花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設16年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調が重なり、家の回りの生活が主になった。

記事の「海外旅行」の「カテゴリー」を国別に編集し直す

2019年04月24日 | 海外旅行 色々
この度、「スリランカ」でテロ事件が起き、日本人もホテルで朝食中に被害に会ったという報道があった。
そこで私が「スリランカ」で泊まったホテルを知りたくて「スリランカ」旅行の記事を自分のブログで探したが、旅行の期日も定かでなく、しかも「スリランカ」は「カテゴリー」の「東南アジア」に入っていたので、記事が多すぎて簡単に探す事ができなかった。
これでは不便なので、「カテゴリー」をもう少し小さく分けて、その中に含まれる幾つかの訪問国(地域)を標記することにした。
本当は1つの国毎に1つの「カテゴリー」にできれば一番良いのだが、そうすると「カテゴリー」が沢山になり過ぎて、標示できなくなるかもしれないと思い、今回はこの程度の分け方にして置いた。これで、今度は今までより探し易くなったのではないだろうか。
ただし、デジカメをまだ持っていなかった最初の頃の旅は、残念ながら記録できていない。「ギリシャ」「ローマ」「スペイン・ポルトガル」「ソ連」などの国だ。
編集作業には半日以上かかった。

                            
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一人旅の思い出など

2017年08月30日 | 海外旅行 色々
若い頃から旅が好きで、国内の主な観光場所の多くには既に行っているので、近年の旅の多くは外国だ。
誰でも知っている国に行っていた頃は、友人や身内を誘いやすかったので、2人でツアーに参加していた。
気が合う人と行く旅行は、楽しさは二倍にも三倍にも増幅し、緊張感も低下するように思う。
しかし次第に、一般的な国には行ってしまい、他の人があまり興味を示さない様な国に行こうとすると、同行者がいなくなって来た。
それでも私は行きたい訳で、その頃から一人でツアーに参加する旅行がおおくなった。ツアーなら金額的には高めだが、言葉の問題もないし、一人でも安全、安心だからだ。

一人旅の最初は「南アフリカ4カ国周遊」だった。長旅で疲れたが「ビクトリアの滝」を見、動物自然保護区を回って満足できた。
その次は「ペルー」「ブラジル」だった。こちらも凄い長旅だったが、「マチュピチュ」や壮大な「イグアスの滝」を見て大感激し、一人旅に自信が出だした。
その後「オーストリア」「カナディアンロッキー」「中国四川省」「北インド」などでは、素晴らしい山岳風景をたっぷりと楽しめた。
「エジプト」「チュニジア」は「アラブの春」の後の様子を知りたくて出かけた。私が行った後、両国共にISがらみの事件が起きた。今思えば、良い時期に行く事ができて良かったと思っている。
今年も「チェコ」は一人参加だったが、ツアー内で友人ができて、自由行動を共にし、とても楽しかった。
しかし、異文化の国「イラン」には、モスクの美しさとイスラム教国の雰囲気を知りたくて出かけたが、少し早まったと後悔した。なぜならその後の昨年4月から「アメリカ」の入国許可条件が変り、行く際にイラン、イスラエルなどの数カ国に渡航経験がある者はビザを取らねばならなくなって、凄く苦労したからだ。

もう直ぐで後期高齢者の一員に加えられる私。最近はバランス感覚が低下し、たまたまふらついたりする事が増えた。
しかしできれば、これからもまだまだ見た事がない景色や文化、人との触れ合い、感動を求め、外国旅行に出かけたいと思っている。
私が普段している庭仕事や畑仕事は、そのための準備体操である。
いよいよ足腰が弱り、重いスーツケースやリュックを運べなくなって外国まで出かけるのが難しくなったら、国内でまだ行っていないところを訪ねる予定だ。

                      

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海外旅行に持って行く私の便利グッツ

2016年05月25日 | 海外旅行 色々
その1、洗濯道具。
合成洗剤、針金ハンガー数本、100円ショップの洗面器と小物干し、ロープ。
洗濯後、バスタオルに包んで踏みつけてから干すと一晩で乾く事が多い。

その2、衣類を分類して入れるのに風呂敷を3~4枚愛用している。
開くと中味が一目で分かり、出し入れし易い。また、軽く、形がどうにでもなるので便利だ。

その3、大小のビニール袋数枚、緩衝材。買い物したのを入れたり、包んだり、洗濯物を入れて置く。

その4、かかとがあるサンダル。長時間の飛行機内、乗り継ぎ空港、ホテルの自室で履くと楽だ。
気温が高い土地では、そのままサンダルとして履いたりもする。

その5、マルチタイプのコンセント差込口。
カメラは家で充電した電池の予備とピクチャーカードの予備を持って行くので、あまり必要でないが、万が一のために。

その6、催眠薬。時差が大きい国では必需品だ。また、胃腸が弱いので消化薬と下痢止め。

その7、小型電子辞書。以前は旅行用の辞書を持って行っていたが、字が小さくて読みにくいため。

その8、折り紙。現地の人や子どもと触れ合うのに便利。ちょっとしたお礼としても使う。
「鶴」を予め完成の8割ほど迄折って置くと、すぐに目の前で完成させて手渡す事ができ、役に立つ。
                  
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何か国に行ったかな?②

2013年11月18日 | 海外旅行 色々
今日は、行った事のある国を書き出して見た昨年3月以来、さらに尋ねた国を足して見た。足したのが赤字だ。また( )内は、その国に複数回行った旅行回数である。

 ≪アジア≫  〇大韓民国(6) 〇中華人民共和国(6) 〇ベトナム社会主義共和国 〇カンボジャ王国 
        〇ネパール連邦民主共和国 〇インド 〇タイ王国 〇マレーシア 〇トルコ共和国 
        〇スリランカ 〇インドネシア 小計11か国  

 ≪アフリカ≫ 〇モロッコ王国 〇ジンバブエ共和国 〇ザンビア共和国 〇ボツワナ共和国 
        〇南アフリカ共和国 〇チュニジア共和国 〇エジプト・アラブ共和国  小計7か国 

 ≪ヨーロッパ≫ 〇ロシア連邦 〇イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)(3) 
        〇ポルトガル共和国 〇スペイン 〇フランス共和国(4) 〇イタリア共和国(5) 
        〇バチカン市国(3) 〇ドイツ連邦共和国(3) 〇スイス連邦(2) 〇オランダ王国
        〇デンマーク王国 〇オーストリア共和国 〇ハンガリー共和国 〇チェコ共和国 
        〇ギリシャ共和国 〇スロベニア共和国 〇クロアチア共和国 〇ボスニア・ヘルツェゴビナ
        〇モンテネグロ  〇ブルガリア共和国 〇ルーマニア  〇ポーランド共和国 小計22か国  

 ≪北アメリカ≫ 〇アメリカ合衆国(3) 〇カナダ 小計2か国


 ≪南アメリカ≫ 〇ペルー共和国 〇ブラジル連邦共和国 〇アルゼンチン 小計3か国

 ≪オセアニア≫ 〇オーストラリア連邦 〇ニュージーランド  小計2か国 

 ≪その他≫  〇台湾(正式には独立国ではないが)  小計1か国 
                  

合計48か国 ;">(延べ訪問国数74)
に上ることが分かった。
                                        

私の場合は、初めから「日本百名山」を制覇するように国の数を増やそうという考えは全く無く、その時々の興味関心の赴くままに旅をして来たが、いつの間にか訪問国数が多くなっていた。
旅全体に言えるが、特に外国旅行は、気力、体力、その時の健康状態、家族等の理解と協力、必要な日程、そして経済力と全てが揃わなければ行くことは無理なので、最近は体力的な自信が次第に無くなり、「これで最後かな?」と弱気になることもある。
しかし、前回も81歳の女性の方が1人で参加していたのを見ると、「私も、もう少し頑張れるかも知れない。」という気持ちになって来る。そして、また旅行会社から送られて来るパンフレットを見てしまうのだ。

次は「北インド」だ。どんな発見や感動があるか楽しみにしている。

                                            



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《11》 忘れられないトイレ事情

2007年03月02日 | 海外旅行 色々
 この30年近い旅行体験で、未だに忘れられないトイレ事情と子どもの頃の切ない思い出を書いてみます。

 まず、当時はトイレットペーパーが設置されているトイレはとても少なかったです。当時日本では、第一次オイルショックが納まり、すでにどこの家庭でも、真っ白くて柔らかいトイレットペーパーを使っていましたが、そんな日本がその頃はまだ特殊な国で、外国で見たトイレットペーパーは、どれも薄くて硬く、幅も狭く、茶色をした再生紙が多かったです。パリのエアーフランス本社に設置されていたトイレットペーパーも、まるでハトロン紙の様でした。

 ソ連ではもっと厚くて硬い、丁度、今のハンドペーパーの様な感触の茶色い紙が使われていました。
 モスクワ郊外の「黄金の環」地域に観光に行った時のレストランのトイレは、隣との仕切は辛うじてあるけれど、入り口にはドアに変わるカーテンの様な物も何もないので正に丸見えでした。本当に驚きました。

 中国の西安から70km離れた興平市にある楊貴妃の墓に行った時、その傍にあったトイレにも仰天しました。穴を掘って作ったトイレなのですが、ここでは隣との仕切は申し訳程度の物で、高さは50~60cmしかなく、女性がしゃがんでも隣同士顔を見ながら会話ができるというトイレでした。
 ガイドブックには、「中国人にとっては、排泄行為というのは全ての人間の必然的な行為だから、恥ずかしいなどという考え方はしないのだ」と、書いてありました。でも、文化の違う私達は、恥ずかしくて使うのをためらわずにはいられませんでした。

 インドやトルコのホテル、レストランのトイレは、ほとんど立派な水洗式でしたが、決まって内部の後ろか横に低い水道があり、傍に小さな水入れが置いてありました。使った後は水を汲んで流すという昔ながらの使い方が、今も受け継がれているようでした。

 オランダに行った時、レストランのトイレを使ったツアー仲間の男性は、トイレの座面が高すぎて座り難いし、男性の小用トイレには届かないので困ったと言っていました。私は見なかったので確かめませんでしたが、確かに女性用も結構な高さがありました。それはオランダ人が世界一の身長の人達で、当時の平均身長も、女性で165cm、男性で175cmあったという所から来ているのでしょう。
 私は特に洗面台が高すぎて困りました。顔を洗おうとすると水が腕を伝って下がって来てしまうのです。
 (酪農家で会った小学校低学年の女児は、二人とも私より大きかったです。町を歩いていると、日本人はまるでこどもの様に見えました)

 

  このトイレは、ローマのテルミノ駅傍の私達が泊まった古いホテルの物です。しっかりした陶器製で作られていました。
 四角っぽい形も良いですが、私が一番気に入ったのは、トイレットペーパーと洗浄ブラシがコンパクトなセットになっていて、持ち運びや移動ができる事でした。日本でもこの様なデザインの物があると良いと思いました。

 水洗トイレの水の流し方も色々ありますね。足下のボタンを踏むもの、背中側の壁にボタンがある物、上からぶら下がっている紐を引っ張るものなどです。トイレに入ったらいつも、そこはどのような仕掛けになっているトイレなのか、興味が湧きます。

 (水洗トイレの紀元は、日本でも外国でも、その昔、小さな小川に板を渡して用を足した「川屋」の様です。やがてそこに囲い を作ったり、家の中に水を引き込んでトイレにしたりと発達したのですね。アテネやトルコの紀元前の遺跡にも見られますから。
 また、中国などでは、家畜小屋の隣に厠を作り、排泄物は家畜小屋に流れていく仕掛けにしてあったらしいです。ブリューゲルの絵にも、魚を人間の排泄物の餌で飼う池が描かれています。そうやって育てた家畜や魚を家族は食べたのでしょうか。それとも、それを知らない遠くの村に売りに行ったのかも知れませんね。

 思い出すと、私が子どもの頃は、日本の農家にも畑に排泄物を溜めておく大きな穴がありました。
 今になれば笑い話ですが、実は私が子どもの頃、その中に一度落ちた事があり、見つけた叔父が潅漑溝に連れて行って洗ってくれました。化学肥料が使われ出してからは人糞は使われなくなったのですが、別の問題が起きて来ましたね。

 明治時代に絵柄が付けられたトイレがあったという記事を読みました。きん隠しの外側に立派な花の絵が描いてあるのですが、使用した人はどうやって全体を鑑賞したのかなと不思議に思いました。)




 今し方、上の記事を読んだある人から、アドバイスのメールが来ましたので、早速、下に掲載させていただきます。有り難うございました。

  『ところで、トイレの話ですが、インドやトルコでトイレ内に水道やコップが置いてあるのは、水を汲んで流すためではなく、おし尻を洗うためです。だから、水洗トイレでも別に水道が付いています。
 彼らは紙は使いません。便をした後は、水で洗います。紙を使うのは野蛮な外国人で、水で洗う方がきれいだと信じています。 インドの場合、その時に使うのは左手で、左手は不浄の手。そして、食事に使うのは右手。スプーンやフォークを使うのは、野蛮な外国人で、手で食べるのが正式です。手でも味わって食べると、なお美味しいそうです。
 日本のきんかくしが無い形のトイレ(インデァン式)だと、便器に向かう時、日本と逆方向(穴のある方にお尻を向ける)になるのも興味深いですね。』

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《9》 中欧、トルコ、ニュージーランド、ドイツ、スイス、北イタリア、ハワイ

2007年02月27日 | 海外旅行 色々
私が初めて中欧のハンガリー、チェコスロバキア、オーストリアに行ったのは、冷戦終結後数年経った年の8月でした。
 中世の建築物や美術品などの文化遺産も素晴らしく、また、音楽を日常的に楽しむ国民性を羨ましく思いました。
 ハンガリーの首都ブタペストで行った野外音楽会は、足を幾つも蚊に刺された事を除けば素晴らしい演奏会でした。中央市場は多様な種類のハム・ソーセージ、チーズなどが所狭しと売られていて市民で賑わっていました。 

 ウイーンでは世界最初に作られた観覧車に乗り、チョコレート風味のスポンジケーキに生クリームがたっぷりと添えられたザッハトルテを味わいました。
 翌日、自由時間に訪れたウイーン美術史美術館では、オランダの農民の生活と寓意画を描いた事で有名なブリューゲルの「謝肉祭と四旬節の喧噪」他、何枚もの絵にも出会い、感激しました。町中では、音楽会のチケットをモーツアルトの仮装をした人が売っていて、楽しめました。

 チェコでは、私達が昼食をしたレストランの別室で、結婚式を終えたばかりらしい新郎新婦が、十数人の親族に囲まれて祝宴を開いていました。日本の結婚祝賀会に比べると、とてもこぢんまりしていて、温かい雰囲気が感じられ、好感が持てました。
 またチェコは、児童文化に優れた歴史的な業績を上げている国ですが、出店でも手作りの「赤ずきん」や「モグラとズボン」のストーリーを演じる事ができるように工夫された人形が沢山売られていました。娘は、赤ずきんのスカートの下に狼が隠された人形を、私は指の数だけカラスの子がついている手袋人形を記念に買いました。



 
 ヨーロッパとアジアの中継地トルコには1月に行きました。
 パムッカレの石灰棚、カッパドキアの岩窟群など、多くの変化ある自然と、トロイ遺跡、エフェス遺跡などの古代遺跡を見ました。私は遺跡では、まるでギリシャやローマに行った様な気分になりました。
 また、早朝から寺院の祈祷時間を報せる拡声器の声が響き渡るイスラム文化にも、初めて触れた旅でした。




 映画『ロード・オブ・ザ・リング』を子どもと一緒に見て、撮影地ニュージーランドの素晴らしい自然が見たくなり、1月1日に二人でツアーに参加、出発しました。
 赤道を挟み、丁度、日本の反対側に位置するその国は夏を迎えていました。氷河の浸食でできた美しいミルフォードサウンドや無数の羊がどこまでも続く広大な農場で草を喰む牧歌的な光景など、正に映画の通りの雄大な自然がありました。バスが通った道路沿いに『ロード・オブ・ザ・リング』の撮影セットの一つが残っていました。ワイトモ鍾乳洞では土蛍を初めて見ました。

 また、ニュージーランドは食料輸出国ゆえに、国を上げて安全性の管理にとり組む姿が印象的でした。
 スーパーマーケットに行きましたが、卵は30~40個単位、牛乳は3~5L単位、肉は1~5kg単位などと、売られている単位がやたら大きく、しかも安いのに驚きました。 
 車を生産していない国のため、会社名などがそのままに残っている中古の日本車を沢山見かけました。文字を消さないのは、日本車だと良い車だと誇れるからだと聞きました。
 日本と違って労働力不足のため、ワーキングホリディの制度を利用して働いている若い日本人を何人も目にしました。
 また、ニュージーランドは、オゾン層の破壊が進んでいるという南極に近く、紫外線が強いため、条例で、子ども達を幼稚園や保育所、小学校に出す時は、親には日焼け止めクリームを塗る義務が決められていると聞きました。帰って見ると、私もかなりな日焼けをしていました。




 そして一昨年の9月には、ドイツでロマンチック街道を巡って中世の歴史に触れたり、スイスでは登山電車を乗り継いで4000m級のユングフラウ、アイガー、メンヒの展望台まで登りました。
 南ドイツでノイシュバンシュタイン城を観光してから、バスでスイスへ向かった時、運転手が、ガソリンを安いオーストリアで入れるからと言って、国境で少し迂回してオーストリアに入りました。20分給油してから、また、スイスへ向かいましたが、国境を超える時は何の検閲もありませんでした。間もなく、スイスらしく、すでに雪を抱いた山々がバスの両側にそびえ立つのを楽しみながら走る内に、まっ暗くなりました。
 翌朝、ホテルの部屋のカーテンを開け、窓の外を見てびっくり。目の前にユングフラウが雄大な姿を見せていたのです。
 バスで登山電車が出るグリンデルワルドに向かいました。電車に乗り込み、少しずつ高度話を上げて行くにつれ、眺めの素晴らしさに大感激しました。途中で電車を乗り換えて最後の展望台に行きました。そこでは、ユングフラウ、メンヒ、アイガーの雄大な山々が連なっている姿を目の前にできました。遠くにアルプスの山並みも美しく光り輝いていました。自然を観光の目玉にするために莫大な投資をして、世界中から観光客を集めるやり方が羨ましく思えました。

 ドイツのライン川下りの船内で、その日が私の誕生日である事をを知った同席のアメリカ人のグループから、急遽「ハッピィバースディ」の歌と飲み物をプレゼントされた事が、旅の良い思い出となりました。




 去年春の北イタリアの旅では、その歴史と残された文化、芸術は素晴らしかったのですが、EU統合後のイタリアのせち辛さを強く感じました。
 リラがユーロになってから、物価の多くが切り上げられたそうですし、嫌な思いも経験しました。
 まず、個人で行ったローマの国立博物館で、10ユーロ札を出して7ユーロの入場券を買おうとしたら、売っていた中年の女性に 『釣りがない』と言われ、暗に釣り分のチップを要求されました。私は釣りができるのを30分も待ってから、もう一度買おうとしましたが、同じ事を言われたので、入場を断って帰って来ました。見ていると、どうやら日本人の私達だけが券売りの女性に狙われた様です。国立の博物館なので、その女性の身分は公務員だと思うのですが…
 左下の写真は、中世の小都市サンジミニャーノの塔を門の内側から撮ったものです。右下はベネチァの協会のドームを船の中から撮りました。

 

 また、個人で入ったベニスのレストランで、食後2階のトイレに行った所、入り口に男が二人立ちふさがり、「40ユーロ出せ」と言うのです。私はトイレを断って下に下り、コーヒーを飲んでいたら、暫くしてその男達が下りて来ました。階段の傍のテーブルにいた私達を見て、「金はいらないから使え」と言いました。やっと用を済ませて出ようとすると、何と入り口近くのテーブルでさっきの男達が食事をしているのです。彼らは他人の店で勝手に荒稼ぎをしているマフィアなのだろうと思いました。

 バスがトイレを借りるために寄ったお土産屋やカフェの大半は、価格がやたら高い商品を売っていました。日本の価格と比べて私はそう思ったのですが、最後に自分で行ったローマのテルミノ駅地下のコンビニは、現地の人も沢山利用するだけあって、ほとんどが適正価格でした。でもイタリアは消費税が高かったので、私は最小限の物しか買いませんでした。帰りに飛行場の免税店をのぞきましたが、免税で有るはずなのに、これまた値段がほうがいに高くて驚きました。イタリアってそんな国だと思います。お陰で、持って行ったお小遣いのほとんどを残して帰りました。

   




 去年の年末には、初めて常夏の国ハワイの4島巡りのツアーに参加しました。毎朝、次の島に行くための飛行機に乗りました。飛行機がハワイの人の足でした。ハワイ島から隣のマウイ島に飛んだ時、左側の窓からマウナケア山の山頂に並ぶ天文台が見えました。その一つが日本のすばる天文台でした。機会があったら、次はスバル天文台まで行きたいと思いました。
 また、北海道に住む私にとっては、ブーゲンビリアやハイビスカスなどの南国の花々が、年中色取りどりに咲き乱れているハワイの気候を羨ましく思いました。でも、四季がはっきりしている日本の気候にも良さがあるとも考えました。
 この旅行では、キラウェア火山の火口を散策したり、自由行動日に登ったホノルルのダイヤモンドヘッド登山が一番の良い思い出となりました。

 上の写真左は、キラウエァ火山の展望台で撮りました。現地の人が信仰している恐ろしい女神様の怒りを沈める(噴火を抑える)ために供えた花かも知れません。右の写真は、オアフ島のダイヤモンドヘッド頂上から、州都ホノルルの市街を撮影しました。この日は、登山口に着くまでは小雨が降っていましたが、登り出すと晴天になりました。

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《8》 中国、インド

2007年02月23日 | 海外旅行 色々
 50歳代になってからは、中国、韓国、タイ、インドと、アジア地域に行くようになりました。
 西洋の先進国と違って東南アジア地域の発展途上国では、円の価値の大きさを知らされました。
 
 アジアで最初に行ったのは8月の中国でした。社会主義国を標榜している中国で、まさか乞食がいるとは想像していなかったのですが、田舎の農村に行くと、1ヶ月以上も入浴した事がない様な汚れた身体の子ども達が、私達に手を出す姿に出会いました。

 また、素晴らしい世界遺産の雲崗石窟寺院がある大同は、北京のエネルギー源となる石炭を産出する町ですが、戦時中、日本軍人の駐屯地がありました。
 添乗員から、日本人に対する治安が良くないからと、個人的な外出は禁止されました。
 帰国後、伯父が戦時中、大同の部隊にいたことを知りましたが、駐留当時、素晴らしい石窟寺院があることは知らなかったそうです。その石窟は規模も数も、数日前に見た龍門石窟を遙かに凌ぐ物でした。

 (北京から大同へは、8時間程かかる夜行列車に乗って行きました。中国の人達は夏休みのためか、普通列車に詰め込み状態で乗っていましたが、私達はコンパートメントの寝台列車でした。
 所が部屋に入った途端にその汚さに驚きました。ベットも窓側にあるテーブルも泥まみれだったのです。
 そんな列車に慣れていない私は、すぐに車掌に言って雑巾とバケツを借り、拭き掃除をしたのです。やっと座れる状態になった時、テーブル下に置いてあるお湯を入れるポットを見て、また、コルクの蓋の回りの汚さにびっくりしました。一生懸命洗面所で洗いましたが、あまり綺麗にはなりませんでした。
 「郷に入っては郷に従え」という言葉がありますが、あの時乗った寝台列車のその汚さに、私は我慢がならなかったのです。
 大同では、多くの家族が、山の中腹に開けた横穴を住まいとしている様でした。冬、温かいとは思いますが、まるで動物のような暮らし方をまだしている事に驚きました。)

 北京、西安近郊などへ行きましたが、文化大革命によって貴重な文化遺産が破壊されたり、保存に手が回らない状況が見て取れ、残念に思いました。
 (何故か『兵馬俑』だけは、莫大なお金を掛けて展示されていました。ここで兵馬俑を発見した農民の最後の生存者という男性と一緒に、写真を撮ることができました)

 人々は真夏の炎天下で地面にすいかを積み上げ、簡単な屋台で、蠅が飛び交う中、豚肉を売っていました。家庭には、まだほとんど冷蔵庫などは普及していない様子でした。
 中華料理は大抵、高温の油で処理し、味付けに酢を使う料理ですが、その時私は、その調理法が実は食中毒を防ぐために昔から中国人がして来た知恵なのではないだろうかと考えました。

 北京郊外の万里の長城の出店でこぶりの桃を買って食べました。日本円で一個40円位の桃でしたが、実が硬めでりんごの様にぱりっとした歯ごたえでとても美味しかったです。帰国後スーパーに行くと、お盆用に大きな桃が1個200円で売られているのを見て、私はそれからしばらく桃を買えなくなりました。
 

 その翌年の冬に行ったインドでは、1億人を超える数のホームレスが、家族単位でビニールシート上で路上生活をしている姿に、大きな衝撃を受けました。
 あちこちで私達に手を出す子ども達や、赤ん坊を抱えた女性の物乞いに応じたりすると、わっと大勢の物乞いに取り囲まれてしまいます。
 私は、悪いけれど見ない様にしました。インドは、私達一人二人の善意や力ではどうすることもできない様な極限の貧困に充ち溢れていました。
 その反対に、かってのマハラジャは、広大な敷地と豪華な家を有していて、それらがホテルになっていた所もありました。
 生まれながらに所属する社会階層がカースト制度によって決められている社会の、想像を絶する格差の存在に胸が痛みました。

 また、日中、大勢の人が行き交う街中でも、牛や豚、あひるやクジャク、猿などの動物が自由に放されていて驚きましたが、夜にはちゃんと飼い主の元に返るのだと聞きました。私はちょっとした物陰に沢山あるホームレスの排泄物を餌にしているのだろうなと思ったりしました。
 
 インドの中西部ムンバイのホテルで、朝、焼いて貰った目玉焼きには驚きました。黄身がほとんど白身に近い色をしていたのです。
 知識では、卵の黄身の色は鶏に与える餌の色で決まると知っていましたが、実際に私達が普段食べている鶏卵の常識とはかけ離れたものでした。
 日本で売られている鶏卵は、私達消費者が、最も新鮮で美味しそうに見える色にするため、鶏に食べさせる餌に色素を加えて調整している事を思い返しました。
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《11》外国旅行の魅力

2007年02月22日 | 海外旅行 色々

外国旅行の楽しさは、やはり異文化の発見と触れ合いから生まれる感動でしょうか。
 (ただし、戦前、日本が帝国主義的な進出をして多大な損失を与えた国では、針の筵の上を歩くような旅行になる場合もあります。
 そんな国(特に韓国や中国)に行く場合は、ある程度の日本との歴史的な関係を事前に勉強して、自分なりの考え方を持って行く必要があるのではと思います。)

 また、外国に行くと、世界には色々な国があり、色々な考え方、生活の仕方があること、それらを互いに認め合う事が必要であることが解ります。自国の価値観を他国に押しつける事は間違っていますし、その国の政策や方向性は、その国に住む国民自身が主体的に決めるべきなのです。

 その一方で、日本(人)の善し悪しを、外国との文化の比較から一層強く知ることもできますね。
 帰って来てからも、たまたまTVや新聞で触れるその国の報道はすごく身近に感じられて、一層、関心も高まり、本を読んだりして自分の物の考え方、視野が広くなる利点もあると思います。
 さらに私の場合は、旅行で見聞したり体験したりした事を、仕事上にも生かす事ができたのは幸せでした。

 これからも私に少しの体力と旅行費用が続き、世界を、直接、見たいという強い意志が衰えない限り、まだ見ぬ色々な国に出掛けようと思っています。ハイキングや軽登山などもできれば良いのですが無理でしょうか。
 そのためには先ず、数時間歩ける事、重いスーツケースを持てる事、食べ物を美味しく食べられたり、しっかりと物を見たり、人の話をきちんと聞くことができる様に、目、耳、体力の保持と日々の健康管理に努力し続けたいと思います。
 
 上の写真左はキラウェア火山の噴火口脇を散策した時に見たグァバの木です。熟した黄色い実が沢山落ちていました。食べるとキウイフルーツに似た甘い味がしました。写真右はマウイ島でサトウキビ列車の窓から見た沿線を彩るブーゲンビリアの並木です。余りにも華やかで思わずシャッターを押しました。



  写真左はローマのコロッセオの前です。コニファーでしょうか、独特な形で空高く伸びる姿を見ながら、2000年前のローマ人達も同じようにここで身体を休めたのでしょうか。右の写真はイタリアのシエナ市にあるカンポ広場に下りる坂の途中から、広場を覗くようにして撮った写真です。かっては競馬場として賑わったと聞きましたが、現在は正面の市庁舎を中心として市民の憩いの場所になっている様でした。
 

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