた。また、パイプオルガンが演奏されると、木製の椅子の背もたれを動かして参列者が反対向きに座れる工夫がされていた。

  

「黒の教会」の直ぐ東側に、ドイツ人の子どものための小・中・高校があった。その昔、この町の基礎がドイツ商人によって築かれた歴史を思い出した。ガイドの話では、学校の改修費用はドイツ政府が支援していると言っていた。

 


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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(3)

2013年06月02日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニア/ブラショフ観光①≫

「トランシルバニア地方」のルーマニア第二の都市「ブラショフ」に着くと、最初に先住のルーマニア人達が14世紀に造ったというルーマニア正教の「聖ニコラエ教会」を見学した。
「ブラショフ」の町をドイツ移民が造った時、先住民のルーマニア人が移住させられた地域が教会の建つ「スケイ」地区で、現在の建物は後に増改築されたものだが、入り口左右に残るフレスコ画が建設当時のものという。
私達が訪れた時、少人数でミサが行われていたが、古い教会の静かな佇まいに荘厳さを感じた。

(ガイドブック『地球の歩き方』に拠ると、ルーマニアは2世紀以降ローマ帝国の支配下にあったが、ローマ帝国が衰退すると異民族が侵入して南は「ワラキア」、北西は「トランシルバニア」、北東は「モルドヴァ」という3国に分かれて発展した。「モルドヴァ」と「ワラキア」は、15世紀には力をつけたオスマン帝国に侵入されてオスマン朝の自治公国になった。
一方で「トランシルバニア」は、11世紀からハンガリーの影響の下で特権を与えられたドイツ系サクソン商人が活動して「ブラショフ」や「シギショアラ」の町を造った歴史がある。
しかし、ハンガリーがオスマン朝軍に敗れると、「トランシルバニア」もオスマン朝が支配することになった)

 

  

(長い間オスマン朝の支配下にあったルーマニアが16世紀にワラキアのミハイ公の独立宣言で一時的に独立し統一されたが、彼の死後再びオスマン朝に支配された

「トランシルバニア」はその後の17世紀末にオーストリアの支配下に入った。1868年にはハンガリー帝国の支配を受けた。
「ワラキア」と「モルドヴァ」は、1861年に力をつけて来たロシアの援助を受けて連合公国になり、1878年には完全に独立を果たした。

1881年にカルロ1世が「ルーマニア王国」を宣言して王政となった
1947年、王政が廃止されて、ソヴィエト連邦の影響が強い「ルーマニア人民共和国」が成立した)

(1965年に「チャウシェスク」が独裁権を握ってからは、秘密警察、ハンガリー人の弾圧、女性に5人の出産義務、政府高官達の汚職などが相次ぎ、国民への恐怖政治が続いた。
1989年12月16日ハンガリー牧師退去事件を契機に全土で抗議運動が起き、共産党本部の屋上からヘリコプターで逃げた「チャウシェスク」夫妻は逮捕されて25日に処刑された

その後民主国家ルーマニアは、2004年にNATOに、2007年にブルガリアと共にEUに加盟した)

その日のホテルは、ブラショフ市の「市民センター」の前に建つ「キャピトルホテル」だった。ホテルの隣には「美術館」があったが、時間の関係で入場はできなかった。5階の部屋の窓からは、夜間ライトアップされた「市民センター」が美しく見えた。




翌日早朝、散歩に出たが、「市民センター」の前には、「ルーマニア」が「ローマの国」であるという歴史を現すローマ神話「ロムルスとレムスを育てたメス狼」の銅像があった。

  

「市民センター」の隣には、歴史的な建物を思わせる郵便局、反対側には良く整備された大きい中央公園があった。
公園にはデザインされた洒落たプランターが幾つもあった。6時半頃、犬を連れた市民が散歩をしていた。芝刈りや樹木の整枝係りの男性と出会ったが、夏時間の今は7時から勤務に就くのだと話していた。気持ちの良い散歩だった。

  

 
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「ルーマニア・ブルガリア」旅行(2)

2013年06月01日 | 海外旅行「東ヨーロッパⅡ」ルーマニア、ブルガリア
≪ルーマニアの首都「ブカレスト」から北上≫

26日に帰国した後、庭の草取りや低温で遅れていた畑の植え付け作業をしていて、旅行の報告が遅れてしまった。やっと号作業が一段落したので今日から取り掛かりたい。

先ず最初に行った国「ルーマニア」から始めたい。
「ルーマニア」の首都「ブカレスト」は、北海道の北とほぼ緯度が同じだが、四季がある大陸性気候の国で、5月17日に訪れたのだがその日は24度、27~30度ある日もあった。

ルーマニアの面積は237,500k㎡で、日本の本州に匹敵する広さの国だ。
民族はルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ人、トルコ人、ロマ人などで、宗教はルーマニア正教、ギリシャ正教、ローマカトリックなどだ。
国道沿いに屋根の形が珍しい協会があった。

 

首都の空港からバスで北に向かうと、直ぐに豊かな田園風景が広がった。5月の畑には菜の花が咲き、小麦が植えられていて、小麦は既に収穫を終え、その後に向日葵を植えつけてある畑もあった。畑にはビール用のホップも栽培され、果樹園では桃の花が咲いていた。
国道沿いの大半の家々の周りには大量の葡萄が栽培されていて、ニワトリが放し飼いにされていた。

国道や脇道では何台もの馬車も見掛けた。
路上販売の屋台をあちこちで見かけたが、苺、さくらんぼ、アプリコットなどを売っていた。蜂蜜を売っている屋台もあった。

さらに進むと丘陵地に草原が広がり、羊、山羊、牛が放牧されていた。山羊乳で作るチーズは、濃厚で保存性も優れ、ガイドは常温で1ヶ月持つと言っていた。

途中の草原で、水蒸気を出してパイプに通し、遠くまで運ぶ装置を見掛けた。

  

さらに北に行くと2000m級の山並みが連なる「カルパチア山脈」の深い森林地帯に入って行った。
途中の「シナイア」という町は冬のスキーのリゾート地らしく、ホテルが立ち並び、ゴンドラもあった。

 

 

バスで二つの国を移動中のトイレ休憩は、レストラン以外ではほとんどが「ガソリンスタンド」だった。
どの「ガソリンスタンド」もコンビニの様な造りになっていて、各種飲料、菓子類、パン類を売り、簡易な喫茶を併設していたが、残念な事にトイレは男性用1個、女性用1個しかなかった。今回のツアーは30人強の人数で、いつもの様に女性がその大半を占めていた。男性が済むと、男性用を女性も使わせて貰う等したが、いつも長い時間がかかった。
まだまだ大型バス1台で観光する観光客は、少ないのだろうと思った。因みに私達が日本人の他のツアーに会ったのは、最後のブルガリアの首都「ソフィア」でだった。

 

私達はさらに北へ進み、ブカレストから165kmの所にある最初の宿泊地「ブラショフ」の町を目指した。
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